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2021年09月18日

真言密教の瞑想法 Shingon Esoteric Buddhism Meditation

真言密教の瞑想法




真言密教の瞑想法



宇宙の大生命と一体となる
「密教の一字禅」などともいわれ、前に述べた摩訶止観の瞑想にマンダラ(図画)
という目標をあたえたものと思えばよい。(だから、前述の小止観の作法につづい
て、この阿字観をやればよいのである)
真言密教では「引 」という文字に神秘的な力があるとしている。どうしてかと
いう論議がいろいろなされているが、ここでは略す。


弘法大師空海の師、恵果アジャリは、
けいかわが心に月輪を観ず。
月輪の上に阿字を観ず
阿学変じて如意宝珠となる
宝珠引法界に遍満して口に阿字を誦す
と述べている。



要するにこれを瞑想化したものである。
満月輪は清らかに澄みきって、清涼寂静の感をわれわれにいだかしめる。
この清涼寝静の満月輪に、神秘不可思議の力を有する 引 字と、仏法のさとり!
あらわす蓮花とをあわせ、これとわが心をひとつに合致せしめて、わが心を清涼報
能ならしめ、列 字の不可思議なる力と仏法のさとりと一体になろうとするわけで
そこで、瞑想の目標(本尊)として、満月輪にもとに、しるしてみよう。


マンダラを用いる阿字観の行法



月桜の種は一尺一寸二分(約三六・九センチ)にえがいて、月輪の中に蓮花をえが
その上に字を書いて本尊とする。
「座った座から引字の中ほどまで、一尺六寸(約五二・八センチ)ばかりのところ
本号をかける。本尊と行者との間隔は、八寸(約二六・四センチ)から四尺(約。
キッチンまでの間なら行者の自由にしてよい。
魔にはふとんを敷いて、その上に半端鉄座で座る。手には法界定印をむすぶ。
「ったら、からだを前後左右へ二、三遍ゆるがしてみて、心にとどこおることのな
いにして、算と月とひとしく、帰とヘソとひとしくして、両方の弾魔社を守
をするにするとは、線が無端の土路を通じて本療(特照)の年に。

である。西を上のにつければ、おのずち
一のしかた


 

との事。
る。機はらず、状せず、まっすぐにして、廃道(三液の循環)をよくするよう
ミーをとなえる。
マントラ
次に、数珠を二、三遍宿りながら、礼拝の真言、
「オンサラバ タタギャターハンナマンナウキャロ
次に、護身法(合学すればよい)。
次は、合学して五大願をとなえる。
入んないんだ
くちなんて
いう。
ようなんてい
どうせい
かたはつかいとうやく
茶生無辺警願度、福智声辺誓願集、法門無辺誓願覚、如来無辺誓願事、菩提無
上響願証、自他法界同利益
次に、胎蔵界五字の真言、ア・ビ・ラ・ウン・ケンを百遍となえる。
次に、法界定印をむすんでヘソの前に置き、気合せよ。
まず、わが心中に自円明の月影あり。月業の中に逢花あり。蓮花の上に引字
あり。本事の心の決字・蓮花・月とわが心の字差花・月輪と発生の引

 

Sale
開き、目して観すること数過。
す。この、海に、川しだいに広く、しだいに大にして、コース
*重要ない法に通過すると戦してのち、にわかに本尊と心とを忘れて、無分別
使すべし
しうして、またいぜよ。
大事前に演した河・遠征、月輪をしたいにまきちぢめて、元の一覧
この大きさにおさめ、それを自身の胸の中に安置しすると観じる。
このとき、すわり、身と心と忘れて、ただ無分別(無念無想)に住す。その
多く、被れたるのを期として、定に入った保想を止め、念珠を探って、新をす。
一部しかた
をあわぎてよ。いずれでもよい。

 


おん
て、それは声に出してアをとなえるわけではない。心の中で静かにアの音をとな
えるのである。


 

広観と飯観

 


