2016年05月26日
気持ちが疲れたとき・・・思考を解き放つ方法を考えてみた
私は自分のことを、思い詰めやすい性格だと思っています。
例えば何か一つのことが気になると、他のことを考えようとしても思考が勝手にどんどんと膨らんで次第にその事しか考えられなくなる・・・そんな事が時々あります。
こんな時には、私自身の自覚症状として次のようなことが起こりがちです。
・目先の作業に集中できない。
・特定の事柄への思考の執着が強くなっていく。
・寝ようとしても意識が明瞭化してなかなか眠りにつけない。
こうなるとどうなるか?
疲れます。
いやいや、もう少し具体的な状態の説明も出来ますけれど、とりあえずの総論としては「疲れます」。
とにかく疲れる訳です。
これはやっぱり、嫌ですよね。
では、疲れないようにするにはどうしたらいいか。
頭の中に張り付いて離れない”思考”をどうやって解き放ち、そこから自分自身を自由にして、楽な状態になるにはどうしたらいいか。
このことに、方法論としての考察を、本やテレビ等から得た知識を繋ぎあわせて行ってみたいと思います。
第1のヒントは、サッカー代表・本田圭佑選手の言葉から得たものです。
それはNHKの番組「プロフェッショナル」の中で、本田圭佑選手が話していたことです。
大きな怪我をして試合から遠ざかっている時、プロデューサーが「挫けないんですか?」的な内容を聞いたときのことだったと思いますが、本田選手は次のように話しました。
「信じることで力が生まれる。そのために『自分は出来る』と信じる努力をする」
これを聞いた時に、えっ、と驚きを覚えました。
「信じている」
ではない。
「信じる努力をする」のかと。
これ、似ているようで、実は全然違います。
どこが違うかというと、能動的な意識をもって「信じる」という行動を起こしているどうか、という点です。
前者はこのあたりが不明確です。ひょっとしたら能動的な意識を持って「信じる」という行為を起こした結果として「信じている」のかもしれませんが、この言葉だけではちょっと分かりません。どちらかというと、意識しない状態として「信じている」という印象を受けます。
言い換えると、その人固有の”性格”として「信じている」のかなという印象です。
ところが後者は、”性格”として信じる・信じないということは問題にしていません。
力を得るための行為として「信じる」という思考を持つことを自分自身で選択しているからです。
本田選手は、自分自身の行為・努力によって意識的に「信じる」という思考を行っているのです。
ここからのヒントは、思考はその人個人特有の”性格”ではなく、技術によって身に付ける事ができるものではないか、という事です。
身体の動かし方と同じように、思考の行い方も訓練によってコントロール出来るという仮説です。
「私は◯◯な性格だから・・・」
は、いかにも説得力がありそうな台詞かもしれません。
ですが、本田選手のエピソードを踏まえたとき、これは「思考に対する努力を投げ出してしまっている」状態のように見えてきます。
もし思考=努力だとしたら、ちょっと見方は変わってきますよね。
例えば、
「今は◯◯な考え方だけど、それだと対応が難しいから、次は△△な考えかたを身に付けよう」
というように。
つまり、思考を技術と捉えることで、努力によってどのようにも変えられるという考えを持つことができるのです。
ということで、第1のヒントです。
「思考は性格ではない、技術なのだ」
第2のヒントは、ちょっと話が飛びますが、仏教の”火渡り”の話から得たものです。
ネタ元は、玄侑宗久さんの”般若の知 もう一つの知のあり方”というCDです。
このCDの中で、大般若祈祷のエピソードが紹介されています。
大般若祈祷とは、600巻に渡るものすごい量のお経(大般若経)が書かれたものを、お経を唱えながらパタパタとめくっていくという修行なのだそうです。なんでも、お経の量がとんでもなく膨大で読むのにあまりにも時間がかかるために編み出された効率的な方法だとか。
