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【日本史の常識を覆せ!】 古代からあった朝鮮による日本妨害工作 〜オリンピック東京誘致から考える〜

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★ オリンピック東京誘致

少し時間が経った話だが、今日は日本史に与えた朝鮮半島からの政治工作を見てみたいと思います。

朝鮮半島は、古代に中国の文化を日本に伝える橋渡しになっただけではありません。
朝鮮半島の政治的陰謀が、日本の政局に多大な影響を与えたケースがあり、今の時代においてもその影響は続いていると言えます。

まずは、解りやすいところで、少し前にあったオリンピックの東京誘致で見てみましょう。

2020年のオリンピック開催地が決める前日に、韓国は福島県など一部関東・東北地方産の水産物輸入禁止を発表しました。
これは東京へのオリンピック誘致の妨害工作であるという見方が一般的で、発表のタイミングを考えれば疑う余地はないでしょう。
汚染水に対する食の安全を大義名分に掲げているが、韓国から見て、禁輸対象は水産物輸入のほんの数パーセントしかシェアがないのだから・・・。
韓国国内の水揚げ分も含めれば、0.1パーセントのシェアもないでしょう。

歴史認識問題でギグシャクし続けているとは言え、関係改善を図るつもりは全くなく、日本の足を引っ張ることで自国の優越感を感じたいというところでしょうか。
完全に自国の目先の感情だけに囚われた、子供の対応・・・のように思えます。
もっと戦略的で高度な政治的思考を持つ国ならば、ここでは東京支持をチラつかしながら、歴史問題や様々な日韓間の外交事案で日本からの譲歩を多く引き出すことができたであろうに・・・。


★ 韓国から日本への横やりの歴史

しかし、日韓の歴史を見れば、韓国からの横ヤリで、日本の歴史・政治が大きく変わったことが結構あります

現代人の我々にとって、オリンピック誘致に続いて解りやすいのが、2002年の日韓FIFAワールドカップで、この時も日本にほぼ決まった結果を韓国の執拗な裏面工作で日韓共催に覆されました。

そして、このような事態は、実は古代からあるのをご存じだろうか。

代表的な例として、乙巳の変(大化の改新)を挙げてみよう。


★ 乙巳の変(大化の改新)は韓国人の内政干渉

古代史における最大の出来事の一つである「乙巳の変(大化の改新)」は、韓国人による日本の政治体制・方針の転換を狙ったものという見方があります。

そう思わせる出来事として、次のような点を挙げることができます。

〇 クーデター現場から逃げ帰った古人大兄皇子の発言記録に、「韓人が入鹿を殺した」という内容があること。

〇 中大兄皇子と中臣鎌足の出会いは有名だが、ここを常識をもって冷静に考えると、「あの出会いは中臣鎌足になんらかの狙いがあり、権力者に取り入ったと思えること」や、「中大兄皇子と話せる身分ながら、ずっと面識がなかった(都で育った貴族でなく、地方で育った貴族としか理解できない)こと」。

〇 中国大陸では唐という巨大国家が誕生し、蘇我蝦夷・入鹿が考える日本の外交方針が、百済一辺倒から高句麗・新羅も含めた三国と協調する方針に転換しようとしていたと見られること。

このような背景で、日本の後ろ盾を失うという危機感を感じた百済が、日本の政治体制・方針を転換させるために、乙巳の変(大化の改新)を起こしたと言われることがあります。

また、歴史研究者の中には、中臣鎌足は人質として日本に来ていた百済王族の豊璋(ほうしょう)だと唱える人もいます。

私は、これらは事実だろうと思っています。


★ 韓国という国

朝鮮半島の歴代国家は、中国王朝に対しても、多くの場合は胡麻をすり、また時に大きな裏切りをもって付き合ってきました。

このような対応について、私は悪いとは思いません。
朝鮮半島という、西に中国・東に日本という大国に挟まれた地理的につらい場所にある国家なのですから、生き残っていくためにはきれいごとではすまない生臭い対応が求められたでしょうから。

そして、現代、力のつけた中国にまたすり寄る外交姿勢が目につきます。
一昔前のアメリカ一辺倒・日本重視の外交を完全に捨てたようです。
アメリカ・中国は非常に大切で、日本への感情的な対立を煽ることでナショナリズムを駆り立て、国家としての存続を図る方針に舵を切ったかのように感じられます。

