ひらけ! 胡麻!
一寸さきぱヤミだとよく人は言う。
けれども、その未来というI寸さきも見えない深いヤミをくまなく見透す目をもって、おそいかかる不幸や災難、また、失敗などをみごとに予知してこれを避け、蜘蛛の巣のごとくに錯綜している人生の迷路の中から成功にいたる道を確実に見いだし、たとえ、困難や障害に行く手をさえぎられてもあざやかにこれを乗り越え、時にピンチに見舞われて手に汗をにぎるようなことがあっても、かえってこれを成功へのチャンスに変えてしまう、そういう力を見につけることができたら、どんなにすばらしいことであ・ろうかと、あなたは思わないか?
そういう力を、ぜひとも自分のものにしたいと思わないか?
また。
自分の思うように自分を変え、自分の欲するままに他人を動かし、その上、自分をとりま環境まで、自分の想念のままにつくり変え、無から有を生み出し、自分の望むもの、願うことは、有形、無形を問わず、必ず実現させずにぱおかない 、そういう方法があったら、どんなによいであろうかとあなたは思わないか?
密教のトレーニングで、あなたは、およそ、つぎのような五つのすばらしい能力を身につけることができるのである。
一、事物の明確な認識と予知および正確な選択力
ものごとの原因結果がすべてはっきりとわかり、これからさき起きるあらゆる出来事が、あらかじめ予知できるようになる。
したがって、極度にこみいった事がらで、進路の選択や、方針の決定に困難を感ずるう
な場合でも、必ず、正しい、そして、失敗のない道をえらび出すことができる。
すなわち、予知と選択の能力がそなわる。
ニ、すぐれた高度の創造力
創造力とぱなにかということについて、『創造力開発法』を書いたジョッ・S・モーガ
ンは、「独創的な作品、またはアイデアを、仕事の上で生み出すことのできる能力」
るであろうか?
困難に際し、障害にぶつかり、災厄に遭い、望むものが得られぬ失意のとき、たとえそれがヒゲをはやした五十男でも、ああこんなときにあの魔法のランプがあったならと思わずにと定義し、かつ、それは、たいへんな集中力、観察力、理解力、熱意と、それに加うるに、 発達した創造力、および直観力が必要である。直観力というのは、第六感、洞察力であり、たとえば、キュリー夫人、および科学者としての夫キュリーの場合のような感応力からなっているもので、右にあげた特性の中でも最も注目すべきものである、と述ている。
密教のトいIニングの特長は、その精神活動の訓練にあたって、知性や理性を超えた深い領域にある意識を把握し、これを自由に制御して活用しようとするところにある。
つまり、ジョン・S・モーガンのいうキュリー夫人、および夫キュリー氏の持つ直感力・感応力を自由に操作するトレーニングである。
密教の精神活動の訓練は、たんなる直感力やテレパシーの養成でぱないが、トレーニングは、まず、そこから入ってゆく。
ジョン・S・モーガンがあげた創造力を生み出すための″たいへんな集中力、観察力、理解力、といった能力は、知性や理性とおなじ領域にあるものであるが、直感力、ことに感応力というものは、知性や理性によって生み出されるものでぱない。それは、まったくべつな領域に属するもので、それを開発するためには、とくべつな訓練と技術を必要とする。
密教のトレーニングは、この領域の開発に、非常にすぐれた技術とシステムを持っる。だから、このトレーニングを受けて、この能力を身につけた人の発想には、つねに、飛とひらめきがある。常識や、理論や、数字の積みかさねなどにとらわれない自由な創造力ある。
そして、真の創造力とはまさにそういうものでなければならない。
三、自分を変え、他人を動かし、自分の思うままに環境をつくり変える力
これは、密教のトレーニングによって開発されるいくつかの能力の中で、もっとも強、他に比類のないすぐれた力であるといえよう。
密教のトレーニングによる自己革新は、思わしくない性格を改善し、よくない習癖を正するといったようなありふれたものでぱなく、根本的に、自分を存在させ、立させてる
ところの基礎条件からひとつひとつ変えてゆく。
そういう独自な方法が密教にあり、それによって彼を根本的に変えてしまう。ひと口いうならば、彼の運命を転換させてしまうのである。
運命とは、なにか。それは一つの定められた軌道である。その軌道を変えてしまうのか。
それをどのように変えるか、それは彼の意志が決定する。だから、この方法によれば、んな人間にでも変わり得る。
これは、いうなれば、完全な人閲統御法である。
自己統御力を十分に身につけると、つぎにその統御力は自分以外の第三者に向けられる
も、むしろ、知らず知らず、その人の意志や思考によろこんで服従するようになQg SQQ
意力や個性に、イヤイヤしたがうのではなく、それは自然にそなわる説明しがたい魅力が
そうさせるのだ。
この統御力は、つぎに、人間以外の物に向けられる。あらゆる物質を、集めることも散らすことも、むすぶことも、はなすことも、自在である。
彼の想念とその構想のままに、環境がっくり変えられ、構成されるようになる。世界が、彼の思うままに動くのだ。
四、強靭な体力と卓抜な″精神”力
これは、三の自己統御力によって鍛錬された肉体と精神が、自然に、普通人の三倍以の耐久力を示すようになるのである
五、すさまじい爆発的な念力による願望達成力念の力で、瞬間的に水を沸騰させ、生に火をつける。すさまじい念力である。
一言でいうならば、念を物質化する力である。
そういうと、物理学者は、そんなことはぜったい不可能なことだというであろう。
しかし、じっさいにそれができるのである。密教には、そういう特殊な技法があり、の技法によって訓練すれば、だれでもそういう能力がそなわるのである。
密教は、数千年むかしの、インドのバラモン時代から、そういうとくべつな技法を開発してきた。そして、その技法は、中国、あるいはチペットを経て、より高度に完成され、いまもなお、その宗門の奥 かく伝えられているのである。
密教がこの技法を大切に保持しているのは、密教の持つ強力な願望達成力が、このダイミックな念力をその原動力とするからである。
自分の願望を達成する能力のない人間は、生きる価値がないといってもよいのである願 望というコトバが、理想主義者の眉をひそめさせるというのなら、理想といコトバにき かえてもよい。一切の欲望をしりぞけて生きてゆこうとするピューリタンだって、一切欲 望を持たずに生きてゆこうという願望のもとに生きているわけだし、
あの偉大なるゴータマーブッダにしても、一切衆生を救済しようという願望のもとに一を終えられたのである。人は、願望達成というコトバにうしろめたい気持ちをつ必要い。
ところで、願望を達成するためには、いろいろな条件が必要でである。
そういう条件を、密教は、ひとつひとつみたしていくのである。
そういう条件をみたすことをせず、ただ、カミやホトケを念じ、おまんだらをおがん、
御利益(つまり願望の達成)をいただこうとするから、宗教がアヘンであり、迷信になて
しまうのだ。密教は、そういう条件をみたし、願望の達成を妨害する要素をひとつひと克 服してゆく能力を人にあたえる。そういう法をシステムとして持っているのだ。
そのシステムを動かすものが、念力なのである。
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