この瞑想のいちばんの眼目(急所)は、この「広観と、必観」である。
十導を観じて行者と一体になった 別 字・蓮花・月輪をだんだん拡大して、つい
には三千大千世界、この大宇宙いっぱいにひろげる観想を広観といい、その大宇宙
いっぱいにひろがった本尊を、もとの一肘量の大きさに約める観想を斂観という。
とは、ちぢめて小さくするという意味である。
真言密教のアジャーは、この広観の観想を、本尊のみが宇宙大にひろがってい
い、修行昔はそれを見ているようなかたちとして解説される。たとえば、
行者の眼の前にある阿字観の本尊を、眼をつぶっても、瞼の裏、ないしは胸
中には、さりと見え得るほどに、本尊と不二一体となって観想するのが阿字観法のありかたであろが、今度はそのように行者と不二一体となった本尊を、だんだんと拡大していき、逃空一杯にひろげて了ったら、その極限はどうなるの
であろうか。結局は、それは無限大のものとなってしまい、眼識、意識等の対
象としての条件をなくして了うのである。

 


字としてのアの形や、円形としての月縮が見える間は、まだそれは無限大と
なっていないのである。無限大のものとなるがためには、行者の上方にも、下
方にも、前にも後にも、左右の両横にも、筑前や斜後にも、斜上や斜下にも、
すべての方向に本尊がひろがっていかねばならず、人間がその眼識や意識で物
事を認識(にんしきみとめる)するためには、そのような十方世界へのひ
ろがりの真只中にあっては、けっしてそれを一定の形として受け取り得なくな
るのである。

 


人間は自分の後方の文字は読めず、頭上の形は視線を向ければ見えず、まし
て上下前後左右一挙に物を認識することは不可能である。そこで阿字観の本尊
を無限大にひろげていくことは、阿字観の本尊と行者が不二一体となったま
また、るのであろ。

 


たのは自分の後方の
下前後を一挙に物を認識する
にのあいくこととは、阿字観の本尊


ア、蓮、月の形を越えた精神統一の無的境地へと突入するための手段であ
それはあたかも、人間の小さな計らいを捨てて、仏陀の無分別智に身をゆだ
れようとする行為に似ている。――対象を虚空大にひろげてしまったら、その
対象は無的になる。無的になった対象を観ずるということは、無念無想、すな
わち何も思わぬ状態になることと等しい。観想中に何も思わぬ状態になったと
き、人間に体感可能な(体で感じられるのは)自己の心の働きそのものである
(大野峻覧『阿字観の手びき)

 


なるほど、そうであろうと思われる。しかし、わたくしにはまたべつな見解があ
では、国家。薬花、再編といっしょに、修行者自身をひろっていって、大
いないにしてしまうという疑心のしかたである。
いるのであるから、本が失していったら行者
自身もいっしょに拡大していかねばならない。行者だけとり残されてしまったら、
不二一体感が破れてしまって、そのあとの観想がチグハグになってしまう。
ここはどこまでも不二一体を破らずに行者自身もどんどん拡大していって、大宇
宙いっばいに周遍するのがよいように思われる。
阿字とはなにかというと、「阿字本不生」といって、ひと口でいうと、本不生と
は「宇宙の大生命」「永遠の大生命」といった意味である。その宇宙の大生命のシ
ンボルである オ・蓮花・月輪の本尊が、いま行者の観想によって生命を吹きこ
まれ、大宇宙に遍満したのである。
修行者もその大生命と一体になって、いまや大宇宙に遍満する大生命になった
と観想するのも生き生きとした瞑想になるのではなかろうか。
もちろん、大野師の伝統的な解釈もすばらしいし、読者は、そのいずれをもとっ
て、自由に瞑想にふけられたらよろしいと思う。いや、ここのところはあまりむず
かしい理屈は考えず、読者は自由にのびのびと心を遊ばせて、宇宙の大生命と一体
になる快感を味わわれるがよろしいのだ。ここにあげた二つの解釈のほかにも、
読者は、自由自在、不精神放の瞑想を楽しまれるがよい。
大宇宙いっぱいにひろがっ…

 

法は、自由自在、不備発放の瞑想を楽しまれるがよい。
っぱいにひろがった自分――オヤ、爪さきのあたりを蚊のようなものが
機んでいくぞ、なんだ、ジャンボ・ジェットか、おやおや、ウチの社長が乗ってい
大学るぞ、なあんだ、ケシ粒みたいなヤッだ、うわっはっはっは、と、ノイローゼもヒ
ステリーを吹きとんでしまう。どえらい企画やアイデアもとび出すかもしれない。


