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引退発表のシャビ、ベティス新監督候補に浮上? 後任として「完璧」とスペイン紙報道
指導者ライセンス取得へ セティエン監督の哲学を引き継げる存在と期待高まる
元スペイン代表MFシャビ・エルナンデスは、かつてバルセロナの中盤センターを取り仕切り、現在はアル・サッドに所属している。そのシャビが今シーズン限りでの引退を発表したが、母国スペインでは早速、引退後の指導者としての期待値が高まっているようだ。
まずはシャビにとっての古巣バルサの反応だ。「マルカ」紙によると、エルネスト・バルベルデ監督は現地時間4日に行われるリーガ・エスパニョーラ第36節セルタ戦に向けた記者会見で、シャビの引退について「彼はフットボールの歴史の中で最も優れた選手のうちの1人だ」とその労をねぎらうとともに、今後についてこう話している。
「誰もがシャビが監督となることを期待している。バルサであろうが彼が望むどこであろうが、紹介を受けるだろう」
監督のような広い視野でピッチ全体を見回していたシャビの能力は、指導者というセカンドキャリアでも生きるだろうとバルベルデ監督は見ている。
それはバルサ以外のクラブでも同じ見立てのようだ。同じくスペインの「スポルト」紙によると、早速指導者として迎えようとしているクラブがあるという。それは日本代表MF乾貴士の保有元クラブであるベティスだ。
同紙によると、シャビはすでにUEFAによる指導者ライセンス獲得のための動きを取っているとの情報を記している。またベティス側としても、今季限りでの退任が既定路線となっているキケ・セティエン監督のポゼッションスタイルを引き継げる存在として「完璧な存在」だと、来季の新監督候補に挙げられているという。
ベティスには、かつてバルサでプレーしたスペイン代表DFマルク・バルトラらが所属している。そのバルトラは自身の公式インスタグラムで、「5シーズンにわたってたくさんの時間を共有できたことを光栄に思っている」とシャビの引退にコメントを寄せたが、果たしてシャビはスペインの名門を指導者としてのファーストステップに選ぶのか。今後の動向に注目が集まる。
元スペイン代表MFシャビ・エルナンデスは、かつてバルセロナの中盤センターを取り仕切り、現在はアル・サッドに所属している。そのシャビが今シーズン限りでの引退を発表したが、母国スペインでは早速、引退後の指導者としての期待値が高まっているようだ。
まずはシャビにとっての古巣バルサの反応だ。「マルカ」紙によると、エルネスト・バルベルデ監督は現地時間4日に行われるリーガ・エスパニョーラ第36節セルタ戦に向けた記者会見で、シャビの引退について「彼はフットボールの歴史の中で最も優れた選手のうちの1人だ」とその労をねぎらうとともに、今後についてこう話している。
「誰もがシャビが監督となることを期待している。バルサであろうが彼が望むどこであろうが、紹介を受けるだろう」
監督のような広い視野でピッチ全体を見回していたシャビの能力は、指導者というセカンドキャリアでも生きるだろうとバルベルデ監督は見ている。
それはバルサ以外のクラブでも同じ見立てのようだ。同じくスペインの「スポルト」紙によると、早速指導者として迎えようとしているクラブがあるという。それは日本代表MF乾貴士の保有元クラブであるベティスだ。
同紙によると、シャビはすでにUEFAによる指導者ライセンス獲得のための動きを取っているとの情報を記している。またベティス側としても、今季限りでの退任が既定路線となっているキケ・セティエン監督のポゼッションスタイルを引き継げる存在として「完璧な存在」だと、来季の新監督候補に挙げられているという。
ベティスには、かつてバルサでプレーしたスペイン代表DFマルク・バルトラらが所属している。そのバルトラは自身の公式インスタグラムで、「5シーズンにわたってたくさんの時間を共有できたことを光栄に思っている」とシャビの引退にコメントを寄せたが、果たしてシャビはスペインの名門を指導者としてのファーストステップに選ぶのか。今後の動向に注目が集まる。
2019年05月04日
令和での初戦。反転攻勢をかける5月にすべく、勝利でスタートさせたい
「平成」から「令和」に元号が変わり、最初の一戦。セレッソ大阪は、松本山雅FCのホームに乗り込み、アウェイ戦に挑む。このカードは、J2でJ1昇格争いを繰り広げた2016年以来。このときは、互いにアウェイチームが勝利を収めている。J1のカテゴリーでぶつかるのは、今節が初となる。
前節、松本と同じく昇格組の大分トリニータをホームに迎えて行われた一戦は、スコアレスドローに終わった。これで、直近のリーグ戦は4試合未勝利となったセレッソだが、この間、奪った得点はわずかに『1』。現在は3試合連続で無得点であり、「チャンスを作る部分で課題を残している」(ロティーナ監督)ことは明白だ。前節は奥埜博亮や高木俊幸を先発起用するなど選手も入れ替えつつ打開を試みたロティーナ監督だが、現状を打破したい今節、どのようなメンバーやシステムで挑むのか。注目したい。
一方の松本も、ここまでリーグ戦で奪った得点は6。セレッソと同じく得点力に課題を残している。ただし、裏への抜群のスピードを誇る前田大然に、パンチ力のあるシュートが武器のレアンドロ ペレイラ、元セレッソの永井龍も含め、個での脅威はあるだけに、セレッソとしては「守備でのリスク管理」(木本恭生)が問われる、気の抜けない90分となる。精度の高いキックを蹴る宮阪政樹のセットプレーにも警戒する必要があり、危険な位置でのファウルには、普段以上に気を付けたい。
失点は少なく堅守は維持しつつ、得点力に課題を残しているという、似た悩みを抱えている両チームの事情を踏まえると、今節もロースコアでの僅差の決着が濃厚であり、「点が入らない時間帯が続いても後ろは我慢強く守って、1点を決めて、勝点3をモノにしたい」(木本)試合になる。先制点の重みも増してくるだろう。昨季はJ2の舞台でしのぎを削ったロティーナ監督と反町康治監督。細部にまで目を向ける緻密なチーム作りに定評がある指揮官同士、セットプレーを含めた細かいプレーが勝敗を分けそうだ。
現在、松本はホームのサンプロアルウィンでヴィッセル神戸とサガン鳥栖を破ってリーグ戦2連勝中。圧倒的な声援がホームチームに注がれるゲーム環境の中、セレッソとしては、スタジアムの雰囲気に飲まれることなく、冷静に戦いたい。その一方で、肉弾戦も予想される今節は、戦術を超越したメンタル面で相手を上回ることも求められる。苦しんだ4月を経て、反転攻勢をかけたい5月。その初戦、敵地で勝点3をもぎとり、勝利でスタートさせたい。
前節、松本と同じく昇格組の大分トリニータをホームに迎えて行われた一戦は、スコアレスドローに終わった。これで、直近のリーグ戦は4試合未勝利となったセレッソだが、この間、奪った得点はわずかに『1』。現在は3試合連続で無得点であり、「チャンスを作る部分で課題を残している」(ロティーナ監督)ことは明白だ。前節は奥埜博亮や高木俊幸を先発起用するなど選手も入れ替えつつ打開を試みたロティーナ監督だが、現状を打破したい今節、どのようなメンバーやシステムで挑むのか。注目したい。
一方の松本も、ここまでリーグ戦で奪った得点は6。セレッソと同じく得点力に課題を残している。ただし、裏への抜群のスピードを誇る前田大然に、パンチ力のあるシュートが武器のレアンドロ ペレイラ、元セレッソの永井龍も含め、個での脅威はあるだけに、セレッソとしては「守備でのリスク管理」(木本恭生)が問われる、気の抜けない90分となる。精度の高いキックを蹴る宮阪政樹のセットプレーにも警戒する必要があり、危険な位置でのファウルには、普段以上に気を付けたい。
