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2015年11月22日

FORESTERのCMについて

何気にテレビを見ているとスバルのフォレスターのCMが目に留まりました。

フォレスターって、カッコイイし、走りは力強いしで男としては憧れる車の一つだと思います。
今のフォレスターもこれまたカッコイイ!
のですが・・・

CMのあらすじとしては、

突然サーフィンに目覚めた親父(推定50歳前後)がフォレスターに乗って海にサーフィンしに行き、
何度も落水しているうちに遂に立つことができた・・・というもので終わりかと思いきや、

それを海岸で見守る妻と子供(小学生くらい)。
しかもめっちゃ冬の格好して寒そうです。そんな母親と子供が

「パパやったね〜」と
無邪気な声援。

そして次のカットでは、妻が運転し、後部座席で眠りこける親父と子供
それを微笑ましく見守る妻・・・

でCMは終わりですが・・・

なんじゃこのCM!!

寒い冬の海に自分がサーフィンしたいがために妻と子供を連れて行き、
自分はサーフィンに夢中で寒空の下に妻と子供をほったらかし。
挙句に運転まで妻にさせて・・・

おいおい、王様かよ!!
どこの世界の話やねん!

とつい突っ込んでしまいますよ。
ちょっとロマンを語り過ぎかと・・・

まあ購買層の男性に向けられた憧れのロマンとしてはいいのかもしれませんけれど、
現実のお父さん達にはちょっとかけ離れ過ぎてるかなという感覚です。

現実のお父さんとしては、
「イイね、あんたは自分の好きなことばっかりして!!私は子供(以下省略)」
と愚痴られるのが関の山なんでしょうね・・・。

でもまあCMってそういうものかな?
面白いのは面白いですしね。
それにしてもフォレスターカッコイイ。雪山で見るとなお映える!
posted by 霧島もとみ at 2015年11月22日 | Comment(0) | TrackBack(0) | そこはかなきこと

2015年11月19日

ぼくは愛を証明しようと思う。  藤沢 数希 

”恋愛工学”をキーワードに、女性に対して一途で真っ直ぐだった男が多くの女性をモノにする男へと変わっていく姿を書いた小説です。

恋愛工学のキーワードとして、書中では

”モテ=ヒットレシオ✕試行回数”

という数式が示されています。

これは本書を読むと何となく分かるのですが、恋愛に気持ちとか人間性とかそういったものを持ち込まずに単純化したモデルを考えた場合、このような数式が工学として成り立つという考えです。

野球に例えると、

”年間ヒット数=打率✕打数”

という分かりやすいモデルとなります。
なんだそんなことか・・・と馬鹿にするのは簡単ですが、この単純な理屈を恋愛に持ち込める人はそんなに多くはないのでしょうか。
実を言うと私もその一人です。
恋愛に根拠のないロマンを持ち込み、「人を愛すること、愛されることはとても素敵なことだ」という考えを持っています。そしてそれがまるで世界の真理であるかのように思い込み、自分だけでなく、他の人間もその考えを共通して持っているのだという妄想を感覚として持っています。

さて主人公はこの恋愛工学を駆使し、色々な女性を口説き落とし、次々とセックスしていきます。
まるで「ナンパの指南本」のような内容です。
読者はこの物語を追体験することで、「恋愛」という観念が幻想であることを思い知らされます。女性の気持ちを惹きつけるスキルを身に付け、それを駆使して次々と女性を落としていく姿に、愛って何なんだろう・・・と考えさせらるんじゃないかと思います。
主人公は別に女性を愛しているわけではなく、「セックス=成功」というゲームの中で女性を扱っているだけで、去るものは追わず、淡々とした取り扱いに徹しているんですよね。女性が、まるで名前と体だけの存在であるかのような錯覚を覚えます。

これまで自分が考えていた「恋愛」「女性」とは完全に真逆の考え方・・・
※ちなみに自分のような考え方は、作中では「非モテコミット」として最も駄目な例として取り扱われています。

おそらく、こういった世界はあるのだろうと思います。
また同時に、恋愛にロマンを感じるという世界もあるのだろうと思います。
どちらか一方ではない。そこは自分の好きなように考えてすればいいのだと思います。

