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2023年05月04日
トーマス・マンとファジィ12
ファジィ論理の主要領域は、ファジィコントロールである。ファジィの値に基づきプロセスを素早く簡単に規則化できれば、ファジィ論理の適用が意義のあるものになるからである。ファジイコントロールとは、 数学的なプロセスモデルではなく、「温度が高くて圧力も高ければ、弁は完全に開く」といった言語を形式化した単純な規則である。それ故に、 部分的に近づくことができないプロセスパラメータを伴って規則化されることもある。ファジィコントロールは、ファジィ化、推論そして脱ファジィ化により構成される。それでは一つ一つ見ていくことにしよう。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
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トーマス・マンとファジィ11
体温計は、「魔の山」の中でしばしば話題になる。それは、療養所ゆえに検温が義務付けられているためである。Joachim Ziemßenが検温の際にぼやく場面がある。Joachimは、カタルを患っているため、時々発熱する。昨晚38°Cあった熱が37.5℃に下がった時、体温計に付いている目盛りを見ながら、この目盛りのおかげで軍務につけないとHans Castorpに心境を語っている。
また、Hans Castorpが発熱する場面もある。ある日の朝食後、体温計の水銀柱が37.7℃に上昇し、晚方は37.5°Cでしたが、翌日の早朝は37°Cに下がり、昼時にまた37.7℃に上がる様子が描かれている。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
また、Hans Castorpが発熱する場面もある。ある日の朝食後、体温計の水銀柱が37.7℃に上昇し、晚方は37.5°Cでしたが、翌日の早朝は37°Cに下がり、昼時にまた37.7℃に上がる様子が描かれている。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
トーマス・マンとファジィ10
要素自体がファジィの場合を考えてみよう。例えば、10ではなく、だ いたい10または10 ±10%などの扱い方が問題になる。すべての測定値は、 通常、絶対的な量や値ではなく、多かれ少なかれ許容範囲を伴う大きさである。つまり、測定器または測量器が示す値は、無条件で受け入れら れるべきではなく、常に測定器などの公差を伴うものとする。こうしたことは、測定技術において自明なことである。上記の数字は、インター バルとして考察され、数字自体(例えば、測定値)は、その中央に存在 し、その幅は、公差によって規定される。例えば、体温計が、36℃の体温を示しているとする。その公差を±1%とすると、メンバーシップ関 数による表記は、三角形になる。
測定値(36℃)とインターバルの制限を確認する。精度の低い測定器は、公差が大きく、大きなインターバルになる。一方、精度が高い測定器は、限りなく公差が小さく唯一の明白な値となる。また、垂直の線は、公差による値が問題となることを示している。
では、曖昧な数字のメンバーシップ値は、どのように算出できるのであろうか。最善の方法は、双方のメンバーシップ関数の交点において最大値を選択することであろう。例えば、体温計による測定値 36.0℃ ±0.4℃と健康の目安といえる曲線の流れが与えられる。それらを重ねると、その結果としてが出てくる。ファジィ集合「病気」に対する36.0°C 士 0.4℃のメンバーシップ値は、0.3から0.6 の範囲だが、最大値を使用することが実践的である。さらに、 多くのファジィ集合が問題になる場合もある。平温には個人差があり、低い人もいれば、高い人もいる。但し、ここで紹介した方法とは異なるものが、よりうまくこうした問題を解決できるならば、無論それをやさしい曖昧な数学に取り入れることに異論はないであろう。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
測定値(36℃)とインターバルの制限を確認する。精度の低い測定器は、公差が大きく、大きなインターバルになる。一方、精度が高い測定器は、限りなく公差が小さく唯一の明白な値となる。また、垂直の線は、公差による値が問題となることを示している。