失点は少なく堅守は維持しつつ、得点力に課題を残しているという、似た悩みを抱えている両チームの事情を踏まえると、今節もロースコアでの僅差の決着が濃厚であり、「点が入らない時間帯が続いても後ろは我慢強く守って、1点を決めて、勝点3をモノにしたい」(木本)試合になる。先制点の重みも増してくるだろう。昨季はJ2の舞台でしのぎを削ったロティーナ監督と反町康治監督。細部にまで目を向ける緻密なチーム作りに定評がある指揮官同士、セットプレーを含めた細かいプレーが勝敗を分けそうだ。
現在、松本はホームのサンプロアルウィンでヴィッセル神戸とサガン鳥栖を破ってリーグ戦2連勝中。圧倒的な声援がホームチームに注がれるゲーム環境の中、セレッソとしては、スタジアムの雰囲気に飲まれることなく、冷静に戦いたい。その一方で、肉弾戦も予想される今節は、戦術を超越したメンタル面で相手を上回ることも求められる。苦しんだ4月を経て、反転攻勢をかけたい5月。その初戦、敵地で勝点3をもぎとり、勝利でスタートさせたい。
2019年04月20日
2019年04月19日
「代表チームからクラブサッカーへ」 日本サッカーの平成史を振り返る
「世界との圧倒的な差」を埋めた外国人監督招聘
昭和から平成へ。昭和64年1月7日に行われる予定だった全国高校サッカー選手権準決勝は、昭和天皇崩御に伴い2日間延期された。試合が行われた駒沢陸上競技場は、ほぼ満員に埋まるも応援が自粛されたため、厳かで深々とした、なんとも言えぬ空気感に覆われていた。
当時、日本のサッカー界を代表するイベントといえば、高校サッカー選手権と「トヨタカップ」だった。日本代表戦やJリーグの前身である日本リーグ等は、そのメインストリームにはなかった。
日本代表は1986年メキシコW杯最終予選で、最後の韓国戦に勝てばW杯初出場という段まで漕ぎつけたが、0-1、1-2で惜敗。続く1990年イタリアW杯予選では、最終予選にさえ進めない惨状だった。
世界と日本との間には計り知れない開きが存在した。
契機が訪れたのは1992年(平成4年)。それは閉ざしていた門が開いた瞬間でもあった。日本サッカー協会はオランダ人のハンス・オフトを外国人指導者として初めて日本代表監督に招聘。すると、その秋に広島で開催されたアジアカップで初優勝を遂げる。日本代表のレベルは、世界のスタンダードが感覚的な表現ではなく、通訳を介した的確な日本語で伝えられたことで大きくランクアップした。
同大会はそれ以降、8度開催されているが、その中で日本は3度(通算4度)優勝を飾っている。いまやアジアでは1、2を争う強国として鳴らす日本だが、上昇に転じたきっかけはここにある。
「ドーハの悲劇」で沸騰したサッカー人気
そして翌1993年、日本初のプロサッカーリーグ=Jリーグがスタート。華々しいムードに包まれた。それと平行して1994年アメリカW杯予選も行われた。日本はカタールのドーハで開催されたセントラル方式の最終予選に進出。本大会行きの切符は2枚で、現在の4.5枠より数段、厳しい設定だった。
6ヶ国で争われるリーグ戦の最終戦、対イラク戦を前に、オフト率いる日本代表は首位に立っていた。イラク戦に勝利すればW杯初出場はその瞬間、確定した。試合は後半のロスタイムまで日本が2-1でリード。事件は最後の最後に起きた。CKから同点ヘッドを叩き込まれ、悲願は夢と消えた。
これが俗に言う「ドーハの悲劇」になるが、悲劇とは言うものの、当時の日本のレベルは悲劇と自身を可哀想がるほど高くなかった。実力的にはアジアの4〜5番手。むしろ善戦と言ってよかった。
世の中は盛り上がった。中継したテレビ東京の視聴率は48.1%に及んだ。同時に放送されていたNHKBSの分まで含めると、50%どころか60%近くに昇ったと思われる。悲劇と言いながら、エンタメ性としては上々で、「ドーハの悲劇」は、サッカー人気沸騰の起爆剤となった。
サッカーがプロスポーツとして確立した日
悲劇が歓喜に変わったのはその4年後。1998年フランスW杯アジア予選を日本は晴れて突破した。1997年11月、マレーシアのジョホールバルでイランと戦ったアジア地区のプレーオフ。2-2で迎えたゴールデンゴール制の延長戦で、途中交代の岡野雅之が決勝弾を決め、日本はようやくW杯の出場切符を手に入れた。中継していたフジテレビの視聴率は47.9%。ドーハの悲劇と並ぶ高視聴率を叩き出した。サッカーが野球に迫るプロスポーツとしての地位を確立した瞬間と言ってもいい。
2002年W杯が韓国と日本の共催に決まったのはその前年だった。しかし、過去にW杯に出場したことがない国が開催国になった前例はなく、日本のフランスW杯出場は、至上命題になっていた。アジア最終予選は、まさにプレッシャーが掛かる中での戦いだった。国立競技場で行われたその3戦目の韓国戦に敗れると加茂周監督更迭論が浮上。続くカザフスタン戦に引き分けると、協会は大鉈を振らざるを得なくなった。後から振り返るなら、この更迭劇がエンタメ性を高めるスパイスの役を果たしていた。
この更迭劇は、今後にも活かされることになった。2018年3月に起きたハリルホジッチから西野朗への交代劇だ。これは、20年半前の成功体験がなければ起きただろうか。ロシアW杯における日本の好成績(ベスト16)はあっただろうか。平成のサッカー史を振り返るとき、加茂さんから岡田さんへの交代劇は外すことはできない事件になる。
日本代表の低迷と欧州CLの台頭
1992年のアジアカップ優勝からドーハの悲劇、ジョホールバルの逆転劇を経て2002年日韓共催W杯に至る10年間、日本サッカーは急激な右肩上がりを示した。その前と後ではまさに別世界。世界広しといえども10年の間にここまでの変化を遂げた国はそう多くない。
前年比20%と言いたくなる強烈な伸長率を示した日本だが、2002年以降、その右肩上がりは止んだ。2006年ドイツW杯では、グループリーグ最下位に沈み、2010年南アW杯ではベスト16入りするも、2014年ブラジルW杯では再びグループリーグ最下位に。2018年ロシアW杯で、再びベスト16入りを果たすも、運に救われた要素なきにしもあらずで、まさに一進一退を繰り返している。世界という壁にぶち当たっている状態だ。
世界に目を転じれば、平成の30年間に急上昇したのが欧州チャンピオンズリーグのステイタスだ。名称がチャンピオンズカップからチャンピオンズリーグに変更されたのは1992-93シーズンだが、それを機に大会は肥大化の一途を辿った。拍車を掛けたのがボスマン判決で、職業選択の自由(移籍の自由)と移籍金の撤廃を謳ったその内容が1996-97シーズンに施行されると、チャンピオンズリーグの舞台には、世界各地からスター選手が続々と集まることになった。
日本人初のチャンピオンズリーガーが誕生したのは2001〜02シーズン。最有力視されていたのはフェイエノールトの小野伸二だったが、試合前日(2001年9月11日)、アメリカで同時多発テロが発生。先発が予想された試合はキャンセルになった。その間隙を縫い、日本人初の栄誉に輝いたのはアーセナルの稲本潤一で、マヨルカ戦の後半に交代出場を果たしたのだった。
それから27シーズン経った今季(2018-19)のチャンピオンズリーグに、日本人が何人出場したかと言えば、長友佑都(ガラタサライ)、香川真司(ドルトムント)、西村拓真(CSKA)のわずか3人。しかも香川、西村は各1試合、交替で出場したのみである。これまでの総数もわずか16人(チャンピオンズカップ時代の奥寺康彦さんを含む)止まりだ。
欧州組は確かに増えた。日本代表もほぼ海外組で占められている。それをかつてと比較し、隔世の感があるとポジティブに捉える人が多いようだが、チャンピオンズリーガーの数はまるで増えていない。W杯の組替え戦と言うべきチャンピオンズリーグに、日本は依然として選手を満足に送り込めずにいるのだ。
選手のステイタスを示すものと言えば、まず代表試合出場数が挙げられるが、より今日的なのはチャンピオンズリーグ出場試合数だ。日本人歴代最高は香川の33試合。以下、内田篤人(29)、中村俊輔(17)、長友佑都(15)、本田圭佑(11)、小野(9)、岡崎慎司(7)、稲本潤一(7)、長谷部誠(6)、鈴木隆行(4)……と続く。いずれも代表で中心的な役割を果たした選手ばかりだが、W杯でコンスタントにベスト16以上を狙うチームを目指すには寂しすぎる数字だ。日常の活動で、欧州のトップレベルを体験する選手の数がもっと増えない限り、代表チームがW杯本番で大活躍する姿を想像することは難しいのだ。