さて私の感想ですが・・・
筆者としては、まずは多くの「非モテコミット」の人間の考えを解放したいのだろうなと思いました。
刷り込まれている恋愛に対しての偏見を一度解き放ち、ゼロの状態にしてから、それから自分の好きな道を歩めばいいのだということを言っているのだと。

作中での師匠である「永沢さん」は常に「大事なことは女性を幸せにすることだ」と言っています。
何をナンパ師が・・・と言ってしまうのは簡単ですが、でも、それも確かに言えるのかもしれません。

こういう自分の価値観とは真逆のものを読んで見るのも面白い経験だな、と素直に感じました。
また、昔にこういう本を読んだ時に自分とのあまりのギャップに絶望して涙したことをふと思い出し、今度はそうは感じなかったことから、少しは受け止める器が大きくはなったかな・・・と懐かしくも思いました。
posted by 霧島もとみ at 2015年11月19日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 著者 は行

2015年11月14日

今週の「全力!脱力タイムズ」

金曜日の夜11時といえば「全力!脱力タイムズ」の時間ということでもうすっかり定着してきているのではないでしょうか!?

勿論今週も欠かさず見ております。

そういえば、最初の頃とは若干番組の構成が変わっていますよね。気がついた点でいうと、
・冒頭と最後のマツコ・デラックスの出番が無くなった。
・世界の動画ニュースが無くなった。
・代わりにちょっとしたニューストピックの紹介と、スタジオでのニュースに関するトークテーマの時間が追加された。

少し寂しくなったような気もする構成です。
予算の関係でしょうか?

さて、今週のトークテーマは「インフルエンザ」。
そこから元経産官僚の岸さんが紹介したのは

インフルエンザにかかると頭が痛くなるじゃないですか。

頭が痛いと言えばヘッドバンキング

ヘッドバンキング専用カラオケルームで経済のイノベーションが起きている!!

ということでヘッドバンギングの話題に。
バンギャルとか、バンギャルームとか、真面目な顔で真剣に紹介し、「こういう民間のイノベーションが経済を活性化するんです」と締める。

まあ、こんな話のズレ方はいつもの脱力タイムズですが、解説中にヘッドバンキングする岸さんの映像がとってもシュール。
真面目な表情でヘドバンする映像は何とも可愛い!
岸さんいいなあ〜。
そこに芸人の中川家礼二が「頭を振るとインフルエンザが治る?」と軽く突っ込んで、それが有田に流されるというのも軽くヒットして笑えました。

最大の見どころは、やっぱりあれですね。
最後の「中川家のコンビであるお兄さんからのメッセージビデオ」ですね!

中川家の兄から何のメッセージだろう?と見ていると・・・画面に表れたのは花田勝

Q:弟へ何かメッセージはありますか?

「何もありません」

そりゃそうだろう!というかこんな危ないネタも平気で使ってくる番組、さすがだなーと思いながら、今日も満足な全力!脱力タイムズでした。
posted by 霧島もとみ at 2015年11月14日 | Comment(0) | TrackBack(0) | そこはかなきこと

今日のはっとさせられた漫画の台詞

「おまえ一度でも31ページ マンガ書いたことあるのか」

※漫画「BAKUMAN 2巻」(原作:大場つぐみ 漫画:小畑健)63Pより

またBAKUMANですみません。でも好きなシーンなんです。

これは主人公のうち原作者を目指す高木(シュージン)が、真城(サイコー)をかばって言った台詞です。
マンガの賞である手塚賞に落選した主人公たちを「絵が下手なんだよ。俺の方が上手い」と小馬鹿にした同級生に対して、高木の怒りが炸裂しました。この台詞の後、その同級生は高木に全力で殴られることとなります。

ちょこっとノートに書く1カットの絵と、31ページのマンガを書ききるための絵は、全くの別次元です。
そんなことも知らずに、調子にのって馬鹿にしてくるそいつが許せなかったのでしょう。おまえはサイコーがどれだけ真剣にマンガに向き合い、全力で取り組んできたかを知っているのかと。
また、「落ち込んでいるサイコーをここぞとばかりに馬鹿にしてやろう」という嫌らしさも鼻についたんだと思います。

