2015年10月31日
第十一章 愛親覚羅・徳崇の目撃証言
吉林省社会科学院研究員で国内で著名な溥儀研究家王慶祥先生は、我々の「川島芳子生死の謎」をテーマとした調査と研究に大きな支持と支援を表明し、調査団団長の李剛の招待を受けて、「川島芳子生死の謎」課題研究顧問となった。
ちょうど二年に一度開催される第二回溥儀研究国際学術討論会が、二〇〇八年六月二十八日に天津で開催された。王慶祥先生は長春溥儀研究会の副会長として、積極的に天津会議準備委員会に「川島芳子生死の謎」の研究課題を推薦した。我々は、愛新覚羅皇族の成員で歴史上かつてラスト・エンペラスの婉容を天津から東北に連れ出した川島芳子の天津での活動、およびその「生死の謎」の最新調査成果を論文の形式で天津会議に発表し、「調査の手がかりを探す宣伝」とする目的を達しようとした。
「天津会議」では、調査員の何景方が会議に参加できなかった調査団長の李剛に代わって、『川島芳子の天津での活動及び「生死の謎」の最新調査』と題する論文発表をした。川島芳子に関する「生死の謎」の爆弾発言が披露されると、すぐに天津会議で反響を呼び起こした。会議の休憩と参観活動の期間に、少なからず会議参加者が調査員何景方に川島芳子が死刑を逃れた証拠とその後三十年にわたる生活の軌跡について質問し、あるものはさらに詳しく調査員何景方が持ってきた天津会議の証拠写真や資料を閲覧した。
天津会議の期間、王慶祥先生の紹介により、調査員何景方は会議に参加していた二人の愛新覚羅家の成員と知り合った。一人は遼寧省満州族経済文化発展協会常務副会長の愛新覚羅・徳崇(溥旻)先生。もう一人は中国承徳避暑山荘保護協会理事で、中国で著名な書道家である愛新覚羅・兆基先生である。会議が用意した天津「静園」参観に向かうバスの中で、何景方と徳崇先生は隣に座り、二人がお喋りしていると自然と川島芳子生存説の話題になり、徳崇先生は何気なくこう述べた。「川島芳子(金璧輝)のことは、うちの家族のものは昔から知っていた。」徳崇先生が無意識に発した言葉が、すぐに何景方の琴線に触れた。しかし、何景方がさらに徳崇先生に「家族の人が川島芳子(金璧輝)について知ったのは何時頃のことですか?」と尋ねると、徳崇先生はただ笑うだけで答えなかった。この時バスは「静園」の門前に到着し、何景方と徳崇先生の談笑もそれで終わった。天津会議の日程はとても忙しく、何景方と徳崇先生はその後このことを話す機会はなかった。
天津会議の後、調査員何景方はずっと徳崇先生の何気ない「一言」が気にかかっていた。二〇〇八年九月初め、我々調査団が『川島芳子生死の謎新証』の原稿を討論していた際、王慶祥先生と当事者張玉もその場にいたが、何景方は天津会議期間に徳崇先生に接触した際に、徳崇先生がふと漏らしたあの「一言」を皆に聞かせた。彼が思うに、徳崇先生は早くから川島芳子が一九四八年に死刑を逃れた事を知っていたようだと語った。王慶祥先生は始めてこのことを何景方から聞き、やはりそこには何か裏があるに違いないとにらんだ。張玉の反応はさらに敏感で、彼女はその場で王慶祥先生に徳崇先生へ電話を掛けさせ、さらに徳崇先生の「川島芳子生死の謎」調査結果への見解を聞いてみるよう促した。最後に調査団長の李剛が徳崇先生の言葉は我々の調査にとても重要なので、王慶祥先生に徳崇先生に連絡を取って詳細を尋ねるよう要請した。
二〇〇八年九月十六日、王慶祥先生は徳崇先生に電話をかけ、まず長春の『川島芳子生死の謎新証』という前清朝皇族と密接な関係のある書籍が出版予定であることを告げて、徳崇先生に支持と貴重な意見を提供してくれるよう頼んだ。徳崇先生は王慶祥先生と電話で話す過程で、ついにその口から「一九五五年―一九五六年の冬に、彼が瀋陽の家にいた際、その目で川島芳子を目撃した」と我々を震撼させる史実が出てきた。
