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2014年02月06日

騎士道物語

騎士道物語(きしどうものがたり、フランス語:Roman courtois or Roman de chevalerie, 英語:Romance or chivalric romance, スペイン語:Libros de caballerías or Romance)とは中世ヨーロッパに発展した文学のジャンルで騎士道をテーマとする韻文および散文の物語。宮廷文学、ロマンス、騎士道ロマンス、騎士文学、騎士道小説ともいわれる。騎士の武勲や恋愛を取上げている。

11世紀頃からフランスを中心に発達し、吟遊詩人により歌われた武勲詩が発展したものである。初期は韻文作品のみだが、後期には散文作品も作られた。 それまでのラテン語ではなくフランス語、スペイン語などのロマンス諸語で書かれたという点も重要である。つまり重々しさのない言葉で語られた。後に恋愛小説を意味することになる「ロマンス」のはしりとなる。

本来は騎士の武者修業(Knight-errant)について書かれた物語であるが、 典型的なストーリーは、騎士が見知らぬ土地を冒険し、美しい貴婦人の為に住民達を苦しめる強大な敵(しばしばドラゴンや巨人といった想像上の怪物を含む)を倒し王に認められるというもので、ヒロイック・ファンタジーや恋愛小説の原型といえる。

騎士道物語は16世紀までが最盛となるが、その後下火となる。 17世紀、セルバンテスによる、騎士道物語をパロディにした小説『ドン・キホーテ』がその画期と見なされている。

現在では騎士道及び騎士というテーマ性から扱われる事が多く題材にした様々な形での作品が作り上げられている。

主なジャンルと作品[編集]
ブルターニュもの(ブリテンの話材) - アーサー王とその円卓の騎士達を題材にしたもの ランスロまたは荷車の騎士
トリスタンとイゾルデ
ガウェイン卿と緑の騎士
聖杯探求
アーサー王の死

フランスもの - シャルルマーニュとその騎士(パラディン)達を題材にしたもの。
ローマもの - アキレウスやアレクサンドロス3世(大王)、カエサルなど、ギリシア・ローマの英雄を題材にしたもの。古代の人々を中世の観点から描いているため、過度のアナクロニズムが見られる。

代表的な作家[編集]
ブリテンのトマ
クレティアン・ド・トロワ
ハルトマン・フォン・アウエ
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ
ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク
トマス・マロリー

アーサー王

アーサー王(英語: King Arthur)は、5世紀後半から6世紀初めのブリトン人の伝説的な君主。

概要[編集]

中世の歴史書やロマンスでは、アーサーは6世紀初めにローマン・ケルトのブリトン人を率いてサクソン人の侵攻を撃退した人物とされる。一般にアーサー王物語として知られるものはそのほとんどが民間伝承や創作によるものであり、アーサーが本当に実在したかについては現在も歴史家が議論を続けている[2]。彼の史実性を証明する記述は『カンブリア年代記(Annales Cambriae)』、『ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)』、およびギルダス著『ブリタニアの略奪と征服(De Excidio et Conquestu Britanniae)』に断片的に残されている。また、アーサーという名前は『ゴドジン(Y Gododdin)』などの初期の中世ウェールズ詩にも見られる[3]。

伝説上の王としてのアーサーは、12世紀のジェフリー・オブ・モンマスによる荒唐無稽な歴史書『ブリタニア列王史(Historiae Regum Britanniae)』が人気を博したことにより国を越えて広まった[4]。ジェフリー以前のウェールズやブルターニュの伝承にもアーサーに関するものが存在するが、それらのアーサーは超自然的な存在や人間からブリタニアを守る屈強な戦士として、あるいはウェールズ人の他界であるアンヌン(Annwn)に関係を持つ魔法的な人物として描かれている[5]。1138年に『列王史』を書き上げたとされるジェフリーがこれらをどれほど利用したか、利用したとしてその割合は彼自身が創作した部分より多かったかなどについては詳しくわかっていない。

アーサー王伝説は作品によって登場人物、出来事、テーマがかなり異なるため、原典となる作品が存在しない。ただし、ジェフリーの『列王史』が後の作品群の出発点になったことは確かである。ジェフリーの描くアーサーは、サクソン人を撃退し、ブリテン、アイルランド、アイスランド、ノルウェー、ガリア(フランス)にまたがる大帝国を建設した人物となっている。アーサーの父ユーサー・ペンドラゴン、魔法使いマーリン、王妃グィネヴィア、エクスカリバー、ティンタジェル城、モードレッドとの最終決戦(カムランの戦い)、アーサー王の死とアヴァロンへの船出といった、現在のアーサー王物語になくてはならない要素やエピソードの多くがジェフリーの『列王史』の時点ですでに登場している。12世紀のフランスの詩人クレティアン・ド・トロワはこれらにさらにランスロットと聖杯を追加し、アーサー王物語を中世騎士道物語の題材の一つとして定着させた。ただし、フランスのロマンスでは、アーサー王よりも円卓の騎士を始めとするほかの登場人物に話の中心が移っていることが多かった。アーサー王物語は中世にひろく流行したが、その後数世紀のうちに廃れてしまった。しかし、19世紀に人気が復活し、21世紀の今でも文学としてのみならず、演劇、映画、テレビドラマ、漫画、ビデオゲームなど多くのメディアで生き続けている。

史実性の議論[編集]

詳細は「:en:Historical basis for King Arthur」を参照





九偉人の一人としてのアーサー王のタペストリー c. 1385
アーサー王伝説の歴史性は学者によって長期にわたり議論されてきた。最初のアーサーの言及は9世紀のラテン語のテキストに見られる。『ブリトン人の歴史』と『カンブリア年代記』の記述を根拠に、アーサーは実在の人物で、5世紀後半から6世紀初めにアングロサクソン人と戦ったローマン・ケルトの指導者だったとする説がある。『ブリトン人の歴史』は、ウェールズの修道士ネンニウスの作とされる9世紀のラテン語の歴史書で、いくつかの写本に残されている。これにはアーサーがブリトン人の王達と共にサクソン人との12回にわたる戦を行った事、最後の戦バドニクス山(ベイドン山)の戦いで、アーサー側の一度の襲撃により一日で960人の敵を倒し大勝利に終わった事が書かれている。しかし、最近の研究では『ブリトン人の歴史』の信用性に疑問が投げかけられている[6]。

もうひとつのアーサーの史実性を証明する史料は、10世紀の『カンブリア年代記』である。これもアーサーをバドニクス山の戦いと関わりのある人物としている。『カンブリア年代記』によると、この戦いが行われたのは518年のことで、メドラウド(モードレッド)とアーサーが討ち死にしたカムランの戦いは539年に起きたとされる。従来はこの記述が『ブリトン人の歴史』の記述の信用性を保証するものであり、アーサーが本当にバドニクス山の戦いを行ったことを証明するものとされてきた。しかし、『ブリトン人の歴史』を補強する史料として『カンブリア年代記』を利用することに対し、いくつかの問題が指摘されている。最新の研究によると『カンブリア年代記』は8世紀後半のウェールズの年代記を元にしているという。しかし、『カンブリア年代記』は複雑な経緯を経て成立した作品で、アーサーの記述が8世紀後半の時点で存在していたことを確かめることは困難である。本来この記述はまったく存在せず、10世紀になってはじめて他の資料を参考にして追加された可能性がある。逆に、バドニクス山の箇所は『ブリトン人の歴史』に由来するのかもしれないのである[7]。

このように、アーサーの歴史性を証明する、信頼できる初期の史料は非常に乏しい。そのため現代の多くの歴史家がローマ影響下時代のブリテン島の歴史叙述でアーサーを除外している。歴史家トーマス・チャールズ=エドワーズは、「現段階では、アーサーという人物はいたかもしれない、としか言いようがない。歴史家としてアーサーを評価することは不可能である」としている[8]。このような見方が最近の比較的一般的な見解である。少し前の世代の歴史家はもっと楽観的で、歴史家ジョン・モリスは著作『アーサーの時代』でアーサーの統治時代をポスト・ローマン時代のブリテンとアイルランドの歴史の初期段階に置いている。ただし、モリスは歴史上のアーサーについてほとんど何も記述していない[9]。