では、曖昧な数字のメンバーシップ値は、どのように算出できるのであろうか。最善の方法は、双方のメンバーシップ関数の交点において最大値を選択することであろう。例えば、体温計による測定値 36.0℃ ±0.4℃と健康の目安といえる曲線の流れが与えられる。それらを重ねると、その結果としてが出てくる。ファジィ集合「病気」に対する36.0°C 士 0.4℃のメンバーシップ値は、0.3から0.6 の範囲だが、最大値を使用することが実践的である。さらに、 多くのファジィ集合が問題になる場合もある。平温には個人差があり、低い人もいれば、高い人もいる。但し、ここで紹介した方法とは異なるものが、よりうまくこうした問題を解決できるならば、無論それをやさしい曖昧な数学に取り入れることに異論はないであろう。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
トーマス・マンとファジィ9
修飾語(sehr とても)、mehr oder weniger(多かれ少なかれ)も一種 の演算子(オペレーター)と見なされる。但し、多少の影響は出るが、概ね真理値に変更は出ない。つまり、考察される要素の特徴を強めたり弱めたりする程度である。例えば、sehrは、ファジィ理論の中でメンバーシップ関数の2 乗によって表記される。mehr oder wenigerは、メンバーシップ関数の平方根によって表記される。こうし た修飾語を使用することにより、ファジィ集合の様々な組み合わせが表記できようになる。
ファジイ集合と修飾語の組み合わせの代わりに、独自の論理を定義することも可能である。これは、個々の集合の制限をそれぞれ決めることができるといった利点がある。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
ファジイ集合と修飾語の組み合わせの代わりに、独自の論理を定義することも可能である。これは、個々の集合の制限をそれぞれ決めることができるといった利点がある。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
トーマス・マンとファジィ8
集合論の演算と論理学の演算の違いを確認しよう。集合論の演算では、 2つのファジィ集合が完全に結合し、最後に再び集合が成り立つ。例えば、 我慢強い子供の集合は、月並みな子供の集合と結合し、最後に我慢強くて月並みな子供の集合が成立します。論理学の演算では、考察される要素の特徴が結び付けられ、最後に何れかの特徴を持った要素が立つ。ある子供の我慢強い特徴は、その子供の月並みという特徴と結びついて、我慢強くて月並みな特徴を持った要素(Hans Castorp) になる。
面白いことに、人間は、論理思考において、和結合または共通結合を純粋に使用することはごくまれである。たいていは、双方の中間に存在する結合を使用している。「魔の山」の中で、Hans Castorp は主人公であり、Joachim Ziehmßenは一人の登場人物である。Hans Castorpは、孤児で我慢強く背丈は中ぐらい。Joachim Ziehmßenは、体の幅があり背丈も大きくて几帳面な男である。ここで、我慢強くて強い男が求められているとしよう。簡単のため、双方の特徴は、選択時に同じように重要であることが前提となっている。Hans Castorpは、我慢強いが、強いというほどではない。いわば、我慢強さに対しては、メンバー シップ値が0.9となるが、強さに対しては、0.5ぐらいです。 Joachim Ziehmßenについても、同様にメンバーシップ値を当てることができる。我慢強くて強い男の集合に対する双方のメンバーシップ値を求めるために、最小値を求める演算が適用される。
古典論理では、この点が説明できない。我慢強くて強い男の集合は、 どちらも我慢強くて強い特徴を同時にそして完全に満たしていないため、空の集合になってしまう。一方、ファジィ論理は、こうした点を補 うことがでる。和結合と共通結合の間に相補演算子ラムダとガンマを置くからである。ラムダ演算子は、パラメータが純粋な和結合と純粋な共通結合の間のどこに位置しているのかを示してくれる。そして、λ = 0 の場合、共通結合の演算子となり、λ = 1の場合に、和結合の演算子になる。ガンマ演算子は、相補的な和結合の演算子ゆえに人間の感情をうまく再現してくれる。つまり、2つの集合のうちの一つを優先させるに際に効果がある。Gamma = 0の場合、和結合の演算子となり、Gamma =1の場合、共通結合の演算子となる。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
面白いことに、人間は、論理思考において、和結合または共通結合を純粋に使用することはごくまれである。たいていは、双方の中間に存在する結合を使用している。「魔の山」の中で、Hans Castorp は主人公であり、Joachim Ziehmßenは一人の登場人物である。Hans Castorpは、孤児で我慢強く背丈は中ぐらい。Joachim Ziehmßenは、体の幅があり背丈も大きくて几帳面な男である。ここで、我慢強くて強い男が求められているとしよう。簡単のため、双方の特徴は、選択時に同じように重要であることが前提となっている。Hans Castorpは、我慢強いが、強いというほどではない。いわば、我慢強さに対しては、メンバー シップ値が0.9となるが、強さに対しては、0.5ぐらいです。 Joachim Ziehmßenについても、同様にメンバーシップ値を当てることができる。我慢強くて強い男の集合に対する双方のメンバーシップ値を求めるために、最小値を求める演算が適用される。