まだサッカーの真髄に迫ることができていない報道
欧州のサッカーはその間、攻撃的になった。具体的には後ろで守らず、高い位置からプレスを掛けるスタイルが主流になった。それが選手の技量を上昇させる起爆剤になった。
たとえば10年前の映像に目をやれば、そのサッカーは古めかしく見える。いまのレベルが最も高いのがサッカーの特性だ。常に右肩上がりを続けている競技。その発展に貢献しているのがプレッシングだ。サッカーの進歩を支えるのはプレッシング。欧州サッカーの近代史を探れば、そうした結論に辿り着くが、日本サッカーは必ずしもそうではない。Jリーグで多く目に止まるのは、後ろで守る非プレッシングだ。守備的サッカーの占める割合は、世界の平均値よりずいぶん高い。これでは選手の技量のみならず、サッカー競技そのものの進歩発展にも貢献しない。結果に目が眩みやすい勝利至上主義に陥りやすいサッカーと言ってもいい。
メディア報道しかり。サッカーは結果も重要だが、それと同じぐらい中身が重視される。そしてそれに大きく関わるのが監督で、試合内容に強い影響力を持つ。他の競技(特に野球)と異なるのはこの点になるが、日本のサッカー報道は一般的なスポーツ論に走りがちだ。サッカー的ではない。
選手への批評はあっても監督、指導者への批判はなし。協会への批判ももちろんだ。サッカーの真髄に迫ることができていない。これではサッカーは進歩していかない。
代表よりクラブ ファン気質の変化は加速していくのか
一方、ファン気質は変化している。1997年11月16日、ジョホールバルのスタンドを埋めたのは日本人のファンだった。その数およそ2万人。翌年、開催されたフランスW杯には、計10万人もの日本人が駆けつけている。その流れは2006年ドイツW杯まで続いた。ところが2010年南アW杯、2014年ブラジルW杯は、現地の治安に難があったこともあるが、駆けつけたファンはごくわずか。2018年大会は、日韓共催W杯を除けば日本から最も近い国、ロシアで開催されるW杯で、ビザも免除されたり、列車も無料だったり、ファンにとってはまさに行き時だった。ところがその数はわずかだった。スタンドの1割にも満たなかった。せいぜい3000、4000人という感じで、少なくとも韓国人には大きく劣っていた。
2018年(平成30年)アジアチャンピオンズリーグを制した鹿島アントラーズ 写真:アフロスポーツ
今年1月にアラブ首長国連邦で開催されたアジアカップでも日本人の少なさは目立った。日本代表を海外まで追いかけていくファンは激減の一途を辿っている。先のコロンビア戦、ボリビア戦のスタンドを眺めれば、満員には埋まっているものの、青いユニフォームを着て歌い続けるサポーターは大幅に減った。
他方、Jリーグのサポーターは元気がいい。アウェー戦にも足を運ぶ。アジアチャンピオンズリーグでは、海外のアウェー戦にも大挙駆けつける。アジアカップが行われたUAEは、昨年12月にクラブW杯も開催しているが、その時、駆けつけた鹿島サポーターは、アジアカップ観戦に出かけた日本代表サポーターとは比較にならぬほど多かった。
熱いのはJクラブ。サッカーファンは代表チームを一歩離れた場所から眺める傾向がある。よく言えば冷静。落ち着いている。こちらが日本代表監督を批判しても、非国民などと書き込まれるケースはかつてより減っている。
代表よりクラブ。このファン気質の変化は加速していくのか。平成から令和に移ろうとしているいま、とりあえず気にしたいポイントはここだ。日本サッカーをこれまでリードしてきたのは代表チームだが、今度はクラブサッカーが頑張る番だ。あるべき姿は両者の拮抗した関係である。そうでないと本物のサッカー人気は醸成されていかない。日本サッカーには少なからず変化が求められている。
昭和から平成へ。昭和64年1月7日に行われる予定だった全国高校サッカー選手権準決勝は、昭和天皇崩御に伴い2日間延期された。試合が行われた駒沢陸上競技場は、ほぼ満員に埋まるも応援が自粛されたため、厳かで深々とした、なんとも言えぬ空気感に覆われていた。
当時、日本のサッカー界を代表するイベントといえば、高校サッカー選手権と「トヨタカップ」だった。日本代表戦やJリーグの前身である日本リーグ等は、そのメインストリームにはなかった。
日本代表は1986年メキシコW杯最終予選で、最後の韓国戦に勝てばW杯初出場という段まで漕ぎつけたが、0-1、1-2で惜敗。続く1990年イタリアW杯予選では、最終予選にさえ進めない惨状だった。
世界と日本との間には計り知れない開きが存在した。
契機が訪れたのは1992年(平成4年)。それは閉ざしていた門が開いた瞬間でもあった。日本サッカー協会はオランダ人のハンス・オフトを外国人指導者として初めて日本代表監督に招聘。すると、その秋に広島で開催されたアジアカップで初優勝を遂げる。日本代表のレベルは、世界のスタンダードが感覚的な表現ではなく、通訳を介した的確な日本語で伝えられたことで大きくランクアップした。
同大会はそれ以降、8度開催されているが、その中で日本は3度(通算4度)優勝を飾っている。いまやアジアでは1、2を争う強国として鳴らす日本だが、上昇に転じたきっかけはここにある。
「ドーハの悲劇」で沸騰したサッカー人気
そして翌1993年、日本初のプロサッカーリーグ=Jリーグがスタート。華々しいムードに包まれた。それと平行して1994年アメリカW杯予選も行われた。日本はカタールのドーハで開催されたセントラル方式の最終予選に進出。本大会行きの切符は2枚で、現在の4.5枠より数段、厳しい設定だった。
6ヶ国で争われるリーグ戦の最終戦、対イラク戦を前に、オフト率いる日本代表は首位に立っていた。イラク戦に勝利すればW杯初出場はその瞬間、確定した。試合は後半のロスタイムまで日本が2-1でリード。事件は最後の最後に起きた。CKから同点ヘッドを叩き込まれ、悲願は夢と消えた。
これが俗に言う「ドーハの悲劇」になるが、悲劇とは言うものの、当時の日本のレベルは悲劇と自身を可哀想がるほど高くなかった。実力的にはアジアの4〜5番手。むしろ善戦と言ってよかった。
世の中は盛り上がった。中継したテレビ東京の視聴率は48.1%に及んだ。同時に放送されていたNHKBSの分まで含めると、50%どころか60%近くに昇ったと思われる。悲劇と言いながら、エンタメ性としては上々で、「ドーハの悲劇」は、サッカー人気沸騰の起爆剤となった。
サッカーがプロスポーツとして確立した日
悲劇が歓喜に変わったのはその4年後。1998年フランスW杯アジア予選を日本は晴れて突破した。1997年11月、マレーシアのジョホールバルでイランと戦ったアジア地区のプレーオフ。2-2で迎えたゴールデンゴール制の延長戦で、途中交代の岡野雅之が決勝弾を決め、日本はようやくW杯の出場切符を手に入れた。中継していたフジテレビの視聴率は47.9%。ドーハの悲劇と並ぶ高視聴率を叩き出した。サッカーが野球に迫るプロスポーツとしての地位を確立した瞬間と言ってもいい。
2002年W杯が韓国と日本の共催に決まったのはその前年だった。しかし、過去にW杯に出場したことがない国が開催国になった前例はなく、日本のフランスW杯出場は、至上命題になっていた。アジア最終予選は、まさにプレッシャーが掛かる中での戦いだった。国立競技場で行われたその3戦目の韓国戦に敗れると加茂周監督更迭論が浮上。続くカザフスタン戦に引き分けると、協会は大鉈を振らざるを得なくなった。後から振り返るなら、この更迭劇がエンタメ性を高めるスパイスの役を果たしていた。
この更迭劇は、今後にも活かされることになった。2018年3月に起きたハリルホジッチから西野朗への交代劇だ。これは、20年半前の成功体験がなければ起きただろうか。ロシアW杯における日本の好成績(ベスト16)はあっただろうか。平成のサッカー史を振り返るとき、加茂さんから岡田さんへの交代劇は外すことはできない事件になる。