カンブリア年代記の手写本 c. 1100
以上のような、限定的にせよアーサー王の史実性を認める説に対し、アーサーという人物は歴史上全く存在なかったと主張する説がある。考古学者ノーウェル・マイヤーズは前述のモリスの『アーサーの時代』に対し、「歴史と神話の境界に立つ人物に歴史家が時間を費やすようなことは一度たりともない」と述べている[10]。6世紀のギルダスの『ブリタニアの略奪と征服』は、バドニクス山の戦いの記憶がまだ残る時代に書かれたものである。にもかかわらず、戦い自体の記述はあるもののアーサーについては何も書かれていない[11]。『アングロサクソン年代記』にもアーサーの記述はない。もうひとつのポスト・ローマ時代のブリタニアの重要な史料である8世紀のベーダの『英国民教会史(Historia ecclesiastica gentis Anglorum)』も、バドニクス山には触れているがアーサーの名は書かれていない[12]。それどころか、400年から820年に書かれたあらゆる写本にはアーサーは名前すら登場しないのである[13]。歴史家デーヴィッド・ダンヴィルは次のように書いている。「われわれはアーサーに関し、非常に簡潔に事を済ませることができると思う。彼が歴史書に登場するのは「火の無い所に煙は立たぬ」と考える学者がいるからである。この問題は実際のところ、アーサーの歴史性を証明する証拠はまったく存在しないという、ただそれだけのことだ。アーサーを歴史書に書き加えてはならないし、アーサーに関する本を歴史書と呼ぶべきではない[14]。」

アーサーは最初から民間伝承(フォークロア)の架空の英雄だったのだ、と主張する学者もいる。ヘンギストとホルサ(本来はケントの氏族神で馬を司る神だったが、後世に歴史上の人物とされた。ベーダの『英国民教会史』では、この二人は5世紀のアングロサクソン人によるブリテン島東部の征服を指導した人物になっている。)との類似点を指摘して、アーサーも実は半ば忘れ去られたケルトの神で、後に歴史上の出来事に結び付けられたとする学説もある[15]。なお、初期の史料によると同時代の人々はアーサーを王と考えていなかったらしい。『列王史』や『カンブリア年代記』には彼の称号として「王(rex)」が使われておらず、『列王史』では「戦闘指揮官(dux bellorum)」、あるいは単に「兵士(miles)」と呼ばれているにすぎない[16]。

ポスト・ローマ時代は史料にとぼしく、そのためアーサーの歴史性の問題に明確に答えを出すのは困難である。12世紀以降、数多くの遺跡や場所が「アーサー時代のもの」とされてきたが、考古学的には、しっかりした年代測定の碑文の調査を通すと名前以上のことは何も明らかにできていない[17]。1998年にコーンウォールのティンタジェル城の遺跡で「アーサーの石」なるものが発見され話題になったが、実際には無関係であることが証明された[18]。「グラストンベリーの十字架」など、他のアーサーに関する碑文資料のいずれも贋作の疑いを逃れるものはない[19]。アーサーの原型となった人物として数名の歴史上の人物の名が挙げられているが、どれもそれらがアーサーであることを裏付ける確実な証拠は発見されていない(具体的には、2世紀ないし3世紀にブリタニアに進駐していたローマ人将校ルキウス・アルトリウス・カストゥス[20]、簒奪帝マグヌス・マクシムス、ローマ影響下のブリタニアを統治したとされる数名の人物、リオタムス[21](Riothamus)、アンブロシウス・アウレリアヌス[22]、オウェイン・ダヌイン[23](Owain Ddantgwyn)、アスルイス・アプ・マウリグ[24](Athrwys ap Meurig)など)。

名前[編集]

アーサーという名前の由来も議論の的となっている。ローマの氏族名アルトリウス(Artorius)が由来とする説があるが、この氏族名自体、語源がはっきりしていない[25](ただし、メッサピア語[26][27][28]やエトルスキ語[29][30][31]の可能性が指摘されている)。学者によっては、初期のラテン語のテキストにはArturusとあるのみでArtoriusという語形が一度も出てこないという事実をこの議論に関連付けて論じることがある。しかし、このことはアーサーの由来について何の手がかりにもならない。なぜなら、Artoriusはウェールズ語に借用されるときは必ずArt(h)urと綴られたからである[32] 。ただし、古典ラテン語のArtoriusは俗ラテン語の方言でArturiusと綴られることがあったことは留意すべきである。

もう一つの可能性としては、ブリソン語の父称*Arto-rīg-ios(*Arto-rīgは「熊の王」を意味し、古アイルランド語の人名Art-riに現れている)がラテン語形のArtoriusを経由したもの、という説がある[33]。また、これより一般的だが信憑性の低い説に、ウェールズ語のArth「熊」+(g)wr「男」に由来するというものがあるが、これは音声学的に無理がある。この推論を踏まえると、ブリソン語の複合語*Arto-uriosは古ウェールズ語では*Artgur、中世・現代ウェールズ語では*Arhwrという語形が発生するはずだが、実際に書き残された語形はArthurのみである。ウェールズ語の詩においてアーサーの名は常にArthurと綴られ、必ず-ur-の語尾を持つ語と脚韻を踏んでいる。-wr-の語と脚韻を踏むことは一度もなく、このことから第二音素が[g]wrであることはありえないという[34][35]。

他の学説では、これは学者の中でも限定的にしか受け入れられていないが、アーサーという名はうしかい座の恒星、アルクトゥルス(Arcturus)に由来するという説がある[36][37][38][39][40][41]。アルクトゥルスは古代ギリシア語に由来する言葉で「熊の守護者」を意味する。この星はおおぐま座に近く、また輝きが強いことからとそう呼ばれるようになったという。古典ラテン語のArcturusがウェールズ語に借用された際に、Art(h)urと綴りが変化したのだされる[42]。

Arthurに語形の近い古アイルランド語の人名にArtúrがあり、これは初期古ウェールズ語のArturを直接借用したものと考えられている[43]。この名前は、歴史上の人物の名前としてはアイザーン・マク・ガヴァーン(Áedán mac Gabráin)の子あるいは孫の名前として登場するのが最初期の例とされる(紀元後609年頃)[44]。

中世文学[編集]

現在親しまれているアーサー像を創りだした人物は、1130年頃に偽史『ブリタニア列王史』を書いたジェフリー・オブ・モンマスである。ジェフリー以降の作品はすべて彼の影響を大きく受けており、そのためアーサーに関する原典資料はジェフリー以前と以降に分けるのが一般的である。ジェフリーの以前の時代はプレ・ガルフリディアン(Pre-Galfridian;ジェフリーのラテン語名Galfridusに由来する)、以降の時代はポスト・ガルフリディアン(post-Galfridian, あるいは単にガルフリディアン)と呼ばれている。

ジェフリー以前[編集]





ゴドジンのファクシミリ c. 1275
アーサーへの言及がある最古の文学作品はウェールズとブルターニュのものである。ジェフリー以前のアーサーの一般的な性質と特徴を個々の作品を超えて定義しようとする試みは何度か行われてきた[45]。トーマス・グリーンによって行われた最近の学術調査によると、初期の時代のアーサーに関するの記述には3つの鍵となる要素があるという。一つ目は、内外からやってくる全ての脅威からブリテンを守る無比の戦士、というものである。その脅威の一つが『列王史』に登場するサクソン人だが、他の多くは超自然的な怪物、すなわち巨大な化け猫、聖なる猪、竜、犬頭人、巨人、魔法使いなどである[46]。二つ目は、お伽話(特に地名や語源を説明する物語や魔法が出てくる物語)に登場する、荒野に暮らす超人的な戦士団の長というものである[47]。最後の三つ目は、ウェールズ人の他界アンヌンに深い関わりを持つ人物、というものである。伝承の一つに、アーサーが宝を求めて、あるいは囚われた仲間を解放するために他界の砦に攻撃を仕掛けるというものがある。また、初期の資料に書かれているアーサーの戦士団にはケルトの神々を前身とする者がおり、アーサーの妻や持ち物も明らかに他界に由来する[48]。

