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2019年05月30日

2度のW杯招致活動の蹉跌を振り返って 小倉純二が語る「平成の日本サッカー」

JFA(日本サッカー協会)最高顧問、小倉純二の部屋はJFAハウスの11階にある。広報スタッフに案内されると、1999年ワールドユース(現U−20ワールドカップ=W杯)で準優勝した日本代表のユニホームの額装が視界に飛び込んでくる。そして部屋の主は、にこやかな表情でわれわれを迎えると、すぐさま思い出話に花を咲かせた。




「20年前のナイジェリア大会は、まだFIFA(国際サッカー連盟)の理事になる前で、FIFAのユースコミッティのメンバーとして現地に行きました。日本が準優勝したこともあり、非常に思い出深い大会ですね。それからさらに20年前、79年に日本で開催されたワールドユースでは、財務委員をやったり警護の計画を立てたり、といったことをやらせていただきました。それがFIFAとの初めての仕事でした」





 久々に小倉を訪ねたのは、このほど上梓された『「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた』(以下『平成秘史』)の著者インタビューのためである。小倉は1938年の生まれ。平成の改元を50歳で、そして令和の幕開けを80歳で迎えた。日本サッカーにとっては、驚異的な発展の連続だった平成の30年。本書は、長年にわたりJFAやFIFAなどの要職にあった小倉による回顧録だ。「坂の上の雲」のような時代を丹念に振り返りながら、サッカーとの縁を作ってくれた古河電気工業への謝意が端々につづられている点も見逃せない。


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「私がいた古河電工という会社は、サッカー界に人材を送り出すことに抵抗はなかったですね。日本代表監督だった長沼(健)さん、東京五輪とメキシコ五輪で主将だった八重樫(茂生)さん、それから川淵(三郎)さん、平木(隆三)さんもそう。平木さんは会社を辞めてJFAの職員になりましたが、私は専務理事になっても定年まで会社に籍はありました。『借金(住宅ローン)を返済するまではいてくれ』と言われて(笑)」






 1981年から6年間、駐在員としてロンドン行きを命じたのも古河電工だった。この時に「JFA国際委員」の名刺を持ち、仕事の傍ら現地で築いたサッカー関係者とのコネクションは、日本サッカー界にとっても大きな財産となる。そして濃厚かつ豊潤な「フットボールの母国」の文化を吸収して帰国すると、待っていたのは閑古鳥が鳴く国内リーグの窮状。この時に抱いた危機感が、日本サッカーの新時代を切り開く原動力となる。





「向こうに行く前は、日本サッカーリーグにそれなりにお客さんが入っていたし、向こうではずっと満員のスタンドを見ていたわけですよ。それが帰国してみると、本当に数えるほどしかお客さんがいなくてショックでした。今のままでは限界だと。その後、日本サッカーのプロ化という議論になってJリーグにつながっていくわけですが、私自身は『川淵さんたちと一緒にやらなければ』という思いが強くありました。ただそうなると『JFAの財務は誰が立て直すんだ』という話になって、それで私が専務理事になったのが92年でしたね」





韓国の追い上げで「共催」となった2002年



小倉はその後、AFC(アジアサッカー連盟)理事、FIFA理事、JFA会長などを歴任。これまでの日本サッカー回顧録とは異なり、『平成秘史』がよりグローバルな視点を読者に与えてくれるのは、まさに小倉が歩んできたキャリアがあればこそである。今回のインタビューでは、あえてテーマを「W杯招致活動」に絞ることにした。右肩上がりの平成サッカー史にあって、2度のW杯招致は日本にとっての蹉跌(さてつ)であり、そのいずれにも小倉が深く関わっていたからだ。まずは2002年の招致活動から。





