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2013年09月29日
2009年04月14日
ギフ蝶
春の女神、ひらひら ギフチョウ、岡山・鏡野で羽化
スミレの花に止まるギフチョウ
「春の女神」の愛称を持つギフチョウが、岡山県鏡野町で羽化し、ひらひらと優美に舞っている。
日本の固有種でアゲハチョウ科の一種。羽を広げた大きさは約5センチ。黄と黒のしま模様に鮮
やかな赤や青、だいだい色の斑点がある。環境省のレッドリストで絶滅危惧(きぐ)II類に指定され、県内では同町や真庭市など一部にしか生息していないという。桜の咲く時季だけに見られる。
チョウ研究家や町職員らでつくる保護団体「奥津のギフチョウを育(はぐく)む会」(18人)によると、同町井坂の同町奥津振興センター前の観察ケージ(約30平方メートル)内で3月31日、最初の1羽を確認。その後、次々とサナギから羽化し、8日には6羽が飛び回ったり、スミレの周りで羽を休めたりしていた。近くの保護区(約1000平方メートル)でも確認された。
会員の谷口強志・同センター長は「暖冬で昨年より2週間早い。20日ごろまで楽しめそう」と話している。
2007年11月24日
2007年11月16日
岡山のひとくち伝説
ひとくち伝説
@人柱の堤防(和気郡和気町)
金剛川のほとりに「南無妙法蓮華経、日泉霊 寛永十一年七月二十二日」ときざみこんだ、ニメー トルあまりの石碑がある。
むかし、金剛川の堤防は、大水のためたびたび壊れた。
妙久寺の僧日泉が人柱になってからは、堤防がきれなくなったという。
今も命日には供養をするという話がある。
ひとくち伝説
A千町平野(邑久郡邑久町)
邑久町の中央に、広々賭した千町平野がある。
平安のむかし、開拓中に大岩が出て、なかなか仕事が進まなかった。
ある日、一人の坊さんが現れ、岩の下で火を焚かせて小さく割った。
これで開拓は一気にすすんだという。
2007年11月02日
■街路に残る城郭の痕跡
■街路に残る城郭の痕跡
現在残る本丸内堀を除く堀はすっかり埋め立てられ、写真から往時を想像することは難しい。しかし、当時の絵図を重ねてみると、堀や城下町の街路のほとんどが今も痕跡を残しているのが分かる。
堀の中で一番分かりやすいのは、小早川秀秋が築いた外堀(二十日堀)で、中心部を南北に貫く柳川筋がその名残である。また中堀は天満屋の西側の街路に、二の丸外周の内堀はオランダ東通りにその跡を留めている。また城下町の外堀内の街路はそのほとんど全てが今も道路として残っており、岡山市の原型が城下町建設時に完成されていたことが窺えよう。
2007年10月20日
岡山の偉人・緑川洋一
緑川洋一
岡山県邑久郡裳掛村虫明(現・瀬戸内市邑久町虫明)の呉服商の長男として生まれる。1932年(昭和7年)上京し日本大学専門部歯科医学校に入学。1934年(昭和9年)模型飛行機店店主と合作しコンテストに応募したボート用スチームエンジンを海軍省が50円で買い取る。これを元手にドイツ製カメラ・ペルケオを購入し写真撮影を始める。1936年(昭和11年)日大歯科医学校を卒業。歯科医師国家試験に合格し、東京市蒲田区(現・大田区蒲田)の総合病院に勤務する。
翌1937年(昭和12年)郷里の岡山市に横山歯科医院を開業する。1939年(昭和14年)より写真撮影を再開。緑川洋一の名で写真雑誌への投稿を始める。1945年(昭和20年)岡山連隊区司令部が報道班を結成し班員となる。岡山市を中心に戦災状況を撮影。しかし、終戦とともに撮影したネガを連隊区司令部の命令で全て焼却する。1946年(昭和21年)同じ岡山出身の写真家・石津良介(石津謙介の兄)と写真工房を開設。1947年(昭和22年)石津の紹介で米子の写真家・植田正治と共に東京で秋山庄太郎、林忠彦、石津らが中心となり結成された写真家集団「銀龍社」に参加。以後、植田とは生涯親交を厚くしていた。
1967年(昭和42年)歯科医院を「緑川歯科医院」と改称。1978年(昭和53年)家庭裁判所より裁可があり、戸籍登録名を「緑川洋一」に改名。1981年(昭和56年)全国組織の写真集団「風の会」を主宰。1990年(平成2年)勲四等瑞宝章を受賞。1992年(平成4年)岡山市西大寺・両備バス西大寺バスセンターの一角に「緑川洋一写真美術館」を開館、館長となる。2001年(平成13年)胃ガンのため逝去。享年86。
緑川洋一の世界
http://www.ha-isha.jp/midorikawa/index.html