2019年04月12日
インターネットがあっても、田舎者は知る機会が少ない 〜地域間格差問題〜
現代は、テレビもあれば、新聞、ネットと、情報媒体は
全国津々浦々まで普及しているから、情報に関して、地域間格差は無い?
本当にそうなのだろうか?
ここに「東大卒の田舎者」がいる。
その人が感じた「都会者と田舎者」の話である。
具体的な話に入って行こう。
以下は記事の抜粋です。
この著者は、記事にもあるが「北海道の釧路」の田舎者である。
学力が優秀だったために、東大まで進学できた。
ご両親は中卒以下だったらしい。(詳細は記事原文を)
知る機会そのものが、都会に比べると圧倒的に少ない。
海外では優秀で向学心の強い子供たちが、「売春宿」に
騙されて売られている実態がある。
世間を知らないから、騙されるのである。
田舎者が都会でよく騙されやすい。ということだ。
テレビやネットが普及してても変わらない。
「東京は怖い所だ」は定着しているが、好奇心は抑えられない。
その好奇心は、情報が豊富にあるほど刺激される。
存在そのものを知らなければ、好奇心だって起こらないのだ。
情報が無いから、想像することすらできない、ということだ。
これは私の世代でもあったことで、大学に行くということを
考えたこともなかった。
当時、私は札幌の高校生であったが、早々と工業高校に決めていたのだった。
多くの人たちは「自分は普通」だと思っている。
優秀な頭脳を持った若者が、道を誤ってしまうようなことになっては
日本の損失なのです。
文化や教育に触れる機会を、学校は考えるべきです。
「カタリバ」の活動のように・・・。
知らなければ想像することなんて、当然できませんし
存在そのものを知らないわけですね。
「運」次第では、あまりにも悲しい。
自分の体験からの意見なので、説得力があると思います。
田舎がどんな環境か?
実際に田舎で暮らしてみなければわからない。
旅行で見る程度では、絶対にわからない面があるのだ。
この「地域格差」は「機会格差」とも言えるのではないか?
高度な文化に触れる機会
高度な教育に触れる機会
田舎は、圧倒的にこの「機会」が少ない。
by いいとこどり
全国津々浦々まで普及しているから、情報に関して、地域間格差は無い?
本当にそうなのだろうか?
ここに「東大卒の田舎者」がいる。
その人が感じた「都会者と田舎者」の話である。
「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
知られざる「文化と教育の地域格差」
阿部 幸大文学研究者 2018.4.25
名門校出身者たちを目の当たりにして
教育と格差の問題といえば、しばしば話題にのぼるのが東大生の親の年収である。2014年の調査によれば、東大生の育った家庭の半数強が、年収950万円以上の比較的裕福な家庭だという。
ここで問題視されているのは、階級の固定化である。つまり、裕福な家庭は多額の教育費を支払うことができるので、子供は高学歴化する傾向にある。学歴と収入は比例することが多い。結果的に、金持ちの家系はいつまでも金持ちだし、逆に貧乏人はいつまでも貧乏から抜け出せない――という問題だ。
だが、こうした問題提起に出くわすたび、いつも「ある視点」が欠けていると私は感じる。それは都市と地方の格差、地域格差である。
田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている。(後略)
具体的な話に入って行こう。
以下は記事の抜粋です。
問題は「貧富の差」ではない
私が主張したいのは、「貧富の差よりも地域格差のほうが深刻だ」ということではない。そうではなく、地方には、都市生活者には想像できないであろう、別の大きな障害があるということである。
田舎では貧富にかかわらず、人びとは教育や文化に触れることはできない。
たとえば、書店には本も揃っていないし、大学や美術館も近くにない。田舎者は「金がないから諦める」のではなく、教育や文化に金を使うという発想そのものが不在なのだ。見たことがないから知らないのである。
この著者は、記事にもあるが「北海道の釧路」の田舎者である。
学力が優秀だったために、東大まで進学できた。
ご両親は中卒以下だったらしい。(詳細は記事原文を)
知る機会そのものが、都会に比べると圧倒的に少ない。
