アフィリエイト広告を利用しています
リンク集
最新記事
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
<< 2021年12月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
記事ランキング
ファン

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2020年12月04日

ものの見方が変わる 座右の寓話

    51M6p-c+cgL.jpg



スピーチ、朝礼、プレゼンあるいは雑談など、人にものを伝える際「寓話」は非常に役立つツールである。イメージのしやすさ、ユーモアな表現、そして説得力の高さで話し手の主張を強固に印象づける。本書は、古今東西さまざまなジャンルの寓話を88話集め、さらにそれらを15の視点に分け解説しており、現実社会でも役立てられそうな、活かせそうな寓話がたくさん紹介されている。



@六人の盲人と象

ある日、六人の盲人が象を触ってその正体を突きとめようとした。 一人目の盲人は象の鼻に触り、「象とはヘビのようなものだ」と言った。 二人目の盲人は象の耳に触り、「象とはうちわのようなものだ」と言った。 三人目の盲人は象の足に触り、「象とは木の幹のようなものだ」と言った。 四人目の盲人は象の胴体に触り、「象とは壁のようなものだ」と言った。 五人目の盲人は象のしっぽに触り、「象とはロープのようなものだ」と言った。 六人目の盲人は象の牙に触り、「象とは槍のようなものだ」と言った。 それから、六人の盲人たちは長いこと大声で言い争い、それぞれが自分の意見を譲らなかった。


もちろん、一つの視点よりも六つの視点を持つことは重要だ。しかしながら「部分の総和は必ずしも全体にはならない」ことを忘れてはいけない。全体的な視野での観察というのは、個別観察の線形的な集計からは決して出てこない。全体的な視野での観察とは、日本語で言うところの「イメージ」みたいなものだ。イメージとは心の中に描き出される像で、全体的な感じや印象を意味する。


Aオアシスの老人

二つの大きな町に挟まれたオアシスに、一人の老人が座っていた。 通りかかった男が老人に尋ねた。「これから隣の町に行くのですが、この先の町はどんな町ですか?」。老人はこれに答えずに聞いた。「今までいた町は、お前にとってどんな町だった?」 男はしかめっ面をして言う。「たちの悪い人間が多くて、汚い町ですよ。だから、隣の町に行ってみようと思ったんです」。老人はこう答えた。「お前がそう思っているなら、隣の町も、たちの悪い人間が多い、汚い町だろうよ」 しばらくすると、さっきの男が来たのと同じ町から、別の男がやってきた。その男はさっきの男と同じように老人に尋ねた。「これから隣の町に行くのですが、この先の町はどんな町ですか?」。老人はこれに答えずに聞いた。「今までいた町は、お前にとってどんな町だった?」 男はにこやかに答えた。「親切な人が多くて、きれいな町です」。老人はこれを聞いてこう言った。「なるほど、お前がそう思うなら、隣の町も親切な人が多い、きれいな町だよ」


視点や視野と似た言葉に、視座という言葉がある。視座とは「物事を見る姿勢や態度、立場」という意味である。意識とは唯一のものではなく、物事を見る態度や立場の数だけ存在するのだ


B双子の運命

過酷な環境で育った双子がいた。双子の父親は麻薬の常習者で、酒に酔っては母親と子どもに暴力を振るった。双子が三〇代になったとき、心理学者が二人にインタビューをした。 双子のうちの一人は薬物中毒になり、生活保護を受けていた。彼の暴力が原因で、妻と子どもは家を逃げだしていた。心理学者は彼に質問をした。 「あなたはなぜ、こんなことを自分と自分の家族にしているんですか?」 「あんな家庭に育った私に、これ以外の何ができるというんだ!」 双子のうちのもう一人は、ビジネスで成功して幸せな結婚をし、すばらしい親になっていた。心理学者は彼に質問をした。 「あなたはなぜ、これほどのことが成し遂げられたのですか?」 「あんな家庭に育った私に、これ以外の何ができるというんだ!」


マイナスに見えるような出来事であっても、その出来事自体は中立であり、その出来事をどう解釈するかは自由である。要は、その人の心次第。スティーブン・R・コヴィーは著書『7つの習慣』(キングベアー出版)で、「人間はほかの動物にはない自覚、想像力、良心、自由意志という独特の性質を持っているため、刺激に対して、自分の反応を選択する自由を持っている」と表現する。 自覚とは、自分自身の状況を客観的に見つめる力である。想像力とは、現在の状況を越えた地点から物事を考える力である。


C大きな岩と小さな岩

「クイズの時間だ」。教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇の上に置いた。その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。 「この壺は満杯か?」。教室中の学生が「はい」と答えた。 「本当に?」。そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利を取り出した。その砂利を壺の中に流し込み、壺を揺すりながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。そしてもう一度聞いた。「この壺は満杯か?」。学生は答えられない。一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。 「この壺はこれでいっぱいになったか?」 学生は声を揃えて、「いや」と答えた。教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。 「僕が何を言いたいのか分かるだろうか」


壺の容積を自分の人生の持ち時間だと考えればいい。誰もが限られた時間しか持っていない。したがって、自分にとって大事ではないもので時間を埋めていくと、自分にとって大事なものに割くべき時間を失ってしまう。結果として大事なものを手に入れることができないまま人生を終えることになる