日本代表の低迷と欧州CLの台頭
1992年のアジアカップ優勝からドーハの悲劇、ジョホールバルの逆転劇を経て2002年日韓共催W杯に至る10年間、日本サッカーは急激な右肩上がりを示した。その前と後ではまさに別世界。世界広しといえども10年の間にここまでの変化を遂げた国はそう多くない。
前年比20%と言いたくなる強烈な伸長率を示した日本だが、2002年以降、その右肩上がりは止んだ。2006年ドイツW杯では、グループリーグ最下位に沈み、2010年南アW杯ではベスト16入りするも、2014年ブラジルW杯では再びグループリーグ最下位に。2018年ロシアW杯で、再びベスト16入りを果たすも、運に救われた要素なきにしもあらずで、まさに一進一退を繰り返している。世界という壁にぶち当たっている状態だ。
世界に目を転じれば、平成の30年間に急上昇したのが欧州チャンピオンズリーグのステイタスだ。名称がチャンピオンズカップからチャンピオンズリーグに変更されたのは1992-93シーズンだが、それを機に大会は肥大化の一途を辿った。拍車を掛けたのがボスマン判決で、職業選択の自由(移籍の自由)と移籍金の撤廃を謳ったその内容が1996-97シーズンに施行されると、チャンピオンズリーグの舞台には、世界各地からスター選手が続々と集まることになった。
日本人初のチャンピオンズリーガーが誕生したのは2001〜02シーズン。最有力視されていたのはフェイエノールトの小野伸二だったが、試合前日(2001年9月11日)、アメリカで同時多発テロが発生。先発が予想された試合はキャンセルになった。その間隙を縫い、日本人初の栄誉に輝いたのはアーセナルの稲本潤一で、マヨルカ戦の後半に交代出場を果たしたのだった。
それから27シーズン経った今季(2018-19)のチャンピオンズリーグに、日本人が何人出場したかと言えば、長友佑都(ガラタサライ)、香川真司(ドルトムント)、西村拓真(CSKA)のわずか3人。しかも香川、西村は各1試合、交替で出場したのみである。これまでの総数もわずか16人(チャンピオンズカップ時代の奥寺康彦さんを含む)止まりだ。
欧州組は確かに増えた。日本代表もほぼ海外組で占められている。それをかつてと比較し、隔世の感があるとポジティブに捉える人が多いようだが、チャンピオンズリーガーの数はまるで増えていない。W杯の組替え戦と言うべきチャンピオンズリーグに、日本は依然として選手を満足に送り込めずにいるのだ。
選手のステイタスを示すものと言えば、まず代表試合出場数が挙げられるが、より今日的なのはチャンピオンズリーグ出場試合数だ。日本人歴代最高は香川の33試合。以下、内田篤人(29)、中村俊輔(17)、長友佑都(15)、本田圭佑(11)、小野(9)、岡崎慎司(7)、稲本潤一(7)、長谷部誠(6)、鈴木隆行(4)……と続く。いずれも代表で中心的な役割を果たした選手ばかりだが、W杯でコンスタントにベスト16以上を狙うチームを目指すには寂しすぎる数字だ。日常の活動で、欧州のトップレベルを体験する選手の数がもっと増えない限り、代表チームがW杯本番で大活躍する姿を想像することは難しいのだ。
まだサッカーの真髄に迫ることができていない報道
欧州のサッカーはその間、攻撃的になった。具体的には後ろで守らず、高い位置からプレスを掛けるスタイルが主流になった。それが選手の技量を上昇させる起爆剤になった。
たとえば10年前の映像に目をやれば、そのサッカーは古めかしく見える。いまのレベルが最も高いのがサッカーの特性だ。常に右肩上がりを続けている競技。その発展に貢献しているのがプレッシングだ。サッカーの進歩を支えるのはプレッシング。欧州サッカーの近代史を探れば、そうした結論に辿り着くが、日本サッカーは必ずしもそうではない。Jリーグで多く目に止まるのは、後ろで守る非プレッシングだ。守備的サッカーの占める割合は、世界の平均値よりずいぶん高い。これでは選手の技量のみならず、サッカー競技そのものの進歩発展にも貢献しない。結果に目が眩みやすい勝利至上主義に陥りやすいサッカーと言ってもいい。
メディア報道しかり。サッカーは結果も重要だが、それと同じぐらい中身が重視される。そしてそれに大きく関わるのが監督で、試合内容に強い影響力を持つ。他の競技(特に野球)と異なるのはこの点になるが、日本のサッカー報道は一般的なスポーツ論に走りがちだ。サッカー的ではない。
選手への批評はあっても監督、指導者への批判はなし。協会への批判ももちろんだ。サッカーの真髄に迫ることができていない。これではサッカーは進歩していかない。
代表よりクラブ ファン気質の変化は加速していくのか
一方、ファン気質は変化している。1997年11月16日、ジョホールバルのスタンドを埋めたのは日本人のファンだった。その数およそ2万人。翌年、開催されたフランスW杯には、計10万人もの日本人が駆けつけている。その流れは2006年ドイツW杯まで続いた。ところが2010年南アW杯、2014年ブラジルW杯は、現地の治安に難があったこともあるが、駆けつけたファンはごくわずか。2018年大会は、日韓共催W杯を除けば日本から最も近い国、ロシアで開催されるW杯で、ビザも免除されたり、列車も無料だったり、ファンにとってはまさに行き時だった。ところがその数はわずかだった。スタンドの1割にも満たなかった。せいぜい3000、4000人という感じで、少なくとも韓国人には大きく劣っていた。
2018年(平成30年)アジアチャンピオンズリーグを制した鹿島アントラーズ 写真:アフロスポーツ
今年1月にアラブ首長国連邦で開催されたアジアカップでも日本人の少なさは目立った。日本代表を海外まで追いかけていくファンは激減の一途を辿っている。先のコロンビア戦、ボリビア戦のスタンドを眺めれば、満員には埋まっているものの、青いユニフォームを着て歌い続けるサポーターは大幅に減った。
他方、Jリーグのサポーターは元気がいい。アウェー戦にも足を運ぶ。アジアチャンピオンズリーグでは、海外のアウェー戦にも大挙駆けつける。アジアカップが行われたUAEは、昨年12月にクラブW杯も開催しているが、その時、駆けつけた鹿島サポーターは、アジアカップ観戦に出かけた日本代表サポーターとは比較にならぬほど多かった。
熱いのはJクラブ。サッカーファンは代表チームを一歩離れた場所から眺める傾向がある。よく言えば冷静。落ち着いている。こちらが日本代表監督を批判しても、非国民などと書き込まれるケースはかつてより減っている。
代表よりクラブ。このファン気質の変化は加速していくのか。平成から令和に移ろうとしているいま、とりあえず気にしたいポイントはここだ。日本サッカーをこれまでリードしてきたのは代表チームだが、今度はクラブサッカーが頑張る番だ。あるべき姿は両者の拮抗した関係である。そうでないと本物のサッカー人気は醸成されていかない。日本サッカーには少なからず変化が求められている。
2019年04月17日
トルシエ監督は日本人に合っていた でも人としては… 黄金世代「同窓会」
1998年10月、U-19日本代表はアジアユース準優勝に輝き、翌年のワールドユース出場権を勝ち取った。このチームの主軸を担っていたのが、79年生まれのタレントだった。
その才能に惚れ込んだフィリップ・トルシエ監督はA代表、五輪代表だけでなく、ユース代表も率いることを希望し、翌年ワールドユースで指揮を執ることになる。
その後、トルシエ監督に抜てきされる形でA代表へと引き上げられた黄金世代は、まさに「トルシエの息子たち」――。そこで今回集まった、小野伸二、稲本潤一、永井雄一郎、中田浩二、南雄太、酒井友之、播戸竜二の7人に、まずは彼らの恩師であるフランス人指揮官について語ってもらう。
ワールドユース準V戦士7人が集結!
――今日は特別に、ゲストとしてトルシエさんをお招きしています。よろしくお願いします!
一同:(拍手)
(トルシエ監督のお面をかぶった播戸がモノマネをしながら、登場!)
一同:(苦笑)
播戸:完全にスベってるやつやん!