さて、この大般若祈祷を行う際に、お坊さんは「手が動き続け、そのパタパタという音を聞き、目は文字を見て、口では呪文を唱える。その呪文も自分の耳に聞こえてくる」という状態になるそうです。
そして玄侑宗久さんは、「感覚を総動員している。この中で何かを思うということは不可能」と続けます。
この「感覚が手一杯」になる状態を強制的に作り出すことを仏教の行ではするそうです。
その代表的な例として、火渡りのことを玄侑さんはあげています。
火渡りとは、真っ赤に焼けた木の上を裸足で歩いて渡るという行だそうですが、これは足の裏から伝わってくる熱さを我慢しているのではなくて、熱さを感じていないのだとか。
(ニュース映像を見たことがありますが、てっきり気合で熱さを我慢する修行だと思っていました)
この熱さを感じなくするための方法として、先ほどの大般若祈祷の話に出てきた「感覚を総動員して脳を手一杯にする」という手段を使うそうです。
頭の中で覚えているお経を呼び起こし、それを唱え、耳で聞く、これを一心に行うことで脳を手一杯にするのだと。
そうして脳を”感覚で手一杯にする”ことで、”熱い”という感覚が脳の”知覚”へと至らず、その結果として熱さを感じられなくなる。
これが玄侑宗久さんの言う火渡りのカラクリです。
(勿論「脳が熱さを感じない」ということと、「熱さによって火傷する」ということは別物だと説明します。立ち止まったら火傷しますよと・・・。そりゃそうですよね。)
他にも、「音声を聞きながら、絵を思い浮かべる」という行為も、脳の感覚を手一杯にする効果があるそうです。
「脳の隙を突く」とも表現していますが、ここで注目したいのは、「脳が感覚で手一杯になったとき、何かを思うということは不可能になる」という事です。
思い出してください。
最初に疲れる原因として書いていたことです。
”例えば何か一つのことが気になると、他のことを考えようとしても思考が勝手にどんどんと膨らんで次第にその事しか考えられなくなる・・・”
これは脳が勝手に何かを思っている状態です。
そして、これを止めたい!思考を解き放ちたい!というのが今回のやりたいことです。
ということは、玄侑さんの話を応用して
「脳を感覚で手一杯にすれば、思考を止めることが出来る」
ということになるんじゃないでしょうか?
脳の処理能力の限界を逆手に取って、別のことで脳の処理能力を大きく使い、それで思考を間接的に止めてしまうという手法です。
何かいけそうじゃないですか?
よし、それなら大般若祈祷を・・・という訳にはいかないので、もっと手近な方法で近似するということを考えてみたいと思います。
これが第2のヒントです。
「脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を間接的に止める」
これは第1のヒント、第2のヒントから展開させた理屈です。
第1のヒントでは、思考は性格ではなく、技術だという気付きを得ました。
第2のヒントでは、脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を止めるという可能性を知りました。
どちらにも共通することは、自分自身の思考という意識することが難しい精神作用を、自分自身の行動によってコントロールすることが出来るということです。
思考そのものを技術と考え、努力と訓練によってつくり上げる方法。
別の行動によって思考を止めるという方法。
アプローチとその目的も異なりますが、共通するのは「自分の思考に、主体的に介入していく」という行為であるということです。
つまり、思考は自分でコントロール出来るものだという考えです。
これに気付くことが、まずスタートではないのかと思いました。
私自身を振り返れば、自分の思考について
「自分はこういう人間だ・・・」
「生まれついての性格だからどうしようもない・・・」
とまるで固定されているものかのような認識を持っていたところがあったと思います。
でもそれは単なる思い込みではないか?
自分自身でコントロールすることが可能なんじゃないか?