アーサーに言及のあるウェールズの詩で最も有名なものは『ゴドジン(Y Gododdin)』に収められている。『ゴドジン』は英雄の死を歌った詩集で、6世紀の詩人アネイリンの作と伝えられている。その中の一連(スタンツァ)に、300人を殺した戦士の勇敢さを褒め称えるものがあるが、その後の部分でそれでもその戦士は「アーサーではない」(すなわちアーサーの武勇には及ばない)とある[49]。『ゴドジン』は13世紀の写本によってのみ知られるため、上述のスタンツァがもともと書かれていたものか、あるいは後に挿入されたものかを断定することは不可能である。この箇所が7世紀かそれ以前のものである、というジョン・コッホの説は実証されておらず、また、9世紀か10世紀、という説も何度か唱えられている[50]。6世紀に生きたとされる詩人タリエシンの作とされる詩の数篇にもアーサーに触れているものがあるが、それらはみな8世紀から12世紀の作品と考えられている[51]。その中には、「祝福されたものアーサー」という言葉がある『王子の椅子(Kadeir Teyrnon)』[52]、アーサーの他界への冒険が語られる『アンヌンの略奪品(Preiddeu Annwn)』[53]、アーサーの武勇と、ジェフリー以前にユーサーとアーサーの親子関係を匂わせる数少ない作品である『ユーサー・ペン(ドラゴン)の哀歌(Marnwnat vthyr pen[dragon])』[54]などがある。





マビノギオンの基になった写本の一冊であるヘルゲストの赤本のファクシミリ
他のウェールズ語のアーサー王関連のテクストに、カーマーゼンの黒本に収められた詩『門番は誰だ?(Pa gur yv y porthaur?)』がある[55]。この詩はアーサーと城砦の門番の対話形式となっており、城砦に入ろうとするアーサーが門番に対し自分とその部下(特にカイ(ケイ)とベドゥイル(ベディヴィア))の名前と事績を物語る、という内容である。現代の『マビノギオン(Mabinogion)』に収められた散文『キルッフとオルウェン(Culhwch and Olwen)』(1100年頃)にはアーサー王の部下の名が200名前後挙げられており、カイとベドゥイルが活躍する。この物語は、巨人の首領イスバザデン(Ysbaddaden)の娘オルウェンとの結婚をかけ、主人公キルッフがアーサーとその戦士たちの助けを受けつつ、イスバザデンによって課された数々の困難な試練(トゥルッフ・トゥルウィスの聖なる大猪を倒すなど)に挑戦するというものである。9世紀の『ブリトン人の歴史』にも同様のエピソードがあるが、ここでは大猪はトロイ(ン)ト(Troy(n)t)という名前になっている[56]。最後に、『ウェールズの三題詩(Welsh Triads)』でもアーサーの名が何度も言及されている。これはウェールズの伝承と伝説を短く要約して、それぞれ関連のある3組の人物やエピソードごとにまとめたものである。後期の『三題詩』の写本にはジェフリーやフランスの伝承を引き写した部分があるが、最初期の写本はそれらの影響は見られず、現存するものよりも古いウェールズの伝承を伝えていると考えられている。そこではすでにアーサーの宮廷を伝説上のブリテン島に等しい存在として描いており、「ブリテン島の三つの〜」という定型句が「アーサーの宮廷の三つの〜」という表現にたびたび言い換えられている[57]。『ブリトン人の歴史』や『カンブリア年代記』の頃から既にアーサーが王と考えられるようになっていたのかは不明だが、『キルッフとオルウェン』や『三題詩』ではアーサーは「この島(ブリテン島)の諸侯の首領(Penteymedd yr Ynys hon)」であると書かれている[58]。

ここまでに述べたジェフリー以前のウェールズの詩や物語に加えて、『ブリトン人の歴史』や『カンブリア年代記』以外のラテン語のテキストにもアーサーが登場している。特に、一般には歴史史料として見なされない、数多くの有名なポスト・ローマ期の聖人伝(vitae, 最初期のものは11世紀のものとされる)にアーサーの名が見える[59]。12世紀初期にスランカーファンのカラドック(Caradoc of LLancarfan)によって書かれた『聖ギルダス伝』では、アーサーはギルダスの兄弟フエルを殺し、さらにグラストンベリーからグウェンフィヴァル(グィネヴィア)をさらって行ったとされる[60]。1100年頃かそれより少し前にスランカーファンのリフリス(Lifris of LLancarfan)が書いた『聖カドク伝(Cadoc)』では、聖カドクはアーサーの兵士三人を殺した男を保護し、それに対してアーサーは死んだ兵士の賠償金(wergeld)として一群の牛を要求する。カドクは言われたとおり牛を届けるが、アーサーが手に入れた途端、牛の群れはシダの束に変化してしまう[61]。同じような話は12世紀頃に書かれた『聖カラントクス伝(Carantcus)』、『聖パテルヌス伝(Paternus)』、『聖エウフラムス伝(Eufflamus)』にも見える。11世紀初期に書かれたとされる『聖ゴエズノヴィウスの伝説(Legenda Sancti Goeznovii)』(ただし、最も古い写本は15世紀のものである)には、これらよりも伝説色の薄いアーサーの話が登場する[62]。マームズベリのウィリアムの『イングランド諸王の事績(De Gentis Regum Anglorum)』とエルマン(Herman)の『ランの聖マリアの奇跡(De Miraculis Sanctae Mariae Laudensis)』のアーサーに言及している箇所も重要である。このニ書は「アーサーは死んだのではなく、いつの日か帰ってくる」という信仰が登場する、実証されている最初の例である。この「アーサー王帰還伝説(en:King Arthur's messianic return)」はジェフリー以降、頻繁に登場するテーマである[63]。

ジェフリー・オブ・モンマス[編集]





アーサーの最後の敵モードレッド(ヘンリー・フォードによるアンドリュー・ラング『アーサー王と円卓の物語』(1902年)の挿絵)
アーサーの生涯を最初に一つの物語にしたものはジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』である。1138年に完成したこの作品は伝説上のトロイ人の漂流者ブルートゥスから7世紀のウェールズ王カドワラダ(Cadwaladr)までのブリテンの諸王の歴史を空想的に、あるいは非現実的に記している[64]。『ブリトン人の歴史』や『カンブリア年代記』と同じく、ジェフリーはアーサーをポスト・ローマ時代の人物としている。アーサーの父ユーサー、魔法使いの助言者マーリン、そしてアーサーの誕生物語(マーリンの魔法によってユーサーの敵ゴルロワ(Gorlois)に化けたユーサーがティンタジェル城でゴルロワの妻イグレインと同衾し、アーサーを妊娠する)が語られる。ユーサーが死んで15歳のアーサーがブリテン王位を継ぐと、『ブリトン人の歴史』で語られたような、バドニクス山の戦いを頂点とする数々の戦いを繰り広げる。アーサーはピクト人やスコット人を討伐し、アイルランド、アイスランド、オークニー諸島を征服し、大帝国を打ち建てる。12年の平穏の後にアーサーは再び帝国の拡張に着手し、ノルウェー、デンマーク、ガリア(フランス)を占領する。当時ガリアはローマ帝国に服していたため、アーサーは今度はローマ帝国と対峙することになる。帝王アーサーとカイウス(Caius, ケイ)、ベドゥエルス(Beduerus, ベディヴィア)、ガルガヌス(Gualguanus, ガウェイン)を初めとする戦士たちはガリアでローマ皇帝ルキウス・ティベリウスを破るが、ローマへの進軍を準備している時にアーサーはブリテン島の守りを委ねていた甥モドレドゥス(Modredus, モードレッド)がアーサーの妻ゲンフウアラ(Guenhuuara, グィネヴィア)と結婚し、王位を簒奪したことを聞き知る。アーサーはすぐにブリテンに帰還し、コーンウォールのカンブラム川(Camblam)でモドレドゥスを破り、殺害するが、アーサーは瀕死の重傷を負ってしまう。彼は血縁のコンスタンティンに王位を譲り、傷を癒すためにアヴァロンの島へ連れ去られる。アーサーはそこから二度と帰って来ることはなかったという[65]。





