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2019年07月22日

バルセロナ来日 ファン押し寄せ厳戒態勢 安部裕葵も移籍後“初来日”

「ジャパンツアー2019」に参加するスペイン1部バルセロナが21日、羽田空港着のチャーター機で来日した。



 来日メンバーは、鹿島から移籍したばかりのFW安部裕葵(20)らバルセロナB所属の9人を含む26人。移籍後“初来日”した背番号27の安部は大歓声を送るファンに手を振り、サインにも応じた。

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 来日便は事前に公表されており、航空機到着の2時間前から押し寄せたファンによる約50メートルの長蛇の列が出現するほど。到着ロビー付近から約400人の見物者を規制する厳戒態勢も敷かれ、注目度の高さがうかがわれた。



 Aマドリードから加入のフランス代表FWグリーズマン、スペイン代表DFピケ、MFブスケツ、クロアチア代表MFラキティッチ、フランス代表FWデンベレらも日本に到着した。



 南米選手権に出場したアルゼンチン代表FWメッシ、ウルグアイ代表FWスアレス、ブラジル代表MFコウチーニョらはメンバー入りしていない。



 プレシーズンマッチ「Rakuten Cup」に出場するバルセロナは、23日に埼玉スタジアムでイングランド・プレミアリーグのチェルシーと、27日にノエビアスタジアム神戸でJ1の神戸と対戦する。

来日メンバーは以下の通り。

【GK】

1テアステーゲン

13ネト

25ペニャ

【DF】

2セメド

3ピケ

6トディボ

15ラングレ

18アルバ

20セルジロベルト

23ウンティティ

26アラウホ

28ギエム

【MF】

4ラキティッチ

5S・ブスケツ

8プイグ

12ラフィーニャ

16O・ブスケツ

19アレニャ

21デヨング

22モンチュ

24コリャド

【FW】

7ペレス

11デンベレ

14マルコム

17グリーズマン

27安部裕葵

※数字は背番号

2019年06月24日

怒りのウルグアイ、整列&握手せず退散も… エースが通路で日本人選手に見せた優しさ

ウルグアイ代表FWカバーニ、試合直後に不満爆発も… 取材エリアで日本人選手に配慮



 日本代表は16日の国際親善試合ウルグアイ戦で4-3と勝利し、森保一体制3連勝を飾った。試合直後にウルグアイ代表の選手たちが審判団に不満を露わにして詰め寄ると、整列と握手をせずにピッチから退散。不穏な空気が流れたが、試合後の通路ではウルグアイ代表のエースFWエディンソン・カバーニ(パリ・サンジェルマン)が日本人選手への配慮を見せた。




 打ち合いとなった一戦は開始10分、MF中島翔哉(ポルティモネンセ)からパスを受けたMF南野拓実(ザルツブルク)の3試合連続ゴールで幕を開ける。同28分に被弾も、同36分には中島のシュートから、こぼれ球をFW大迫勇也(ブレーメン)が詰めて2-1とリード。ところが後半12分、DF三浦弦太(ガンバ大阪)のパスミスをカバーニに奪われて失点し、5万7239人が詰めかけた会場の歓声が一瞬鳴りやんだ。





 逆転負けのムードも漂うなか、2分後の同14分にMF堂安律(フローニンゲン)がDF酒井宏樹(マルセイユ)とのワンツーで抜け出して勝ち越し弾。さらに同21分、堂安の強烈シュートのこぼれ球に南野が反応し、この日2ゴール目で一気に突き放す。同30分に失点した日本だが、最終的に4-3で競り勝った。





 12日の韓国戦で1-2と敗れて母国メディアから批判を浴びていたウルグアイにとって、日本に負ければアジア遠征2連敗となるなか、試合終盤には日本にプレーを急ぐように促すなど焦燥感を垣間見せたが敗戦。終了の笛が鳴った瞬間、それまでの判定に不満を抱えていたカバーニらが審判団に猛抗議を見せた。


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試合後の通路で一人ひとりに優しく手を添え… 日本人選手に対するリスペクト



 日本開催のゲームでは試合終了後、ピッチ中央に審判団と両軍選手が整列し、握手を交わして健闘を讃え合うのが慣例となっている。だが、判定への不満を示していたウルグアイ代表の選手は整列せず、握手をしないままロッカールームへ退散。ウルグアイの選手にとって、試合後の整列は馴染みのない形式だったとはいえ、ピッチ上で日本の選手だけが一列に並ぶ異様な光景に、スタンドでもざわつきが広がった。





 その後の取材エリアでは、日本とウルグアイの選手たちが同じ通路に姿を現したが、ピッチ上で怒りを露わにしていたエースFWカバーニは、一転して粋な行動を見せる。




 報道陣にコメントする日本人選手の背後を通過してバスに向かったカバーニは、MF遠藤航(シント=トロイデン)やDF長友佑都(ガラタサライ)、DF吉田麻也(サウサンプトン)ら一人ひとりに優しく手を添え、労をねぎらった。