少なくとも、世の中にはそう考えて実践している人がいる。その具体的な手段の例もある・・・。
このような認識を経ることで、自分自身の思考を「生まれつき持った性格で変えられないもの」という決めつけから解き放ち、「自分自身でコントロールできるもの」という意識を持つことが出来るようになるのではないでしょうか。
という訳で第3のヒントです。
「思考は自分でコントロールできる意識を持つ」
ここまで読んでいただいたとしたら、もうその手段の形は見えていることと思います。
第1のヒント:思考は性格ではなく、技術だ。
第2のヒント:脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を止める。
第3のヒント:思考は自分でコントロールできる意識を持つ。
自分自身でコントロールできるという意識を持ち、自分自身の思考に積極的に介入していくこと。
その介入の手段として、技術を磨くこと、あるいは処理能力の限界を利用すること。
これらを使えば良い、ということになります。
その具体的な手法については長くなりますので、また別の記事でまとめようと思いますが、後者の「処理能力の限界を利用する」方法として自分で試していることを最後に書いておきます。
それは、「身体的な感覚で脳を一杯にする」という事です。
しかも出来るだけ健康的に。
酒やタバコなどの外部刺激で脳を一杯にするという方法もあると思いますが、これは別の中毒症状を起こす可能性があるのですんなりとはオススメできません。
もっと簡単な、かつ健康的な方法として取り組んでいるのは、「身体的な感覚で脳を一杯にする」という言葉を文字通りに実践する方法です。
それは自分自身の身体の状態を詳細にモニターすることです。
例えば、右手、左手、右足、左足の状態が今どうなっているか。
関節は伸びているか、曲がっているか。指はどうか。
どんな形をしているか。
呼吸はどうなっているか。肺は膨らんでいるか、縮んでいるか。
呼吸はどこを通っているか。鼻を空気が通り抜ける感覚はどのようなものか。
・・・と、イメージしていけばきりがありません。
とにかく身体の思いつく限りの箇所の状態を意識でモニターするんです。
これらのことは普段の意識活動の中ではかなり大雑把なレベルでしか把握されていないでしょう。
だから「モニターする」と一口に言っても、それってかなり難しいことなんですよね。
自分の場合は、とにかく感じることで実現をしようとしています。
認識することが難しければ、ほんのわずかずつ動かしてみる。動かしてみた時の感じ方で状態を把握する指標にするんですね。
それこそ神経を使う作業です。
普段意識しない身体の細部に少しずつ「意識」という神経細胞を通していくような作業を行うわけです。
これ、結構難しいんですよ。
でもこれを続けて、かなり広範囲な部分の身体感覚を認識することが出来たような感覚を覚えたとき、ふと気がつくことがあるんです。
今、何も考えてなかったな、ということに。
これこそが、思考を解き放った瞬間なんじゃないでしょうか。
誰にでも簡単に出来る、お金も手間もかからない、とても簡単な方法です。
ひょっとしたら、いわゆる”瞑想”というものに近いのかもしれません。
思い悩む思考を上手く解き放てない時に、是非試してみて下さい。
私も訓練でもっと上手に、自由自在に出来るようになりたいと思います。
いやあ、このことをちょっと書きたいだけだったのですが、思いの外長い記事になってしまいました。
最後まで読んでいただいた方、お付き合いいただき本当にありがとうございました!
例えば何か一つのことが気になると、他のことを考えようとしても思考が勝手にどんどんと膨らんで次第にその事しか考えられなくなる・・・そんな事が時々あります。
こんな時には、私自身の自覚症状として次のようなことが起こりがちです。
・目先の作業に集中できない。
・特定の事柄への思考の執着が強くなっていく。
・寝ようとしても意識が明瞭化してなかなか眠りにつけない。
こうなるとどうなるか?
疲れます。
いやいや、もう少し具体的な状態の説明も出来ますけれど、とりあえずの総論としては「疲れます」。
とにかく疲れる訳です。
これはやっぱり、嫌ですよね。
では、疲れないようにするにはどうしたらいいか。
頭の中に張り付いて離れない”思考”をどうやって解き放ち、そこから自分自身を自由にして、楽な状態になるにはどうしたらいいか。
このことに、方法論としての考察を、本やテレビ等から得た知識を繋ぎあわせて行ってみたいと思います。
◯第1のヒント:思考は性格ではない、技術なのだ
第1のヒントは、サッカー代表・本田圭佑選手の言葉から得たものです。
それはNHKの番組「プロフェッショナル」の中で、本田圭佑選手が話していたことです。
大きな怪我をして試合から遠ざかっている時、プロデューサーが「挫けないんですか?」的な内容を聞いたときのことだったと思いますが、本田選手は次のように話しました。
「信じることで力が生まれる。そのために『自分は出来る』と信じる努力をする」