しかし、それとは別に、この台詞がまるで自分に向かって飛んできたかのような錯覚も同時に覚えました

「この本を読んでいるおまえは、何か全力でやりきったことがあるのか」

何も達成していないくせに、批評家ぶって、モノを言うだけは立派な人間になっていないかと。
31ページマンガを書いたことはあるのかと。それに匹敵する何かをやりきったことがあるのかと・・・。

そう考えると、何かガツンと頭を殴られた感じがして、考えさせられます。
すごいです。BAKUMAN。

posted by 霧島もとみ at 2015年11月14日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶に残る台詞

2015年11月13日

歌にまつわる思い出「7日目の決意(UVERworld)」

UVERworldの「7日目の決意」という曲との思い出を書き残しておきたいと思います。

私の中で、これからも強く記憶に残ると思っている曲です。

この曲は2014年6月28日にシングルリリースされ、また、アルバム「0 CHOIR」にも収録されています。
私が初めてこの曲を聞いたのは、ブルーレイディスク「UVERworld LIVE at KYOCERA DOME OSAKA」を見ていた時です。

正直なところ、最初聞いた時はあまり心には響きませんでした。
綺麗な曲だなとは思いましたが、それだけでした。

それから半年ほど経ったある日、とある衝撃的な出来事が起こりました。
お世話になった先輩が突然自殺したのです。
唐突で、不可解な、悲しい出来事でした。

その先輩のことを私は、何事にも前向きで、他人思いで、一所懸命に取り組む、凄い人だと思っていました。
エネルギーに満ち溢れていて、優しく、力強く、多くの人に慕われていた人でした。
それなのに…最悪とも言っていい最後を迎えてしまいました。
涙がとめどなく流れて、それでもなお信じられませんでした。

そんな悲しみを抱えながら過ごしていた時でした。
何気なく流していたUVERworldの曲の「7日目の決意」のフレーズに心を鷲掴みにされました。

”もう今日からは 死ぬ以上の悲しみはここに無いと思って生きて行くよ
ならもう何も怖くない 誰がどう言おうと構わない 諦める必要もない 強く生き抜くよ”


TAKUYA∞の透明な声色で奏でられるこのフレーズに、どうしようもなく、涙を堪え切れませんでした。
強く心を揺さぶられました。
前に聞いた時にはそんなことは無かったんです。でも、この時は間違いなく、この曲が自分の中に響いてきました。
その理由は何だろう?と自分に問いかけたとき、一つの思考に辿り着きました。

私は、先輩の自殺という事実を経験して、生まれて始めて「死ぬ以上の悲しみはない」ということを肌で感じたんだと。

それに気付いた時、この「7日目の決意」は、自ら死を選ぼうとする人が存在する世界に向けた「もう一度世界の見方を変えてみようよ、死ぬなんてまだ早いよ、一緒に生き抜いていこうよ」というメッセージのように聴こえてきました。
それは頭ではなく、体で感じました。
不思議なものです。ひょっとすると、歌というものは、受け取る側の自分自身の中に響くものがあってはじめて感動を覚えることができるというものなのかもしれません。

だから今は、この歌を大事にしたいと思っています。
この歌をTAKUYA∞のように美しく響かせながら歌い、込められた思いを、誰かに届けられるような技術を身に着けたいと、そう思うようになりました。

posted by 霧島もとみ at 2015年11月13日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2015年11月12日

そこまで言って委員会NP

11月8日放送の「そこまで言って委員会」は宗教がテーマでした。
宗教に関しては最近興味が出てきたこともあり、楽しく見ることができました。

その中で、もう大分前になりますが森総理(当時)の「日本は神の国」発言に関することが取り上げられていました。
(森総理の発言内容よりも、その発言に対するマスコミ等からのバッシングが印象に残っていました)