魔法使いマーリン, c. 1300[66]
この物語にジェフリーの創作がどれほど含まれていたかは現在でも議論されている。サクソン人との12の戦いは9世紀の『ブリトン人の歴史』から、カムランの戦いは『カンブリア年代記』からとられたのは確かとされる[67]。アーサーのブリテン王という地位もジェフリー以前の『キルッフとオルウェン』や『ウェールズの三題詩』、各種聖人伝などに見られる伝承からとられたのかもしれない[68]。加えて、ジェフリーの描くアーサーの多くの要素は『キルッフとオルウェン』に強い相似性が見られ、忠誠、名誉、巨人、贈与、寝盗り、魔法の品々などといったモチーフやテーマは両方に共通する。さらに、モンマスは『キルッフとオルウェン』から多くの人物名を引用している(サー・ケイはカイ、サー・ベディヴィアはベドウィル、サー・ガウェインはグアフメイ(Gwachmei)に相当する)。また、両者のヒロインの名称も似ており、グィネヴィアは「白い亡霊」という意味で、一方でオルウェンは「白い足跡」という意味である[69]。アーサーの持ち物、縁者、側近の名前もジェフリー以前のウェールズの伝承から借用していると考えられる(カリブルヌス(Caliburunus, 後のエクスカリバー)はカレドブルフ(Caledfwlch)、グィネヴィアはグウェンフィヴァル(Gwenhwyfar)、ユーサーはウトゥル(Uthyr)にそれぞれ由来する)[70]。このように名前や重要な出来事、称号が古来の伝承に由来する一方で、ブラインリー・ロバーツによるとアーサーに関する記述はジェフリーの創作であり、それ以前の典拠は存在しないという[71]。たとえば、ジェフリーはウェールズのメドラウドを邪悪な人物、モドレドゥスに作りかえているが、ウェールズの伝承にはそのような否定的な人物像は16世紀になるまで存在しない[72]。12世紀後半のニューバラのウィリアムによる「ジェフリーは常軌を逸した虚言への愛(inordinate love of lying)でもって(『列王史』を)書き上げたのだ」という意見が受け入れられてきたため、『ブリタニア列王史』はジェフリーの完全な創作物である、という意見に対する反論は現代に至るまであまり行われてこなかった[73]。ジェフリー・アッシュは反対論者の一人で、ジェフリーの記述のいくつかは5世紀のブリトン人の王、リオタムス(Riothamus)という人物に関するすでに失われた資料に由来すると主張している。しかし、歴史家やケルト学者の多くは彼の意見を支持していない[74]。

依拠した資料が存在したにせよしなかったにせよ、ジェフリーの『ブリタニア列王史』が大きな人気を得たことは否定しようがない。この作品の写本は200部以上現存していることが知られており、これは他の言語に訳されたものを除いた数字である[75]。ウェールズ語版の『列王史』は約60部存在しており、最古のものは13世紀のものである。古い学説ではこれらのうちの数冊がラテン語の『列王史』の基になったとされた。この説は18世紀の古物蒐集家ルイス・モリスなどに支持されたが、現在の学界では否定されている[76]。このような名声を得たことにより、『列王史』はのちの中世におけるアーサー王伝説の発展に多大な影響を与えた。『列王史』は決してのちのアーサー王ロマンスより前に書かれた唯一の作品だったわけではなかったが、『列王史』は後世に多くの要素を借用され、さらに発展を加えられていった(たとえばマーリンの物語とアーサーの最期など)。彼の生み出した枠組みに、多くの魔法や驚異に満ちあふれた数々の冒険が付け加えられていくことになるのである[77]。

ロマンス[編集]





トリスタンとイゾルデ(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス、1916年)
12世紀から13世紀に大陸ヨーロッパ(特にフランス)で新たなアーサー王文学(「ブリテンの話材」)が数多く出現した大きな要因の一つは、ジェフリーの『列王史』とその派生作品(ワースの『ブリュ物語(Roman de Brut)』など)が名声を得ていたからだという意見は一般に認められることである[78]。しかしながら、「ブリテンの話材」の発展に影響を与えたのはジェフリーだけではなかった。ジェフリーの作品が広く知られる以前よりアーサーやアーサー王伝説に関する知識が大陸に伝わっていたことを示す明確な証拠があり[79](たとえばモデナ大聖堂の飾り迫縁)、また、ジェフリーの作品に見られないケルト起源の名称が大陸のロマンスに残されているからである[80]。アーサーの視点から言うと、新しいアーサーものが大量に生み出された最大の要因は、物語におけるアーサー王の役割にあったのかもしれない。12世紀とそれ以降のアーサー王文学が隆盛した時代には、アーサー自身よりも他の人物、すなわちランスロット、グィネヴィア、パーシヴァル、ガラハッド、ガウェイン、トリスタンとイゾルデに焦点が当てられることが多くなるのである。ジェフリー以前の作品や『列王史』ではアーサーはずっと物語の中心にいたが、ロマンスではすぐに脇役に退いてしまう[81]。アーサーの性質も以前とは大きく異なっている。初期の作品や『列王史』ではアーサーは偉大にして強大な戦士で、私怨で魔女や巨人を虐殺する際には嘲笑し、戦争でも主導的な役割を果たす[82]。一方、大陸のロマンスでは「何もしない王(roi fainéant)」に成り果て、アーサーが「何もせず、ただ沈黙してるさまは、彼の理想的な社会に漂う平和な雰囲気を作り出している」[83]。ロマンスにおけるアーサーの役割は賢く、尊厳にあふれ、落ち着いた、いくぶん無個性で、たまにひ弱さすら見せる君主であることが多いのである。たとえば、『アルテュの死』でランスロットとグィネヴィアの不義を知った王はただ青ざめ、声を失うのみであり、クレティアン・ド・トロワの『イヴァンまたは獅子の騎士』ではアーサーは宴のあとにすぐさま眠くなり、昼寝のために寝室に引っ込んでしまう[84]。にもかかわらず、ノリス・J・レイシーが述べたように、ロマンスの中のアーサーがどんなに弱く、失策を犯したとしても、「弱さによって威厳が損なわれることは(ほとんど)一度もなく、アーサーの権威と栄光は無傷のままに残されるのである」[85]。





ガウェイン卿と緑の騎士の写本の挿絵(14世紀後半)
アーサーとその従者達はマリー・ド・フランスのレーの数篇に登場する[86]。しかし、最も大きな影響力を持ち、アーサーの人物像と伝説の発展に寄与したと考えられているのは、もう一人のフランスの詩人クレティアン・ド・トロワの作品である。クレティアンは1170年頃から1190年頃までに5編のロマンスを書いた[87]。『エレックとエニード(Erec et Enide)』と『クリジェス(Cligès)』はアーサー王の宮廷を背景とする宮廷愛の物語で、ウェールズやジェフリーの英雄的な世界観からの転換が示されている。『イヴァンまたは獅子の騎士(Yvain, Le Chevalier du Lion)』ではイヴァンとガウェインの超自然的な冒険が描かれており、アーサーは弱い傍観者的な立場に甘んじている。アーサー王伝説の発展に多大な影響を与えたのは『ランスロまたは荷車の騎士(Lancelot, Le Chevalier de la Charrette)』と『ペルスヴァルまたは聖杯の物語(Perceval ou le Conte du Graal)』である。『ランスロ』はランスロットとグィネヴィアの不義を初めて導入した作品であり、後に発展して繰り返し語られる「寝取られ男」としてのアーサー像を広めた作品である。『ペルスヴァル』は聖杯と漁夫王(いさなとりのおう)を初めて取り入れており、これによりアーサーの役割は再び大きく減っている[88]。このようにしてクレティアンは「アーサー王伝説を洗練させ、伝説の拡散に理想的な形式を作り上げた」、アーサー王ロマンスの仲介者といえる存在になった[89]。後に続いてアーサー王伝説を描いた人々は、クレティアンの築いた基礎の上に自らの作品を積み上げていったのである。『ペルスヴァル』は未完に終わったが特に人気を博し、これが書かれた次の50年には続編に当たる詩が別個に4編も書かれた。聖杯探求というテーマはロベール・ド・ボロンなどによって発展され、アーサーの没落までを連続したロマンスで書くという流れを加速させた[90]。ランスロットと彼のグィネヴィアとの不貞行為もアーサー王伝説の古典的モチーフの一つとなった。ただし、『散文のランスロ』(1225年頃)やのちの諸作品はクレティアンの『ランスロ』とウルリッヒ・フォン・ツァツィクホーフェンの『ランツェレット』を組み合わせただけのものだった[91]。クレティアンの作品はウェールズのアーサー王文学に逆輸入され、その結果、ロマンスのアーサー像がウェールズ伝統の英雄的で積極的なアーサー像に置き換わり始めた[92]。この流れは(『マビノギオン』に収録されている)3編のウェールズのアーサー王ロマンスに顕著に見られ、これらはいくつかの大きな差異があるもののクレティアンの作品とよく似ている。『マビノギオン』の『オウェイン、あるいは湖の貴婦人』はクレティアンの『イヴァン』に、『ゲライントとエニード』は『エレックとエニード』に、『エヴラウグの子ペレドゥル』は『ペルスヴァル』にそれぞれ対応する[93]。