国の規模、立地、分断国家という諸条件を考えれば、ある程度はやむを得ないものがありますが、朝鮮半島はこれからも日本に様々な影響を与え続けるでしょう。


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【日本史の常識を覆せ!】 女神に変えられた天照大神

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★ 天皇家の御祖先

改めて書くまでもないかもしれませんが、天照大神は伊勢神宮内宮に祀られている太陽を神格化した神であり、また天皇家の祖先神です。

現実的な観点から見ると「本当に天皇家の祖先にあたる神」であるかはわかりませんが、伝承としては、天照大神が天皇家のご先祖となっています。

そして、この天照大神は、一般的には「女神」として世の中で通用しています。
しかし・・・、この天照大神、実は「男神」ではないかという見方があることをご存じでしょうか。


★ どこにも「女神」とは書かれていない

天照大神が登場するのは、日本最古の歴史書である「古事記」「日本書記」です。
ここに天照大神が登場するのですが、実はどこにもはっきりと「女」であることは記載されていません

「日本書記」に、スサノオが暴れるシーン(有名な天岩戸の部分)で、機を織る天照大神が登場することから、女のようなイメージを受けます。

しかし、「古事記」においては、武器を持ち、仁王立ちしながら雄叫びをあげるシーンがあったりすることから、男ではないかとも思えたりします。

果たして、どちらが真の天照大神の姿なのでしょうか・・・。


★ 更なる疑問

更に、天照大神を祀る伊勢神宮に目を移して見ましょう。

伊勢神宮は、内宮に天照大神を、外宮に豊受大神を祀っています。
元々は、天照大神のみを祀っていたんですが、一人では寂しいだろうと、わざわざ女神である豊受大神を後で伊勢に移したんです。

女神が一人で寂しいから、もう一人の女神を友達として呼ぶ・・・、まあ、現代人の感覚ならあり得るかもしれませんが、古代人に女の友情のような感覚があったかどうか・・・。
自然体で考えると、やはり独身で寂しい思いをしている男神のために、他所から女神を呼んできたとなるように思えてなりません。

そして、伊勢神宮の行事の中に、天照大神を慰撫するため、太い柱を若い巫女さん達が撫でるシーンがあると聞きます。
世の男性諸氏なら深く説明せずとも、「天照さんは男でしょ!」と直感的に感じるものと思います。

以上から、おそらく、天照大神は、もともと男神だったんだろうと私も思います。

しかし、何らかの理由で、何者かにより、「女神」とされた・・・。
このように思えて仕方ありません。


★ 誰が何のために・・・

この犯人は、藤原不比等の犯行である可能性がかなり高いです。

不比等は、「古事記」「日本書記」の編集長的な立場にあり、歴史ねつ造を簡単にできる立場にいましたので。

では、どうして不比等は天照大神を女神にする必要があったか。

そのカギは、不比等と組んだ持統天皇の立場にあり、持統天皇の皇統を正当化するのが目的でしょう。
持統天皇は、天武天皇の后でありながら、天智天皇の娘でした。
天武天皇と天智天皇は敵どうしの間柄であり、持統天皇は、天武天皇の妻である立場よりも、天智天皇の娘である立場を意識していた可能性が所々に見れます。

持統天皇は、今から新しい女帝の皇統が始まるということを強調したかったんでしょう。
その為、日本を作った天照大神も女だったとし、持統天皇の皇統正当化に努めた可能性が強いと考えます。
天照大神は、孫のニニギに国を譲りました。
持統天皇も孫の文武天皇に皇位を譲ってますし、似ている部分がかなり多いですから。


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【日本史の常識を覆せ!】 関東武士団による平和・自由を獲得する為の戦い

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★ 頼朝を担いでの源平合戦に我々現代人が学ぶべき点がある!

横暴な平氏への対抗として、以仁王が各地の源氏に綸旨を発令したことで、源平合戦がはじまります。

最終的に、頼朝軍(現地司令官は義経)が平氏を滅ぼしましたが、ただ単に平氏への恨みや妬みだけで頼朝軍が平氏を打ち負かしたんでしょうか?

