自分の解釈だと、多少のズレはあるものの凡そ戦国時代の今川館があったのは本丸付近。家康が武田氏滅亡後に駿河を領有した頃に二の丸まで拡張。家康が大御所として駿府に来たときは三の丸まで拡大。で本丸の外堀→二の丸の外堀→三の丸の外堀と今川館の一重の堀から家康が天下人となった頃には三重の堀となっていった。で、現存の駿府城公園は二の丸の外堀が丸っと残っていて、三の丸の外堀は一部が残って、一番内側の本丸の外堀は旧陸軍の練兵場になった時に殆ど埋め立てられてしまった。そして、現在は天守台付近の本丸外側の堀を含めて発掘工事中。
時代毎に事情があるのだろうけど埋めたり掘り起こしたりで大変だなあ。復元された門と櫓(やぐら)がなければ只の大きな公園という感じ。この櫓の中が資料館になってて展示されてた資料で印象に残ったのが、”駿府城の天守台は大阪城や江戸城よりも大きかった”という事。そんな大きな天守閣を作れるんだという技術の進歩だったのか大御所の権威がそれだけ大きい事を示す為なのかは判らないが、江戸を差し置いて日本の政治の中心だった所だし天下普請で諸大名のお金と労力で自分の懐は痛まなかったから。もしかしたら動員された諸大名にとってショボい城だと達成感が無いので大きく作る必要があったのかも知れない。
冬でも穏やかで温かく隠居の場所には最適だし。子供の頃の思い出の場所でもあるし。徳川家康にとっては良い隠居場所だったんだろうなあ。と思いを馳せた。
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