当時はマスコミなんかの叩きぶりを見て、森総理が日本のことを「神に守られた特別な国だ」というような趣旨で発言したんだろうなーと(あまり興味もなかったこともあり)受け売りで思っていたんですが、改めて考えてみると「日本は神の国」という言葉自体は何も間違った内容ではないんですよね。
この点については竹田恒泰さんが全面的に肯定していました。

さてこの話の流れで、竹田さんが「日本は八百万の神に守られた国だ」というようなことを発言した時に、田嶋陽子さんが「それは日本だけが八百万の神に守られているのか。他の国、民族は違うというのか」ということを質問していました。コレに対して若干話が噛み合っていない印象はありましたが、竹田さんは「他の国は違う。キリスト教の国を見てください、キリスト教では”最初に神ありき”なんですよ」というような説明をしていました。

田嶋さんは、おそらく、竹田さんに対して「日本だけが八百万の神に守られている特別な国だと根拠もなく考えているのではないか。日本だけを特別と考えるのは間違えているのではないか」というような事を指摘したかったんじゃないかと思いました。
それに対して竹田さんはさっきのようなことを繰り返し説明していた訳ですが・・・その説明にちょっと違和感がありました。

私の考えはこうです。

もしも八百万の神が存在しているとしたら、八百万の神によって守られているのは世界中どこの国、どこの民族であっても同じである。日本だけが特別な訳ではない。
ただ、日本は、八百万の神が存在していると考え、大事に祀り、八百万の神に守られていると考えている。
そして他の国ではまた違う神の存在を感じ、信じている。


ただそれだけのことじゃないのかな?と思うのです。

神という存在があるとしたら、物理法則と同じで、世の中(少なくとも地球のオーダーくらいでは)の全てに等しく作用する存在なんじゃないのかな、と私は考えています。
ただ、それをどのように考えるかは人それぞれ。民族や宗派でそれぞれ。

だから田嶋さんの質問に対しての回答は、
「日本だけではなく他の国や民族のところにも同じく八百万の神が存在し、守られている」
「ただしその国や民族が”八百万の神が存在し、守ってくれている”と考えているかどうかは分からない。そう考えているかどうかが、日本とそれ以外の国や民族との差である。差は人間側にある」

ということになると思います。

というとりとめのない話でした。
posted by 霧島もとみ at 2015年11月12日 | Comment(0) | TrackBack(0) | そこはかなきこと

2015年11月10日

バクマン。  1 〜5巻 大場 つぐみ (著), 小畑 健 (イラスト)

映画化で話題になっている「バクマン。」です。
私も映画化で再認識したクチでして、予告編の格好良いビジュアルと、主人公が佐藤健(!)だったこととで急に興味が湧いてきた、いわゆるにわか者です。

↓↓↓映画の予告編↓↓↓


(佐藤健めっちゃ格好良い・・・!!)

というわけでいつものようにレンタルコミックで借りてきました。

・・・

これねえ、面白いです。

高校生の二人組を主人公にして、舞台は「少年ジャンプ」、漫画に関わる作家・アシスタント・編集部という一連の人間たちを登場人物に話を作っているんですが、すっごくリアル感があります。
※忘れていたんですが、そういえば「デスノート」の原作・作画コンビでした。

少年ジャンプというフィールドで漫画という目標に向かって突き進む一途な熱さ。
少年ジャンプという超有名漫画雑誌の裏側を垣間見ることができる面白さ
(真偽の程は不明だが、事実に基いて脚色されていると信じたい)。

これらが沸騰しているかのようなテンションで描かれていて、ぐいぐい引き込まれます。
更には、「そういえば俺はこんな風に何かに熱中しているのだろうか?こんなに真剣に向き合っていることがあるのだろうか?」と自分を振り返り、はっとさせられ、その点でも衝撃を受けてしまいました。

何故だろう?
他の漫画のように「別世界で活躍する登場人物の行く末にハラハラさせられる」のではなく、「親しい友だちが活躍することになり、その行く末が気になるとともに、一方自分はどうなのかと思い知らされて何か終わってしまっているかのような複雑な感情を覚える」という感覚があります。
このあたりは更に読み進めていけば、はっきりと見えてくるところがあるかもしれません。

