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2018年11月14日

恋愛小説「オレンジと青」(5)

   





 坂の途中の喫茶店で明日香は飛鳥と対面していた。椅子に座っているため身長の差は感じられない。そもそも明日香は気にしていなかったが。

 明日香は温かいミルクティを飛鳥はカフェラテを頼んでいた。飲み物が運ばれてくる間、飛鳥が一人でしゃべっていた。

美味しいパンを焼く秘訣とか、なぜ神楽坂という土地を選んだのかなど質問攻めにあった。明日香はあいまいな返事を繰り返すばかりで飛鳥に申し訳なかった。

 明日香にとって好きな男性と二人だけで話をするというシチュエーションは何年ぶり?という感じで、はりつめた空気を楽しめずにいた。

 商談は成立しなかった。飛鳥は毎日百個納品してほしいと提案したが、明日香には物理的に無理に感じたし、くるみに相談せずに決められないと断った。

 飛鳥はぜんぜん諦めていない様子だった。

「きっと、必ず、うんと言わせてみせる」

 飛鳥は明日香の目をジッと見た。明日香はドキリとしたし、ガッカリもしていた。これがプロポーズならどんなに興奮しただろう。恋愛の話ではなく、パンの話だからテンションはだだ下がりだ。

 飲み物が運ばれてきてちょっと緊張がほぐれた。明日香は飛鳥の手を見ていた。体の割に大きな手。素敵。全部タイプ。声も、話し方も。

 ボーっとしていたら心の声が出てしまった。

「きれいな手」

「そう?初めて言われた」

 飛鳥が両手を組んだ時に高級そうな腕時計がチラッと見えた。

「フミヤに似てるって言われませんか?」

「言われないよ」

 はにかむ姿もまたいい。

「僕に興味があるの?」

「奥さんも、恋人もいますよね」

「いないよ」

「嘘つかなくても大丈夫です。私わかりますから」

「元妻ならいるけど」

「離婚されたんですか?お子さんは?」

「すごいつっこむね」

 笑った顔は神だ。

「ごめんなさい。恋愛障がい者なんです。私」

「恋愛障がい者?面白いこと言うね。でも僕なんかやめた方がいいよ」

「どうしてですか?」

「傷つけるだけだから」

 飛鳥は今まで見たこともない寂しそうな顔をした。

「傷つけられてもいいです。何もないより」

「そんなこと言っちゃダメだ。自分を大事にしないと」

 明日香は顔が熱くなっているのを感じていた。私ナニを言っているんだろう。ストレート過ぎる。熱でもあるのだろうか?なんだかクラクラしてきた。

「熱あるんじゃない?」

 飛鳥が明日香のおでこに手をおいた。

「熱い。病院へ行こう」

 明日香は興奮して鼻血が出てしまった。





garik02.jpeg





 二人で近くの内科へ行った。結果はインフルエンザだった。飛鳥はポカリスエット、お粥、フルーツゼリーなどをパパッと買って明日香の家まで運んでくれた。明日香はフラフラしながらなんとか家までたどり着いた。

「じゃ、僕はここで」

「ありがとうございました。なんとお礼を言っていいか」

「お礼はいいからパン納品して。なんて冗談」

 明日香はマンションの前で飛鳥が帰って行く後ろ姿をずっと眺めていた。地平線のオレンジと空の青が重なるあの時間だった。一緒に見られなかったけど一緒にいた。一緒に歩いた。これは夢なのだろうか。

 とりあえず着替えて寝た。夢の中で飛鳥と話をしているシーンが何度も何度も繰り返された。やっぱり夢か。わからなくなった。

 寝たり起きたりしている間にテレビで冬季オリンピックの試合を見た。スピードスケートの選手たちの中にオレンジと青のユニフォームの集団がいた。オランダの選手たちだ。オランダは強いんだ。初めて知った。

 オランダの選手たちに負けず劣らず頑張っていたのが日本の選手たち。こんなすごい人たちが日本にいたんだ。驚いた。みんな私より若いか同じくらいの年。立派だな。それに比べて私は。

 オリンピックをこんなに真剣に見たのは初めて。素直に感動した。彼らはこの一瞬のためにどれだけの時間と労力を使ってきたのだろう。

人は時に応援される方とする方にわかれる。応援する方が圧倒的に楽だ。自分は楽な生き方をしたいわけではない。楽しく、応援されたいのだと思った。

 夢中でパンを焼いている間に二十代が終わってしまう。これでいいのだろうか。いいも悪いもない。これがいいのだ。自分で選んだ人生だ。現実を受け入れよう。

 六日後店を開けた。五日間も休んでしまった。休んでいた間にメールで何回もくるみに相談した。ホテルに毎日百個納品できるか。どの種類にするか。価格は?などなど。飛鳥に片思いしていることも正直に話した。

 くるみは契約に前向きだった。仕事のことより明日香の恋の方が気になるようだった。これをきっかけに明日香に恋人ができればいいと考えているようだった。公私混同。頭が硬い明日香にはちょっと抵抗があったがくるみはおかまいなしという感じだった。





sandich.jpeg





 ヨムネルを訪ねたのは一週間後。飛鳥はバルで待っていた。

「前向きに検討していただきありがとうございます」

 相変わらず人懐っこい笑顔。

「佐藤とよく話合って、契約させていただくことにしました」

「ありがとう」

 飛鳥に握手を求められた。ゆかりはおずおずと手を出した。ぎゅっと手を握りしめられて胸がキュンとなった。私、この人が好き。二人で細かい打合せをし、最後に明日香が大きな紙袋を渡した。

「こないだのお礼です」

「お礼なんていいのに」

「本当にありがとうございました。優しいんですね」

「僕ぜんぜん優しくなんかないよ」

 飛鳥は紙袋の中を見た。焼き立てのパンがたくさん入っていた。

「ありがとう。僕大好き。木村さんが焼いたパン」

 幸せそうにチョコパンをほおばる飛鳥。

「あ、ありがとうございます」

 明日香の目から涙がこぼれ落ちた。

「大丈夫?」

 自分でも驚いた。まさか泣くとは。

「すいません。帰ります」

「よかったら休んでいきませんか?」

 五○一号室。オレンジと青の部屋。

「僕この部屋が一番気に入ってるんです」

「私、この色」

「空と地平線が重なる夕方の空の色」

「好きです」

 沈黙。見つめ合う二人。飛鳥の眼鏡の奥の黒い瞳に背の高いゆかりの姿が映っている。

「君には魅力を感じない」

 飛鳥は静かにドアを閉めた。

 フラれた。泣き崩れるゆかり。こんなに人を好きになったのは初めてだった。しかもこんなにはっきりフラれたのも。年を取った分ダメージも大きい。まだ二十九歳。もう二十九歳。もうすぐ三十歳。





つづく

※この物語はフィクションです。

コピーライトマーク齋藤なつ









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