円卓と聖杯(15世紀のフランスの写本)
1210年頃までは、大陸ヨーロッパのアーサー王ロマンスは韻文で表現されていたが、それ以降は散文で物語を書くようになり始めた。13世紀でもっとも重要な散文作品は『流布本サイクル(ランスロ=聖杯サイクル)』で、これは13世紀後半に中世フランス語で書かれた物語群である[94]。「聖杯物語」、「メルラン物語」、「ランスロ本伝」(「散文のランスロ」とも。分量的に『流布本サイクル』の半分以上を占める)、「聖杯の探求」、「アルテュの死」からなり、アーサー王伝説全体が一貫した物語になっている。このサイクルではギャラハッドを導入したりやマーリンの役割が増大したことにより、伝説におけるアーサーの役割の後退がさらに進んでいる。また、モードレッドがアーサーと彼の姉の近親相姦によって生まれた存在になり、クレティアンで初めて言及されたキャメロットがアーサーの宮廷の名称として定着した[95]。『流布本サイクル』のすぐ後に『後期流布本サイクル』(1230-1240年頃)が書かれた。これには聖杯探求に物語をフォーカスするために「メルラン続伝」が置かれており、それによってランスロットとグィネヴィアの不義の物語内の重要性が下がっているが、それでもアーサーの周辺化が止まることはない[94]。このように、アーサーはフランス語の散文作品ではマイナーな登場人物になってしまっている。実際、『流布本サイクル』ではアーサーは「メルラン物語」と「アルテュの死」にしか登場しないのである。

中世のアーサー王物語群と「ロマンス的アーサー像」の発展は、トマス・マロリーの『アーサー王の死(Le Morte D'Arthur)』(本来の題名は『アーサー王と彼の高貴なる円卓の騎士(The Whole Book of King Arthur and of His Noble Knights of the Round Table)』)で頂点を迎える。これは15世紀に英語で書かれた、アーサー王伝説全体を1つのまとめた作品である。マロリーはそれ以前の様々なロマンス、特に『流布本サイクル』を基に、アーサー王物語の包括的で権威ある作品を作り出す意図で書いたと考えられる[96]。おそらくこの意図のおかげで、あるいは1485年にウィリアム・キャクストンの手によりイングランドで最初に印刷された作品の一つになったおかげで、マロリーの作品は後世の多くのアーサー王に関する作品の基礎となった[97]。

衰退、復活、現代[編集]

中世以後[編集]

中世の終わりと共に、アーサー王に対する関心は薄れていった。マロリーの作品は人気を得たが、一方でジェフリーの時代以来のアーサー王伝説の歴史的枠組みの正当性に対する批判が増え、「ブリテンの話材」全体の信頼性が揺らぎ始めた。ジェフリー以降の年代記に広く見られた「アーサーがポスト・ローマ時代に大帝国を支配した」という記述に対し、16世紀の人文学者ポリドロ・ヴェルギリ(Polydoro Vergili)が、そのような記述はウェールズやイングランドの古物研究家によるおぞましい嘘である、と言って退けたことは有名である[98]。社会構造の変化により中世が終わりを迎え、その次にやって来たルネッサンス(人文復興)はアーサーとその伝説から聴衆を奪い取ってしまった。1634年を最後に、約200年続いたマロリーの『アーサー王の死』の印刷も途絶えてしまう[99]。アーサー王とその伝説は完全に捨て去られたわけではなかったが、アーサー王物語を真面目に受け取る者は減り、17世紀や18世紀には単なる寓話(アレゴリー)として政治的に利用されただけだった[100]。リチャード・ブラックモアの叙事詩『アーサー王子』(1695年)と『アーサー王』(1697年)のアーサーはジェームズ2世に対するウィリアム3世の寓意だった[101]。同様に、この時代にもっとも有名だったと思われるアーサーの登場する物語はなんと『親指トム』だった。これは最初チャップ・ブック(民衆本)として世に出たが、後にヘンリー・フィールディングによって政治劇に改作された。舞台こそアーサー時代のブリテンに置かれているが、内容は滑稽でアーサー自身も第一にコメディー色の強い人物として描かれている[102]。 ジョン・ドライデンの仮面劇『アーサー王』はよく上演された。ただし、それはヘンリー・パーセルの音楽が良かったからで、ほとんどの場合省略して上演された。

テニスンとリヴァイヴァル[編集]





アーサーとマーリン(ギュスターヴ・ドレによる国王牧歌の挿絵、1868年)
19世紀初頭になると、中世趣味、ロマン主義、ゴシック・リヴァイヴァルによってアーサーと中世のロマンスに対する関心が高まった。19世紀の紳士達の新しい行動規範は、アーサー王ロマンスに描かれた騎士道に沿って作り出されたのである。最初にこの新たな関心が呼び起こされたのは、1634年以来印刷されていなかったマロリーの『アーサー王の死』が再版された1816年である[103]。中世のアーサー王伝説に最初に特別な関心を示し、インスピレーションを受けたのは詩人だった。たとえば、ウィリアム・ワーズワースは聖杯の寓話である『エジプト人のメイド』を書いた[104]。彼らのうちもっとも卓越していたのはアルフレッド・テニスンで、彼は1832年に最初のアーサーに関する詩『シャロットの貴婦人(Lady of shalott)』を出版した[105]。中世のロマンスと同じくこれらの詩でアーサー自身が演じた役割はけして大きくなかったが、テニスンは『国王牧歌(Idylls of the King)』をもってその人気が頂点に達した。『国王牧歌』はアーサーの生涯をヴィクトリア時代に合わせて改作したものである。初めて出版されたのは1859年で、初週で1万部を売り上げた[106]。この作品のアーサーは理想の男性像の象徴で、彼は完璧な王国を地上に建設しようという試みるが最終的に人間の弱さによって挫折する[107]。すぐに『国王牧歌』の模倣が大量に作られるようになり、アーサー王伝説と彼に対する広い関心を呼び起こした。マロリーの『アーサー王の死』にも多くの読者をもたらした[108]。『国王牧歌』のすぐ後の1862年にマロリーの大作を現代風にアレンジした最初の作品が出版され、19世紀中にさらに6種類の版(エディション)と5種類の類似作品が出版された[109]。