一同:(笑)
稲本:熱いな、熱いな、熱いな(苦笑)。
播戸:完全にスベってるやつやな!
一同:(笑)
稲本:めちゃめちゃウケとるよ。
(播戸がお面を外すそうとすると……)
中田:あれ、お面、取るの?
播戸:あ、取らへん?
稲本:ずっと付けたままやで、それ。
小野:やっちゃったな(笑)。
播戸:ここでええの?
(播戸がようやく着席)
稲本:圧がすごいな。
播戸:でも、こうやって、あれやからな、盛り上げてきたからな。思い出すな。
稲本:チームをね。
播戸:20年前を思い出すわ。
小野:播ちゃんが盛り上げてくれたからね(笑)。
播戸:いや、いや、いや。
――では、まずはフィリップ・トルシエ監督についてうかがいたいと思います。みなさん、トルシエ監督にはどんな印象を抱いていますか? 思い出すエピソードなども教えてください。小野さん、どうですか?
小野:日本人にすごく合っているというか。やっぱり日本人って、監督に怒られながらやってきたイメージが小さい頃からあったから。アメとムチではないけれど、ムチの方が多かったけどね。
永井:アメあったか(笑)。
一同:(笑)
小野:たまにあるアメが気持ち良かったというか。そういう中で僕自身は、いつも緊張感を持ちながらできていたような気がするけど、みんなはどう? どうですか? 永井さん。
永井:どうだろうね。サッカー的にはやろうとしていたことがはっきりしていたし、そういった意味では、日本人には「こうだ」っていう形を示してくれたから、やり方的にも迷わずに、俺はすんなり入れたような気がするけれど、人としては、けっこう大変だったよね(笑)。だって俺、練習で、あったじゃん、バケツに氷水とスポンジが入っていたやつ。「頭冷やせ」とか言ってさ、練習のたびにバッて。
稲本:すげえ覚えてるじゃないですか。あんまり覚えてないと言ってたのに(笑)。
小野:俺ら、それちょっと覚えてないなあ(笑)。
一同:(笑)
永井:「こうやってやるんだ」って言って、俺、髪の毛つかまれてさ、バーッて頭突っ込まれたんだぜ。そりゃあ、覚えてるだろ。
小野:それは覚えてる、絶対覚えてる(笑)。
永井:もう、そのイメージが強すぎて。
酒井:今だから言えますね。
小野:間違いない。
永井:時代が許したね。
永井と南はルール変更で大会直前に招集
小野:よく耐えたね。あとは朝のあれね。クッキータイムね。
播戸:クッキータイムなあ。
南:懐かしい(笑)。
永井:あったっけ、そんなの?
南:練習の前のやつでしょ?
小野:午前練の前の練習ってあったじゃないですか。朝食を食べる前か。
播戸:Jヴィレッジでよくやってたな。(※1997年に開設された日本初のサッカーナショナルトレーニングセンター。当時、国内での合宿はよくJヴィレッジで行われており、99年3月、ワールドユース直前の国内合宿もJヴィレッジで実施された)
小野:Jヴィレッジでよくやってた。
永井:俺、Jヴィレッジ、行ってないもん。
小野:あ、そうか。
播戸:あ、そうや。
酒井:最後だけですよね。(※当初、ワールドユースには2度出場できないルールだったが、99年大会直前に改正されたため、97年の前回大会に出場していた南と永井が大会直前に招集された)
永井:言い方が悪いな、おまえ(笑)。
一同:(笑)
酒井:途中からだったから(笑)。
播戸:雄太もだよな、雄太もおらへんかったよな。
南:でも、俺は日本での合宿には参加したよ。永井くんは海外にいたから、ヨーロッパ遠征のときだけ、合流したよね。(※永井は当時、ドイツのカールスルーエに所属していた)
播戸:このふたりはね、キヨさん時代、知らんよな。(※清雲栄純監督。97年の立ち上げから98年のアジアユースまでチームを率いた。その後、トルシエ監督が就任してワールドユースを戦った)
南:そう、あとからだから。
永井:いや、でも俺は、キヨさんがチームを立ち上げた最初の合宿、那須でやったときだけはいたんだよ。
播戸:そうなんや。
トルシエ監督は今、どこで何をしている?
酒井:俺が招集されたのは、真ん中くらいだったかな。俺が入ったときには、もうイナと伸二がいた。
稲本:途中からやったやん。
小野:ジェフ(市原/当時)でさ、練習試合をやったときから始まったんだよね。
酒井:そう、そう。
稲本:なんか入ってきた、みたいな感じやった。練習試合して、次の日におる、みたいな感じやったよな。(※94年にU-16日本代表とジェフ市原ジュニアユースが練習試合を行い、ジェフの一員として出場した酒井のプレーが評価され、酒井は合宿中に代表に招集された)
小野:それで友ちゃんが来たからさ、俺らがすごく仲良くしていたヤツがどんどん落ちていくっていう(笑)。
酒井:俺、怖かったもん、チームに入るのが。もうチームができ上がっていたから。
稲本:俺がサイドバックに追いやられたときね。トルシエ、関係あらへん(トルシエのお面を指さしながら)。
一同:(笑)
播戸:(トルシエのお面を持ちながら)俺、最近ね、話したのよ。
稲本:ワイン、造ってんねんな。
播戸:そう、ワイン、造ってる。で、「ベトナムに住んでる」って言うてたよ。
中田:え、そうなの?
播戸:あ、住んでるんかは分からへんけど。俺も英語で話したから。
南:ふんわりだな、だいぶ(笑)。
一同:(笑)
中田:モロッコかどこかじゃなかったんだ。
播戸:住んでるのはモロッコかな。
永井:サミアとはまだ一緒にやっているのかな?(※モハメド・サミアコーチ。ナイジェリア代表、南アフリカ代表でトルシエのもとコーチを務め、トルシエの日本代表監督就任とともに来日し、コーチに就任。2003年には湘南ベルマーレの監督を務めた)
小野:もうやってないんじゃないの?
中田:サッカー、やってないでしょ。
播戸:ベトナムのなんかをやってるって言ったけどさあ。(※18年6月、ベトナムサッカー選手才能開発投資ファンドの常勤顧問に就任)
小野:英語でね。
播戸:そうそう、英語で。
中田:中国とは関わりあったでしょ。
小野:あったよね。(※17年3月、中国サッカー・スーパーリーグの重慶当代力帆足球倶楽部のスポーツディレクターに就任)
播戸:今も?
中田:今も中国と関わりながらやってるんじゃなかったっけ。なんかそんな感じで聞いたような気がする。
稲本:ふんわりやなあ(笑)。
小野:みんな、ふんわり(笑)。
永井:そもそもこの人選が悪い(笑)。ちゃんとしてないもん、誰ひとり。
小野:確かに(笑)。
モノマネでメンバーに入れたのかなって
播戸:いや、いや、いや。でも、俺は今日来るんかなと思ってたで、トルシエが。
小野:(お面を指して)いや、来てる、来てる。
一同:(笑)
播戸:いや、いや、いや。来るんかなと思ってたら、俺がこれ「かぶって出てくれ」みたいな。絶対あかんやつやん、みたいな。
稲本:よう受け入れたな(笑)。
播戸:しかも、あのモノマネとかもさ、やっても分からへんやろ、誰も。でも、喜んでたやろ、ヤツ(トルシエ)は。
稲本:ああ、ヤツは喜んでたよ。
播戸:めっちゃ喜んでたよな。
稲本:盛り上げてたもん、だって。
播戸:あれでちょっと、俺、(ワールドユースの)メンバー入れたのかな、みたいな。
小野:そこで?