王慶祥先生は我々にこの知らせを継げたあと、我々はまるで「新大陸」を発見したかのような興奮を味わった。王慶祥先生はさらに我々に言うには、徳崇先生は自ら長春に来て『川島芳子生死の謎新証』のために題字を書き、そのついでに川島芳子(金璧輝)の養孫の張玉に会いたいと述べていると伝えた。李剛はすぐに王慶祥先生に徳崇先生へ次のように伝えてもらった。「彼の大きな支持に感謝するが、わざわざ遠い長春までご足労願うのは申し訳ないので、我々が瀋陽を訪問したい。」こうして約束を交わして、二〇〇八年九月二十五日我々調査団一行六人は、瀋陽の徳崇先生のもとを訪れた。
徳崇先生は彼の事務室で熱心に我々を接待し、我々に対し事実を追及し歴史の真実を明らかにする態度で、愛新覚羅家の成員の一人である川島芳子(金璧輝)の六十年にわたって懸案となっている「生死の謎」を新たに緻密に調査し、新たな成果を発表することに支持を表明した。そしてその場で我々に王慶祥先生が九月十六日に電話で話した内容の録音を公開した。「あれは私が北京から瀋陽の家に来たばかりの頃でした。当時、我家は瀋陽市の皇姑屯三義桟胡同の門がある大きな邸宅にありました。一九五五年―一九五六年の冬に、確かに綿入れを着て、ショールを被った女性が我家に来て、家の人は彼女を『壁輝』と呼びました。」「当時は私はまだ子供で、私の家には決まりがあり、客が来ると子供は客人の居る部屋から出て行かなければなりませんでした。私は大人たちが満州語と日本語を交えて話していたのを憶えています。何を話していたのかまでは、聞いていません。私は当時十七歳だった姉の溥賢(私より七歳上の異母兄弟)なら知っていたでしょう。彼女は接客をしていて、ずっと部屋でお茶を入れたり、煙草に火をつけたりしていましたから。その後に姉は私にこう言いました。あの日家に来た璧輝は学問があり、忍耐力があり、文武に優れ、多才多芸で、代わりに死んでくれる人までいると」
愛新覚羅・溥賢は徳崇より七歳年上だったので、家の中のことや愛新覚羅家の事は良く知っていた。彼女はよく暇な時に徳崇に家のことや家族のことを話して聞かせた。「母親の家はどうだこうだ、父親の副官たちの現状はどうだ、家族の中の誰それが抗聯で、誰それが八路軍幹部で、誰それが義勇軍英雄だとかいう話です。また国民党中央軍の兄について、外蒙古で死んだ兄について、香港に逃げた姉についても話してくれました。それから家族の財産は誰それの手に渡ったとか、こういうことを彼女は良く覚えていました。それから溥賢は父親の愛新覚羅・載驌の最も信頼できる家の管理者でした。彼女は思想が進歩的だっただけでなく、何事も果たすことが出来ました。ただ惜しいことに彼女は文化大革命の嵐の中で死んでしまいました。もし溥賢姉がまだ健在なら、川島芳子(金璧輝)が一九五五年〜一九五六年の冬に我が家を訪れたことを、さらに詳しく語ることが出来たでしょう。」徳崇先生の提供した証言に対し、当時現場で聞いて証人となったのは王慶祥先生とその夫人張素娥、本書の作者である李剛、何景方、当事者張玉と孫仁傑である。『川島芳子生死の謎新証』の書の出版に対し、徳崇先生はすぐに筆をとり本書の為に満州語と中国語を対照した書道作品を揮毫してくれた。
徳崇先生は「愛新覚羅」という特殊な家系身分を有し、このために一九五〇年代中期にその目で川島芳子を目撃した唯一の証人となった。我々はすでに得た多くの物証と文献証拠に加えて、さらに目撃証人の証言まで得ることが出来たのである。川島芳子が死刑を逃れて東北に潜伏していたという歴史的事実を証明するため、我々の『川島芳子生死の謎新証』のための証拠をさらに充実させることができた。
二〇〇七年夏に、我々は段霊雲に対し方おばあさんの印象と見方を聞いた際に、段霊雲はかつて書面の形式で我々に次のように証言していた。一九五五年春節の後に、彼女は敗血症を患い、長春鉄路中心医院では治せないとのことで、遼寧の湯岡子養院に一ヶ月ほど入院し、さらに大連の海浜療養院、天津の外国人医師がいる病院、最後にさらに北京協和医院に行って治すことができた。彼女の記憶では、方おばあさん(川島芳子)はかつて天津の医院に彼女を見舞いに来て、彼女の治療のために多額のお金をくれた。