アーサー王のアヴァロンでの最後の眠り(エドワード・バーン=ジョーンズ、1881年 - 1898年)
ロマンス的なアーサーと彼の物語に対する関心は世紀をまたいで20世紀まで続き、詩人ウィリアム・モリスや画家エドワード・バーン=ジョーンズなどのラファエル前派が影響を受けた[110]。18世紀に最も知られたアーサーものだった滑稽譚『親指トム』ですら『国王牧歌』を受けて書き直された。新しいバージョンではトムはかわらず小さいコメディ・リリーフであり続けているが、中世のアーサー王ロマンスの要素が話に付け加えられ、アーサーは以前より真面目で、歴史性の強い人物として扱われている[111]。アメリカ合衆国もまたリヴァイヴァルの影響を受け、シドニー・ラニアの『少年向けアーサー王物語』(1880年)などが多くの読者を得た。また、これに着想を得たマーク・トウェインは風刺小説『アーサー王宮廷のコネティカット・ヤンキー』(1889年)を書いた[112]。これらの新たなアーサー王関連の作品ではアーサーが主役になることが何度かあったものの(たとえばバーン=ジョーンズの絵画『アーサー王のアヴァロンでの最後の眠り』)、往々にしてアーサーは中世の頃の役割に戻され、脇役に甘んじたり登場すらさせてもらえない有様だった。リヒャルト・ヴァーグナーのオペラ(『トリスタンとイゾルデ』、『ローエングリン』、『パルシファル』)は後者の好例である[113]。また、人々のアーサーとアーサー王物語への興味がずっと続くことはなかった。19世紀の終わりまでにはアーサー王伝説に関心を持つものはラファエル前派の模倣者に限られるようになった[114]。加えて、第一次世界大戦の影響を避けることは出来なかった。大戦によって騎士道の名声は傷つき、理想の騎士としてのアーサーと中世的な理念に対する関心も色褪せてしまった[115]。それでもロマンスの伝統は維持され、トマス・ハーディ、ローレンス・ビニヨン、ジョン・メイスフィールドがアーサー王の戯曲を書いた[116]。T.S.エリオットは詩『荒地』に漁夫王を登場させ、アーサー王伝説をほのめかした(ただしアーサー王自身は登場しない)[117]。

現代[編集]

20世紀後半でもアーサー王ロマンスの伝統は続き、T.H.ホワイトの『永遠の王』(1958年)、マリオン・ジマー・ブラッドリーの『アヴァロンの霧』(1982年)などの小説、漫画『プリンス・ヴァリアント』(1937年- )などが書かれた[118]。テニスンは当時の問題意識に合うようにアーサー王のロマンスを作りなおしたが、現代の作品もそれと同じことが言える。たとえば、ブラッドリーは中世のロマンスとは対照的にフェミニズム的なアプローチでアーサー王の物語を語りなおし[119]、アメリカの作家は平等や民主主義などの価値観を強調してたびたびアーサーの物語を作りかえた[120]。ロマンスのアーサーは映画や舞台の場でも人気を得た。ホワイトの『永遠の王』はアラン・ジェイ・ラーナーとフレデリック・ローの舞台『キャメロット』(1960年。1967年に同名で映画化)とディズニーのアニメ映画『王様の剣』(1963年)の原作になった。『キャメロット』はランスロットとグィネヴィアの不義をテーマにしている。ロマンスの伝統は明白で、評論家によるとロベール・ブレッソンの『湖のランスロ』(1974年)、エリック・ロメールの『聖杯伝説』(1978年)、ジョン・ブアマンのファンタジー映画『エクスカリバー』(1981年)はそれをうまく表現しているという。アーサー王伝説のパロディ『モンティ・パイソンと聖なる杯』(1975年)もロマンスを主な題材にしている[121]。





カムランの戦い(N.C.ワイエスによる『少年のためのアーサー王物語』の挿絵、1922年
ロマンスの再話や再構成だけが現代に生きるアーサー王伝説の重要な側面ではない。ロマンスの虚飾を剥ぎとり、本当の紀元500年頃の歴史上の人物としてアーサーを描こうという試みが生まれた。第二次世界大戦が勃発すると、テイラーとブルワーが示したように、ロマンスではないジェフリーと『ブリトン人の歴史』などの「年代記」の伝統に立ち帰る潮流がアーサー王文学では支配的になった。ゲルマン人の侵入者に対し抵抗する伝説のアーサーの姿が、大戦下のイギリス人の共感を得たのである[122]。クレメンス・デーンのラジオドラマ『救国者たち』(1942年)はアーサーを絶望的な状況に立ち向かう英雄的抵抗精神の体現者として描き、ロバート・シェリフの戯曲『長い日没』(1955年)ではアーサーはゲルマン人の侵攻に抵抗すべくローマン・ブリティッシュの団結を呼びかける[123]。アーサーを歴史の文脈に置く傾向は20世紀後半に出版された歴史小説、ファンタジー小説にも見られる[124]。バーナード・コーンウェルの『小説アーサー王物語(The Warlord Chronicle)』(1995年-1997年)は歴史上の人物としてのアーサー像を中心に据えつつ、中世のロマンスの要素を独自の解釈で取り入れた歴史小説である[125]。アーサーを現実の5世紀の英雄として描くやり方は映像作品にも流入し、有名なテレビドラマシリーズ『ブリトンのアーサー』(1972年 - 1973年)[126]、『トゥルーナイト』(1995年)、特徴的な映画『キング・アーサー』(2004年)、『最後の軍団』(2007年)が作られた。2008年のBBCのドラマシリーズ『マーリン』は伝説を再構成し、未来の王アーサーとマーリンを同世代の若者に設定している。『CAMELOT』(2011年)[127]は古代ブリトン人としてのアーサーと彼の王位を賭けた戦いを描くショートシリーズである。最近リリースされたディズニー映画『アヴァロン・ハイ』(2010年)はアーサー王と円卓の騎士を現代に置き換えたストーリーになっている。

日本での受容[編集]

日本では、明治に夏目漱石がアルフレッド・テニスンの『シャロットの女』と『ランスロットとエレイン』を元にして短編『薤露行』を書いたが、それ以外では日本でアーサー王を扱った本格的な文学作品は皆無と言ってよい。

1942年にはアメリカの作家トマス・ブルフィンチによる再話が野上弥生子によって翻訳され(『中世騎士物語』)、アーサー王物語の概略が一般読書人にも知られるようになった。また、ヨーロッパ中世文学の研究者が増えるにつれ、マロリーの『アーサー王の死』の抄訳やクレティアンやヴォルフラムなど大陸ロマンスの邦訳も少しずつ出版されるようになっていった。

子供向けとしては、シドニー・ラニアの再話が1972年に翻訳されたほか、1979年にはテレビアニメ『円卓の騎士物語 燃えろアーサー』が放映された。この作品は中世ファンタジーに馴染みの薄かった当時に敢えて愛国の騎士アーサーを描いた意欲作だったが人気は振るわず、続編『燃えろアーサー 白馬の王子』(1980年)ではわかりやすい勧善懲悪物に路線変更を余儀なくされた。

1980年代後半以降、アニメやゲーム、漫画、ライトノベルなどのサブカルチャーが若者文化に深く浸透するようになると、それらのベースとなった欧米のファンタジーを通してアーサー王伝説に対する関心も高まっていった。これを受け、アーサー王を題材にした現代小説(アーサリアン・ポップ)のなかで評価の高いホワイトの『永遠の王』(1992年)やブラッドリーの『アヴァロンの霧』(1998年)が相次いで翻訳されたほか、『マビノギオン』の中世ウェールズ語からの翻訳(2000年)やマロリーの『アーサー王の死』の完訳(2004年 - 2007年)、ジェフリーの『ブリタニア列王史』の翻訳(2007年)など、アーサー王文学の重要文献を日本語でも読めるようになった。

また、日本人によるアーサー王伝説をモチーフにした若者向けの作品も作られるようになってきた。2004年に発表されたPC用成人向けビジュアルノベルゲーム『Fate/stay night』(TYPE-MOON)はアーサーの性別を変更するなど非常に大胆なアレンジを加えた上でアーサー王伝説の要素をプロットに組み込んだ作品で、家庭用ゲーム機への移植、漫画、アニメなど様々なメディアで展開された。ライトノベル作家本田透などもアーサー王伝説を下敷きにした作品を発表している。 その他、子供向けの作品として、バトルスピリッツやカードファイト!!ヴァンガードなどのカードゲームにアーサー王を始めとする円卓の騎士をモチーフにしたカードが存在する。