 そこにあったのは、整列や握手をせずに引き揚げた際の怒りの感情ではなく、対戦相手へのリスペクトだ。突如背後から手を添えられた日本人選手は一瞬驚きの表情を浮かべるが、振り返った時にカバーニはすでに過ぎ去っており、その大きな背中を見つめるのみだった。




 他のウルグアイ代表選手は静かに通り過ぎただけに、カバーニの対応が一層際立った形だ。打ち合いを演じた日本代表の選手たちを認めたからこその行動と言えるだろう。

2019年06月23日

日本、エクアドル戦”2点以上勝利”で決勝T進出 1-0でロシアW杯と同じ反則ポイント争い

現時点で24日エクアドル戦2-0となれば、日本の決勝T進出が決まる状況に



 コパ・アメリカ(南米選手権)グループステージA組の第3戦が現地時間22日に行われ、開催国のブラジルはペルーに5-0の大勝を飾り、グループリーグ首位突破を決めた。なおこの結果によって、日本は現地時間24日の第3戦エクアドル戦で「2得点以上奪って勝利」を挙げれば決勝トーナメント進出を果たせる状況となった。





ベネズエラ戦でスコアレスドローに終わったブラジルだったが、この日のペルー戦では持ち前の破壊力が爆発。前半12分にCKからMFカゼミーロが先制ゴールを奪うと、その7分後にFWロベルト・フィルミーノの追加点をゲット。32分には今大会売り出し中のFWエヴェルトンがカットインからのシュートでチーム3点目を決めて前半を折り返した。





 後半に入ってもブラジルの一方的なペースは続き、9分にキャプテンのDFダニエウ・アウベス、試合終了間際の90分には途中出場のMFウィリアンがゴールを陥れ、大量5得点で快勝を挙げた。

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 この結果とベネズエラ対ボリビア戦が3-1でベネズエラの勝利に終わり、グループAの順位は以下の通りになった。




1位 ブラジル 2勝1分0敗 勝ち点7 得点8 失点0 得失8


2位 ベネズエラ 1勝2分0敗 勝ち点5 得点3 失点1 得失2


3位 ペルー 1勝1分1敗 勝ち点4 得点3 失点6 得失−3


4位 ボリビア 0勝0分3敗 勝ち点0 得点2 失点9 得失−7




 コパ・アメリカは各グループ2位までと、3位のうち成績上位の2チームが決勝トーナメント進出を果たせる。レギュレーションは(1)勝ち点、(2)得失点差、(3)総得点、(4)当該チームの対戦成績、(5)フェアプレーポイントの順番のレギュレーションになっている。




 現状での日本の成績を見ると、1分1敗 勝ち点1 得点2 失点6 得失−4。エクアドル戦で2点以上奪って勝利した場合、ペルーの総得点「3」を上回る。一方、1-0勝利の場合は「得点3 失点6 得失−3」で並ぶため、ロシア・ワールドカップ(W杯)に続くフェアプレーポイントでの争いになる。なおペルーは3試合終了時点で6枚のイエローカード、日本は2試合終了時点で4枚のイエローカードを受けている。




 グループBのパラグアイ、カタール、アルゼンチンの結果次第で条件は再び変わるが、ブラジルがペルー相手に大勝を挙げたのは、日本にとって“援護射撃”になったと表現してもよさそうだ。

2019年06月15日

本田語る久保建英「世界トップの中のトップ狙える」

メルボルン・ビクトリーを退団して来季の所属先が未定のMF本田圭佑(32)が2日、日本代表に初選出された17歳の東京MF久保建英への期待を口にした。




都内で行われたミズノ新フットボールシューズ「レビュラ3」デビューイベントに登場。ファンとのフォトセッションやサイン会を実施した後、取材に応じた。




久保とはかつて、1度会ったことがあると明かすと「小学生の時とかに会ったと思うんですけど、すごい実力、技術で、これだったら世界のトップの中でのトップが狙えるんじゃないかなと思ったのが第一印象。実際すごくいい形で育っているというお話も聞いているので、僕が忙しくてJリーグをあまり見られないので、あまりプレーのところは見ていないんですけど、今回どこかで日本代表の試合で、もし目にできればなと思っています」と太鼓判を押した。加えて「僕が期待していることといえば、世代を引っ張っていくということ。久保君の世代にはスター選手が何人か生まれるだろうなと。これは歴史が物語っていると思うんですけど、だいたい同世代の何人かがすごいのが生まれてくるので、久保君が今クローズアップされていて、それに面白くないと思っている連中がすくすく育つんじゃないかなと思います」と、笑顔で久保を筆頭とする“久保世代”の成長を期待した。


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久保もメンバー入りする南米選手権(ブラジル)に臨む日本代表については「それをどういった精神で挑むのか。ここが全てだと思っているので。高校生が天皇杯でJリーグのチームと戦うような心持ちだったら話にならないと思っているので。それは森保さんがコントロールされて仕上げていくでしょうから、そこの部分しかあんまり見てないですね。それでだいたい戦い方がどんなぐらいになるかというのは、スキルはだいたい分かっているので、精神的なアプローチしか興味ないですね」と着眼点を挙げた。