一同:(笑)
稲本:どんな枠やねん。
播戸:いや、永井くんが来たからやで。永井くんが来なかったら。俺、アジアユースは出てたんやから、試合にずっと(笑)。な、やろ?(※98年アジアユースでは播戸が高原直泰と2トップを組んでいたが、ワールドユース直前に永井がチームに加わったことで、播戸はサブに回った)
永井:なんか、俺ら、立場悪いな(笑)。
一同:(笑)
中田:トルシエはけっこうバランスを見てたからね。試合に出る11人だけっていうより、そういうのも含めて、マネジメントはうまかったよね、あの人。だから、さっきの伸二のアメとムチじゃないけどさ、ムチの方が多くて、朝とかも、すごいぶつかってくるじゃん。
播戸:せやな。
中田:あれは覚えてるよね。
酒井:うちら、まだ19歳とかだからね。今だったら、ある程度、対応の仕方が分かるけれども、ビビってた、しかないよね。
南:でも、だんだんキレるタイミングがみんな分かってきていたよね。そろそろ今日、来るだろう、みたいな。勝ったあととか、特にさ。
酒井:だから、3バックとかキツかったでしょ。あそこ、「フラット3」で一番言われるところだからさ。(※3人のDFをフラットに並べてディフェンスラインを高く押し上げ、チーム全体の陣形をコンパクトに維持する、トルシエ監督独自の守備戦術)
中田:そうだね。特に俺なんか、もともとボランチをやってて、急に3バックに行ったから、けっこう無茶苦茶だったよ。ディフェンス、みんなおとなしいじゃん。だから、なおさらトルシエ、すごかったよね。テッシー(手島和希)とツジ(辻本茂輝)、金古(聖司)って、みんなおとなしいから。でも、昌邦さんがいい感じで間に入ってくれて。(※山本昌邦コーチ。コーチとしてトルシエを支えながら、監督と選手との間に入って、良き相談役として選手たちをサポートした)
播戸:確かにね。
戦績
グループステージ第1戦
日本 ●1-2 カメルーン
得点者=高原
グループステージ第2戦
日本 ○3-1 アメリカ
得点者=OG、高原、小笠原
グループステージ第3戦
日本 ○2-0 イングランド
得点者=石川、小野
ラウンド16
日本 ○1(5PK4)1 ポルトガル
得点者=遠藤
準々決勝
日本 ○2-0 メキシコ
得点者=本山、小野
準決勝
日本 ○2-1 ウルグアイ
得点者=高原、永井
決勝
日本 ●0-4 スペイン
得点者=なし
メンバーリスト
監督 フィリップ・トルシエ
No. Pos. 名前(所属) 生年月日 出場・得点
1 GK 榎本達也(横浜FM) 79.03.16 0試合・0得点
2 DF 手島和希(京都) 79.06.07 7試合・0得点
3 DF 辻本茂輝(京都) 79.06.23 7試合・0得点
4 DF 石川竜也(筑波大) 79.12.25 5試合・1得点
5 DF 加地亮(C大阪) 80.01.13 3試合・0得点
6 MF 稲本潤一(G大阪) 79.09.18 3試合・0得点
7 MF 酒井友之(市原) 79.06.29 7試合・0得点
8 MF 小笠原満男(鹿島) 79.04.05 7試合・1得点
9 FW 高原直泰(磐田) 79.06.04 7試合・3得点
10 MF 本山雅志(鹿島) 79.06.20 7試合・1得点
11 MF 遠藤保仁(京都) 80.01.28 7試合・1得点
12 MF 中田浩二(鹿島) 79.07.09 7試合・0得点
13 MF 小野伸二(浦和) 79.09.27 6試合・2得点
14 FW 永井雄一郎(カールスルーエ/ドイツ) 79.02.14 7試合・1得点
15 FW 高田保則(平塚) 79.02.22 3試合・0得点
16 FW 播戸竜二(G大阪) 79.08.02 5試合・0得点
17 DF 氏家英行(大宮) 79.02.23 1試合・0得点
18 GK 南雄太(柏) 79.09.30 7試合・0得点
バックアップ GK 曽ヶ端準(鹿島) 79.08.02 -試合・-得点
その才能に惚れ込んだフィリップ・トルシエ監督はA代表、五輪代表だけでなく、ユース代表も率いることを希望し、翌年ワールドユースで指揮を執ることになる。
その後、トルシエ監督に抜てきされる形でA代表へと引き上げられた黄金世代は、まさに「トルシエの息子たち」――。そこで今回集まった、小野伸二、稲本潤一、永井雄一郎、中田浩二、南雄太、酒井友之、播戸竜二の7人に、まずは彼らの恩師であるフランス人指揮官について語ってもらう。
ワールドユース準V戦士7人が集結!
――今日は特別に、ゲストとしてトルシエさんをお招きしています。よろしくお願いします!
一同:(拍手)
(トルシエ監督のお面をかぶった播戸がモノマネをしながら、登場!)
一同:(苦笑)
播戸:完全にスベってるやつやん!
一同:(笑)
稲本:熱いな、熱いな、熱いな(苦笑)。
播戸:完全にスベってるやつやな!
一同:(笑)
稲本:めちゃめちゃウケとるよ。
(播戸がお面を外すそうとすると……)
中田:あれ、お面、取るの?
播戸:あ、取らへん?
稲本:ずっと付けたままやで、それ。
小野:やっちゃったな(笑)。
播戸:ここでええの?
(播戸がようやく着席)
稲本:圧がすごいな。
播戸:でも、こうやって、あれやからな、盛り上げてきたからな。思い出すな。
稲本:チームをね。
播戸:20年前を思い出すわ。
小野:播ちゃんが盛り上げてくれたからね(笑)。
播戸:いや、いや、いや。
――では、まずはフィリップ・トルシエ監督についてうかがいたいと思います。みなさん、トルシエ監督にはどんな印象を抱いていますか? 思い出すエピソードなども教えてください。小野さん、どうですか?
小野:日本人にすごく合っているというか。やっぱり日本人って、監督に怒られながらやってきたイメージが小さい頃からあったから。アメとムチではないけれど、ムチの方が多かったけどね。
永井:アメあったか(笑)。
一同:(笑)
小野:たまにあるアメが気持ち良かったというか。そういう中で僕自身は、いつも緊張感を持ちながらできていたような気がするけど、みんなはどう? どうですか? 永井さん。
永井:どうだろうね。サッカー的にはやろうとしていたことがはっきりしていたし、そういった意味では、日本人には「こうだ」っていう形を示してくれたから、やり方的にも迷わずに、俺はすんなり入れたような気がするけれど、人としては、けっこう大変だったよね(笑)。だって俺、練習で、あったじゃん、バケツに氷水とスポンジが入っていたやつ。「頭冷やせ」とか言ってさ、練習のたびにバッて。
稲本:すげえ覚えてるじゃないですか。あんまり覚えてないと言ってたのに(笑)。
小野:俺ら、それちょっと覚えてないなあ(笑)。
一同:(笑)
永井:「こうやってやるんだ」って言って、俺、髪の毛つかまれてさ、バーッて頭突っ込まれたんだぜ。そりゃあ、覚えてるだろ。
小野:それは覚えてる、絶対覚えてる(笑)。
永井:もう、そのイメージが強すぎて。
酒井:今だから言えますね。
小野:間違いない。
永井:時代が許したね。
永井と南はルール変更で大会直前に招集
小野:よく耐えたね。あとは朝のあれね。クッキータイムね。
播戸:クッキータイムなあ。
南:懐かしい(笑)。
永井:あったっけ、そんなの?
南:練習の前のやつでしょ?
小野:午前練の前の練習ってあったじゃないですか。朝食を食べる前か。
播戸:Jヴィレッジでよくやってたな。(※1997年に開設された日本初のサッカーナショナルトレーニングセンター。当時、国内での合宿はよくJヴィレッジで行われており、99年3月、ワールドユース直前の国内合宿もJヴィレッジで実施された)
小野:Jヴィレッジでよくやってた。
永井:俺、Jヴィレッジ、行ってないもん。
小野:あ、そうか。
播戸:あ、そうや。
酒井:最後だけですよね。(※当初、ワールドユースには2度出場できないルールだったが、99年大会直前に改正されたため、97年の前回大会に出場していた南と永井が大会直前に招集された)
永井:言い方が悪いな、おまえ(笑)。
一同:(笑)
酒井:途中からだったから(笑)。
播戸:雄太もだよな、雄太もおらへんかったよな。
南:でも、俺は日本での合宿には参加したよ。永井くんは海外にいたから、ヨーロッパ遠征のときだけ、合流したよね。(※永井は当時、ドイツのカールスルーエに所属していた)
播戸:このふたりはね、キヨさん時代、知らんよな。(※清雲栄純監督。97年の立ち上げから98年のアジアユースまでチームを率いた。その後、トルシエ監督が就任してワールドユースを戦った)
南:そう、あとからだから。
永井:いや、でも俺は、キヨさんがチームを立ち上げた最初の合宿、那須でやったときだけはいたんだよ。
播戸:そうなんや。
トルシエ監督は今、どこで何をしている?