理想の人物として[編集]





最古とされる九偉人の彫刻(ケルン旧市役所)
アーサーは中世に九偉人(騎士道のあらゆる理念を体現する9人の英雄)の一人に選ばれた。彼の生涯は騎士道を熱望する人々にとって学ぶべき理想と考えられたのである。九偉人の一人としてのアーサーのイメージは最初文学作品によって知られるようになり、次に彫刻家や画家によって頻繁に題材にされた。特にイギリスでは、ライバルであるフランスが国の象徴としてカール大帝を持ち上げたことに対抗して、アーサー王は自国の象徴として持ち上げられた。たとえば、エドワード3世が円卓の騎士に倣ってガーター騎士団を設立したのは有名な話である。しかし、最も影響を受け利用したのはテューダー朝を開いたヘンリー7世であろう。ウェールズ出身の彼は自らの王位を正当化するためにアーサー王を利用し、王太子にアーサーと名付けたのである。ただし、アーサーは早世し、弟のヘンリーがヘンリー8世として即位したためアーサー王が誕生することはなかった。

アーサーは現代の行動規範としても利用されている。アーサーの中世的騎士道の理念とキリスト教的理想を推進するため、1930年代にはイギリスで「円卓の騎士友情騎士団」が組織された[128]。アメリカにおいても数10万の少年少女が「アーサー王の騎士」などといった若者向けグループに参加しており、そこではアーサーとその業績が心身の規範として奨励されている[129]。

文化的影響[編集]

現代の文化におけるアーサー王の広がりは伝説上の彼の業績を遙かに超えている。アーサー王伝説に関する名前は品物、建物、場所などに頻繁に用いられている。ノリス・J・レイシーが述べたように、「アーサーに関する名称がたくさんのモチーフや名前に使われているのは驚くにあたらない。なぜなら、数百年前に生まれたこの伝説は現代文化のあらゆる階層に深く根付いているからである[130]。」

アーサー王物語

アーサー王物語(アーサーおうものがたり)またはアーサー王伝説(アーサーおうでんせつ)とは中世の騎士道物語の一つ。

あらすじ[編集]

現在、アーサー王物語として一般に知られているのは、中世後期に完成し、トマス・マロリーらがまとめたアーサー王を中心とする騎士道物語群である。これは大きく四つの部分に分ける事ができる。
アーサーの誕生と即位。ローマ皇帝を倒し、全ヨーロッパの王になるまでの物語。
アーサー王の宮廷(キャメロット)に集った円卓の騎士達の冒険とロマンス。
聖杯探索。最後の晩餐で使われたという聖杯を円卓の騎士が探す物語。
ランスロットと王妃グィネヴィアの関係発覚に端を発する内乱(カムランの戦い)。王国の崩壊とアーサー王の死(アヴァロンへの船出)。

主要登場人物[編集]

詳細はアーサー王伝説に登場する人物一覧を参照。作品により、名前や血縁関係が多少異なる。
アーサー王ブリテンの王。マーリンアーサーを補佐し、導く魔術師。グィネヴィアアーサーの王妃。ランスロットとの禁断の恋で有名。ヴィヴィアン(湖の乙女)マーリンの愛人にして弟子。モルゴースアーサー王の異父姉。モーガン・ル・フェイ妖姫。アーサー王の異父姉。
円卓の騎士[編集]





アーサー王と円卓の騎士
アーサー王に仕えた精鋭の騎士たち。各々魔法の円卓に席を持つ。席の総数、構成員は作品によって異なる。
ランスロット湖の騎士。この世で最も誉れ高き最高の騎士。ガウェインモルゴースの息子でアーサーの甥。トリスタンアイルランド王マルクの甥。竜退治やイズーとの恋で有名。ガラハッドランスロットと白い手のエレインの息子。聖杯の騎士の一人。パーシヴァルペリノア王の息子。聖杯の騎士の一人。モルドレッドガウェインの異父弟。王位の簒奪を企み、アーサーと戦う。
歴史[編集]

伝説[編集]

「アーサー王」も参照

5世紀末にサクソン人を撃退したとされる英雄アーサーは、ブリトン人(ウェールズ人)の間で古くから伝説として語り継がれてきた。アーサーの直系の子孫であるウェールズ人が残した『マビノギオン』はそれを現代に伝えるほぼ唯一の史料であり、華やかな騎士道ロマンスに彩られる前の比較的古い状態のアーサー王伝説を見ることができる。

アーサーの生涯がはじめてまとまった形をとったのは、1136年頃ウェールズ人ジェフリー・オブ・モンマスが書いた『ブリタニア列王史』においてである。『ブリタニア王列史』は歴史書の体裁を取っているものの、非現実的な部分が多くを占めており、今日の伝説上の人物としてのアーサー王のイメージはここから始まると言ってよい。以降、彼の作品とそれを基にしたアングロ=ノルマンの詩人ウァースの『ブリュ物語』(1155年頃)、それにウェールズ人と共通の文化を有するブルターニュ半島のブルトン人などを経由して、アーサーの伝説は西ヨーロッパ全体に伝播してゆく。

中世[編集]

騎士道が花開く中世後半になると、アーサー王伝説はシャルルマーニュ(「フランスもの」)やアレクサンドロス3世(大王)(「ローマもの」)と並んで「ブルターニュもの」(ブリテンの話材とも)と呼ばれる騎士道文学の題材となり、フランスを中心に各地でさまざまな異本やロマンスが作られた。その過程で本来関係がなかったエピソードが円卓の騎士の物語として徐々に組み込まれていった。ランスロットや湖の乙女、トリスタンとイゾルデ、パーシヴァル、ガラハッド、聖杯探求、石に刺さった剣、円卓、キャメロットなどといった人物やモチーフはこの時期に導入されたものである。

この時代の優れた作品にクレティアン・ド・トロワ(フランス)の『ランスロ、あるいは荷車の騎士』、ドイツのヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルツィヴァル』、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの『トリスタン』、イングランドの『ガウェイン卿と緑の騎士』(著者不明)などがあり、これらは中世文学を代表する俗語作品として高く評価されている。

このようにして製作された各種ロマンスは、『ランスロ=聖杯サイクル』や『後期流布本サイクル』(ともに著者不明)などの統一性を持った散文作品群にまとめられていった。1470年にウェールズ出身の騎士トマス・マロリーがこれらを使用して書き上げた『アーサー王の死』はその決定版というべきもので、現在はマロリーの作品がアーサー王物語を代表する作品となっている(ただし、『アーサー王の死』に含まれないエピソードやヴァリエーションも数多く存在する)。この作品は15世紀末の出版業者ウィリアム・キャクストンの手による印刷本(キャクストン版)と、1934年に発見された中世写本(ウィンチェスター版)により現在に伝えられている。

近現代[編集]

騎士道文学の衰退と共に汎ヨーロッパ的な人気は衰えたが、ロマン主義の時代になるとイギリスの愛国主義のモチーフとして好まれ、アルフレッド・テニスンの『国王牧歌』などが書かれた。第二次世界大戦以降、ファンタジーの復権とともに再び注目されるようになり、現在でも小説や映画、ドラマなど多様なメディアでアーサー王物語が作られ続けている。

ナルト叙事詩との関連[編集]

アーサー王をはじめとする伝説の多くは、従来はケルトに由来するというのが有力な説であった。しかし近年は黒海東岸のオセット人のナルト叙事詩と共通の起源を持つという説が注目されている[1]。この説で特に注意されているうちの一つは、アーサー王の死とナルト叙事詩の大英雄バトラズの死との間に顕著な類似が認められることである。

アーサー王は死の直前ベディヴィアに湖にエクスカリバーを投げ込むよう指示する。しかしベディヴィアはエクスカリバーの美しさに見惚れて湖に投げ込んだと嘘をつく。しかしアーサー王は奇跡(つまり湖から手が現れて剣を受け取る)が起きないことを理由にその嘘を見抜き、仕方なくベディヴィアは剣を湖に投げ入れる。一方のバトラズも死の直前、ナルトたちに自分の魔剣を海に投げ込むよう命じる。しかしその剣のあまりの重さゆえに、ナルトたちが海に投げ入れたと嘘をつくと、やはり何の奇跡も起きていないことを理由にその嘘を見抜き、ナルトたちは仕方なく剣を海に投げ込む。奇跡の内容など違いもあるが、物語の構成に類似が保存されている、と論じられている。