この日の新作スパイク発売記念イベントでは、スパイクに最も求めるものに「履き心地」を挙げた。「長い時間、毎日履いて激しいトレーニングをやるので、少しでも(履き心地が)良くないと疲労を翌日残したりした結果、ケガのリスクになったりする。体が資本ですから当たり前のことかもしれないけど、追求していくことを、長くミズノさんと一緒にディスカッションしながら関わらせていただいてきました」。新たな“相棒”とともに迎えるであろう移籍先については「まだ何も決まっていない。地球内であればどこでも」と話し、笑いを誘った。




20年東京オリンピック(五輪)にオーバーエージ枠で出場して金メダルを獲得するという最大の目標に向け、よりレベルの高い欧州のリーグを求めている模様。「メルボルンに行った時も、その後には強いチームに行こうと思っていたので、願い通り実現したいなと思っています。簡単ではないので時間はかかるかもしれないですけど、あきらめずいこうと思ってます。いいところを見つけたいと思っています」と話した。

2019年06月13日

本田帰国 W杯2次予選で「全試合にサプライズを」

本田圭佑(32)がW杯アジア2次予選での“サプライズ”を誓った。

試合翌日の12日、成田空港着の航空機で帰国。黒いTシャツにサングラス姿で登場し、ファンのサインに気さくに応じた。1次予選突破を祝う声に「ありがとうございます」。日本と2次予選で対戦する可能性があることには「(話をするのは)またでいいですか」と、この日は控えた。

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それでも、帰国前には自身の有料メルマガ「CHANGE THE WORLD」でコメントを配信した。2次予選に向けて「とにかくサプライズを起こしていく。全試合にサプライズを起こしていくってことは僕が求めていることですね。2次予選でも是非相手を苦しめていく試合を全試合でやっていきたいと思います」と記した。

2019年06月12日

ベルギーでプレーの幅を広げた植田直通 「代表に必ず呼ばれると信じていた」

2018年ワールドカップ(W杯)・ロシア大会のメンバーに選ばれながら、出場機会を得られなかった。悔しい想いを胸に、帰国後すぐにベルギーへ旅立つと、異国の地で強くて速い外国人選手たちと激しいバトルを繰り広げ、確かな成長を遂げてきた。そして、ようやくめぐってきた日本代表復帰のチャンス。南米の猛者がそろうコパ・アメリカを前に、植田直通は「やったるか」と気合十分だ。






代表でプレーする冨安を応援していた




――18年9月以来となる日本代表復帰を果たしました。選ばれたときの率直な感想は?





 やったるか、という感じでしたね。久々でしたから。アンダーの代表も含めて、代表からこんなに離れたことは人生初だったので。でも、チーム(セルクル・ブルージュ)でしっかりやっていければ、いつか絶対に呼ばれると思っていました。





 ただ、ここで結果を出さなければ、何の意味もない。呼ばれたからには、試合に出て日本代表の勝利に貢献したいし、自分のこれからのためにも、やってきていることをすべて出したい――そんな気持ちでいます。






――森保一監督の初陣となったコスタリカ戦に招集されたけれど、出場機会を得られませんでした。ベンチからどんな想いで観ていたんですか? なぜ、俺を使ってくれないんだという想い? それとも監督が決めたことだから、と割り切っていた?






 どちらかというと、後者ですね。僕は何事に対しても、ネガティブに考えることがないんです。何が起きても、どうにかなるだろうって。だから今は、すごく気楽に生活できています。






 もちろん、悔しさはあります。でも、やるべきことを続けていれば、必ず呼ばれるだろうと。使ってもらえる日が来るだろうと。その自信はあるし、結果、最後に勝てばいいと考えていて。今は譲っても、最後は絶対に譲らないぞって。その気持ちだけは絶対に忘れないように、これからもやっていきたいですね。



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――最後に、というのは?






 代表で言えば、W杯です。そこに出るのが一番だと思っています。





――ロシア大会で試合に出られず、味わった悔しさは忘れていない?





 もちろんです。ベルギーへの移籍も、W杯で悔しい想いをして、絶対にあの舞台に立ちたい、という想いがあったからこその決断だったので。次のW杯には自分が出場して、あのとき破れなかった(ベスト16の)壁を破り、次のステージに行きたいという強い想いがあります。





――今年1月のアジアカップなど、代表に選ばれていない間も、日本代表の試合は観ていましたか?





 観られる時間帯であれば、観ていました。やっぱり、やりたいな、と思いますよね。自分もこのピッチに立って、やりたいなって。決勝で負けたとき、僕自身もすごく悔しかったし、仲間たちがプレーしているなかで、チームの力になれない自分に対しても悔しさがあった。そのためにも、もっと成長しなければな、とすごく思いました。






――そのアジアカップのピッチに、同じベルギーリーグでプレーし、年下の冨安健洋選手が立っていました。この後輩について、どうご覧になっていますか?