うーん。
バクマン。とは直接関係はないのですが、漫画や小説、ビジネス書などを読んで、妙に「はっとさせられる」機会が最近自分の中で増えているような気がします。
それが本の力なのか、それとも受け取る自分自身に何か変化が出ているのか・・・。
posted by 霧島もとみ at 2015年11月10日 | Comment(0) | TrackBack(0) | コミック

2015年11月08日

今日のはっとさせられた漫画の台詞

「ホント1秒でも無駄にできねー」

※漫画「BAKUMAN 1巻」(原作:大場つぐみ 漫画:小畑健)154Pより


何気ない普通な台詞かもしれません。でも、不思議にズシンと胸に響きました。

その台詞は、やるべき何か、真剣にやりたい何かを見付けていて、かつ目標を達成するまでに時間が限られていることを知ったときに初めて言える台詞だと思ったからです。

それと比べると、今自分が持っているのは、漠然とした「何かこのままでは駄目だ」という概念的なものでしかありません。
・何をやりたいのか。
・そのためには何をやらなければいけないのか。
・それはいつまでにやらなければならないのか。


これを把握した時に、初めてその台詞は無意識のうちに出てくるのでしょう。

時間は万人に平等で流れます。
しかしその時間に対して人間が与える価値はその人次第。
それをオリャッ!!と目の前に突きつけられた感じです。

自分はどれだけ目の前の1秒に全力を注ぎ込めているのか。
今は薄い・・・でも、それを自覚することからきっと始まるのだと思います。
posted by 霧島もとみ at 2015年11月08日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶に残る台詞

いまさらUVERworldにハマった自分と、気が付かないうちにかけている色眼鏡の恐ろしさ

いまさら・・・って感じが大ですが、UVERworldというバンドにハマっています。
実は何か新しいアーティストにハマるというのはかなり久し振りの経験で、自分では驚きなことです。

割と音楽っていうのは不思議なもので、中学生〜大学生くらいまでは新しい曲やアーティストをどんどん聞いていくのですが、大人になってからはそのペースががっくんと落ち、気が付けば昔聞いていた曲ばかりを聞く・・・ということになりがちではないでしょうか。
特にJ-POPとかロックとか言われるジャンルの音楽にはその傾向が顕著だと思います。

私もずーーーっと長年、TMNだとか、B'zだとか、BONJOVIだとか中高生の頃に聞いていたアーティストを聴き続けていたような気がします。
(年齢がバレますね、、、)

そんなのは嫌だ!と意識的に最近の曲を聞くようにしたこともありましたが、これが耳に入ってこない・・・まあ、無理をして聞いているくらいだから興味がないんでしょうね。ハマることはありませんでした。

そんな中、偶然にもハマったアーティストがいました。
それがUVERworldです。
というか既に滅茶苦茶有名なバンドで、「えっ、知らなかったの?」って言われそうな感じですけどね。。。

出会いは移動中の車の中で聞いたラジオでした。
どこかの女の子がリクエストした「7th triger」が流れ出したとき、自分の中に衝撃が走りました。
何だこの音は・・・!
ギターサウンド、炸裂するドラム、抜けるようでいて多様に響かせるヴォーカル、最初から最後まで「カッコいい・・・」の連続に完全に圧倒されました。
アーティスト名は?と思ったけど、曲が終わると同時にCMに入ってしまい何の説明もなし。

すかさずスマホを取り出して「セブンストリガー」で検索して、出てきたのが「UVERworld」というバンドでした。
家に帰ってからユーチューブで再度検索すると、PVがアップされていて、これまたカッコいい。

すぐにこうやって見られるんですからいい時代になりましたよね。
それでツタヤにCDを借りに行って聞いてみたら、同じアルバムに入っている曲もこれまたカッコいい。しかもカッコいいだけじゃなく、感情に訴えかけてくる歌もある。「The over」を聞いた時にはなぜか涙まで流れてしまった・・・。