人間の行うこと、特に大人数が参画するような争いは、単なる恨みや妬みなどだけでは動きません。
現実的な利益がないと、人間は行動を起こさないことが大半です。

このように、人間の本来の欲望を考え合わせると、頼朝軍が平氏を滅ぼした原動力はなんだったのでしょうか
ここに現代日本人の歴史から学ぶ点が隠れている気がしてなりません。


★ 源平合戦は「関東植民地の独立戦争」

頼朝の旗揚げで始まった源平合戦は、実質的には「関東武士による朝廷からの独立戦争」です。
頼朝の旗揚げ前まで、関東は京の朝廷から見ると準植民地の位置付けでした。
受領国司など中央貴族からは、関東の各国は搾取の対象とされていました。

又、近隣豪族や同一族間でトラブルが発生しても、どちらが正しいかを判断する基準がなく、またフェアな立場で仲裁に入ってくれる者もいない状態で、関東武士達は自らの財産(土地)が常に横領される危険にされされていて、自らの力で一所懸命に守り抜かねばならない状況でした。
(ついでながら、このような状況から「一所懸命」という言葉が生まれた。)

誰も守ってくれないんです・・・。
そんな不安定な世相で生きる関東武士達から見ると、搾取者でしかない朝廷勢力を追い出し、武士間の共通ルール・フェアな仲裁者を、頼朝に求めたということです。
正確には、頼朝を担いで、頼朝の元に関東の武士団が集まり力を結集することで、合議体にてこれらを実現するための社会を築いたということです。

このようにして、時の政府であった平氏に対して、「搾取者を追放し、共通の価値観で一つ旗の下に集まる」ために宣戦を布告したというのが現実的な正しい理解でしょう。


★ 平和を維持するための努力

また、関東武士達は、頼朝を担ぐことで成功した関東の独立を維持するため、様々な努力を重ねています

承久の乱などの危機は有名ですが、これ以外にも意外と思うような危機もありました。

例えば、実朝の暗殺事件。
勿論、この事件の真相は不明ですが、かなりの確率で「有力御家人全員の暗黙の了解で公暁を使って実朝を消した」ものと思われます。
実朝は京文化にあこがれ、和歌を詠み、武士であるよりも公家である立場を明確にしていきます。
また、朝廷・院と接近し、京から派遣された人物達で側近を固め始めたりしはじめています。

このような行動が目立ち始めると、関東武士団にとっては「実朝を通じて関東は再び朝廷に支配される」ことを危惧しはじめるのは自然なことでしょう。
関東を昔の朝廷直接支配に戻させない為に、北条・三浦等有力御家人全員の共同作業で、実朝暗殺が計画・実行されたものと思われます。


★ 現代日本人の学ぶべきこと

このように、関東武士達は自らを守るために常に戦いを続けてきました

この歴史的事実から言えることは、自らの国や同胞、そして家族、自分自身を守る為には、必要な時には逃げずに戦う覚悟が必要ということです。
この覚悟を持てず、口だけの平和主義者であったり、事なかれ主義者であったりすると、結局は自らの国を守れずに亡国の憂き目に合うということです。

1000年近く前の関東武士達は、自らの手で自由を得て、そして自らの手で自由を守り、京からの植民地支配から脱したんです。

現代の我々も、中国など諸外国からの挑発に臆することなく、必要な場合は戦うことも辞さない覚悟で、堂々と対応するべきでしょう


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【日本史の常識を覆せ!】 「奴国」→「奴羅」→「奈良」

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★ 天皇家はどこから来たか?

大和王権東征説について、様々な見方がありますが、「奈良」という地名の源流をたどると、「東征説はあった可能性が高い」ように思えるんです。

とりあえず、信じるか信じないかは皆さんの自由ですが、ご参考まで・・・。


★ 「奈良(なら)」の起源

大和王権の根拠地であった大和国は今の奈良県ですが、大和国北部に「奈良」という地名はずっと昔からありました

この「奈良」、実は学校の日本史で習ったと思いますが、九州北部の博多湾辺りにあった「奴国」から名づけられた可能性が高いのではないかと見られ始めています。

その根拠としては、日本の「国」に当たる言葉を、朝鮮語で表現すると「羅(ら)」となるため。
例えば、「新羅(日本では”しらぎ”と言いますが、本来は”しんら”が正式名称)」「加羅」などがありますし、「百済」も漢字表記は違えども発音は”くだら”です。
今の韓国でも、地方名として、「全羅北道」などがあるぐらいです。


★ 「奴国」=「奴羅」=「奈良」

この理屈で、「奴国(なこく)」 を朝鮮語風に言うと、「奴羅(なら)」 となります。

このように博多湾辺りの「奴羅(なら)」が大和王権の母体となり、東征してきた可能性があり、大和国で新たに自分たちが多く住んだ付近を「奴羅(なら)」と名づけたように考えれるんです。

そして、その後、中国で使われている漢字の意味の理解が深まるに連れ、「奴羅」から「奈良」へと表記を変えたんでしょう。


★ 奴国王が天皇家に・・・?