酒井:俺が招集されたのは、真ん中くらいだったかな。俺が入ったときには、もうイナと伸二がいた。
稲本:途中からやったやん。
小野:ジェフ(市原/当時)でさ、練習試合をやったときから始まったんだよね。
酒井:そう、そう。
稲本:なんか入ってきた、みたいな感じやった。練習試合して、次の日におる、みたいな感じやったよな。(※94年にU-16日本代表とジェフ市原ジュニアユースが練習試合を行い、ジェフの一員として出場した酒井のプレーが評価され、酒井は合宿中に代表に招集された)
小野:それで友ちゃんが来たからさ、俺らがすごく仲良くしていたヤツがどんどん落ちていくっていう(笑)。
酒井:俺、怖かったもん、チームに入るのが。もうチームができ上がっていたから。
稲本:俺がサイドバックに追いやられたときね。トルシエ、関係あらへん(トルシエのお面を指さしながら)。
一同:(笑)
播戸:(トルシエのお面を持ちながら)俺、最近ね、話したのよ。
稲本:ワイン、造ってんねんな。
播戸:そう、ワイン、造ってる。で、「ベトナムに住んでる」って言うてたよ。
中田:え、そうなの?
播戸:あ、住んでるんかは分からへんけど。俺も英語で話したから。
南:ふんわりだな、だいぶ(笑)。
一同:(笑)
中田:モロッコかどこかじゃなかったんだ。
播戸:住んでるのはモロッコかな。
永井:サミアとはまだ一緒にやっているのかな?(※モハメド・サミアコーチ。ナイジェリア代表、南アフリカ代表でトルシエのもとコーチを務め、トルシエの日本代表監督就任とともに来日し、コーチに就任。2003年には湘南ベルマーレの監督を務めた)
小野:もうやってないんじゃないの?
中田:サッカー、やってないでしょ。
播戸:ベトナムのなんかをやってるって言ったけどさあ。(※18年6月、ベトナムサッカー選手才能開発投資ファンドの常勤顧問に就任)
小野:英語でね。
播戸:そうそう、英語で。
中田:中国とは関わりあったでしょ。
小野:あったよね。(※17年3月、中国サッカー・スーパーリーグの重慶当代力帆足球倶楽部のスポーツディレクターに就任)
播戸:今も?
中田:今も中国と関わりながらやってるんじゃなかったっけ。なんかそんな感じで聞いたような気がする。
稲本:ふんわりやなあ(笑)。
小野:みんな、ふんわり(笑)。
永井:そもそもこの人選が悪い(笑)。ちゃんとしてないもん、誰ひとり。
小野:確かに(笑)。
モノマネでメンバーに入れたのかなって
播戸:いや、いや、いや。でも、俺は今日来るんかなと思ってたで、トルシエが。
小野:(お面を指して)いや、来てる、来てる。
一同:(笑)
播戸:いや、いや、いや。来るんかなと思ってたら、俺がこれ「かぶって出てくれ」みたいな。絶対あかんやつやん、みたいな。
稲本:よう受け入れたな(笑)。
播戸:しかも、あのモノマネとかもさ、やっても分からへんやろ、誰も。でも、喜んでたやろ、ヤツ(トルシエ)は。
稲本:ああ、ヤツは喜んでたよ。
播戸:めっちゃ喜んでたよな。
稲本:盛り上げてたもん、だって。
播戸:あれでちょっと、俺、(ワールドユースの)メンバー入れたのかな、みたいな。
小野:そこで?
一同:(笑)
稲本:どんな枠やねん。
播戸:いや、永井くんが来たからやで。永井くんが来なかったら。俺、アジアユースは出てたんやから、試合にずっと(笑)。な、やろ?(※98年アジアユースでは播戸が高原直泰と2トップを組んでいたが、ワールドユース直前に永井がチームに加わったことで、播戸はサブに回った)
永井:なんか、俺ら、立場悪いな(笑)。
一同:(笑)
中田:トルシエはけっこうバランスを見てたからね。試合に出る11人だけっていうより、そういうのも含めて、マネジメントはうまかったよね、あの人。だから、さっきの伸二のアメとムチじゃないけどさ、ムチの方が多くて、朝とかも、すごいぶつかってくるじゃん。
播戸:せやな。
中田:あれは覚えてるよね。
酒井:うちら、まだ19歳とかだからね。今だったら、ある程度、対応の仕方が分かるけれども、ビビってた、しかないよね。
南:でも、だんだんキレるタイミングがみんな分かってきていたよね。そろそろ今日、来るだろう、みたいな。勝ったあととか、特にさ。
酒井:だから、3バックとかキツかったでしょ。あそこ、「フラット3」で一番言われるところだからさ。(※3人のDFをフラットに並べてディフェンスラインを高く押し上げ、チーム全体の陣形をコンパクトに維持する、トルシエ監督独自の守備戦術)
中田:そうだね。特に俺なんか、もともとボランチをやってて、急に3バックに行ったから、けっこう無茶苦茶だったよ。ディフェンス、みんなおとなしいじゃん。だから、なおさらトルシエ、すごかったよね。テッシー(手島和希)とツジ(辻本茂輝)、金古(聖司)って、みんなおとなしいから。でも、昌邦さんがいい感じで間に入ってくれて。(※山本昌邦コーチ。コーチとしてトルシエを支えながら、監督と選手との間に入って、良き相談役として選手たちをサポートした)
播戸:確かにね。
戦績
グループステージ第1戦
日本 ●1-2 カメルーン
得点者=高原
グループステージ第2戦
日本 ○3-1 アメリカ
得点者=OG、高原、小笠原
グループステージ第3戦
日本 ○2-0 イングランド
得点者=石川、小野
ラウンド16
日本 ○1(5PK4)1 ポルトガル
得点者=遠藤
準々決勝
日本 ○2-0 メキシコ
得点者=本山、小野
準決勝
日本 ○2-1 ウルグアイ
得点者=高原、永井
決勝
日本 ●0-4 スペイン
得点者=なし
メンバーリスト
監督 フィリップ・トルシエ
No. Pos. 名前(所属) 生年月日 出場・得点
1 GK 榎本達也(横浜FM) 79.03.16 0試合・0得点
2 DF 手島和希(京都) 79.06.07 7試合・0得点
3 DF 辻本茂輝(京都) 79.06.23 7試合・0得点
4 DF 石川竜也(筑波大) 79.12.25 5試合・1得点
5 DF 加地亮(C大阪) 80.01.13 3試合・0得点
6 MF 稲本潤一(G大阪) 79.09.18 3試合・0得点
7 MF 酒井友之(市原) 79.06.29 7試合・0得点
8 MF 小笠原満男(鹿島) 79.04.05 7試合・1得点
9 FW 高原直泰(磐田) 79.06.04 7試合・3得点
10 MF 本山雅志(鹿島) 79.06.20 7試合・1得点
11 MF 遠藤保仁(京都) 80.01.28 7試合・1得点
12 MF 中田浩二(鹿島) 79.07.09 7試合・0得点
13 MF 小野伸二(浦和) 79.09.27 6試合・2得点
14 FW 永井雄一郎(カールスルーエ/ドイツ) 79.02.14 7試合・1得点
15 FW 高田保則(平塚) 79.02.22 3試合・0得点
16 FW 播戸竜二(G大阪) 79.08.02 5試合・0得点
17 DF 氏家英行(大宮) 79.02.23 1試合・0得点
18 GK 南雄太(柏) 79.09.30 7試合・0得点
バックアップ GK 曽ヶ端準(鹿島) 79.08.02 -試合・-得点
2019年04月15日
「彼は閃光のように早い」「相手は本気で苛立っていた」伊東純也のパフォーマンスにベルギー紙は絶賛の嵐!!