古典論理では、この点が説明できない。我慢強くて強い男の集合は、 どちらも我慢強くて強い特徴を同時にそして完全に満たしていないため、空の集合になってしまう。一方、ファジィ論理は、こうした点を補 うことがでる。和結合と共通結合の間に相補演算子ラムダとガンマを置くからである。ラムダ演算子は、パラメータが純粋な和結合と純粋な共通結合の間のどこに位置しているのかを示してくれる。そして、λ = 0 の場合、共通結合の演算子となり、λ = 1の場合に、和結合の演算子になる。ガンマ演算子は、相補的な和結合の演算子ゆえに人間の感情をうまく再現してくれる。つまり、2つの集合のうちの一つを優先させるに際に効果がある。Gamma = 0の場合、和結合の演算子となり、Gamma =1の場合、共通結合の演算子となる。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
トーマス・マンとファジィ7
また、要素x0のメンバーシップ値μA(x0) への割り当てが、曖昧な場合がある。つまり、メンバーシップ関数μA(x0)自体が、曖昧となる場合が 想定される。これは、ウルトラファジィと呼ばれるケースである。上述したように、Hans Castorpは、幼少の時代に両親を亡くしていることから、元々我慢強い性格の持ち主といえる。両親が生きている間は甘えていられるが、一人になれば自ずと甘えは消えて我慢強くなる。この問題は、ウルトラファジイによって表現することができる。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
トーマス・マンとファジィ6
例えは、ダボスの療養所に到着した時点で23歳であった Hans Castorp の性格の一面を見てみよう。Hans Castorpの両親は、彼が5歳から7歳にかけて共に死亡している。最初に母親が塞栓症で亡くなり、父親も妻を頼っていたため、それ以来、精神的にもろくなり弱くなった。 頭が朦朧として、仕事でもミスが出始め、その結果、彼の会社 「Castorp & Sohn」は、莫大な損失を被った。翌々年の春に、強い風の吹く港にあった倉庫の検査をしている際、肺炎を患い、動揺した彼の心臓は高熱に耐えられず、手厚い介護にも関わらず亡くなった。その後、 Hans Castorpは、祖父にあずけられた。仕事がきついと健康が損なわれることは、上述のファジィ理論の表記を使用すると次のようになる。
μhard (momentary)=1
μhard (momentary) = 0.8
μhard, disordered (momentary) = min (1; 0.8) = 0.8
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
μhard (momentary)=1
μhard (momentary) = 0.8
μhard, disordered (momentary) = min (1; 0.8) = 0.8
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
トーマス・マンとファジィ5
ファジィ集合は、古典的な集合論の拡張であり、「若い」、「大きい」 などの言語上の変数によって表記される。また、「とても」、「ほとんど」、「かなり」といったいわゆる修飾語によっても変化することがある。例 えば、「背の大きい人達」という集合を考えてみよう。ここでは、言語の変数「大きい」が問題となる。「魔の山」において、Joachim Ziemßenは、 Hans Castorpよりも「背の大きい人達」という集合に属することになる。しかし、Joachim Ziemßenは、どの程度この集合の特徴を満たしているのであろうか。これを測るために、メンバーシップ値とメンバーシップ関数が存在する。(μA (x) = 0.7)これは、Xが集合Aに対して0.7のメンバーシップ値を持っていることを表している。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
トーマス・マンとファジィ4
「計算文学入門」は、ファジイ理論が古典論理の拡張であり真偽だけではなく、たくさんの中間段階を考察することができるという立場である。つ まり、ファジイ理論を言語処理に適用する面白さは、古典論理で言う真偽では説明ができない数字のずれや、「ほとんど」とか「かなり」とい った修飾語を伴う日常表現も説明できる点にある。例えば、夏期休暇の避暑地における滞在に関して、「長い」の下限を21日とする。古典論理 では、21日以上の場合、割り当て可能であるが、21日未満の場合、不可能となる。