こうして気が付けばあっというまにハマっていました。

UVERworldの魅力はまた書くことにするとして、「新しいアーティストにハマる」という事に関して、大事なことは「意識せずに聴く」という事なんだなあということを実感しました。
いや、大人になるとですね、色々あるんですよ。
こだわりだとか、経験だとか、曲の好みとかで、どうしても色眼鏡で見てしまうんです。だから新しいものを聞いても、自分の中にある既存のフレームワークに入らないから、音楽も自分の芯には入ってこないんでしょうね。
「新しい音楽がどんなもんか聞いてみるか。どれどれ・・・」
なんて感じで聴いちゃうと尚更駄目なんでしょうね。

最近他のアーティストにも実はハマった経験があって、それは「ONE OK ROCK」なんですが、ハマったきっかけは映画「るろうに剣心」なんですよね。映画館に観に行って、佐藤健良かったな〜とか思いながら予備知識なしにエンディングを聞いたときに「あ、この洋楽格好良い!誰だろう?」とか言ってたらそれが洋楽ではなくワンオクの「the beggining」だったんですけども、これもやっぱり何の先入観もなく聴けたのが良かっんだと思います。
UVERworldもラジオで不意に聞いたことがきっかけでした。

もし先にヴィジュアルから入っていたら、「最近のバンド」という色眼鏡で見ていたら、ハマることはなかったかもしれません。そう考えた時、少し恐ろしい気がしました。

ちょっと物の見方を変えるだけで、こういう素敵なものをみすみす見逃してしまうことがどれだけ多いんだろうということを考えたからです。

UVERworldを好きになったことで受け取った感動を、もしも知らないまま人生を終えることとなっていたら・・・。今の自分には、恐ろしく残酷な事であり、寂しいことであり、想像することすら辛いことです。

本当に出会えて良かったと思っています。
受け取ることが出来た自分自身にも感謝しています。

これからは、出来るだけいつも新鮮な気持ちで物事には接して、出来るだけクリアな見方をするように心がけたいです。
posted by 霧島もとみ at 2015年11月08日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽

2015年11月07日

他人(ひと)に何かを言われると気になる理由。

よく
「他人(ひと)に何かを言われても気にするな」
「他人が何と言おうと関係ない」

というような言葉を聞くことがあります。

でも私のような臆病な人間は、なかなかそうは行かないのが実情だと思います。

実際には、他人の何気ない一言に深く傷ついたり、自分の意見と反対の事を言われると嫌な思いをしたり、ということが多いのではないかと思います。
それを当たり前の事だと思っていました。

ところがある日、ふと、疑問に思ったのです。

「他人に何かを言われても物理的に何かが変わる訳ではないのに、なぜ自分の中に負の感情が生まれるのだろう?」

不思議に思いました。
嫌な感情は、他人から直接自分自身の感情に打ち込まれる訳ではありません。
届けられるのは言葉だけです。それを受け取った自分自身の中で、嫌な感情が生まれてくる。

そうすると、嫌な感情を作り出しているのは自分自身という事になります。
どうしてわざわざ、嫌な感情を作る必要があるのでしょうか?

一つは、やはり人間が社会性を本能的に持つ動物であるからだろうということです。
他人の評価=属する社会からの評価であり、群れで行動しようとする動物であれば、必然的に社会からの離脱は死を招く行為でありますから、それを何とか補正しようとすることはまた本能の活動として納得できる話です。
あるいは、自分の評価を社会から貶めようとする第三者を排除するという行動を引き起こすための引き金として負の感情を引き起こす、という原理かもしれません。これも何となく理解できる話です。

ですが、自分の感情をよく観察してみると、どうもこれだけでは説明できない気がしました。
何か他の大きな原因があるのではないだろうか・・・

その時ふと、一つの考えが浮かびました。

それは、「世の中には一つの正しいことがある」という無意識な思い込みが原因ではないか?という考えです。
そのきっかけは、「他人が自信たっぷりに正しそうなことを言っていた時、自分自身に大きな引け目を感じていた」という心理的事象が自分の中で観察された事です。
これは自分自信が否定された訳ではなく、勿論誹謗中傷を受けた訳でもありません。
でも不思議と自分の感情の中では、何か自分が否定された時と同じような機能が働き、負の感情を生み出していると思える訳です。
それはなぜだろう・・・と考えたときに思いついた理由は、