「完璧なパス」でアシストを記録
現地時間4月14日、プレーオフ1(PO1)の第4節が行なわれ、勝点1ポイント差で現在1位のヘンクは、2位のクラブ・ブルージュと直接対決。3-1で勝利し、首位を維持している。
このプレーオフ1では、レギュラーシーズンの最終的な勝点を半分にした状態で6チームが総当たり戦を行なう。PO1に勝利し、リーグ優勝を決めたチームには、来シーズンのチャンピオンズ・リーグ出場権が与えられる仕組みだ。
ここまでの3試合で2勝1敗と勝ち越しているヘンクの不動のレギュラーに定着した伊東純也は、4ー3-3の右ウイングで先発し、フル出場で勝利に貢献している。
試合開始から絶えず前線に顔を出し、何度もチャンスを創出すると、80分には3点目をアシスト。終盤にC・ブルージュの猛攻に遭った時間帯では、守備でも奮戦した。
現地メディアはこの伊東の活躍を高く評価している。現地紙『De Standaard』は「完璧なパスがイトウからサマッタに通ってゴール! ヘンクはホームでパーティーを開いていたようだ!」とアシストを称賛。ベルギー全国紙の『Het Laatste Nieuws』も、「両チームはお互いに相手を苦しめていたが、とくにスピードスターがいるヘンクの攻撃陣に、C・ブルージュは手を焼いただろう」と評している。
さらに、ベルギー紙『Het Nieuwsblad』は10点中8点の高評価を与え、日本代表アタッカーの活躍を絶賛した。
「この日、ヘンクで目立った活躍をしたのは、主将のレアンドロ・トロサール、中盤のルシアン・マリノフスキ、そして伊東純也だ。後半のハイライトはとくに伊東に集中していた。“閃光のように早い”ウイングは、プレーオフを通じて成長し続けている。この試合でもトリッキーなプレーと豊富な運動量とスピードを武器に走り回っていた。
常にせわしなく素早い伊東に対し、対峙したC・ブルージュのステファノ・デンスビルは前半だけでも本気で苛立っている様子だった。伊東は時折、突っ走りすぎるきらいはあるが、彼のパフォーマンスはチームの勝利を揺るぎないものにしている」
上位対決を制したヘンクはPO1の首位をキープ。次節は4月19日、アウェーでスタンダール・リエージュと対戦する。
現地時間4月14日、プレーオフ1(PO1)の第4節が行なわれ、勝点1ポイント差で現在1位のヘンクは、2位のクラブ・ブルージュと直接対決。3-1で勝利し、首位を維持している。
このプレーオフ1では、レギュラーシーズンの最終的な勝点を半分にした状態で6チームが総当たり戦を行なう。PO1に勝利し、リーグ優勝を決めたチームには、来シーズンのチャンピオンズ・リーグ出場権が与えられる仕組みだ。
ここまでの3試合で2勝1敗と勝ち越しているヘンクの不動のレギュラーに定着した伊東純也は、4ー3-3の右ウイングで先発し、フル出場で勝利に貢献している。
試合開始から絶えず前線に顔を出し、何度もチャンスを創出すると、80分には3点目をアシスト。終盤にC・ブルージュの猛攻に遭った時間帯では、守備でも奮戦した。
現地メディアはこの伊東の活躍を高く評価している。現地紙『De Standaard』は「完璧なパスがイトウからサマッタに通ってゴール! ヘンクはホームでパーティーを開いていたようだ!」とアシストを称賛。ベルギー全国紙の『Het Laatste Nieuws』も、「両チームはお互いに相手を苦しめていたが、とくにスピードスターがいるヘンクの攻撃陣に、C・ブルージュは手を焼いただろう」と評している。
さらに、ベルギー紙『Het Nieuwsblad』は10点中8点の高評価を与え、日本代表アタッカーの活躍を絶賛した。
「この日、ヘンクで目立った活躍をしたのは、主将のレアンドロ・トロサール、中盤のルシアン・マリノフスキ、そして伊東純也だ。後半のハイライトはとくに伊東に集中していた。“閃光のように早い”ウイングは、プレーオフを通じて成長し続けている。この試合でもトリッキーなプレーと豊富な運動量とスピードを武器に走り回っていた。
常にせわしなく素早い伊東に対し、対峙したC・ブルージュのステファノ・デンスビルは前半だけでも本気で苛立っている様子だった。伊東は時折、突っ走りすぎるきらいはあるが、彼のパフォーマンスはチームの勝利を揺るぎないものにしている」
上位対決を制したヘンクはPO1の首位をキープ。次節は4月19日、アウェーでスタンダール・リエージュと対戦する。
2019年04月07日
FC琉球がJリーグ新記録! 2017年9月から続くホーム無敗を26試合に伸ばす 柏レイソルと1―1
サッカー明治安田生命J2第8節は7日、各地で行われ、現在4位のFC琉球はタピック県総ひやごんスタジアムで3位の柏レイソルと対戦し1―1で引き分け、2017年9月から続くホーム無敗を26試合に伸ばし、Jリーグ記録更新の快挙を成し遂げた。
FC琉球は2003年に県内初のJリーグを目指し発足。県リーグ、九州、JFLを経て14年から始まったJ3に参戦。J3で5季目の昨季、圧倒的な攻撃サッカーでリーグ制覇と昇格を決めて、今季からJ2に戦いの場を移していた。
金鍾成前監督が率いた2017年9月30日から無敗を継続した。今季から指揮を執る樋口靖洋新監督の下、この日で26試合無敗(18勝8分け)を達成した。従来のJリーグ記録はJ1浦和やガンバ大阪(いずれも2007年)などのビッグクラブの25試合だった。
FC琉球は2003年に県内初のJリーグを目指し発足。県リーグ、九州、JFLを経て14年から始まったJ3に参戦。J3で5季目の昨季、圧倒的な攻撃サッカーでリーグ制覇と昇格を決めて、今季からJ2に戦いの場を移していた。
金鍾成前監督が率いた2017年9月30日から無敗を継続した。今季から指揮を執る樋口靖洋新監督の下、この日で26試合無敗(18勝8分け)を達成した。従来のJリーグ記録はJ1浦和やガンバ大阪(いずれも2007年)などのビッグクラブの25試合だった。
2019年03月24日
レアルGKクルトワさんやらかした説
ティボー・クルトワのパフォーマンスに関する論争は終わるどころか、悪化している。今回はベルギー代表でのプレーが原因だった。
彼の派手なミスからの失点で一時的にチームはロシア代表に1-1の同点に追いつかれた。幸いにも、指揮官ロベルト・マルティネスが率いるチームは最終的に3-1で勝利を収めた。
クルトワ、レアルでの守護神の座が遠のく痛恨の失態
クルトワはジダンのレアル・マドリー監督復帰戦で控えに回った事やピッチ外の問題によるメディアへの露出などから調子の悪さを疑われ、批判の的となっている。
しかし、クルトワはこの状況に対して自己弁護を行う事を望んだ。
「スペインメディアが僕を殺そうとしても、僕はベストGKの1人だと考え続けている。僕は非常に強いと思う。しっかりトレーニングをし、うまくプレーしているから落ち着いているよ」
試合後、クルトワはSNSでも以下のメッセージを投稿し、自身の状況を前向きに捉えている事を示した。
「常にミスから学ぶものだ」
次戦にキプロス代表と対戦するベルギー代表でクルトワは絶対的守護神として君臨しているが、マドリーでは毎週末のレギュラーの座は保証されていない。
https://youtu.be/zeDnPZSiKrc
彼の派手なミスからの失点で一時的にチームはロシア代表に1-1の同点に追いつかれた。幸いにも、指揮官ロベルト・マルティネスが率いるチームは最終的に3-1で勝利を収めた。
クルトワ、レアルでの守護神の座が遠のく痛恨の失態
クルトワはジダンのレアル・マドリー監督復帰戦で控えに回った事やピッチ外の問題によるメディアへの露出などから調子の悪さを疑われ、批判の的となっている。
しかし、クルトワはこの状況に対して自己弁護を行う事を望んだ。
「スペインメディアが僕を殺そうとしても、僕はベストGKの1人だと考え続けている。僕は非常に強いと思う。しっかりトレーニングをし、うまくプレーしているから落ち着いているよ」
試合後、クルトワはSNSでも以下のメッセージを投稿し、自身の状況を前向きに捉えている事を示した。
「常にミスから学ぶものだ」
次戦にキプロス代表と対戦するベルギー代表でクルトワは絶対的守護神として君臨しているが、マドリーでは毎週末のレギュラーの座は保証されていない。
https://youtu.be/zeDnPZSiKrc