2015年02月28日
裁くという行為と罪深い人間との関係
2月が逃げて行ってしまった。時のたつのはとても早いものだ。だからこのブログの更新間隔も長くなるのか。
さて、イェシュアは我々人間に対して「裁くな、裁かれないためである。」と言って人を裁くことを厳に戒めている。(マタイの福音書7章1節)ルカの福音書にはもう少し詳しく書かれている。
「裁いてはいけません。そうすれば、自分も裁かれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカの福音書6章37節)
前回、裁くという行為について、基準が無ければ裁くことはできないと述べた。「この箱は右側にある」と言うときにそれが右にあるかどうかを決定するのは基準点であり、基準点なくして右か左かなどとは論じることはできないのと同じである。あなたが「この箱は右側にある」と言っても、向かい合って立っている人に言わせれば、「いいや、この箱は左側だろ」という事になる。「この箱は"私の"右側にある」と言えば、"私の"という基準点の右側にあることは判断できる。
罪についても同様、罪に定めるのは律法という基準があるから罪が定められるのであり、律法の無いところには罪は存在しえないのである。家に土足で上がりこむ行為は、「家には靴を脱いでから上がるべし」という日本の律法(不文律)があるところでは「不作法である」とされるが、その様な律法の無い西洋では土足で寝室に入っても全く問題にはならないのと基本的に同じことである。
ではなぜに律法が出てきたのか。それは人間の原罪と密接にかかわるテーマである。初めに神が天地を創られた時、神はそれを見て「良し」とされた。つまり、「悪」は存在していなかったのである。人類の初めである男と女、アダムとイブが作られた際も「良し」であり、そこには「悪」は存在していなかった。つまり、全知全能の神は「悪」とは何のかかわりもなく、絶対的な「善」の存在であるという事である。
アダムとイブには自由が与えられていた。なぜなら、神である主はアダムとイブに対してこう言いつけたからである。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。(創世記2章16-17節)
これについてあるものはこう反論するだろう。「善悪の知識の木からは取って食べてはならないと禁止されているから、自由ではないではないか」と。しかし、イブが先に手を伸ばし、それを取って食べ、アダムがイブから受け取りそれを食べたという事は、「食べることができた」という事であり、それはつまり、「神である主の言いつけに背いて善悪の知識の木から取って食べる事ができる自由が与えられていた」ということに他ならない。
あるものはまたこう反論するだろう。「全知全能の神様がアダムとイブに善悪の知識の木から取って食べられないようにしておけば、人は罪を犯すことは無かった。だから、神がその善悪の知識の木をアダムとイブの手の届くエデンの園にその様な木を植えたから悪い」と。それはつまり、「神は人間がしてはいけないことをその意思に反してさせないように束縛するべきであった」と言っている事と同じである。その様に反論する者はきっと「縛られたい」人なのであろう。
しかし、人間をこよなく愛している神が、人が神に逆らう事すら許すほどの自由を人間に与えられたことは神がどれだけ人を愛しているかという事を如実に表しているのではないだろうか。
善悪の知識の木から取って食べ、「何が良くて何が悪いか」という事を知ることとなった人間は、そのような物差しを得てしまったことにより死ぬべき存在となってしまったのである。なぜかというと、神である主は「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と、アダムとイブをいのちの木のあるエデンの園から追放し、そこに入れないようにしてしまわれたからである。(創世記3章22-24節)
「神様はけち臭い」なんて声が聞こえてきそうだが、これは神が人間を守るためにしてくださったことであることを我々はいい加減気づかなければならない。若し、今ここに不老不死の妙薬があったとして、それをあなたは飲みたいと思うだろうか。人が人に過ぎず、完全な存在でない現在の状態が永遠に続くことを想像する・・・いや、想像したくない・・・けど想像すると、永遠の退屈と、諍いと、不調和との中で万人がそれぞれの「正義」を振りかざすところに住みたいか。私はご免こうむる。
だから主イェシュアはこう言ったのだ。「私が道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなければ、誰一人父のみもとに来ることはありません。」と。(ヨハネの福音書14章6節)信用できる行いを伴った宗教家の中で、このように正々堂々と「私以外に道はない」と述べた人はいまだかつてイェシュアのみであることはもはやだれの目にも明らかである。
詩編95編7節にはこう書いてある。
「今日、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなた方の心をかたくなにしてはならない。」そして、今つい先ほど、あなた方は主イェシュアの声を確かに聞いたはずだ。イェシュアはその生涯、決して悪を行っておらず、それを勧めることなどみじんもしなかった。そのイェシュアに逆らって立つという事は、イブとアダムが最初に口にした善悪の知識の実により、「イェシュアが道ではなく、私が道だ!」というようになった死ぬべき人間であるという事を自ら証明していることに他ならないのである。
イェシュアが言っていることが良いものであると認識できる人ならば、心をかたくなにせず、今ここで己の持つ善悪の知識の物差しをへし折って捨ててしまうことをお勧めする。そして、全ての事を存じ上げている天の父の物差しに従って歩むことをお勧めする。そうすることにより、もはや裁かれることもなく、主の安息に入ることができるようになるのである。