「漢の倭の奴の国王」は、天皇家の源流・・・かもしれません。



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【日本史の常識を覆せ!】 もっと多くの幕末英雄が明治後に生き残っていたら日本はもっと強国になっていたか?

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★ 幕末の英雄達が生き残っていたら・・・

時々、「坂本龍馬が明治維新直前に凶刃で倒れなかったら、その後の日本はもっと良い社会になったのではないか」とか、「高杉晋作が病に倒れず生きていたら、もっと早く日本は変われていた」とか言われます。

しかし、本当に幕末の英雄達が生き残っていたら、その後も活躍し続けたでしょうか

もちろん、活躍し続けた可能性はあります。
しかし、活躍できなかった可能性の方が、かなり高いと思われます。

人それぞれに得意なことが異なり、幕末から明治初期に活躍した人材にとっても、時期・持ち場が異なれば能力がどの程度発揮できたかわかりませんから・・・。


★ 変革期の3タイプ

司馬遼太郎氏が言っていたことで、私もそうだと思うのですが、日本の幕末に当たるような大きな変革期には、次の3タイプの人間が変革期内のタイミング毎に求められ、登場します。

〇 初期

「これからの時代はこうあるべきだ」と理想を唱え、周囲にその考えを感化していくタイプが変革初期に登場します。幕末においては、吉田松陰、藤田東湖、佐久間象山などが該当します。

〇 中期

兎に角、行動力に優れたタイプが登場します。 変革初期の人物から思想的な影響を受け、その思想を実行に移す実践力に溢れた人物と言え、高杉晋作、桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬などが該当します。

〇 後期

変革を現実的な社会に定着させる実務家タイプが登場します。 兎に角、現実主義者であって、官僚的な思考の持ち主と言え、伊藤博文、井上馨、大隈重信などが該当します。

このように、一口に幕末と言っても、幕末の流れの中で、タイミング毎に求められる人材は変わってきました

西郷隆盛や木戸孝允(桂小五郎)を見れば解りやすいと思います。

二人ともに、討幕までは素晴らしい活躍で、超人的な実績を残しましたが、維新後の活躍はさっぱりと言えます。
倒幕、維新後の双方で大きな活躍をしたのは、大久保利通ぐらいと言えるかと思います。

このように、坂本龍馬、高杉晋作、吉田松陰、佐久間象山など幕末の英雄は、確かに優秀な人材でしたが、その後にずっと生きていたとしても、同じように活躍していた可能性は低いと思います。




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【日本史の常識を覆せ!】 「十七条憲法」の”十七”の意味を知ると聖徳太子の気持ちがわかる!

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★ 「一に曰わく、和を以って貴しとなし・・・」

聖徳太子の定めた十七条憲法は、なぜ十七条で構成されているかご存じでしょうか。
(最近は聖徳太子というのは間違いで、厩戸皇子というべきだとも言われますが・・・)

この理由を理解すると、古代日本人の価値観や生き方が垣間見えてきます
また、現代日本人もこの価値観を無意識に受け継いでいて、古代日本人がどのように物事を見て、どのようなことを考えて生きたのかを想像することは、必然的に現代日本人である我々自身を理解することに繋がります。
それに、聖徳太子が日本という独立国を作って行くんだと強い意志で臨んでいたことも伝わってきます。

でも、まあ、あまり固苦しくせずに、「十七」を知ることで、ちょっと古代日本人とはどんな人たちだったかを見てみましょう。


★ 十七条憲法の内容は

まず、この十七条憲法の内容を簡単に見てみましょう。

十七条憲法は「憲法」と言われますが、現代の憲法とは異なります。
憲法と言うよりも、聖徳太子が全豪族と官吏に、「支配者層にある者はこうあらねばならぬ」という官僚基準を定めたという方が適切な気がします。