これを聞いた時に、えっ、と驚きを覚えました。
「信じている」
ではない。
「信じる努力をする」のかと。
これ、似ているようで、実は全然違います。
どこが違うかというと、能動的な意識をもって「信じる」という行動を起こしているどうか、という点です。
前者はこのあたりが不明確です。ひょっとしたら能動的な意識を持って「信じる」という行為を起こした結果として「信じている」のかもしれませんが、この言葉だけではちょっと分かりません。どちらかというと、意識しない状態として「信じている」という印象を受けます。
言い換えると、その人固有の”性格”として「信じている」のかなという印象です。
ところが後者は、”性格”として信じる・信じないということは問題にしていません。
力を得るための行為として「信じる」という思考を持つことを自分自身で選択しているからです。
本田選手は、自分自身の行為・努力によって意識的に「信じる」という思考を行っているのです。
ここからのヒントは、思考はその人個人特有の”性格”ではなく、技術によって身に付ける事ができるものではないか、という事です。
身体の動かし方と同じように、思考の行い方も訓練によってコントロール出来るという仮説です。
「私は◯◯な性格だから・・・」
は、いかにも説得力がありそうな台詞かもしれません。
ですが、本田選手のエピソードを踏まえたとき、これは「思考に対する努力を投げ出してしまっている」状態のように見えてきます。
もし思考=努力だとしたら、ちょっと見方は変わってきますよね。
例えば、
「今は◯◯な考え方だけど、それだと対応が難しいから、次は△△な考えかたを身に付けよう」
というように。
つまり、思考を技術と捉えることで、努力によってどのようにも変えられるという考えを持つことができるのです。
ということで、第1のヒントです。
「思考は性格ではない、技術なのだ」
◯第2のヒント:仏教の”火渡り”から考える脳の限界
第2のヒントは、ちょっと話が飛びますが、仏教の”火渡り”の話から得たものです。
ネタ元は、玄侑宗久さんの”般若の知 もう一つの知のあり方”というCDです。
このCDの中で、大般若祈祷のエピソードが紹介されています。
大般若祈祷とは、600巻に渡るものすごい量のお経(大般若経)が書かれたものを、お経を唱えながらパタパタとめくっていくという修行なのだそうです。なんでも、お経の量がとんでもなく膨大で読むのにあまりにも時間がかかるために編み出された効率的な方法だとか。
さて、この大般若祈祷を行う際に、お坊さんは「手が動き続け、そのパタパタという音を聞き、目は文字を見て、口では呪文を唱える。その呪文も自分の耳に聞こえてくる」という状態になるそうです。
そして玄侑宗久さんは、「感覚を総動員している。この中で何かを思うということは不可能」と続けます。
この「感覚が手一杯」になる状態を強制的に作り出すことを仏教の行ではするそうです。
その代表的な例として、火渡りのことを玄侑さんはあげています。
火渡りとは、真っ赤に焼けた木の上を裸足で歩いて渡るという行だそうですが、これは足の裏から伝わってくる熱さを我慢しているのではなくて、熱さを感じていないのだとか。
(ニュース映像を見たことがありますが、てっきり気合で熱さを我慢する修行だと思っていました)
この熱さを感じなくするための方法として、先ほどの大般若祈祷の話に出てきた「感覚を総動員して脳を手一杯にする」という手段を使うそうです。
頭の中で覚えているお経を呼び起こし、それを唱え、耳で聞く、これを一心に行うことで脳を手一杯にするのだと。
そうして脳を”感覚で手一杯にする”ことで、”熱い”という感覚が脳の”知覚”へと至らず、その結果として熱さを感じられなくなる。
これが玄侑宗久さんの言う火渡りのカラクリです。
(勿論「脳が熱さを感じない」ということと、「熱さによって火傷する」ということは別物だと説明します。立ち止まったら火傷しますよと・・・。そりゃそうですよね。)
他にも、「音声を聞きながら、絵を思い浮かべる」という行為も、脳の感覚を手一杯にする効果があるそうです。
「脳の隙を突く」とも表現していますが、ここで注目したいのは、「脳が感覚で手一杯になったとき、何かを思うということは不可能になる」という事です。
思い出してください。
最初に疲れる原因として書いていたことです。
”例えば何か一つのことが気になると、他のことを考えようとしても思考が勝手にどんどんと膨らんで次第にその事しか考えられなくなる・・・”
これは脳が勝手に何かを思っている状態です。
そして、これを止めたい!思考を解き放ちたい!というのが今回のやりたいことです。
ということは、玄侑さんの話を応用して
「脳を感覚で手一杯にすれば、思考を止めることが出来る」
ということになるんじゃないでしょうか?
脳の処理能力の限界を逆手に取って、別のことで脳の処理能力を大きく使い、それで思考を間接的に止めてしまうという手法です。
何かいけそうじゃないですか?
