歩くというのは、右足なり、左足なりを交互に前に出す動作だ。
そして、体重移動をして前に身体を傾け、後ろ足になった足で押しだし、その足をまた引き込んで前に蹴り打す。
歩くという動作は、意外に複雑だ。
私は空手をやっていた
空手では、こうした自分の身体の動きを理解する事が重要だ。
足の話しなので、前蹴りを例にすると、蹴る足を抱え込んで前に蹴り出す。
その時、立つ足を軸足と呼ぶが、軸足がしっかりと地面を掴んでいることが重要なのだ。
日本憲法や、フルコンタクトの空手では、そうした軸足の働きには着目していない。
しかし、軸足が中に浮いてしまうと、蹴りわざは効果が半減どころか、全く効果を成さない。
飛びけりの場合は、最初から目的場所に飛び込んで行くのだが、前蹴り、回し蹴りなどの蹴りわざは、軸足が地面から離れると威力が無くなる。
それほど、足は地面と接していることに結うような意味がある。
我我は、赤ん坊の頃は四つん這いで移動するが、ある程度成長すると、二足歩行になる。
足の裏で地面をしっかり掴み、堅で立つ。
そして浮いた片方を前に蹴り出して進む。
これが基本だ。
大事なのは、
歩くと言う移動手段でも、しっかり地面を掴んで立つことが基本なのだと言うことだ。
走ると言うことは、言い換えれば飛び跳ねて移動することだ。
こちらも片方の足がしっかりと地面を掴み、もう片方の足を蹴り出して身体全体を宙に浮かして前方に飛び跳ねる。
歩くにしても、走るにしても、地面をしっかり掴むことが重要なのだ。
その重要なプロセスを我我はどこで行っているのかと考えた。
脳ではない。
確かに始めて歩き始めた数日は、脳による歩行の制御が必要かも知れない。
だが、歩きながら景色を見たりするようになると、歩くプロセスは別の処理機能に移されている筈だ。
私は腰、又は背骨辺りの神経がこのプロセスを担っていると考えている。
若い頃は、足裁きのプロセスも脳がかなりの制御をしていたと認識していた。
例えば、空手の試合場の広さを身体で覚えると言うよりは、目で見た距離感を脳で認識し、脳で記憶している歩幅や歩数で場外に出るか否かを判断できていた。
年を取ると、そうした事が出来なくなる。
脳と足裁きをする機関との連携が疎かになるからだ。
だから、歩いていて空手の運足方をして進路を変えようとすると、足が付いてこない。
真っ直ぐ歩いているときに、右に右足を開いて動こうとすると、左足がそのまま真っ直ぐに動こうとする。
真っ直ぐ歩いていても、何故か左右に体重が移ってしまうのもおなじだ。
人間の身体も機会と同じで、普段から使い込んでいなければ、思うように動けなくなる理屈がこれだと思う。
ストレッチなどの身体の柔軟運動も重要だが、普段行わない手足の使い方が身体には必要なのかも知れない。
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