 すごく良い選手だと思うし、僕自身も彼から学ぶものがたくさんあると思います。それに、同じベルギーリーグで戦っている仲間として、代表での彼をすごく応援している自分もいました。





 今回こうして一緒に代表メンバーに選ばれましたけど、これまで年齢的に自分より年下の選手とポジションを争うことがなかったので、自分もそういう年齢になったんだなって。もっとやらなきゃな、と思うようになりました。






――かつて11年U-17W杯をともに戦った“94ジャパン”のメンバーも中心選手になり始めています。





 本当にうれしいですね。自分が呼ばれる、呼ばれないに関係なく、あのときのメンバーに対して、僕は思い入れが強いというか。あのときのメンバーが活躍してくれると、僕のモチベーションになるんです。




 今、A代表で(南野)拓実や(中島)翔哉がすごく活躍していて、どんどん上に行こうとしている。僕は負けたくないし、僕だけじゃなく、あのときのメンバー全員が「負けられない」と思っているはずです。僕らの世代が主力になっていかないと、日本代表は強くならないと思うので、僕も、もっと頑張って代表に入り続けたいと思います。





フランス語と英語の両方を勉強している






――ベルギーでの挑戦についても聞かせてください。欧州移籍1年目にして28試合に出場し、22試合で先発しました。まずまずの数字だと思いますが、ご自身はどう感じていますか?





 いや、全試合に出ることが目標なので、満足はしてないですね。チームとしても、なかなか上に行けずに苦しんだので、反省の多いシーズンだったと思います。






――上に行けず、という点で言えば、これまで所属した鹿島アントラーズでは、負けが込む、押し込まれ続ける、ということは、ほとんどありませんでした。初めての経験をして、DFとして感じること、学ぶことも多かったのでは?





 おっしゃるとおりですね。鹿島では90分間押し込まれ、必死に守り続けるということがなかったので、最初はかなり戸惑いました。でも、これがこのチームの戦い方なんだと割り切って、やってきました。





 例えば、W杯で勝ち上がれば、日本がずっと押し込まれる状況になるかもしれない。そう考えると、すごくタメになるシーズンだったと思いますね。





――日本人選手の海外移籍を振り返ると、言葉の問題が大きな壁だったように感じます。植田選手は語学に関しては?





 うちのチームはフランス語がメインなので、フランス語の勉強がマストなんです。ただ、オランダ語圏の選手とかは英語も話すので、彼らとは英語でコミュニケーションを取っていました。





――ということは、英語とフランス語の両方を勉強していたんですか?





 そうですね。大変ですけど、そのふたつを並行して勉強していました。





――初めての海外生活ですから、ピッチ内外で戸惑うことがあったと思います。





 それが、あまりないですよね。さっきも言いましたけど、ネガティブに捉えることがないので。困難なこともあったかもしれないですけど、日本とは違うんだ、国が違えば、いろんなことが違うのも当然だ、という考えでベルギーに行ったので。だから、衝撃を受けるようなことはなかったですね。


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――植田選手は若い頃から海外志向が強かったから、鹿島にいるときから、柔軟な考え方が身に付いていたのかもしれませんね。





 それは、そうかもしれないですね。鹿島には海外でのプレー経験のある先輩が多かったし、代表に行ったときも、いろんな先輩から話を聞く機会があったので。だから、言葉の大切さや、自分から輪に飛び込んでいくことの大切さをすでに学べていた。それで初めて海外でも、戸惑わなかったのかもしれないです。





鹿島時代の経験がベルギーで生きた






――セルクル・ブルージュで1年間プレーしたなかで、ターニングポイントと言えるような試合は、どれですか?




 いろいろありますね。初めて出た試合(第3節のスタンダール・リエージュ戦)もそうですし。その試合は0−0で終わったんですけど、初めて出場して、格上の相手に対して無失点で抑えたのは、自信になりました。それに、ベルギーリーグはこういうものなのか、と感じられたゲームでもありました。




 シーズン半ばには、途中交代させられて、その後しばらくスタメンから外された時期もあった。本当にいろんな経験をしたので、すごく濃い1年だったなとは思いますね。




――途中交代させられたのは、第25節のクラブ・ブルージュ戦のことですか?




 はい、そうです。




――ウイングバックで起用され、うまくいかなくて代えられて、しばらく出場機会を得られなくなった。その状況を変えるために、どんなトライをしたんですか? 当時はどういう想いで日々トレーニングに励んでいたのでしょう?





 あの試合はブルージュ・ダービーで、もともとセンターバックで出場する予定だったんですけど、前日に監督から「ウイングバックをやってくれ」と。この世界は、言われたポジションでプレーするのは当然なので、やってやるぞ、と思ったんですけど、途中交代されて、しばらく試合からも遠ざかって。





 すごく悔しかったし、不慣れなポジションでしたけど、自分の力不足も感じました。ただ、日々努力していたし、その努力は絶対に間違ってないと思ったので、何も変える必要はないと。いつもどおり続けていれば、また認められる日が来ると信じていましたね。




――鹿島時代にも試合に出られなくなった時期がありましたよね。石井正忠監督の時代に。それを乗り越えた成功体験は今回、拠り所になりましたか?