「W杯招致の議論を始めた当初、4万人が入るスタジアムなんて国立と大阪(長居陸上競技場)しかなかった。それが実際に募集をかけると15の自治体が手を挙げてくれて、中には『国体用のスタジアムを前倒しで作ってもいい』というところも出てきたんですね。ただし首都の東京は手を挙げられなかった。国立競技場の改修は『工事期間中に大会ができない』と陸連が反対。米軍の調布基地跡地にスタジアムをという話も『予算がない』。最後は、横浜市長だった高秀(秀信)さんが決断してくれて助かりましたね」






 開催地に首都が外れるという誤算はあったものの、新横浜に決勝が開催できる7万人収容のスタジアムが作られることが決定。肝心の招致活動レースでも、日本が圧倒的に優位に立っていた。それは当時のFIFA会長、ジョアン・アベランジェからお墨付きをもらっていたことからも明らかである。






「アベランジェは『手を挙げている国はいろいろあるけれど、やっぱり日本だろうな』と言ってくれましたね。当時はW杯の大会スポンサーも日本企業がたくさん名を連ねていましたし、ワールドユースやトヨタカップといった大会運営の実績もある。93年には日本でU−17W杯も開催して、FIFAから運営能力を高く評価されました。『02年は自動的に日本になるよ』とも言われていましたね」



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 潮目が変わったのは、93年の晩秋から94年の初夏にかけて。いわゆる「ドーハの悲劇」によって日本がW杯初出場の夢を絶たれると、逆転で本大会の切符を手にした韓国が02年の招致レースに名乗りを挙げる。そして翌年5月のFIFA副会長選挙では、JFA副会長(当時)の村田忠男が韓国のチョン・モンジュンに惨敗。こうした韓国の猛烈な追い上げに加えて、アベランジェとUEFA(欧州サッカー連盟)との政治抗争にも巻き込まれ、日本は韓国とのW杯共催を受け入れることを余儀なくされる。





「共催の提案は(96年)5月31日以前から耳にしていました。同じアジアの国同士が喧嘩をするのは良くないと、AFCの関係者も悩んでいました。アフリカ諸国の関係者は『共催を支持するように』と、UEFAからプレッシャーを受けていたようです。『言うことを聞かないなら、アフリカに指導者を送らない』とかね。ただ、われわれとしては『W杯は1つの国の国境の範囲内ですべての試合が行われる』という規約を遵守するほかなかった。でも結局は、ルールそのものが変えられてしまったんですね」





2022年にW杯単独開催を試みた理由





あのし烈な日韓のデッドヒートは何だったのか。そう思えて仕方がない2002年W杯招致活動は、当のFIFAがルールを変える形で「共催」という決着を見ることとなった。結果としてアジア初のW杯は大いに盛り上がったものの、小倉自身には「次こそは日本での単独開催を」という思いがくすぶり続ける。その思いは、10年に開催国が決定する「2018&22年W杯」招致活動に向けられることとなった。





「22年の招致活動は『おそらく勝てないだろう』と思っていました。周りからも『Too early(早すぎる)』と言われていましたしね。ついこの間(W杯を)開催したばかりだろうと。FIFAの中でも新しさを求めていたところはあったと思います。それでもわれわれが手を挙げたのは、02年の時との違いを知りたかったということと『あわよくば』という思いもありました(苦笑)。そうしたら、韓国も手を挙げたと」






 2大会の招致レースは、18年がヨーロッパ、22年がそれ以外の大陸で行われることとなった。22年大会に立候補したのは、日本、米国、韓国、オーストラリア、そしてカタール。大方の予想では、94年大会の開催実績がある米国が有利。W杯出場すらなく、国土の総面積も秋田県ほど、しかも大会が行われる6月には気温が50度にまで上昇するカタールは「問題外」とされた。しかし結果は、周知のとおり。







「おそらく皆さん、米国が選ばれるだろうと思っていたんじゃないですか? 少なくとも、カタールが選ばれると予想していた人は、僕を含めてほとんどいなかったんじゃないですかね。あんなに小さな国で、しかもあの暑さで開催できるはずがない。まあ、あとから開催時期が11月に決まりましたけれどね。これは本にも書きましたが、カタールに決まった瞬間、アフリカの理事の奥様方が歓声を上げたのにもびっくりしました(苦笑)」






