シャマタとビバシャナ
瞑想というのは、心を使う訓練である。心の使い方、心の能力と の心の能力の訓練には二つある。
まず一つは集中するということ、つぎに拡大するということ、この
これはサンスクリット語で、シャマタとヴィパシュヤナーという。
訓練には二つある。
まず一つは集中するということ、つぎに拡大するということ、この二つである。
このシャマタとビバシャナを中国の僧侶がじつに簡単明瞭に、シャマタを「止」、ビバ シャナを「観」と漢訳した。そして天台宗を開いた天台大師智頭が体系化した。これは非 常に名訳である。
要するに止というのは、心を集中し一点にとどめる。心を集中していく。たとえば最 初は花全体を見ている。ずーっと見ているうちに、集中してこの花の中心に心をとどめて 動かさない。これがほんとうの集中力である。
心の使い方で、集中力というものは非常に大切なものである。強い集中力、まずこれ を養わなければいけない。
しかし集中ですつある。 想というのは映像だと思えばいい。映像、イメージである。はっきりとイメージを持つ。 そのイメージを描くだけではだめである。イメージを観るのである。
高度集中法
しかし集中だけではだめである。観というものもある。
観というのは、心の中で映像を観るのである。心の中でひとつの映像、イメージを描 いてこれを観る。
止というのは、いうならば、そのイメージに心を集中して動かさない。
観は、観ずるということで、密教では観想ともいう。
イメージをして、イメージを持ったうえで、それを観る。強く観る。深く観察すると いう観方。そして、観たものに心を集中してとどめる。だから、止と観は別々ではない。 ひとつなのである。
ブッダはどのように悟るかということを教えられました。そして悟りを達成するためには菩提心が重要だと言いました。
菩提心には2つの側面があり、「世俗の菩提心」と「究極の菩提心」といわれるものがあります。この2つのそれぞれの悟りへの道(方法)を説いたのが シャマタ(瞑想)、そしてヴィパッサナー(瞑想)というものです。シャマタ(止)が世俗の菩提心にあたり、もうひとつのヴィパッサナー(観)が究極の菩提心、つまり空、智慧につながっていると考えられています。
1点集中するシャマタの瞑想は、集中する心は養えますが、それだけでは慈悲や智慧を十分養うことにはならない可能性があります。 逆にヴィパッサナーや洞察だけに偏ってしまうと、智慧や空を深く理解することできない、深く見抜く力は養うことができない可能性があります。ですので、シャマタとヴィパッサナーの両方を訓練していく必要があります。
ヴィパッサナーは私たちの日々の生活に深遠でポジティブな影響をもたらします。
例えば他人や自分に優しくなったり、愛や慈悲を持ちやすくなったり、他人や自分を許すことができたり、怒りが出てきても前より頻度が少なかったり、激しい怒りが軽減したり、また、感謝の気持ちが自然に湧き上がってくるようになったりします。
もうひとつのシャマタをプラクティスすると、時間がかかりますが私たちの心はより安定して対象からそれず、明晰になっていきます。そしてこのシャマタを真剣に訓練していくと、自然にヴィパッサナーの段階にも入っていきます。
物事の本質、自分が誰であるかがわかってきて、物事の姿形が自然と溶解していくように感じます。
このように、教えというのはまるまるすべてを含んだ、「フルパッケージ」でできています。その中には美味しいものが入っていて、そのひとつがシャマタであり、 他にも愛と慈悲、忍耐、許し、寛容な心、感謝の気持ちが入っています。なので、ひとつだけではなく、この美しいパッケージの全てを養っていくのが大切なのです。
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