また、内容を大雑把に分別すると、次のようになるでしょうか。
〇 第一条にて有名ですが、「和」が大切であり、私闘をしてはいけないこと。
〇 第二条で有名な「仏教」を信じるべきこと。
〇 詔(天皇の命令)には慎むこと(反逆は大罪であること)。
〇 礼を大切に、真心を持つべきこと。
〇 民を酷使したり、私事に民を使ってはならないこと。

上記の通り、内容的に見ると、聖徳太子が言いたかったことは、おおよそ「五つの条」に収めることができたはずなんです。
第五条当たりからは、同じような条文が続いていますから。

では、なぜ十七条と条項を大幅に増やしたのか

ここに、現代日本人には気が付かない、古代日本人のこだわりがあったんだと思います。


★ 2つのラッキーナンバー

このこだわりは、古代人にとって縁起の良い数字を二つ組み合わせることで、この日本国の原典となるべき「十七条憲法」にパワーを与えたかったものと思われます。

古代日本人は、古代中国の影響で、「八」と「九」を非常に縁起の良い数字と捉えていました。

「八」は、末広がりとして、将来の出世や子孫繁栄を意味するとされます。
「八幡宮」「八頭大蛇」「千代に八千代に」などなど、古代から残る言葉に、よく「八」がついているのは、このような理由があります。

「九」も縁起の良い数字です。
古代中国では、「八」は例外ですが、奇数を良い数字と捉えていて、その奇数の中で一番大きな数である「九」も縁起が良いという数字だったんです。

そして、「八」+「九」=「十七」は、この二つの数字の縁起の良さを足し合わせているという意味の、最高に縁起の良い数だったんです。


★ 聖徳太子の強い意志

このように、古代日本人は、現代人である我々が想像できないぐらいに「縁起」や「呪術的な価値観」を大切にしました

そして、日本国の最初の掟につく「十七」には超ラッキーナンバーの意味があることがわかると、聖徳太子をはじめとする古代大和朝廷の「十七条憲法」こ込めた気持ち、新たな国造りをすることに向けた強い意志が伝わってきませんか。



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以上

【日本史の常識を覆せ!】知っているようで知らない「守護大名」と「戦国大名」の違いは何か?

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★ 「守護大名」と「戦国大名」に違いがあるのか?

学校の教科書などには、室町時代の大名を「守護大名」と表現したり「戦国大名」と言ったり、使い分けしているように見えます。
この使い分けはどのように行われているのかを考えたいと思います。
わかるようでわからない部分ですから。

私の今まで学んできたところからの感覚では、「明確な使い分け・言葉の定義はない」と思っていますが、一般的は、室町前期の大名を「守護大名」と言い、世の中が更に混乱した戦国期の大名を「戦国大名」と言っていると思います。


★ 室町前半と室町後半(戦国時代)の特徴からの定義

室町時代の前半と後半における世相等から、「守護大名」と「戦国大名」を定義すると次のようになるかと思います。

〇 守護大名:

中央政府(室町幕府)の公認で各地の守護となり、「中央政府―守護大名」の全国統治システムに乗っていた大名

〇 戦国大名:

中央政府(室町幕府)が公認した守護を非公認者が武力で追放し始めた時期以降、自らの実力のみで国を支配し、自らの存続の為に中央政府の権威を利用していない大名


★ 「守護大名」から「戦国大名」に移行し始めた時期はいつか

一般的にも、戦国時代が始まったのは「応仁の乱」からと言われますが、まさしく応仁の乱直後に「中央政府に認められていない者が一国を支配する大名」になるケースが出始め、各地に「中央政府の権威に依存せずに己の実力のみで存続した」戦国大名が誕生しはじめました。

応仁の乱で「中央政府(室町幕府)―守護大名」という全国統治システムが崩壊した後、その後に秀吉が天下を統一するまでの間、全国に存在した大名は、「中央政府の権威に依存せずに己の実力のみで存続した」戦国大名と言えます。