 ちなみに日本は、2回目の投票で落選。単独開催の夢は、あっさり潰えることとなった。翌11年、72歳となった小倉は定年でFIFAの理事を退く。一連のFIFAスキャンダルが発覚したのは、それから4年後の15年のこと。米国内での捜査は、やがてヨーロッパにも飛び火し、次期FIFA会長就任が確実視されていたミシェル・プラティニ(当時UEFA会長)は、8年間の活動停止処分を受ける(のちに6年間に短縮)。





「プラティニとは、理事の中でも親しくしていましたからショックでした。ただ、一連のスキャンダルと直接関係はないと思っています。あれに連座していたのは、北中米カリブや南米の理事ばかりでしたからね。もちろん、僕も理事を退任していたので、詳しいことは分からないですが。それにしても、プラティニに代わって会長選挙に立候補した(ジャンニ・)インファンティーノが当選するんですから、分からないですよね(苦笑)」




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日本のW杯単独開催はもうないけれども





余談ながらプラティニは、22年大会に関して「カタール支持」を表明していたことでも知られる。そしてプラティニ失脚後、ゼップ・ブラッターの後継者としてFIFA会長となったインファンティーノは、26年W杯から出場国枠を32から48に増やすという公約を実現。この決定により日本が将来、単独でW杯を開催する可能性は、ますます遠のいてしまったと小倉はとらえている。





「次にアジアでW杯を開催するとしたら、おそらく共催しかないでしょう。1カ国に48カ国を集めて、80試合をできるのは中国くらいしかない。米国だって、26年はカナダとメキシコの3カ国共催じゃないですか。JFA2005年宣言では『2050年までに日本でW杯を開催して、その大会の優勝チームになる』としていますけれど、もはや日本での単独開催は難しいでしょうね。女子W杯なら、まだ可能性があるかもしれませんが」




 小倉が「日本でのW杯開催の可能性」について、最初に文章で発表したのは、平成が始まったばかりの1989年のこと。その夢は2度にわたって、いずれも思わぬ形で挫かれることとなる。この間、FIFAの体質は変わり、W杯はますます巨大化していった。そして日本は、サッカーでは国際的に素晴らしい実績を残したものの、国家としてのプレゼンスは(特に経済面において)無残なまでに低下して今に至っている。





「やっぱりね、時代の流れかなとは思っているんですよ。FIFAの加盟国は今では211ありますから(出場国の増加は)必然なのかなと。そうなると、1カ国での開催は難しくなるから、今後は共催が増えてくると思います。一番(開催国に)なりたがっているのは、中国でしょうね。習近平(国家主席)は国策でサッカーを強くしようとしているし、今回のW杯のスポンサーでも中国企業が多かったじゃないですか。それもまた、時代なのかなと思いますね」





 著書『平成秘史』の最後の章で、小倉は《2度目のW杯が日本で開催されることを心から願っている(残念ながら私はこの世にいないだろう)。》と書いている。さりげないようで、静かな諦念がにじみ出ている。それでも「アジアで初めてW杯を開催した国」として、まだまだ日本には果たすべき役割があると小倉は考えている。令和の日本サッカーに向けた本人のメッセージをもって、本稿を締めくくることにしよう。





「これからの日本は、アジアの中でブラジルのような役割を果たしていくのではないかと思っています。ブラジル人選手って、日本をはじめ世界中でプレーしていますよね。中には国籍を変えて、その国の代表になる選手もいる。日本の選手も、海外移籍といえばヨーロッパがメーンだったけれど、最近はタイやシンガポールといったアジアでプレーする選手も増えていますよね。あるいは請われて、国籍を変えることも当たり前になるかもしれない。そういう時代が、間もなくやって来るんじゃないでしょうか」
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