よし、それなら大般若祈祷を・・・という訳にはいかないので、もっと手近な方法で近似するということを考えてみたいと思います。
これが第2のヒントです。
「脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を間接的に止める」
◯第3のヒント:思考を自分でコントロールする意識を持つ
これは第1のヒント、第2のヒントから展開させた理屈です。
第1のヒントでは、思考は性格ではなく、技術だという気付きを得ました。
第2のヒントでは、脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を止めるという可能性を知りました。
どちらにも共通することは、自分自身の思考という意識することが難しい精神作用を、自分自身の行動によってコントロールすることが出来るということです。
思考そのものを技術と考え、努力と訓練によってつくり上げる方法。
別の行動によって思考を止めるという方法。
アプローチとその目的も異なりますが、共通するのは「自分の思考に、主体的に介入していく」という行為であるということです。
つまり、思考は自分でコントロール出来るものだという考えです。
これに気付くことが、まずスタートではないのかと思いました。
私自身を振り返れば、自分の思考について
「自分はこういう人間だ・・・」
「生まれついての性格だからどうしようもない・・・」
とまるで固定されているものかのような認識を持っていたところがあったと思います。
でもそれは単なる思い込みではないか?
自分自身でコントロールすることが可能なんじゃないか?
少なくとも、世の中にはそう考えて実践している人がいる。その具体的な手段の例もある・・・。
このような認識を経ることで、自分自身の思考を「生まれつき持った性格で変えられないもの」という決めつけから解き放ち、「自分自身でコントロールできるもの」という意識を持つことが出来るようになるのではないでしょうか。
という訳で第3のヒントです。
「思考は自分でコントロールできる意識を持つ」
◯方法論:思考を解き放つ手段
ここまで読んでいただいたとしたら、もうその手段の形は見えていることと思います。
第1のヒント:思考は性格ではなく、技術だ。
第2のヒント:脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を止める。
第3のヒント:思考は自分でコントロールできる意識を持つ。
自分自身でコントロールできるという意識を持ち、自分自身の思考に積極的に介入していくこと。
その介入の手段として、技術を磨くこと、あるいは処理能力の限界を利用すること。
これらを使えば良い、ということになります。
その具体的な手法については長くなりますので、また別の記事でまとめようと思いますが、後者の「処理能力の限界を利用する」方法として自分で試していることを最後に書いておきます。
それは、「身体的な感覚で脳を一杯にする」という事です。
しかも出来るだけ健康的に。
酒やタバコなどの外部刺激で脳を一杯にするという方法もあると思いますが、これは別の中毒症状を起こす可能性があるのですんなりとはオススメできません。
もっと簡単な、かつ健康的な方法として取り組んでいるのは、「身体的な感覚で脳を一杯にする」という言葉を文字通りに実践する方法です。
それは自分自身の身体の状態を詳細にモニターすることです。
例えば、右手、左手、右足、左足の状態が今どうなっているか。
関節は伸びているか、曲がっているか。指はどうか。
どんな形をしているか。
呼吸はどうなっているか。肺は膨らんでいるか、縮んでいるか。
呼吸はどこを通っているか。鼻を空気が通り抜ける感覚はどのようなものか。
・・・と、イメージしていけばきりがありません。
とにかく身体の思いつく限りの箇所の状態を意識でモニターするんです。
これらのことは普段の意識活動の中ではかなり大雑把なレベルでしか把握されていないでしょう。
だから「モニターする」と一口に言っても、それってかなり難しいことなんですよね。
自分の場合は、とにかく感じることで実現をしようとしています。
認識することが難しければ、ほんのわずかずつ動かしてみる。動かしてみた時の感じ方で状態を把握する指標にするんですね。
それこそ神経を使う作業です。
普段意識しない身体の細部に少しずつ「意識」という神経細胞を通していくような作業を行うわけです。
これ、結構難しいんですよ。
でもこれを続けて、かなり広範囲な部分の身体感覚を認識することが出来たような感覚を覚えたとき、ふと気がつくことがあるんです。
今、何も考えてなかったな、ということに。
これこそが、思考を解き放った瞬間なんじゃないでしょうか。
誰にでも簡単に出来る、お金も手間もかからない、とても簡単な方法です。
ひょっとしたら、いわゆる”瞑想”というものに近いのかもしれません。
思い悩む思考を上手く解き放てない時に、是非試してみて下さい。
私も訓練でもっと上手に、自由自在に出来るようになりたいと思います。
いやあ、このことをちょっと書きたいだけだったのですが、思いの外長い記事になってしまいました。
最後まで読んでいただいた方、お付き合いいただき本当にありがとうございました!
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