★ 戦国大名の第一号を紹介

中央政府の非公認者で初の大名になった、いわゆる戦国大名第一号は「畠山義就」です。

彼は三管領の一つであった畠山氏の息子ですが、既に当主で父の持国は弟の持富を後継者に指名していたことから、元々家督を継ぐ地位にいませんでした。
しかし、義就の父である持国が義就の才能を惜しみ、また家臣団や他家にも義就を支持するものが多く、これが応仁の乱の大きな原因になるのです。
応仁の乱後、彼は畠山家の当主になれず、幕府からの公認もない無位無官で、また所領も全くない状態でしたが、自らの実力で、河内一国・南山城・大和一部を支配する大名となりました。
(ちなみに、この畠山義就は戦の天才というべき人物だったようで、例えば秀吉の得意技として有名な「水攻め」も、彼が初めて行ったと言われます。)

このほんの少し後に、関東では北条早雲が、これもまた実力のみで伊豆を支配下に置き、戦国大名となっていきます。


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以上

【日本史の常識を覆せ!】なぜ「一休さん」は有名なのか?単なるお坊さんではないのか?

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★ 「一休さん」は頓智が優れていた?

漫画にもなり、日本人なら誰もが知っている一休さんですが、なぜこんなに有名になったんでしょうか

頓智で有名だった?

貧民を救ったなどで有名になったから?

実際の一休さんを知ると、どうも頓智などとは違う気がします。
一休さんの正体を知るためには、まず一休さんの出自を知る必要がありそうです。


★ 「一休さん」の出自

はっきりしたことは不明です。

しかし、足利三代将軍の足利義満が権力の絶頂期にいた頃の天皇である後小松天皇の子供であったと言われています。
これは、現代の歴史の研究結果から言われていることではなく、当時においても巷で噂されていいたことです。

決定的な根拠はありませんが、この当時の噂は、ほぼ事実だろうと考えられています。
また、一休さんは、足利義満の子供である可能性もあると言われています。

まず、天皇家の血を受けているという見方については、次のような点があります。

〇 一休さんのお母さんが後小松天皇の寵愛を受けていた事実があること。
〇 当時の有力寺であった大徳寺の寺持になりましたが、このような地位に就くには高貴な血統と、有力者からのバックアップがないと普通はなれないこと。
〇 後花園天皇の即位には一休が深く関与しているとされること。

などからです。


★ 「一休さん」はなぜ天皇になれなかったか

では、後小松天皇の子供という噂が事実ならば、なぜ、一休さんは天皇家の子供と認められなかったか。

もし、一休さんが天皇の子と認知されて育っていれば、後小松天皇の第一子でしたので、もっとも天皇位に近い存在として、かなりの高い確率で天皇になっていたものと思われます。

この認知されたかったことには、当時の最高権力者であった足利義満が絡んでいると言われます。
義満は、学校の教科書などには出てきませんが、天皇家を乗っ取ろうとしたと言われており、事実として息子の義嗣を天皇家に入れて親王にする直前まで話を進めています(この儀式の直前に義満は急死するのですが・・・)。

この義満、当時は実質的な最高権力者であり、怖いものなしですから、後小松天皇が寵愛する一休さんのお母さんの元に強引に押しかけ、一夜を共にしたらしい・・・。

それを知った後小松天皇は、一休さんのお母さんを怒りにまかせて追放したと言われます。
この内容は、一休さんのお母さんの行動に不信を持った後小松天皇が、一休さんのお母さんを殴りつけたという記録で残っています。(はっきりと、相手が義満とは書いていませんが、状況から察して間違いないものと歴史研究者達は見ています。)

そして、一休さんのお母さんは、天皇家から追放されて暫く後に一休さんを産んだんです。
したがって、一休さんは正式に天皇家の子供と認められていませんが、誰もが知る公然の秘密だったと言うことです、当時は
まあ、ひょっとすると義満の胤で生まれた可能性もあるんですけどね。


★ 「一休さん」の記録はなぜ残ったか

日本人は、高貴な人物が不幸な人生を送ったり、不幸な死に方をするのを美化して語り継ぐ文化を持っています

例えば、聖徳太子もこの例に当てはまります。

聖徳太子も、本来は用明天皇の皇子として天皇になることが当然の立場にありながら、推古天皇に阻止されて天皇になれず、最後は自殺をしたのではないかという死に方をしています。
又、彼の息子達も滅ぼされ、彼の血筋は絶えています。
このような不幸な人生を送り、また不幸な死に方をした聖徳太子は、非常な天才政治家・仏教家として、語り継がれています。
おそらく、不幸な彼には、実際の成果以上の他人の成果(蘇我馬子などが行ったこと)も、記録に載せてもらっている可能性が極めて高いです。