しかし、20日間の滞在でも、全く該当しないわけではない。 それどころか、ほとんど該当する。こうした奇妙な現象を解決するために、ファジイ理論は、メンバーシップ値を採用する。これにより、20日間の滞在は、95%「長い」となり、18日間の滞在は、86%「長い」となる。また、両方の数字の間には、ファジイコントロールと呼ばれる計算術が存在し、それは、ファジイ化、推論そして脱ファジイ化という3つのステップがある。以下では、簡単な用例を確認しながら、トーマス・マンとファジィの相性の良さを見ていこう。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
しかし、20日間の滞在でも、全く該当しないわけではない。 それどころか、ほとんど該当する。こうした奇妙な現象を解決するために、ファジイ理論は、メンバーシップ値を採用する。これにより、20日間の滞在は、95%「長い」となり、18日間の滞在は、86%「長い」となる。また、両方の数字の間には、ファジイコントロールと呼ばれる計算術が存在し、それは、ファジイ化、推論そして脱ファジイ化という3つのステップがある。以下では、簡単な用例を確認しながら、トーマス・マンとファジィの相性の良さを見ていこう。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
トーマス・マンとファジィ3
イロニーの原理
a) 定義 Thomas Mannは、彼の散文の条件として常に現実から距離を置く。一つには、現実をできるだけ正確に考察するために、また一つには、 それを批判するために、つまり、イロニー的に。…この批判的な距離は、 イロニー的な距離になりうる。実際に、批判的な表現における簡潔さには、余すところなく正確に規定された概念言語の要求に対して、 言語媒体そのものの特徴から反対の行動をとるある種の制限が設けられている。一方、ファジイ理論は、システムが複雑 になればなるほど、より正確な記述ができなくなることを主張する。
b) 特徴 双方に共通の特徴として、主観性を想定することができる。周知の通り、ファジィ理論は、科学の中に客観性ではなくて、主観性を導入する。 一方、Thomas Mann と Hans Castorp が歩んでいく道をベースにしたイロニーの原理は、自己を乗り越える原理である。 つまり、ファジィ理論における主観性は、個人的な主観であり、Thomas Maimの主観性は、超個人的な主観(主体性)となる。しかし、何れにせよ双方共に個人による規定や決定が問題となっており、両者をまとめて広い意味で主観と呼ぶことができる。
c) 語の選択 Thomas Mannが使用するイロニー的な語彙、例えば、形容詞とか副詞は、意図的な不正確さを通して言葉が持っている本来の意味合いをはずす。一方、ファジイ集合によって表現される概念は、「背の大きい人達」や「多かれ少なかれ」といった曖昧な概念であり、外延的でも内包的でもない中間的なものとなる。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より
a) 定義 Thomas Mannは、彼の散文の条件として常に現実から距離を置く。一つには、現実をできるだけ正確に考察するために、また一つには、 それを批判するために、つまり、イロニー的に。…この批判的な距離は、 イロニー的な距離になりうる。実際に、批判的な表現における簡潔さには、余すところなく正確に規定された概念言語の要求に対して、 言語媒体そのものの特徴から反対の行動をとるある種の制限が設けられている。一方、ファジイ理論は、システムが複雑 になればなるほど、より正確な記述ができなくなることを主張する。
b) 特徴 双方に共通の特徴として、主観性を想定することができる。周知の通り、ファジィ理論は、科学の中に客観性ではなくて、主観性を導入する。 一方、Thomas Mann と Hans Castorp が歩んでいく道をベースにしたイロニーの原理は、自己を乗り越える原理である。 つまり、ファジィ理論における主観性は、個人的な主観であり、Thomas Maimの主観性は、超個人的な主観(主体性)となる。しかし、何れにせよ双方共に個人による規定や決定が問題となっており、両者をまとめて広い意味で主観と呼ぶことができる。
c) 語の選択 Thomas Mannが使用するイロニー的な語彙、例えば、形容詞とか副詞は、意図的な不正確さを通して言葉が持っている本来の意味合いをはずす。一方、ファジイ集合によって表現される概念は、「背の大きい人達」や「多かれ少なかれ」といった曖昧な概念であり、外延的でも内包的でもない中間的なものとなる。
花村嘉英(2005)計算文学入門−Thomas Mannのイロニーはファジィ推論といえるのか?より