 それは、ありますね。あのとき、メンバーから外れてすごく悩んだんです。でも、全部やり続けたら、試合にも出られるようになって、優勝まですることができた。あのとき、ブレずにやって乗り越えたという自信があるから、今回もネガティブになることがなかった。鹿島時代の経験が生きましたね。





――ベルギーリーグには豊川雄太選手(オイペン)、遠藤航選手、鎌田大地選手(ともにシント=トロイデン)といったリオ五輪世代の選手が多くプレーしています。彼らとの対戦も刺激になったのでは?





 そうですね。もちろん、チームとして絶対に負けたくないし、特に豊川はポジション的にマッチアップしますから、負けたくなかった。でも、ベルギーの地で、日本人同士がマッチアップするのはなかなかないので、対戦するのが楽しくて。




 プライベートでも彼らと会う機会があって、一緒にご飯を食べたり、日本語で会話したりすれば、それだけでリラックスできる。情報交換したり、話を聞いて参考にしたり。もちろん、刺激も受けています。




早く上のステージに。焦りは今もある





――豊川選手に関して言えば、鹿島にいた頃とはプレースタイルも変わり、かなりいやらしいストライカーになってきましたよね。




 豊川のいるオイペンとは2試合戦って、2試合ともマッチアップしたんです。鹿島で途中まで一緒にやっていて、豊川が先に移籍したので、それ以来だったんですけど、おっしゃるとおり、すごく怖い選手になったと感じましたね。




 自分が嫌なところに入ってくるし、クロスが上がれば、点を取れそうなポジションにいる。実際、豊川は少しずつ結果を残しているし、地道にひとりでチャレンジしていて、本当に尊敬できますね。





――ベルギーでは、求めていた経験は積めましたか? 願っていたものは手にできましたか?





 外国人選手と一緒に日々練習したいと、ずっと思っていたんです。日本人と比べれば身体も強いし、コンタクトも激しい。そういう中で日々練習をして力を付けたいなと。そういう意味では1年間ベルギーで揉まれて、自分の実力も上がったと思うし、間違いなく良い経験ができたと思います。






 それに、ベルギーリーグには、強い選手、速い選手、デカい選手がゴロゴロいる。いろいろなチーム、いろいろな選手と対戦して、対応の幅も広がったと思います。上位のチームと対戦すると押し込まれるんですけど、それもまた楽しくて。どう耐えて勝つか。そんな経験ができたのも大きかったですね。





――15年12月にインタビューさせてもらったとき、植田選手は「自分の成長が遅すぎる。焦りしかない」と言っていました。やはり今も焦りしかないのか、それとも、先ほど話したように、自身のキャリアに関しても、最後にひっくり返せばいいという余裕が生まれているのか。いかがでしょう?





 そこに関しては、焦りを持っています。自分ももう若くないし、ベルギーからのステップアップを狙っていますから。





――当時、「将来はプレミアリーグでプレーしたい」と話していました。





 それは今もずっと思っています。もちろん、ベルギーでも良い経験は積めますが、リーグのレベルが高くなれば、もっといろんな経験が積めると思うので、早くそのステージに行きたい。そんな想いを常に持っています。





――コパ・アメリカで活躍すれば、ヨーロッパの移籍市場における評価にもがつながるかもしれません。





 コパ・アメリカはアピールするには絶好の大会ですよね。出場メンバーを見れば、世界の一流選手が集まっている。そういった選手たちと対戦できるのは、幸せなこと。そこで結果を残せば、自分の未来が変わってくると思うし、日本代表のために戦いたいという想いも強い。ベルギーで成長した姿を日本代表で見せたいし、自分の力をすべて出し切りたいと思います。





植田直通(うえだ・なおみち)



1994年10月24日生まれ。熊本県宇土市出身。空中戦には絶対の自信を持つセンターバックで、大津高時代の2011年には中島翔哉、南野拓実らとともにU-17W杯・メキシコ大会に出場した。同高卒業後、鹿島アントラーズに加入。プロ2年目から昌子源とセンターバックを組み、常勝クラブの守備を支えた。16年夏にはリオ五輪に出場。18年夏にはW杯・ロシア大会のメンバー入りするも、出場機会を得られず、帰国直後にベルギーリーグ移籍を発表。セルクル・ブルージュに加入し、28試合に出場した。

2019年05月30日

2度のW杯招致活動の蹉跌を振り返って 小倉純二が語る「平成の日本サッカー」

JFA(日本サッカー協会)最高顧問、小倉純二の部屋はJFAハウスの11階にある。広報スタッフに案内されると、1999年ワールドユース(現U−20ワールドカップ=W杯)で準優勝した日本代表のユニホームの額装が視界に飛び込んでくる。そして部屋の主は、にこやかな表情でわれわれを迎えると、すぐさま思い出話に花を咲かせた。