もちろん、文化と教育に無縁の田舎で幸福に暮らすのはいい。問題なのは、大学レベルの教育を受け、文化的にも豊かな人生を送れたかもしれない田舎の子供たちの多くが、その選択肢さえ与えられないまま生涯を過ごすことを強いられている、ということだ。
「文化的」とは、おそらく、いまあなたが思い浮かべている次元の話ではない。たとえば私が想定しているのは、わからないことがあればひとまず「ググる」という知恵があり、余暇の過ごし方として読書や映画鑑賞などの選択肢を持ち、中卒や高卒よりも大卒という学歴を普通だと感じる、そういったレベルの話である。
海外では優秀で向学心の強い子供たちが、「売春宿」に
騙されて売られている実態がある。
世間を知らないから、騙されるのである。
田舎者が都会でよく騙されやすい。ということだ。
テレビやネットが普及してても変わらない。
「東京は怖い所だ」は定着しているが、好奇心は抑えられない。
その好奇心は、情報が豊富にあるほど刺激される。
存在そのものを知らなければ、好奇心だって起こらないのだ。
大学生を見たことがなかった
私の育った釧路市のような田舎に住む子供の多くは、おかしな話に聞こえるかもしれないが、まず「大学」というものを教育機関として認識することからして難しい。
言い換えれば、大学を「高校の次に進む学校」として捉える機会がないのだ。
高校生の頃の私が「大学」と聞いたとき思い浮かべることができたのは、「白衣を着たハカセが実験室で顕微鏡をのぞいたり、謎の液体が入ったフラスコを振ったりしている場所」という貧しいイメージのみであった。仮に当時の私が「大学には18歳の若者が通ってるんだよ」と教わっても、驚くどころか、意味がよくわからなかっただろう。
情報が無いから、想像することすらできない、ということだ。
たとえば釧路市民にとっての「都会」といえば札幌だが、釧路と札幌は300km、つまり東京―名古屋間と同じくらい離れている。市内には2つの大学があるが、いずれも単科大学である(当時は知らなかったが)。
日本の各都道府県にはそれぞれ総合大学(ユニバーシティ)が設置されているので、最寄りの総合大学からこれほど地理的に離れている地区というのは、全国を見渡しても、離島と北海道の端っこくらいのものであろう。
都市部にも「大学と無縁の環境で育った」という人はいる。だが、この点において田舎と都会で根本的に異なると思われるのは、「文化」や「大学」といった存在が視界に入るかどうか、という差である。
釧路にも大学は存在すると書いたが、しかし子供たちにとってそこは病院などと区別されない「建物」にすぎず、「大学生」という存在にじかに出会ったことは、すくなくとも私は一度もなかったし、また私の場合は親族にも大学卒業者が皆無だったため、高校卒業後の選択肢として「大学進学」をイメージすることは、きわめて困難であった。
これは私の世代でもあったことで、大学に行くということを
考えたこともなかった。
当時、私は札幌の高校生であったが、早々と工業高校に決めていたのだった。
それに対して都市部では、たとえば電車に乗れば「〜大学前」といった駅名を耳にすることになるし、そこで乗ってくる大量の若者が「大学生」であることも、なんとなく理解するチャンスはかなり大きくなるだろう。上京して、じっさい私は「世の中にはこんなに大学があったのか」と驚いた。
さらに言えば、私が東大に入学し、なかば憤慨したのは、東大と同じ駒場東大前駅を最寄り駅とする中高一貫校が存在し、その東大進学率が抜群に高いということだった。なんという特権階級だろう! しかも彼らには、自らがその地理的アドバンテージを享受しているという自覚はない。まさに文化的な貴族である。
多くの人たちは「自分は普通」だと思っている。
田舎者(私)の無知と貧弱な想像力の例をいくつか挙げたが、まさに問題は、この「想像力が奪われている」ということにある。こうした田舎では、とにかく文化と教育への距離が絶望的に遠いがゆえに、それらを想像することじたいから疎外されているのだ。
あまりに遠すぎて想像すらできないこと、これが田舎者の本質的な困難なのである。
努力ではなく、偶然にすぎない
田舎から抜け出すには大学入試がおそらく最大のチャンスだが、しかし、その可否は中学時代にすでに決まっている。
なぜなら、「都会には『大学』なる組織が存在し、自分も努力次第でそこへ入学するチャンスがある」という事実を教わることができるのは、中学で教師の言われるままに学区トップの高校に進学した者だけだからだ。