「世の中には一つの正しいことがある」 という思い込みにより、
「他人が正しい=自分が間違っている」ことの二元論で世界を捉えているからということでした。

どういうことかというと、

目の前の人間と自分と、どちらかが正しい。
どうも目の前の人間が言っていることが正しそうだ。だとすると自分は間違っている。
自分は劣っている・・・

という論法で物事を捉えていたということです。

これを踏まえてこれまでの事を思い返してみると、多くの場面でこの論法が働いていたと思い当たることがかなり多くありました。

正しいのは、自分か、相手か。
「正しいこと」とは何かー。

そういうように物事を捉えるのは間違いではないのかもしれません。
正解を求めるのは誰しもが抱える根源的な欲求なのでしょう。特に科学の世界においては、世界の真理を探し当てる、解き明かすということに全ての力を注ぐ訳ですから、それは顕著に表れてくることだと思います。
かつて、私もその科学の門の前に立っていた者の一人ですから、それは実感として分かります。
しかしその考えを、無意識のうちに拡張し、この「人間社会」に当てはめてしまっていたのではないかと思うのです。

正しいのは、自分か、相手か。
「正しいこと」とは何かー。きっとそれはあるはすだ。
誰か、「正しいこと」を全て教えて欲しい・・・絶対に正しい事を・・・

こう考えたとき、どんな人間であっても、「正しい」という絶対の前に裁かれる存在でしかなくなります。
突き詰めていくと、全ての人間の存在の根本が「正しい」という事象の中に存在することになり、人間全ての存在価値が消えてしまう。
だとすると、そんな状況の中で、誰が一体自分に自信を持ち、誇りを持ち、大事に思うことが出来るのでしょうか。
出来るはずがありません。
(ひょっとすると、この思い込みこそが、自分自身からあらゆる「自信」を奪っていた原因なのかもしれません)

億を超える人間が存在する中、万人が理解しえる「正しいこと」などこの社会には存在しないというのが今の考えです。
社会とは所詮人間が形作るもの。
物理法則が支配する科学の世界とは根本的に異なるもの。
たとえ大多数の人間が「正しい」と考えたとしても、たった一人の人間が「間違っている」と考えた時点で、その「正しいこと」は絶対ではなく、ただの相対になってしまうのです。

つまり”人間社会において”、「正しい」ということはあくまで相対的なものでしかなく、絶対的なものではないということです。
人間それぞれが、「正しいと思っている」事があるのに過ぎません。
だから例え誰が何を言おうと、それはその人間が正しいと思っていることに過ぎず、その意見をまるで世界の意思の表明であるかのように真正面から受け止め、自分の考えとどちらが正しいのかを考えつくす必要はないのです。

一言で言うと、
「誰が何を言おうがいちいち気にしない」
という事です。
勿論参考にするのは大事だと思いますけれど。

副次的に、自分が何かを言おうとする時に「本当にそれは正しいことなのか?100%の保証はあるのか?」と付き纏うサイドブレーキのような感覚も、消失することになると思います。

以上が、私が考える「他人(ひと)に何かを言われると気になる理由」であり、それを気にする必要はないという理由です。
ここまで書いて、自分の中で浮かび上がってきたのは、またしても漫画「天」の赤木の一言。

「さあ、漕ぎ出そう・・・いわゆる『まとも』から放たれた人生に・・・・・・」

※関連して、少し前に書いた記事です。
ほぼ日手帳の「今日の一言」・・・正解病について
posted by 霧島もとみ at 2015年11月07日 | Comment(0) | TrackBack(0) | メンタルヘルス
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他人との距離感をいつも遠く感じながら生きてきました。高校の体育祭のフィナーレでは、肩を抱き合って大はしゃぎする光景に「何でこんなに盛り上がれるんだろう・・・?」と全く共感できませんでした。共感できない自分が理解できず、いつも悩んでいます。そんな私でも面白いと思うことはこの世界に一杯あります。それが私の生きる糧でした。面白いことが増えていけば、よりたくさんの人が楽しく生きられるはず。そんな世界を夢見ています。
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