二〇〇八年九月二十五日、我々が瀋陽から長春に戻ると、張玉が徳崇先生がかつて一九五五〜一九五六年の冬に、瀋陽で方おばあさん(川島芳子)を見たことを母親の段霊雲に告げた。段霊雲はその知らせを聞いた後、「映画を見るように」一九五五年の冬の病気を患っていた時のことを思い出した。そのとき方おばあさんは養女の段霊雲が病気になったことを聞くと、遠くの国清寺から長春にすばやく戻って来た。長春鉄路中心医院で彼女は《小雲子》(段霊雲の幼名)の病状を見ると、《小雲子》を遼寧の「湯岡子」の温泉で治療させるように主張した。段連祥はいつも方おばあさんの言葉にすぐに従っていたが、そのときも例外ではなく、二人は段霊雲に付き添ってまず瀋陽鉄路総医院に連れて行き、それから湯岡子療養院に一ヶ月以上入院して、その後また大連の海浜療養院に行った。道理から言えば、段霊雲の病気は四平でも長春でも治せなかったのだから、すぐに医療条件のもっと良い大病院で治療させるべきなのに、段連祥と方おばあさんはなぜか娘を湯岡子療養院に連れて行ったのである。このことは次のことで説明できるのではないか。満州国時代に静かで世俗を離れた湯岡子温泉を川島芳子は良く知っており、彼女の主観的考えでは、湯岡子の温泉につかれば《小雲子》の血液病が良くなると思ったのであろう。一ヶ月近く温泉で療養しても《小雲子》の敗血症は好転する兆しがないので、ようやく天津の病院と北京協和医院に連れて行ったのである。段霊雲が今まではっきり記憶しているのは、あの冬の日に、方おばあさんは綿入れを来て、黄色のショールを被って、さらに方おばあさんの綿入れの帽子のふちには狐の毛皮が付いていたことである。
段霊雲と徳崇先生は一方は瀋陽に住み、一方は四平に住んでいて、それぞれ別々に暮らし、これまで面識もなく、話したことすらないのに、彼等の半世紀前の歴史のそれぞれの記憶が驚くべき類似を見せたのである。方おばあさん(川島芳子)の瀋陽での出現は時間においても着ていた服装にしても、二人の説明は完全に符合している。これに我々は驚きを禁じえなかった。全く我々の予想を超えて、徳崇先生と段霊雲の証言が期せずして一致したのである。
ちょうど二年に一度開催される第二回溥儀研究国際学術討論会が、二〇〇八年六月二十八日に天津で開催された。王慶祥先生は長春溥儀研究会の副会長として、積極的に天津会議準備委員会に「川島芳子生死の謎」の研究課題を推薦した。我々は、愛新覚羅皇族の成員で歴史上かつてラスト・エンペラスの婉容を天津から東北に連れ出した川島芳子の天津での活動、およびその「生死の謎」の最新調査成果を論文の形式で天津会議に発表し、「調査の手がかりを探す宣伝」とする目的を達しようとした。
「天津会議」では、調査員の何景方が会議に参加できなかった調査団長の李剛に代わって、『川島芳子の天津での活動及び「生死の謎」の最新調査』と題する論文発表をした。川島芳子に関する「生死の謎」の爆弾発言が披露されると、すぐに天津会議で反響を呼び起こした。会議の休憩と参観活動の期間に、少なからず会議参加者が調査員何景方に川島芳子が死刑を逃れた証拠とその後三十年にわたる生活の軌跡について質問し、あるものはさらに詳しく調査員何景方が持ってきた天津会議の証拠写真や資料を閲覧した。
天津会議の期間、王慶祥先生の紹介により、調査員何景方は会議に参加していた二人の愛新覚羅家の成員と知り合った。一人は遼寧省満州族経済文化発展協会常務副会長の愛新覚羅・徳崇(溥旻)先生。もう一人は中国承徳避暑山荘保護協会理事で、中国で著名な書道家である愛新覚羅・兆基先生である。会議が用意した天津「静園」参観に向かうバスの中で、何景方と徳崇先生は隣に座り、二人がお喋りしていると自然と川島芳子生存説の話題になり、徳崇先生は何気なくこう述べた。「川島芳子(金璧輝)のことは、うちの家族のものは昔から知っていた。」徳崇先生が無意識に発した言葉が、すぐに何景方の琴線に触れた。しかし、何景方がさらに徳崇先生に「家族の人が川島芳子(金璧輝)について知ったのは何時頃のことですか?」と尋ねると、徳崇先生はただ笑うだけで答えなかった。この時バスは「静園」の門前に到着し、何景方と徳崇先生の談笑もそれで終わった。天津会議の日程はとても忙しく、何景方と徳崇先生はその後このことを話す機会はなかった。