 

無分別観

 


そこでー、かんじんなのはここで出てくる無分別観である。
「にわかに本尊と心とを忘れて、無分別に住ずべし」
ラインで隠感にも似た無念無想の境地に入るのである。ぜったい無我の境地であ
ついでかんじんなのは、大宇宙に満した引字・蓮花・月輪の本尊と自分を
どの大きさにもどして、やれから本尊を自分の心の中におさめ、安置して、また
こで、身と心をはなれてしばらく無分別観に入るのである。
これによって、阿字観の眠想からはなれて日常生活にもどったのちも、一点のく
もりもない満月輪のすがすがしく清らかな心と、阿字本不生の大生命の力と、また
仏法のさとりとつねに一体の自分なのである。が、まあ、むずかしい理屈はよいか
ら、理屈ぬきにまず座って、やってごらんなさい。モヤモヤなんぞはどこかにふき
とんでしまう。これで、胃カイヨウや高血圧のなおった人が無数にいる。それに、
第一、こせこせしなくなるだけでも気持ちがよいはずだ。

 

 

Shingon Esoteric Buddhism Meditation

.. Shingon Esoteric Buddhism Meditation

It is also called "Esoteric Buddhism's One-Character Zen" that is integrated with the great life of the universe, and it can be thought of as giving the goal of mandala (drawing) to the meditation of the previously mentioned Mandala. (That's why you should do this Ajikan following the above-mentioned Kotokan's method.) Shingon Esoteric Buddhism states that the word "hiki" has a mysterious power. There are various debates about why, but I will omit them here.

Kobo Daishi Kukai's teacher, Megumi Ajari, does not see the moon ring in her heart. He states that he does not see the A character on the moon ring and recites the A character in his mouth by immersing himself in the jewel pulling method world, which turns into a jewel.

In short, it is a meditative version of this. The full moon ring is clear and clear, giving us a feeling of coolness and tranquility. This full moon ring of refreshing meditation is combined with a mysterious and mysterious character and a lotus flower that represents Buddhist Satori! Since we are trying to become one with the mysterious power of letters and the satori of Buddhism, let's use the full moon ring as the goal of meditation.
Mandala-based Ajikan practice
The seeds of the moon cherry tree are engraved in one shaku, one inch and two minutes (about 36,9 cm), and the lotus flower is written on the moon ring to make it the principal image. "From the seat where you sit down to the middle of the drawing, you can call this issue at about 1 shaku 6 inch (about 52.8 cm). The distance between the principal image and the performer is 8 inch (about 26.4 cm). From 4 shaku (about. You can leave it to the kitchen. You can put a futon on the devil and sit on it with an odd iron seat. Trying to loosen it back and forth and left and right a couple of times, and trying to protect both bullet demons by making it the same as the calculation and the moon, and the return and the heso, without leaving anything in your heart. However, in the year of the main treatment (special lighting) through the endless dirt road.

That thing. NS. It's timeless, it doesn't look like it, it's straightened, and it's me to improve the abandoned road (circulation of three liquids). Mantra Next, while staying in a few beads, the mantra of worship, "Onsarabatata Gata Hannah Mannau Caro Next, the self-protection method (just go to school). I can't enter. I don't know what to do. I don't know how to use it. Other legal world same interests Next, the mantra of the five characters of the fetal world, Abi la un ken, is called a hundred. There is a moon shadow of self-enlightenment in my heart. There is a flower in the moon business. There is a drawing on the lotus flower.

Sale opens, and there are too many things to see. vinegar. After fighting to pass the course * unimportant law, suddenly forget the principal image and the heart, and use it indiscriminately. .. I think that I would like to play the river / expedition and the moon ring that I performed in advance, and put it in the original list in this size and put it in my chest. At this time, I sit down, forget about my body and mind, and just live indiscriminately. Many of them, with the expectation that they will be covered, stop the fixed contemplation, search for japamala, and make a new one. Please hurry a part. Either is fine.

Oh, that doesn't mean you can say aloud. You can quietly hear the sound of A in your heart.

