2010年04月01日
悲しき魏延
魏延(ギエン)字を文長(ブンチョウ)。
反骨の相(頭蓋骨が後部にでていることで裏切りの象徴とされる)で有名な武将です。
この人、最後は裏切り者として殺されます。
でも、そうなんでしょうか…。
今回は三国志演義をメインに記載する事になりますが…。
三国志演義における魏延の初登場シーンは、曹操(ソウソウ)が南制を始め、荊州(ケイシュウ)に攻め込んできた為、当時劉表(リュウヒョウ)に身を寄せていた(と言っても、この時点では劉表は既に死に、子の劉j/リュウソウが継いでいましたが…)前線の劉備(リュウビ)は民を引き連れて撤退を開始し、襄陽(ジョウヨウ/劉表の本拠)の城に辿りつきます。
しかしながらその時には、劉jは既に曹操に降伏した後の為、劉備を城の中へ迎え入れる事をせず、反対に弓矢を打ち込んできました。
そんな劉j(と言っても、全ての権力と決定権は蔡瑁/サイボウ にあり、劉jはそれに従っただけなんですが…)の仕打ちに憤りを感じて、城の内部から反乱を起こし、劉備を城の中に引き入れようとしたのが魏延でした。
そんな状況を見て、劉備は城にはいる事をせず、江陵(コウリョウ)に向かった為、おいてきぼりをくらった魏延は長沙(チョウサ)に向かい、太守の韓玄(カンゲン)の元に仕えます。
その後、劉備と孫権(ソンケン)の連合軍が曹操に赤壁(セキヘキ)で勝利した後、劉備は長沙に攻め込みます。
この戦で魏延の同僚の黄忠(コウチュウ)が関羽(カンウ)との一騎打ちで引き分け、城に帰ってきた所、韓玄に内通を疑われ、処刑されそうになると、魏延は民や兵士を扇動して韓玄を斬り、城を開けて劉備に降伏しました。
ね、この魏延という男は本当に劉備の為に色々と働いているでしょう?配下でもないのに。
にも関わらず、彼の最後は味方であるはずの馬岱(バタイ)によって斬られます。
その経緯は…。
五丈原(ゴジョウゲン)で蜀軍は魏(ギ)と戦っていましたが、諸葛亮(ショカツリョウ)はその陣中で没します。
諸葛亮が死ぬ間際、自分が死んだら撤退するように服臣に伝えますが、その折に「もし魏延が撤退に反対したらおいてきぼりにしろ。」なんて言い、最悪の場合、魏延を斬るという策を授けます。
諸葛亮が死ぬと魏延は撤退に従わず、諸将が自分を無視して撤退を開始したことを知ると、怒った魏延は先回りをして桟道を焼き払い、退路を遮断します。
そこで戦闘になるのですが、魏延の兵たちは魏延が命令を無視している事を知っているので、離散し、結局馬岱に斬られて死ぬ訳です。
ちょっと、可哀そうな最後ですよね。
実際あの時点における蜀で、魏延程の武勇の持ち主はいないにも関わらず、彼を殺す策を立てる諸葛亮も、ちょっとと思われます。
ただ、この魏延という男はどうも性格に難があったようで、諸葛亮が死んだ後、この男を制御できる人材がいなかったのも事実のようですが…。
劉備の為に生き、劉備の為に戦った男の最後としては余りに可哀そうな最後ですね。
ちなみに、撤退作戦の際の魏延の命令不服従を謀反とする話が多いですが、これは決して謀反ではないですね。
自軍に先回りして退路を断った訳ですから…。
全軍を率いて魏軍に当たりたいという意思ですよね。
謀反なら、そのまま魏に降るか、独立して魏と結び、蜀軍を追撃しますよね。
これを謀反にしてしまうのも、可哀そうな話です。
ちなみに、長沙で降伏し、劉備に対面した際に側にいた諸葛亮が主君である韓玄を裏切った行動をとがめ、「反骨の相があるので、魏延を斬るように」なんて進言され、あやうく斬られる状況になってしまいます。
(劉備のとりなしのお陰で処刑は免れますが…。)
このくだりは恐らく三国志演義の作者が、魏延の最後と照らし合わせ、諸葛亮を神がかりの軍師に仕立てる為に造ったフィクションなんでしょうね。
今日は長々と魏延の話を記載しましたが、実を言うと、この魏延という武将、とりわけ好きなわけではありません。
どちらかというと、それほど好きではない武将です。