天津会議の後、調査員何景方はずっと徳崇先生の何気ない「一言」が気にかかっていた。二〇〇八年九月初め、我々調査団が『川島芳子生死の謎新証』の原稿を討論していた際、王慶祥先生と当事者張玉もその場にいたが、何景方は天津会議期間に徳崇先生に接触した際に、徳崇先生がふと漏らしたあの「一言」を皆に聞かせた。彼が思うに、徳崇先生は早くから川島芳子が一九四八年に死刑を逃れた事を知っていたようだと語った。王慶祥先生は始めてこのことを何景方から聞き、やはりそこには何か裏があるに違いないとにらんだ。張玉の反応はさらに敏感で、彼女はその場で王慶祥先生に徳崇先生へ電話を掛けさせ、さらに徳崇先生の「川島芳子生死の謎」調査結果への見解を聞いてみるよう促した。最後に調査団長の李剛が徳崇先生の言葉は我々の調査にとても重要なので、王慶祥先生に徳崇先生に連絡を取って詳細を尋ねるよう要請した。
二〇〇八年九月十六日、王慶祥先生は徳崇先生に電話をかけ、まず長春の『川島芳子生死の謎新証』という前清朝皇族と密接な関係のある書籍が出版予定であることを告げて、徳崇先生に支持と貴重な意見を提供してくれるよう頼んだ。徳崇先生は王慶祥先生と電話で話す過程で、ついにその口から「一九五五年―一九五六年の冬に、彼が瀋陽の家にいた際、その目で川島芳子を目撃した」と我々を震撼させる史実が出てきた。
王慶祥先生は我々にこの知らせを継げたあと、我々はまるで「新大陸」を発見したかのような興奮を味わった。王慶祥先生はさらに我々に言うには、徳崇先生は自ら長春に来て『川島芳子生死の謎新証』のために題字を書き、そのついでに川島芳子(金璧輝)の養孫の張玉に会いたいと述べていると伝えた。李剛はすぐに王慶祥先生に徳崇先生へ次のように伝えてもらった。「彼の大きな支持に感謝するが、わざわざ遠い長春までご足労願うのは申し訳ないので、我々が瀋陽を訪問したい。」こうして約束を交わして、二〇〇八年九月二十五日我々調査団一行六人は、瀋陽の徳崇先生のもとを訪れた。
徳崇先生は彼の事務室で熱心に我々を接待し、我々に対し事実を追及し歴史の真実を明らかにする態度で、愛新覚羅家の成員の一人である川島芳子(金璧輝)の六十年にわたって懸案となっている「生死の謎」を新たに緻密に調査し、新たな成果を発表することに支持を表明した。そしてその場で我々に王慶祥先生が九月十六日に電話で話した内容の録音を公開した。「あれは私が北京から瀋陽の家に来たばかりの頃でした。当時、我家は瀋陽市の皇姑屯三義桟胡同の門がある大きな邸宅にありました。一九五五年―一九五六年の冬に、確かに綿入れを着て、ショールを被った女性が我家に来て、家の人は彼女を『壁輝』と呼びました。」「当時は私はまだ子供で、私の家には決まりがあり、客が来ると子供は客人の居る部屋から出て行かなければなりませんでした。私は大人たちが満州語と日本語を交えて話していたのを憶えています。何を話していたのかまでは、聞いていません。私は当時十七歳だった姉の溥賢(私より七歳上の異母兄弟)なら知っていたでしょう。彼女は接客をしていて、ずっと部屋でお茶を入れたり、煙草に火をつけたりしていましたから。その後に姉は私にこう言いました。あの日家に来た璧輝は学問があり、忍耐力があり、文武に優れ、多才多芸で、代わりに死んでくれる人までいると」