Wide view and rice view

The most eye-catching point (key point) of this meditation is this "wide view and must-see". The idea of ​​expanding the different characters, lotus flowers, and moon rings that became one with the performers after seeing the ten guides, and finally expanding to the 3,000-thousand-thousand world, this cosmos is called a broad view, and it fills the cosmos. The idea of ​​reducing the spread of the principal image to the size of the original elbow is called the universe. Means to make it smaller. Shingon Esoteric Buddhist Ajar is explained as if only the principal idol could spread to the universe and see it in the old days of training. For example, even if you close your eyes, you can think of the principal image of Ajikan in front of the performer's eyes as one with the principal image so that you can easily see it on the back of your eyelids or in your chest. Regardless of the way Ajikanho is, this time, if the principal image that is united with the performer is gradually expanded and expanded to the fullest escape, what will happen to the limit? Is it there? In the end, it becomes infinite, and it ends up without the conditions for objects such as insight and consciousness.

While you can see the shape of A as a letter and the moon contraction as a circle, it is not yet infinite. In order to be infinite, all above, below, in front of and behind, on both sides of the left and right, in front of Chikuzen and behind, diagonally above and below, all The principal image must spread in the direction, and in order for human beings to recognize things with their own eyes and consciousness, in the midst of such a spread to the ten-sided world, it is never done. Can no longer be received as a fixed form.

Humans cannot read the letters behind them, and the shape above him cannot be seen by looking at him, much less recognizing things at once up, down, front, back, left and right. Therefore, expanding the principal image of Ajikan to infinity means that the principal image of Ajikan and the performers remain one and the same.

It is the principal image of Ajikan to be able to recognize things at once from the bottom and back of one's back.
A, a lotus, a means to plunge into a state of spiritual unification that transcends the shape of the moon. It's similar to. -If you expand the target to the size of the void, the target becomes ineffective. Seeing an object that has become nullified is equivalent to being in a state of remorse, that is, nothing unexpected. When something unexpected happens during the idea, it is the work of one's mind that can be experienced by humans (what can be felt by the body) (Shunsuke Ohno, "Handbook of Ajikan")

I see, I think so. However, I have another view, the nation. It is a suspicion that the practitioners themselves will be picked up and made a big deal along with the medicinal flowers and reorganization. Therefore, if the book is lost, the performer himself must expand together. If only the performers are left behind, the sense of unity will be broken, and the subsequent ideas will be squeaky. It seems that it is better for the performers themselves to expand steadily without breaking the union, and to go around the entire universe. What is Aji? "Ajimoto Fusei" means "the great life of the universe" and "the great life of eternity" in a nutshell. The principal image of his o, lotus flower, and moon ring, which is a symbol of the great life of the universe, was brought to life by the idea of ​​the pilgrims, and it became omnipresent in the universe. It may be a lively meditation to think that the practitioner has become one with the great life and has become a great life that is now omnipresent in the universe. Of course, Mr. Ohno's traditional interpretation is also wonderful, and I hope that readers can freely indulge in meditation based on any of them. No, I don't think about the difficult theory here, and the reader should be free to play freely and enjoy the pleasure of becoming one with the great life of the universe. In addition to the two interpretations given here, readers should enjoy free-spirited, unselfish meditation. Spread all over the universe ...

The law should be free and enjoy deficient meditation. My widespread self-Oya, something like a mosquito will fly around the nails, what a jumbo jet, hey, my president is on board, hey, poppy grains It's like that, wow haha, and neurose also blows away the hysteria. It may come up with great projects and ideas.

Indiscriminate view

So, what's important is the indiscriminate view that comes out here. With the line "Suddenly forget the principal image and the heart and live indiscriminately", you enter a state of regret that resembles a hidden feeling. In the state of selflessness, the next thing that is difficult is to return the principal image of the universe, the lotus flower, and the moon ring to any size, and then put the principal image in your heart and enshrine it. At this point, I get separated from my body and mind and enter into an indiscriminate view for a while. As a result, even after getting away from the sleepiness of Ajikan and returning to daily life, the refreshing and pure heart of the full moon ring without a single point of cloudiness, the power of the great life of Ajimoto, and the satori of Buddhism are always present. I am oneself. But, well, the difficult theory is good, so sit down and do it without reason. Moyamoya is wiped off somewhere. With this, there are countless people who have recovered from stomach sickness and high blood pressure. Besides, first of all, it should be comfortable just to get rid of it.

 

 

 

 

posted by gomabon at 17:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 瞑想
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