「20年前のナイジェリア大会は、まだFIFA(国際サッカー連盟)の理事になる前で、FIFAのユースコミッティのメンバーとして現地に行きました。日本が準優勝したこともあり、非常に思い出深い大会ですね。それからさらに20年前、79年に日本で開催されたワールドユースでは、財務委員をやったり警護の計画を立てたり、といったことをやらせていただきました。それがFIFAとの初めての仕事でした」





 久々に小倉を訪ねたのは、このほど上梓された『「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた』(以下『平成秘史』)の著者インタビューのためである。小倉は1938年の生まれ。平成の改元を50歳で、そして令和の幕開けを80歳で迎えた。日本サッカーにとっては、驚異的な発展の連続だった平成の30年。本書は、長年にわたりJFAやFIFAなどの要職にあった小倉による回顧録だ。「坂の上の雲」のような時代を丹念に振り返りながら、サッカーとの縁を作ってくれた古河電気工業への謝意が端々につづられている点も見逃せない。


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「私がいた古河電工という会社は、サッカー界に人材を送り出すことに抵抗はなかったですね。日本代表監督だった長沼(健)さん、東京五輪とメキシコ五輪で主将だった八重樫(茂生)さん、それから川淵(三郎)さん、平木(隆三)さんもそう。平木さんは会社を辞めてJFAの職員になりましたが、私は専務理事になっても定年まで会社に籍はありました。『借金(住宅ローン)を返済するまではいてくれ』と言われて(笑)」






 1981年から6年間、駐在員としてロンドン行きを命じたのも古河電工だった。この時に「JFA国際委員」の名刺を持ち、仕事の傍ら現地で築いたサッカー関係者とのコネクションは、日本サッカー界にとっても大きな財産となる。そして濃厚かつ豊潤な「フットボールの母国」の文化を吸収して帰国すると、待っていたのは閑古鳥が鳴く国内リーグの窮状。この時に抱いた危機感が、日本サッカーの新時代を切り開く原動力となる。





「向こうに行く前は、日本サッカーリーグにそれなりにお客さんが入っていたし、向こうではずっと満員のスタンドを見ていたわけですよ。それが帰国してみると、本当に数えるほどしかお客さんがいなくてショックでした。今のままでは限界だと。その後、日本サッカーのプロ化という議論になってJリーグにつながっていくわけですが、私自身は『川淵さんたちと一緒にやらなければ』という思いが強くありました。ただそうなると『JFAの財務は誰が立て直すんだ』という話になって、それで私が専務理事になったのが92年でしたね」





韓国の追い上げで「共催」となった2002年



小倉はその後、AFC(アジアサッカー連盟)理事、FIFA理事、JFA会長などを歴任。これまでの日本サッカー回顧録とは異なり、『平成秘史』がよりグローバルな視点を読者に与えてくれるのは、まさに小倉が歩んできたキャリアがあればこそである。今回のインタビューでは、あえてテーマを「W杯招致活動」に絞ることにした。右肩上がりの平成サッカー史にあって、2度のW杯招致は日本にとっての蹉跌(さてつ)であり、そのいずれにも小倉が深く関わっていたからだ。まずは2002年の招致活動から。





「W杯招致の議論を始めた当初、4万人が入るスタジアムなんて国立と大阪(長居陸上競技場)しかなかった。それが実際に募集をかけると15の自治体が手を挙げてくれて、中には『国体用のスタジアムを前倒しで作ってもいい』というところも出てきたんですね。ただし首都の東京は手を挙げられなかった。国立競技場の改修は『工事期間中に大会ができない』と陸連が反対。米軍の調布基地跡地にスタジアムをという話も『予算がない』。最後は、横浜市長だった高秀(秀信)さんが決断してくれて助かりましたね」






 開催地に首都が外れるという誤算はあったものの、新横浜に決勝が開催できる7万人収容のスタジアムが作られることが決定。肝心の招致活動レースでも、日本が圧倒的に優位に立っていた。それは当時のFIFA会長、ジョアン・アベランジェからお墨付きをもらっていたことからも明らかである。






「アベランジェは『手を挙げている国はいろいろあるけれど、やっぱり日本だろうな』と言ってくれましたね。当時はW杯の大会スポンサーも日本企業がたくさん名を連ねていましたし、ワールドユースやトヨタカップといった大会運営の実績もある。93年には日本でU−17W杯も開催して、FIFAから運営能力を高く評価されました。『02年は自動的に日本になるよ』とも言われていましたね」



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 潮目が変わったのは、93年の晩秋から94年の初夏にかけて。いわゆる「ドーハの悲劇」によって日本がW杯初出場の夢を絶たれると、逆転で本大会の切符を手にした韓国が02年の招致レースに名乗りを挙げる。そして翌年5月のFIFA副会長選挙では、JFA副会長(当時)の村田忠男が韓国のチョン・モンジュンに惨敗。こうした韓国の猛烈な追い上げに加えて、アベランジェとUEFA(欧州サッカー連盟)との政治抗争にも巻き込まれ、日本は韓国とのW杯共催を受け入れることを余儀なくされる。