Dゴーグルをつけろ

イタリアのある化学プラトンメーカーでの実話。この会社では作業中、目の中に異物が入るのを避けるため、ゴーグルの着用を義務付けていた。しかし、実際のところゴーグルの着用率は高くなかった。1人が冗談交じりに「かっこいいゴーグルに変えればみんなつけるんじゃないか」と発言し、採用される。するとみんなは喜んでゴーグルをつけ始めた。


ある問題に遭遇した時の対処法は2つある。1つは原因追及志向、もう1つは解決探索志向。なぜうまくいかないか?とどうやったらうまくいくか?のアプローチの違い


★おまけ
宇宙にある物質の内、私たちが知っている物質はたった4%だけ、というNASAの探査結果がある。その他の96%は地球に存在しないものによって占められているという。この謎の物質を科学者たちは暗黒物質、暗黒エネルギーと名付けた。


【感想】
それぞれの寓話にメッセージ性、教訓が含まれていて面白かった。@〜Bの話は少し似ていて、人の心または見方次第でいくらでも現実は変えられる、というメタファーだと思う。双子の運命の話を例に挙げると、親から虐待されてそれを自らも繰り返してしまった1人と、親を反面教師にして正反対の人生を歩んだもう1人。これも捉え方の違い、心の持ちようの違いにより生じた大きな格差だ。Cの話も凄くよくできていて、時間を浪費していると、気付かないうちに取り返しがつかないことになってしまうという強いメッセージを感じた。


ものの見方が変わる 座右の寓話

新品価格
¥1,672から
(2020/12/4 21:11時点)


2020年11月08日

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

   41zJ1V4ur9L.jpg



私たちは何者か?人間とはどのような存在なのか?そして特に重要なのが、私たちには魂があるのか、という疑問だ。私の生き方は、やがて死ぬという事実にどのような影響を受けてしかるべきなのか? 必ず死ぬという運命に対して、私はどのような態度を取るべきなのか? たとえば、死を恐れるべきなのか? やがて死ぬという事実に絶望するべきなのか?


私は魂が存在しないことをみなさんに納得してもらおうとする。 不死は良いものではないことを納得してもらおうと試みる。 そして、死を恐れるのは、じつは死に対する適切な反応ではないことや、死は特別謎めいてはいないこと、自殺は特定の状況下では合理的にも道徳的にも正当化しうるかもしれないことも。


死んだら本人がどのような目に遭うかが問題ではないのだ。死は本人にとっては悪くない。死が悪いのは、後に残された人がつらい思いをするからだ


なぜ死は悪いのか? なぜなら、死んでしまったら、存在しなくなるからだ。そして、存在しないのは悪いとなぜ言えるのかと問えば、答えは、人生における良いことの数々が味わえなくなるから、だ。もし自分が存在しなければ、生きて存在してさえいれば得られるものが得られなくなる。死が悪いのは、人生における良いことを奪うからなのだ。 この説明は、今日では死の害悪あるいは悪さを説明する「剝奪」説として知られている。死に関して最悪なのは、生きていれば享受できていたかもしれない、人生における良いことを死が剝奪する点であると主張する説だからだ。そして、剝奪説は基本的に正しいように思える。


死は今、私にとって悪いはずがない。私は生きているからだ。そして、死は私が死んでいるときに私にとって悪いはずがない。なぜなら、その時点で私はもう存在しないのだから(そのときに、どうして物事が私にとって悪いなどということがありうるだろうか?)。


(A)ある人にとって何かが悪いことでありうるのは、その人が存在しているときだけだ。
(B)ある人が死んでしまえば、その人は存在しない。
したがって、(C)死は本人にとって悪いということはありえない。

誕生前の私は人生を過ごしていないが、やがて人生を手に入れる。だから、将来手に入るものを私はまだ持っていない。あいにく私たちには、誕生前のような状態(後で手に入れるものをまだ持っていない状態)を表す言葉がない。ある意味では喪失に似ているが、喪失とまったく同じわけではない。それを「シュモス」と呼ぶことにしよう。誕生前の期間には、人生の喪失はないが、人生のシュモスはある。

ここでの対称性は見過ごしやすい。「喪失」という良い言葉はあるのに、「シュモス」にあたる言葉はないからだ。だが、じつはそれは何の説明にもなっておらず、説明が必要なことを指し示しているだけだ。 私たちはなぜ、かつて将来手に入るものを持っていなかったことよりも、かつて持っていたものを持たなくなることのほうをもっと気にかけるのか? これは本当に不可解だ。



【感想】
誰しもがいつか必ず迎えることとなる「死」。死についてこれほど真剣に語られた本はないと思う。管理人も死についてとても興味を持っていて、いつか死ぬという意識を持っているからこそ頑張れている時もある。身近な人の死は大きな悲しみなどのインパクトを与える。誰かの死をきっかけに人生が大きく変わったという人も多いはず。この本の1つの大きなテーマが、「死」があるから「生」が輝くという事だと思う。永遠に続く人生なんて、誰も大切に生きないと思う。終わりがあるから、今を大切に生きている人が大多数。世の中には死んでもなお人々の心を感動させ、影響を与え続ける偉人がたくさんいる。「死」について思う事は、日々を精一杯生きて、それらの偉人ほどではないにせよ、誰か大切な人の心に残り、勇気づけていくような人になりたい、そのような人生にしたい、という事。


「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

新品価格
¥1,933から
(2020/11/8 22:19時点)


検索
最新コメント
タグクラウド
プロフィール
サンドゥリエさんの画像
サンドゥリエ
プロフィール
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。