さて、イェシュアは我々人間に対して「裁くな、裁かれないためである。」と言って人を裁くことを厳に戒めている。(マタイの福音書7章1節)ルカの福音書にはもう少し詳しく書かれている。
「裁いてはいけません。そうすれば、自分も裁かれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカの福音書6章37節)
前回、裁くという行為について、基準が無ければ裁くことはできないと述べた。「この箱は右側にある」と言うときにそれが右にあるかどうかを決定するのは基準点であり、基準点なくして右か左かなどとは論じることはできないのと同じである。あなたが「この箱は右側にある」と言っても、向かい合って立っている人に言わせれば、「いいや、この箱は左側だろ」という事になる。「この箱は"私の"右側にある」と言えば、"私の"という基準点の右側にあることは判断できる。
罪についても同様、罪に定めるのは律法という基準があるから罪が定められるのであり、律法の無いところには罪は存在しえないのである。家に土足で上がりこむ行為は、「家には靴を脱いでから上がるべし」という日本の律法(不文律)があるところでは「不作法である」とされるが、その様な律法の無い西洋では土足で寝室に入っても全く問題にはならないのと基本的に同じことである。
ではなぜに律法が出てきたのか。それは人間の原罪と密接にかかわるテーマである。初めに神が天地を創られた時、神はそれを見て「良し」とされた。つまり、「悪」は存在していなかったのである。人類の初めである男と女、アダムとイブが作られた際も「良し」であり、そこには「悪」は存在していなかった。つまり、全知全能の神は「悪」とは何のかかわりもなく、絶対的な「善」の存在であるという事である。
アダムとイブには自由が与えられていた。なぜなら、神である主はアダムとイブに対してこう言いつけたからである。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と。(創世記2章16-17節)
これについてあるものはこう反論するだろう。「善悪の知識の木からは取って食べてはならないと禁止されているから、自由ではないではないか」と。しかし、イブが先に手を伸ばし、それを取って食べ、アダムがイブから受け取りそれを食べたという事は、「食べることができた」という事であり、それはつまり、「神である主の言いつけに背いて善悪の知識の木から取って食べる事ができる自由が与えられていた」ということに他ならない。
あるものはまたこう反論するだろう。「全知全能の神様がアダムとイブに善悪の知識の木から取って食べられないようにしておけば、人は罪を犯すことは無かった。だから、神がその善悪の知識の木をアダムとイブの手の届くエデンの園にその様な木を植えたから悪い」と。それはつまり、「神は人間がしてはいけないことをその意思に反してさせないように束縛するべきであった」と言っている事と同じである。その様に反論する者はきっと「縛られたい」人なのであろう。
しかし、人間をこよなく愛している神が、人が神に逆らう事すら許すほどの自由を人間に与えられたことは神がどれだけ人を愛しているかという事を如実に表しているのではないだろうか。
善悪の知識の木から取って食べ、「何が良くて何が悪いか」という事を知ることとなった人間は、そのような物差しを得てしまったことにより死ぬべき存在となってしまったのである。なぜかというと、神である主は「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と、アダムとイブをいのちの木のあるエデンの園から追放し、そこに入れないようにしてしまわれたからである。(創世記3章22-24節)
「神様はけち臭い」なんて声が聞こえてきそうだが、これは神が人間を守るためにしてくださったことであることを我々はいい加減気づかなければならない。若し、今ここに不老不死の妙薬があったとして、それをあなたは飲みたいと思うだろうか。人が人に過ぎず、完全な存在でない現在の状態が永遠に続くことを想像する・・・いや、想像したくない・・・けど想像すると、永遠の退屈と、諍いと、不調和との中で万人がそれぞれの「正義」を振りかざすところに住みたいか。私はご免こうむる。
だから主イェシュアはこう言ったのだ。「私が道であり、真理であり、命なのです。私を通してでなければ、誰一人父のみもとに来ることはありません。」と。(ヨハネの福音書14章6節)信用できる行いを伴った宗教家の中で、このように正々堂々と「私以外に道はない」と述べた人はいまだかつてイェシュアのみであることはもはやだれの目にも明らかである。
詩編95編7節にはこう書いてある。
「今日、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなた方の心をかたくなにしてはならない。」そして、今つい先ほど、あなた方は主イェシュアの声を確かに聞いたはずだ。イェシュアはその生涯、決して悪を行っておらず、それを勧めることなどみじんもしなかった。そのイェシュアに逆らって立つという事は、イブとアダムが最初に口にした善悪の知識の実により、「イェシュアが道ではなく、私が道だ!」というようになった死ぬべき人間であるという事を自ら証明していることに他ならないのである。
イェシュアが言っていることが良いものであると認識できる人ならば、心をかたくなにせず、今ここで己の持つ善悪の知識の物差しをへし折って捨ててしまうことをお勧めする。そして、全ての事を存じ上げている天の父の物差しに従って歩むことをお勧めする。そうすることにより、もはや裁かれることもなく、主の安息に入ることができるようになるのである。
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