まあ、聖徳太子の例を出さなくとも、ニュース番組でのインタビューを見ていると気づきますが、事故等に巻き込まれて不幸な死に方をされた方の人柄などについて、その知人達は故人を表現するのに最大級の賛辞で応えるのが普通です。

他民族にも同様の傾向はありますが、日本人は特にこの傾向が強いように思われます。

話を戻しますと、一休さんについても、貴族・武士達の上流階級も、庶民など中・下流階級も、本来なら天皇と言う最も高貴な立場に立つべき人物が皇族・貴族にも入れず、一寺持として人生を終えたことを不幸と感じ、一休さんの人物・人生を美化して記録に残したということなんだと思います。

だから、実際の一休さんは坊主でありながら、酒を飲み肉食・妻帯しと当時の習わしからはかなり破天荒だったようですが、漫画にもあるように、頭がよく思いやりのある人物と表現されることも多いんでしょう。



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【日本史の常識を覆せ!】今川義元は本当に愚将なのか?

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★ 死人に口なし

今川義元と言えば、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲で敗れた駿河・遠江・三河の戦国武将として有名です。

また、鉄漿(おはぐろ)をつけ、馬に乗れないほどに肥満した人物と表現されることもあり、武士でありながら公家文化にあこがれた軟弱なメージで表現されることも多い戦国武将です。

しかし、彼は本当にこのような軟弱な表現で書かれるような愚将であったのか・・・

少し彼のことを調べると、この軟弱なイメージとは異なる別の義元が見えてくるんです。
真実の義元を知り、彼の無念を感じてあげましょう。


★ 人材登用の天才

信長が卑賤の秀吉や滝川一益などを身分に囚われずに抜擢したことで有名ですが、実は義元の方が信長よりも身分に囚われない人材抜擢の先輩であったのではないかと思われる記録が残っています。

義元は、自国領の商業を活性化するために、商人(まあ当時は武士も商人も農民も明確な区別がありませんが)であった友野氏という在野の人物を大抜擢し、自国領の商人頭に任命して、彼に商業活性化の具体的な対策検討・実行に当たらせているんです。

信長と異なり、足利将軍家の流れを汲むほどの名家の当主がです
このような実力競争主義を採用するのは、かなり非凡な人物であったと想像できないでしょうか

友野氏抜擢の結果、駿河・遠江・三河沿岸の港の整備が進み、商品・貨幣の流通を拡大させたことで、駿遠三の経済力を格段に引き上げたと言われます。

又、これは有名な話ですが、現代風でいう官房長官兼外務大臣兼陸軍参謀長のような立場に、太原雪斎を抜擢しています。

この雪斎、あれだけ関係がこじれていた武田・北条との同盟締結を成功させたんです。

これも現代的な会社経営風に表現すると、義元は最高経営責任者(CEO)として、太原雪斎を最高執行役員(COO)に抜擢し、誰もが不可能と見ていた武田・北条との関係修復・同盟を成功させたというところでしょう。

とにかく、駿河・遠江・三河三国の最高経営責任者(CEO)として、人材を見抜いて抜擢し、その抜擢した人物の能力を最大限に引き出す、経営者としての能力は比類ないものだったと認めない訳にはいかないでしょう。


★ 西へ

続いて、経営方針。

先ほど、雪斎をして武田・北条との同盟締結に成功させたと書きましたが、この狙いは・・・。

簡単に想像できることであり、まあ色んなところで出てくる話の通りですが、「西に領土を拡大するため」です。
言い換えれば、「東や北には興味がない」ということです。

それにしても、この方針、その後超有名になった戦国大名の領土拡大方針とうり二つではないでしょうか。
もちろん、その後超有名になった戦国大名とは、信長です。
信長も、「東には興味はなく」、さっさと家康と攻守同盟を結び、美濃攻略に経営資源を集中しました。

そうです、まさしく信長の経営戦略の先輩が、義元だったんです。

義元も西側への進出意欲はすさまじく、三河岡崎を松平広忠(家康のおやじ)を殺させてかすめ取った手際はお見事といえるようなものです。
岡崎は東海道において、軍事的にも経済的にも非常に要衝の地であり、尾張攻略には確実に抑える必要のある土地です。
逆に言えば、尾張の織田から見れば、岡崎に敵軍があるということは、非常な脅威となります(だから、桶狭間後は信長は家康との同盟に動いた)。