「共催の提案は(96年)5月31日以前から耳にしていました。同じアジアの国同士が喧嘩をするのは良くないと、AFCの関係者も悩んでいました。アフリカ諸国の関係者は『共催を支持するように』と、UEFAからプレッシャーを受けていたようです。『言うことを聞かないなら、アフリカに指導者を送らない』とかね。ただ、われわれとしては『W杯は1つの国の国境の範囲内ですべての試合が行われる』という規約を遵守するほかなかった。でも結局は、ルールそのものが変えられてしまったんですね」





2022年にW杯単独開催を試みた理由





あのし烈な日韓のデッドヒートは何だったのか。そう思えて仕方がない2002年W杯招致活動は、当のFIFAがルールを変える形で「共催」という決着を見ることとなった。結果としてアジア初のW杯は大いに盛り上がったものの、小倉自身には「次こそは日本での単独開催を」という思いがくすぶり続ける。その思いは、10年に開催国が決定する「2018&22年W杯」招致活動に向けられることとなった。





「22年の招致活動は『おそらく勝てないだろう』と思っていました。周りからも『Too early(早すぎる)』と言われていましたしね。ついこの間(W杯を)開催したばかりだろうと。FIFAの中でも新しさを求めていたところはあったと思います。それでもわれわれが手を挙げたのは、02年の時との違いを知りたかったということと『あわよくば』という思いもありました(苦笑)。そうしたら、韓国も手を挙げたと」






 2大会の招致レースは、18年がヨーロッパ、22年がそれ以外の大陸で行われることとなった。22年大会に立候補したのは、日本、米国、韓国、オーストラリア、そしてカタール。大方の予想では、94年大会の開催実績がある米国が有利。W杯出場すらなく、国土の総面積も秋田県ほど、しかも大会が行われる6月には気温が50度にまで上昇するカタールは「問題外」とされた。しかし結果は、周知のとおり。







「おそらく皆さん、米国が選ばれるだろうと思っていたんじゃないですか? 少なくとも、カタールが選ばれると予想していた人は、僕を含めてほとんどいなかったんじゃないですかね。あんなに小さな国で、しかもあの暑さで開催できるはずがない。まあ、あとから開催時期が11月に決まりましたけれどね。これは本にも書きましたが、カタールに決まった瞬間、アフリカの理事の奥様方が歓声を上げたのにもびっくりしました(苦笑)」






 ちなみに日本は、2回目の投票で落選。単独開催の夢は、あっさり潰えることとなった。翌11年、72歳となった小倉は定年でFIFAの理事を退く。一連のFIFAスキャンダルが発覚したのは、それから4年後の15年のこと。米国内での捜査は、やがてヨーロッパにも飛び火し、次期FIFA会長就任が確実視されていたミシェル・プラティニ(当時UEFA会長)は、8年間の活動停止処分を受ける(のちに6年間に短縮)。





「プラティニとは、理事の中でも親しくしていましたからショックでした。ただ、一連のスキャンダルと直接関係はないと思っています。あれに連座していたのは、北中米カリブや南米の理事ばかりでしたからね。もちろん、僕も理事を退任していたので、詳しいことは分からないですが。それにしても、プラティニに代わって会長選挙に立候補した(ジャンニ・)インファンティーノが当選するんですから、分からないですよね(苦笑)」




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日本のW杯単独開催はもうないけれども





余談ながらプラティニは、22年大会に関して「カタール支持」を表明していたことでも知られる。そしてプラティニ失脚後、ゼップ・ブラッターの後継者としてFIFA会長となったインファンティーノは、26年W杯から出場国枠を32から48に増やすという公約を実現。この決定により日本が将来、単独でW杯を開催する可能性は、ますます遠のいてしまったと小倉はとらえている。





「次にアジアでW杯を開催するとしたら、おそらく共催しかないでしょう。1カ国に48カ国を集めて、80試合をできるのは中国くらいしかない。米国だって、26年はカナダとメキシコの3カ国共催じゃないですか。JFA2005年宣言では『2050年までに日本でW杯を開催して、その大会の優勝チームになる』としていますけれど、もはや日本での単独開催は難しいでしょうね。女子W杯なら、まだ可能性があるかもしれませんが」




 小倉が「日本でのW杯開催の可能性」について、最初に文章で発表したのは、平成が始まったばかりの1989年のこと。その夢は2度にわたって、いずれも思わぬ形で挫かれることとなる。この間、FIFAの体質は変わり、W杯はますます巨大化していった。そして日本は、サッカーでは国際的に素晴らしい実績を残したものの、国家としてのプレゼンスは(特に経済面において)無残なまでに低下して今に至っている。





「やっぱりね、時代の流れかなとは思っているんですよ。FIFAの加盟国は今では211ありますから(出場国の増加は)必然なのかなと。そうなると、1カ国での開催は難しくなるから、今後は共催が増えてくると思います。一番(開催国に)なりたがっているのは、中国でしょうね。習近平(国家主席)は国策でサッカーを強くしようとしているし、今回のW杯のスポンサーでも中国企業が多かったじゃないですか。それもまた、時代なのかなと思いますね」