でも、可哀そうは可哀そうなので書いてみました。
反骨の相(頭蓋骨が後部にでていることで裏切りの象徴とされる)で有名な武将です。
この人、最後は裏切り者として殺されます。
でも、そうなんでしょうか…。
今回は三国志演義をメインに記載する事になりますが…。
三国志演義における魏延の初登場シーンは、曹操(ソウソウ)が南制を始め、荊州(ケイシュウ)に攻め込んできた為、当時劉表(リュウヒョウ)に身を寄せていた(と言っても、この時点では劉表は既に死に、子の劉j/リュウソウが継いでいましたが…)前線の劉備(リュウビ)は民を引き連れて撤退を開始し、襄陽(ジョウヨウ/劉表の本拠)の城に辿りつきます。
しかしながらその時には、劉jは既に曹操に降伏した後の為、劉備を城の中へ迎え入れる事をせず、反対に弓矢を打ち込んできました。
そんな劉j(と言っても、全ての権力と決定権は蔡瑁/サイボウ にあり、劉jはそれに従っただけなんですが…)の仕打ちに憤りを感じて、城の内部から反乱を起こし、劉備を城の中に引き入れようとしたのが魏延でした。
そんな状況を見て、劉備は城にはいる事をせず、江陵(コウリョウ)に向かった為、おいてきぼりをくらった魏延は長沙(チョウサ)に向かい、太守の韓玄(カンゲン)の元に仕えます。
その後、劉備と孫権(ソンケン)の連合軍が曹操に赤壁(セキヘキ)で勝利した後、劉備は長沙に攻め込みます。
この戦で魏延の同僚の黄忠(コウチュウ)が関羽(カンウ)との一騎打ちで引き分け、城に帰ってきた所、韓玄に内通を疑われ、処刑されそうになると、魏延は民や兵士を扇動して韓玄を斬り、城を開けて劉備に降伏しました。
ね、この魏延という男は本当に劉備の為に色々と働いているでしょう?配下でもないのに。
にも関わらず、彼の最後は味方であるはずの馬岱(バタイ)によって斬られます。
その経緯は…。
五丈原(ゴジョウゲン)で蜀軍は魏(ギ)と戦っていましたが、諸葛亮(ショカツリョウ)はその陣中で没します。
諸葛亮が死ぬ間際、自分が死んだら撤退するように服臣に伝えますが、その折に「もし魏延が撤退に反対したらおいてきぼりにしろ。」なんて言い、最悪の場合、魏延を斬るという策を授けます。
諸葛亮が死ぬと魏延は撤退に従わず、諸将が自分を無視して撤退を開始したことを知ると、怒った魏延は先回りをして桟道を焼き払い、退路を遮断します。
そこで戦闘になるのですが、魏延の兵たちは魏延が命令を無視している事を知っているので、離散し、結局馬岱に斬られて死ぬ訳です。
ちょっと、可哀そうな最後ですよね。
実際あの時点における蜀で、魏延程の武勇の持ち主はいないにも関わらず、彼を殺す策を立てる諸葛亮も、ちょっとと思われます。
ただ、この魏延という男はどうも性格に難があったようで、諸葛亮が死んだ後、この男を制御できる人材がいなかったのも事実のようですが…。
劉備の為に生き、劉備の為に戦った男の最後としては余りに可哀そうな最後ですね。
ちなみに、撤退作戦の際の魏延の命令不服従を謀反とする話が多いですが、これは決して謀反ではないですね。
自軍に先回りして退路を断った訳ですから…。
全軍を率いて魏軍に当たりたいという意思ですよね。
謀反なら、そのまま魏に降るか、独立して魏と結び、蜀軍を追撃しますよね。
これを謀反にしてしまうのも、可哀そうな話です。
ちなみに、長沙で降伏し、劉備に対面した際に側にいた諸葛亮が主君である韓玄を裏切った行動をとがめ、「反骨の相があるので、魏延を斬るように」なんて進言され、あやうく斬られる状況になってしまいます。
(劉備のとりなしのお陰で処刑は免れますが…。)
このくだりは恐らく三国志演義の作者が、魏延の最後と照らし合わせ、諸葛亮を神がかりの軍師に仕立てる為に造ったフィクションなんでしょうね。
今日は長々と魏延の話を記載しましたが、実を言うと、この魏延という武将、とりわけ好きなわけではありません。
どちらかというと、それほど好きではない武将です。
でも、可哀そうは可哀そうなので書いてみました。