愛新覚羅・溥賢は徳崇より七歳年上だったので、家の中のことや愛新覚羅家の事は良く知っていた。彼女はよく暇な時に徳崇に家のことや家族のことを話して聞かせた。「母親の家はどうだこうだ、父親の副官たちの現状はどうだ、家族の中の誰それが抗聯で、誰それが八路軍幹部で、誰それが義勇軍英雄だとかいう話です。また国民党中央軍の兄について、外蒙古で死んだ兄について、香港に逃げた姉についても話してくれました。それから家族の財産は誰それの手に渡ったとか、こういうことを彼女は良く覚えていました。それから溥賢は父親の愛新覚羅・載驌の最も信頼できる家の管理者でした。彼女は思想が進歩的だっただけでなく、何事も果たすことが出来ました。ただ惜しいことに彼女は文化大革命の嵐の中で死んでしまいました。もし溥賢姉がまだ健在なら、川島芳子(金璧輝)が一九五五年〜一九五六年の冬に我が家を訪れたことを、さらに詳しく語ることが出来たでしょう。」徳崇先生の提供した証言に対し、当時現場で聞いて証人となったのは王慶祥先生とその夫人張素娥、本書の作者である李剛、何景方、当事者張玉と孫仁傑である。『川島芳子生死の謎新証』の書の出版に対し、徳崇先生はすぐに筆をとり本書の為に満州語と中国語を対照した書道作品を揮毫してくれた。
徳崇先生は「愛新覚羅」という特殊な家系身分を有し、このために一九五〇年代中期にその目で川島芳子を目撃した唯一の証人となった。我々はすでに得た多くの物証と文献証拠に加えて、さらに目撃証人の証言まで得ることが出来たのである。川島芳子が死刑を逃れて東北に潜伏していたという歴史的事実を証明するため、我々の『川島芳子生死の謎新証』のための証拠をさらに充実させることができた。
二〇〇七年夏に、我々は段霊雲に対し方おばあさんの印象と見方を聞いた際に、段霊雲はかつて書面の形式で我々に次のように証言していた。一九五五年春節の後に、彼女は敗血症を患い、長春鉄路中心医院では治せないとのことで、遼寧の湯岡子養院に一ヶ月ほど入院し、さらに大連の海浜療養院、天津の外国人医師がいる病院、最後にさらに北京協和医院に行って治すことができた。彼女の記憶では、方おばあさん(川島芳子)はかつて天津の医院に彼女を見舞いに来て、彼女の治療のために多額のお金をくれた。
二〇〇八年九月二十五日、我々が瀋陽から長春に戻ると、張玉が徳崇先生がかつて一九五五〜一九五六年の冬に、瀋陽で方おばあさん(川島芳子)を見たことを母親の段霊雲に告げた。段霊雲はその知らせを聞いた後、「映画を見るように」一九五五年の冬の病気を患っていた時のことを思い出した。そのとき方おばあさんは養女の段霊雲が病気になったことを聞くと、遠くの国清寺から長春にすばやく戻って来た。長春鉄路中心医院で彼女は《小雲子》(段霊雲の幼名)の病状を見ると、《小雲子》を遼寧の「湯岡子」の温泉で治療させるように主張した。段連祥はいつも方おばあさんの言葉にすぐに従っていたが、そのときも例外ではなく、二人は段霊雲に付き添ってまず瀋陽鉄路総医院に連れて行き、それから湯岡子療養院に一ヶ月以上入院して、その後また大連の海浜療養院に行った。道理から言えば、段霊雲の病気は四平でも長春でも治せなかったのだから、すぐに医療条件のもっと良い大病院で治療させるべきなのに、段連祥と方おばあさんはなぜか娘を湯岡子療養院に連れて行ったのである。このことは次のことで説明できるのではないか。満州国時代に静かで世俗を離れた湯岡子温泉を川島芳子は良く知っており、彼女の主観的考えでは、湯岡子の温泉につかれば《小雲子》の血液病が良くなると思ったのであろう。一ヶ月近く温泉で療養しても《小雲子》の敗血症は好転する兆しがないので、ようやく天津の病院と北京協和医院に連れて行ったのである。段霊雲が今まではっきり記憶しているのは、あの冬の日に、方おばあさんは綿入れを来て、黄色のショールを被って、さらに方おばあさんの綿入れの帽子のふちには狐の毛皮が付いていたことである。
段霊雲と徳崇先生は一方は瀋陽に住み、一方は四平に住んでいて、それぞれ別々に暮らし、これまで面識もなく、話したことすらないのに、彼等の半世紀前の歴史のそれぞれの記憶が驚くべき類似を見せたのである。方おばあさん(川島芳子)の瀋陽での出現は時間においても着ていた服装にしても、二人の説明は完全に符合している。これに我々は驚きを禁じえなかった。全く我々の予想を超えて、徳崇先生と段霊雲の証言が期せずして一致したのである。
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