このように、今川家の地盤を強固にし、天下を抑えるためには、「畿内に向けた西への勢力拡大が不可欠」と、義元は判断したんだろうと思います。

なかなか、グローバルかつ先見的な視点で物事を見通せる戦国武将だったと思いませんか。


★ なぜイメージが悪いのか

理由は二つ・・・。

「その後に天下統一寸前まで領国を拡大させた信長に討たれたこと」と「さらにその後に天下を統一した家康を人質にしたこと」でしょう。

例えば、現代社会で書かれる小説において、信長を英雄的に表現するには、比較対象とすべき人物をこき下ろして書き進める必要がでてきますが、その比較対象に義元は格好の人物になるからでしょう。
父親の葬儀で焼香を位牌に投げつけるような形式に囚われない新時代の代表者である信長を表現するには、義元は鉄漿をつけて肥満した悪役的な人物に仕立てるのが、表現として読者に迫ることになりますから。

しかし、実際は、新時代を築いた信長の良きお手本が、義元であった可能性が高いと思います。

小説に描かれる人物像はあくまでもフィクションとして捉え、真の人物像の探求も必要なんでしょうね。
そうでないと、義元のような人物は死んでも死にきれないかもしれません。


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【日本史の常識を覆せ!】百人一首からわかる持統天皇の正体

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「春過ぎて夏来にけらし白たへの衣干すてふ天の香久山」


★ のどかさを感じるこの歌が・・・

百人一首にもあるこの歌は、日本人なら多くの人が知っているでしょう。
ほんとに、初夏が来たことを感じさせる、のどかな歌という印象で、この詩を詠んだ持統天皇の人柄がわかりそうな気がします。

持統天皇は、天智天皇の娘であり、また天武天皇の皇后でしたので、壬申の乱を戦った両派を結ぶ人物として周りからの期待を集めての天皇即位だったと見られています。
更に、藤原不比等など有為の人材を登用して日本の中央集権体制を一歩進めた実力派の一面も併せ持つ、いわゆる高貴にして有能な人物と扱われることが多いかと思います。

しかし・・・、この歌をよくよく見てみると、この持統天皇像をそのまま信じていいのか・・・という、大きな疑問点に突き当たるんです。


★ 何が疑問なのか

この歌に登場する「天の香具山」は、奈良県にある小高い程度の山ですが、古代大和朝廷にとっては「聖なる山」でした。
古代における様々な記録や歌にこの山が登場し、ヤマト王権の発祥と深い関係があったことを我々に伝えます。

そこで、もう一度、持統天皇の歌を詠んでみてください。
「春過ぎて夏来にけらし白たへの衣干すてふ天の香久山」

何か気が付きませんか?

そうです、この聖なる山に、なんと洗濯物を干しているではありませんか!


★ 古代日本人における羽衣

ただ、洗濯物と言っても、「白い羽衣」ですから、まだ品があるので許せそうです。

でも、「白い羽衣」にどういう意味があるのか

日本には、羽衣をまとった天女が舞い降りたという伝説が様々な地域に残っており、このことから考えて「羽衣を身に着ける=天女になる」ということだったろうと考えれます。
又、「天孫降臨」と言われていたことから、「天女になる=天皇になる」という意味もあったものと見ることができるんです。

まとめると、「羽衣を身に着ける=天女になる=天皇になる」 です。


★ 持統天皇の正体

以上から、持統天皇がこの歌に込めた気持ち・願いを改めて考えると、「『聖なる山=朝廷』を支配して『白い羽衣=天皇』になりたい」だったのではないかと思われます。

この歌で、「天武の季節は終わったのね、あ、天女の羽衣があるわ、頂きましょう、これで天下は私のもの」と言っているのです、きっと。

このようにこの歌を解釈すると、持統天皇が皇位に執着し、他の天武の子供達をどんどん排斥して、自らの血統の文武天皇に皇位を継がせた歴史的事実にも合致します。
持統天皇は、かなり強い意志で皇位に就き、維持したんです。

やはり、なんらかの理由で、天武だけの血統は残せない、天智の血統を混ぜて残す必要があり、持統からの血統を正式なものと位置付けて皇位を維持する必要があったのではと考えます。

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