 著書『平成秘史』の最後の章で、小倉は《2度目のW杯が日本で開催されることを心から願っている(残念ながら私はこの世にいないだろう)。》と書いている。さりげないようで、静かな諦念がにじみ出ている。それでも「アジアで初めてW杯を開催した国」として、まだまだ日本には果たすべき役割があると小倉は考えている。令和の日本サッカーに向けた本人のメッセージをもって、本稿を締めくくることにしよう。





「これからの日本は、アジアの中でブラジルのような役割を果たしていくのではないかと思っています。ブラジル人選手って、日本をはじめ世界中でプレーしていますよね。中には国籍を変えて、その国の代表になる選手もいる。日本の選手も、海外移籍といえばヨーロッパがメーンだったけれど、最近はタイやシンガポールといったアジアでプレーする選手も増えていますよね。あるいは請われて、国籍を変えることも当たり前になるかもしれない。そういう時代が、間もなくやって来るんじゃないでしょうか」

2019年05月28日

今季の失望を力に!メッシ、アルゼンチン代表を10大会ぶりの南米王者に導けるか

Cバルセロナでの2018/19シーズンを失望で終えたレオ・メッシが、コパ・アメリカを戦うアルゼンチン代表にとってはトロフィーに近づくための大きな原動力になるかもしれない。


メッシもコパ・アメリカ参戦!アルゼンチン代表がメンバーを発表


バルサのNo.10は、自身の役割を十分に果たした。しかし、彼のチームは、またしてもチャンピオンズリーグで失態を晒し、5連覇が懸かっていたコパ・デル・レイ決勝でも敗北を味わった。

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メッシは、ラ・リーガでは36ゴールを記録し、史上最多となる6度目のゴールデンシューズを獲得した。しかし、今シーズン開幕前の彼の「チャンピオンズリーグを獲得する」という宣言からも、誰よりもCLのタイトルを熱望していたメッシにとって個人賞の獲得はあまり多くの意味を持たない。


現実はメッシを絶望させるものだった。CL準決勝2ndレグのアンフィールドでの崩壊(4-0)は、メッシとバルサのマドリード行きを阻んだ。その傷が癒えることなく臨んだコパ・デル・レイ決勝では、バレンシアに苦杯をなめ(1-2)、傷口をえぐられる屈辱を味わった。


メッシは失望と共にブラジルで開催されるコパ・アメリカに臨むアルゼンチン代表に合流する。


3月に代表復帰を果たしたD10Sは、アルゼンチン“復活”に向けてバルセロナでの失望を力に変えて戦うだろう。


メッシ擁するアルゼンチン代表は、日本時間6月16日7:00からコロンビア代表と、同20日9:30からパラグアイ代表戦、そして24日4:00にカタール代表と激突する。


メッシの悔しさがアルゼンチンを10大会ぶりの南米王者の座へ動かく原動力となるのか注目しよう。

2019年05月27日

日本と初戦で激突!! 3連覇狙うチリ代表…MFビダル、FWサンチェスらを招集

チリサッカー連盟は26日、コパ・アメリカに臨むチリ代表メンバー23人を発表した。大会3連覇を狙うチームはMFアルトゥーロ・ビダル(バルセロナ)、FWアレクシス・サンチェスらを招集している。

 C組に入るチリは17日の第1節で日本、21日の第2節でエクアドル、24日の第3節でウルグアイと対戦する。

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▽GK
ガブリエル・アリアス(ラシン)
ブライアン・コルテス(コロコロ)
イェルコ・ウルラ(ウアチパト)

▽DF
オスカル・オパソ(コロコロ)
ジャン・ボセジュール(ウニベルシダ・デ・チリ)
パウロ・ディアス(アル・アハリ)
ゴンサロ・ハラ(エストゥディアンテス)
イゴール・リチノフスキー(クルス・アスル)
マウリシオ・イスラ(フェネルバフチェ)
ガリー・メデル(ベジクタシュ)
ギジェルモ・マリパン(アラベス)

▽MF
エステバン・パベス(コロコロ)
パブロ・エルナンデス(インディペンディエンテ)
ディエゴ・バルデス(サントス・ラグナ)
エリック・プルガル(ボローニャ)
チャルレス・アランギス(レバークーゼン)
アルトゥーロ・ビダル(バルセロナ)

▽FW
アレクシス・サンチェス(マンチェスター・U)
フニオール・フェルナンデス(アンタルヤスポル)
エドゥアルド・バルガス(UANLティグレス)
ニコラス・カスティージョ(アメリカ)
アンジェロ・サガル(パチューカ)
ホセ・ペドロ・フエンサリダ(ウニベルシダ・カトリカ)
【SIESTA読谷】
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シエスタ読谷
ハイサイ!(*゚▽゚*) 南国の地、沖縄県の社会人サッカー1部リーグに所属しております、シエスタ読谷と申します! 当ブログでは様々なサッカー関連情報や動画等を紹介したりしていきたいと思います♪
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