多神教世界の神々は、民族ごと、地域ごとにさまざまです。インドにはインド神話の神々(帝釈天とか火天とか水天とか)がおり、ギリシャにはギリシャ神話の神々(雷てい神ゼウスとか豊穣神デーメーテルとか)がおり、中東には中東神話の神々(軍神マルドゥクとか豊穣神イナンナとか)がいる――こんなふうに多神教は世界中に展開しました。
それらの信仰の一部は今日では死に絶え、一部は今日でも存続しています。例えばギリシャ神話や中東神話の神々はもはや死に絶えていますが(今のギリシャ人はキリスト教徒で、今の中東の人々の多くはイスラム教徒です)、日本神話の神々――アマテラスやオオクニヌシ――は今も健在です。
全部の理想が投影された独裁的な神の存在が求められる
B 一神教――唯一神の信仰
人類の想像力は次第に発達していき、人生を司る霊的なパワーに関しても、全宇宙、全世界、全人類を支配圏におさめるような強大なものを求めるようになっていきました。
こうなってくると、アニミズムの霊や多神教の神々ではパワー不足です。世界のごく小さな範囲に対してしか権能をもっていないからです。火の神は火だけを司り、水の神は水だけを司る。ある神はある村だけの神、ある神はある民族だけの神です。
というわけで、多神教の神々よりももっと上位の、独裁的な神の存在が求められるようになりました。それが一神教の神――唯一神――です。
一神教の神は、人間の思いつくあらゆる「強さ」「善さ」「機能」「効果」をぜんぶ投影された理想の存在です。
どんな奇跡でも起こせます。あらゆる人間の祈りを聞いています。
逆にまた、あらゆる人間を天空から監視しています。人間たちに善と悪を示します。特別な人間に啓示を与え、教典を与えます(啓示を授かった人間を預言者と呼びます)。
唯一であり、創造者であり、全知全能であり、絶対善である――実に大それたイメージです。
そんなものが本当に存在しているかどうかはともかく、人々はそんな神を想像するようになったのです。
さまざまな哲学者や預言者がこれに類するものを思いつきました。ペルシャではザラスシュトラ(ゾロアスター)という神官がペルシャの多神教の神々を整理して、アフラ・マズダーが絶対なる世界神だと主張しました。エジプトではある王様がアテンという太陽神を唯一神のように拝みました(この信仰は彼一代でついえたようです。彼の死後はまたもとの多神教に戻っています)。
唯一神信仰で大成功をおさめたのは、古代イスラエル民族(今日のユダヤ人のご先祖様たち)のヤハウェ信仰です。ヤハウェはもともと中東の多神教世界の中の一柱の神にすぎなかったのですが、イスラエルの民はこれを唯一絶対の神、天地創造の神と解釈しなおしました。この伝統からユダヤ教が生まれ、のちの時代にユダヤ教からキリスト教とイスラム教が派生します。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は代表的な一神教です。
多神教、一神教それぞれの美点と欠点
一神教は、多神教の神々を否定する形で発達してきました。諸民族の奉じるさまざまな神々はぜんぶ幻だ、というのが一神教の主張です。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も原理的にはたいへん排他的です。一神教の神は唯我独尊の派生・影響です。
一神教にはジレンマがあります。万人の上に立つのが唯一神ですから、万人はこの神の前に平等とされます。しかし、その神を信じない人に対しては「真理に背くヤツ」ということで批判的な目を向けます。だから、事実上、「信者 vs. 異教徒」という差別意識が現れるのです。「平等だ、愛だ、平和だ」と唱えつつ、異教徒の弾圧を行う――そういう悪い癖が一神教にはあります。
これに対して、多神教は通例、ほかの民族の宗教に対して寛容です。神々が多いのに慣れていますから、民族Aの神々と民族Bの神々は容易にごっちゃになってしまいます。
古代ローマ帝国では、ローマの神々もギリシャの神々もエジプトの神々もシリアの神々も自由に拝んでいました。日本の「七福神」はインドと中国と日本の神々のチャンポンです(弁天と毘沙門天はヒンドゥー教の神、布袋は仏教の菩薩、福禄寿と寿老人は中国の道教の神、大黒はヒンドゥー教のシヴァ神と日本のオオクニヌシの合体、恵比寿だけが神道固有の神です)。
では、多神教に比べて一神教はひどい宗教かというと、そうとも言い切れません。
一神教は「人間は神の下に平等だ」というファンタジーをもっていますから、弱者に対する慈善活動に熱心でした
多神教は概して押しつけがましくない一方で、チャリティーにも不熱心です。インドの多神教であるヒンドゥー教では、カーストと呼ばれる身分差別が肯定されていました。
寛容だが不平等を是認する多神教と、平等を目指すが不寛容な一神教――それぞれに美点と欠点があるわけです。
C 悟りの宗教――宇宙と人生の理法を悟る
多神教の神々を超えたパワーの信仰として、一神教について説明しました。一神教はユーラシアの西半分(ヨーロッパ、中東)とアメリカに広がっています。
ユーラシアの東半分(インドや東アジア)では一神教への展開はあまり見られませんでした。この地域には多神教が濃厚に残っています。しかし、この地域では、悟りの宗教が発達しました。
・ヨーロッパや中東一神教
・インドや東アジア地域多神教+悟りの信仰
多神教を組み込み、悟りを目指したインド・東アジア
中東のほうで一神教が始まった頃、インド人はあらゆる生き物――人間のみならず動物も含む――の運命を司る〔輪廻〕の法則を信じるようになりました。一神教では、人は死後に神の審判によって天国か地獄に割り振られます。インドの場合、この審判の機能を果たすのは輪廻です。善人は好ましい生に生まれ変わり、悪人は悪しき生に生まれ変わる。それはすべて「自業自得」なのです。
また、修行することによって、この輪廻の束縛から逃れる(=解脱する)という思想もあります。輪廻から逃れた先に向かう理想的状態を、仏教では〔涅槃(ねはん)〕と呼び、ヒンドゥー教では〔ブラフマン〕と呼んでいます。
仏教の究極的理想は、悟りの境地である涅槃に至ること(成仏ともいう)であり、ヒンドゥー教の究極的理想はブラフマンに融合することです。
中国では〔陰〕と〔陽〕という2つの原理によって世界や人間の運命が転変すると考えました。陰陽の究極的な出どころを太極と言います。さらに儒教では〔仁〕が人の進むべき理想だと考え、そのための礼儀を尽くすことを勧め、道教では〔道(タオ)〕が人のならうべき見本だと考え、そのため無為自然に生きることを推奨しました。
つまり儒教や道教でも、1種の悟りを求めることを推奨しているのです。
仏教式の悟った人が「仏」で、儒教式の悟った人が「君子」で、道教式の悟った人が「仙人」です!
東洋における悟りという理想は、多神教の神々をも支配するものです。つまり、神々もまた悟りを求めて修行する必要があるのです。
キリスト教やイスラム教などの一神教は多神教の神々を蹴散らしましたが、インドや東アジアの宗教では、多神教を悟りの宗教の中に組み込みました。神々と人間がともに宇宙の理法にしたがい、それを悟ることを目指すというようなシステムです。