高校で初めて「大学進学」という選択肢の存在を知った私の場合は、この事実を驚愕と、いくぶんかの後ろめたさをもって受け止めた。なぜなら自分の学力が高くて大学に行けるのだとしても、それは「努力の成果ではなく、偶然の結果にすぎない」としか感じられなかったからである。
田舎から都市圏の大学に進学するということは、たまたま容姿に恵まれて街角でスカウトされるのにも似た、きわめて確率的な事象である。
それをプライドに転化することもできるだろうが、いわゆる「底辺」と形容される中学に通っていた私には、高い学力を持ちながらも、その価値を知らず道を誤ってしまった親しい友人を多く持っていたため、むしろ自らが手にした幸運の偶然性に寒気がしたものであった。
優秀な頭脳を持った若者が、道を誤ってしまうようなことになっては
日本の損失なのです。
文化や教育に触れる機会を、学校は考えるべきです。
「カタリバ」の活動のように・・・。
田舎者は、教育の重要性はもちろん、インターネットの使い方もろくに知らない人がほとんどである。そのような情報弱者に、みずからの社会的地位の向上のためにインターネット教育を利用することを期待するという発想は、都会人の想像力の貧困を示していると言わざるをえないだろう。
知らなければ想像することなんて、当然できませんし
存在そのものを知らないわけですね。
偶然に翻弄される地方の子供たち
地域格差が存在することは理解してもらえたとしよう。ではどうすればいいのか?
教育における地域格差の帰結をあらためて言い換えれば、それは「同じ学力の子供が、田舎に住んでいるという理由だけで、都市に住んでいれば受けられたはずの教育の機会を奪われている」ということである。そして、「知っていたら大学に行っていた」人口は、間違いなく、かなりの数にのぼる。
先にも述べたように、私自身が偶然によって東京の大学に進んだ。ということはつまり、別の偶然によって田舎に留まることも大いにありえたのである。
「運」次第では、あまりにも悲しい。
インターネットは有効なのか
前回の記事で強調したにもかかわらず、「いまはインターネットがあるから事情は違う」という意見も多数見られた。
たしかにインターネットは田舎を救いうるかもしれない。だがインターネットがすでに田舎の問題を解決したかといえば、それは間違いなく否であり、近い将来に解決するかというと、それも否であると思われる。
この項目は「田舎者」というより「情報弱者」の問題になるが、再三述べているとおり問題は重層的であり、また田舎者は基本的には情報弱者であることを強いられているので(それが前回の趣旨だった)、共通の問題として話を進める。
前回の繰り返しになってしまうが、インターネットで自分に必要な情報を収集するというリテラシーは、かなり高度なものである。
私は前回の冒頭で、「ググる」習慣があること、余暇を文化活動に費やすこと、大卒という学歴を普通と感じること、この3つを文化と教育の指標として並列した。日本の全人口における大学進学者の割合は半数ほどだが――記憶してほしいが、大学に「進学」するだけで半分より上なのである――その大学進学者内の最上位層においてさえ、たとえググったところでウィキペディア以上の情報に辿り着く人は、そう多くないのである。
そして私は、必要な情報からさらに遠く隔てられた田舎の話をしている。田舎では地域格差を自覚すること自体が困難であるのに、その格差を自力で解消するためにインターネットを活用することができる人など、まれであるというか、ほとんど矛盾している。格差に気づくこと自体に高度なリテラシーが必要なのだから。
自分の体験からの意見なので、説得力があると思います。
私が恥をしのんで個人情報まで晒しながらこうして「プロパガンダ」している理由は、格差を告発するためなのであって、格差とは、とりもなおさず、不満以外の何物でもないではないか。私は格差に怒っているのである。
そして、十代の頃は田舎に向けるしかなかった私の不満と怒りは、いま、田舎に対してではなく、地域格差という現実、そして田舎の実情を無視しようとする態度、それらへと向けられている。
田舎がどんな環境か?
実際に田舎で暮らしてみなければわからない。
旅行で見る程度では、絶対にわからない面があるのだ。
この「地域格差」は「機会格差」とも言えるのではないか?
高度な文化に触れる機会
高度な教育に触れる機会
田舎は、圧倒的にこの「機会」が少ない。
by いいとこどり
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