研究書・解説書[編集]

「アーサー王に関する書籍の一覧#解説書・研究書」を参照

学術研究機関[編集]
国際アーサー王学会(IAS:The International Arthurian Society/SIA:La Société Internationale Arthurienne)1948年にアーサー王文学の研究者ジャン・フラピエ(Jean Frappier)、ウジェーヌ・ヴィナーヴァ(Eugene Vinaver)、ドミニカ・レッゲ(Dominica Legge)らが中心となり、パリ大学(ソルボンヌ)を本拠として創設された研究団体。世界各国に支部があり、日本にも支部がある(1987年第1回支部総会)。

モーガン・ル・フェイ

モーガン・ル・フェイ(英語: Morgan le Fay)は、アーサー王物語に登場する女性。多くの作品で、アーサー王の異父姉にして魔女として知られる。


名称[編集]

モーガン・ル・フェイは現代英語読みで、古い読みではモルガン・ル・フェという。その呼称は『妖精モルガン』という意味。「大いなる女王」の意味を持つケルト神話の女神・モリガンと同一視される。ケルトでは、三位一体(三相女神)の三は聖なる数字とされており、三がさらに三つある九は究極の数字とされ、九姉妹の長女として、モルガン・ル・フェを扱っている。イタリアではファタ・モルガーナ(Fata Morgana)と呼ばれる。

魔女として[編集]





『アーサー王の最後の眠り』(1898、エドワード・バーン=ジョーンズ)重傷を負ったアーサー王とアヴァロンを統治する姉妹たち。
この人物を初出の文献『マーリンの生涯』(Vita Merlini)では、モーガン(モルゲンや妖精モルガナ)は伝説の林檎の島・アヴァロンを統治する九姉妹の長姉である。役立つ知識と医術を兼ね備え、病人を治療することもできる。また美しい声を持つ歌姫として、他の姉妹たちよりもずっと美しい。変身能力があり、ダイダロスのように翼を使って空を飛翔できた。時常に他の姉妹たちに学問を教えた。その後、タリエシンも随行した船で、カムランの戦いで重傷を負ったアーサー王をアヴァロン島へ連れて行った。ブリトン人らの助けを借りて、アーサー王を連れたモーガンたちが到着する。後にモーガンは部屋を用意すると、アーサー王を金のベッドに寝かす、自分の治癒の力を使いてアーサー王の傷を治癒していた。

15世紀後半以降に文献『アーサー王の死』(Le Morte d'Arthur)では、モルガンが黒魔術を使い邪悪の魔女へ変更された。モルガンは、ティンタジェル公ゴルロイスとその妻イグレインとの間に生まれた三女の末娘とされる。母イグレインがアーサーの父ユーサー・ペンドラゴンと再婚した後、キリスト教の修道院にて修業、魔術に通じ、修道院での堕落した教育で不思議な妖術を突然身に付け、異父弟アーサーの前に立ちはだかる妖女である。後に魔法使いマーリンは、彼女が魔力を磨くのを手伝い始める。モルガンはアーサーの純粋な心を嫌悪し、アーサーとグィネヴィアの陥害と王位奪取を企む。アーサー王の最強の敵となる。円卓の騎士の一人、ランスロットの妻となるペレス王の娘エレイン姫の美しさを妬み、彼女を幽閉しランスロットを誘惑した。また、聖剣エクスカリバーの魔法の鞘をアーサーから盗み、恋人のアコーロンを交わす。これによってエクスカリバーはアーサーを守る不死の力を失い、やがてアーサーはモルゴース(モルガンの姉)との間の不義の子であるモルドレッドとの戦いで命を落とす事になる。映画や小説などではモルガンとモルゴースは同一人物として描かれる事もある。

1300年代後半の文献『ガウェイン卿と緑の騎士』(Sir Gawain and the Green Knight)にも登場し、「女神モルガン」の呼称でもって呼んでいる。グィネヴィアの女官と医師を担当する。王の甥ジオマールと恋に落ち、後にグィネヴィアの阻止を受け入れた不成立に終わった。このことが原因で、モルガンはグィネヴィアを憎んだ。後にグィネヴィアとランスロットの情事をアーサー王に密告する。また緑の騎士をキャメロット城に送って、グイネヴィアを恐怖で縛り付ける。緑の騎士はモルガンの魔法により不死の身体を持つ緑色の装束に身を包んだ謎の騎士。円卓の騎士を試すためにアーサー王たちの前に現れた。後に円卓の騎士のガウェインが女神モルガンの誘惑に屈しなかったため、「女神の騎士」を変えて、女神モルガンを象徴する五芒星と緑のベルトに身を付けて、粗野で好色な自慢家として一生を終える。

巫女として[編集]

以上は、キリスト教説話としての性質も色濃く見られるアーサー王伝説の中での表現であるが、現代的な視点からは、ケルト人のドルイド信仰をはじめとするキリスト教以外の信仰に根ざした文化圏に属する民族と、キリスト教価値観との文化的な衝突を、モーガン(土着文化の民族)とアーサー(キリスト教に立脚した支配者)という二人の人物像に仮託した伝承であると見ることもできる。
その場合この姉弟の対立は、悪意に満ちたものと言うよりも、土着文化を理解できないキリスト教文化により歪曲されていると捉えられなくもない。

アイルランドの伝説では、モルガンは三相一体の女神となり、この時に九人の姉妹に増えて死者を再生する魔法の大鍋を守り、西方の死者の島・アヴァロンの支配者となった。

伝承中ではアーサーは死に際し、キリスト教ではなく民族の王として、ドルイド信仰の伝説の聖地アヴァロンへと夜の湖の上を去っていくが、一説ではこの時アーサーを迎えに来た三人の妖精の女のうち、一人はモーガンであったとも語られる。通常に湖の乙女のヴィヴィアン(Viviane)と同一の大女神から派生した女神といえそうである。

このような「古い文化圏の巫女」としてのモーガンの性質に注目してアーサー王伝説を捉え直したフィクションに、マリオン・ジマー・ブラッドリーのファンタジー小説『アヴァロンの霧』などがある。

モーガン・ル・フェイが登場する作品[編集]

「アーサー王に関する書籍の一覧」および「アーサー王に関する作品一覧」を参照

蜃気楼

蜃気楼(しんきろう)(mirage)は、密度の異なる大気の中で光が屈折し、地上や水上の物体が浮き上がって見えたり、逆さまに見えたりする現象。光は通常直進するが、密度の異なる空気があるとより密度の高い冷たい空気の方へ進む性質がある。



種類[編集]





光の屈折による下位蜃気楼




ユタ州・グレートソルト湖の蜃気楼(浮島現象)




Fata morgana
大気の密度は大気の温度によって粗密を生じるが、低空から上空へ温度が上がる場合、下がる場合、そして水平方向で温度が変わる場合の3パターンがある。それぞれによって蜃気楼の見え方が異なる為、以下のように分類される。

上位蜃気楼[編集]

温度の低い海面等によって下方の空気が冷やされ密度が高くなると、元となる物体の上方に蜃気楼が出現する。水平線(地平線)の下に隠れて見えない風景や船などが見える場合があり、通常ニュースなどで取り上げられる蜃気楼は、この上位蜃気楼を意味する場合が多い。

ヨーロッパを中心に、ファタ・モルガーナ(Fata Morgana)という俗称も広く浸透している。

北海道別海町の野付半島付近や紋別市などでは、この対応の蜃気楼の一種として、四角い太陽が観測されることがある。四角い太陽は、気温が氷点下20度以下になった早朝、日の出直後の時間帯に、通常は丸く見える太陽が四角く見える現象である。極地域では他にもこれが観測される場所がある。16世紀末、ウィレム・バレンツらの北極海探検時にノヴァヤゼムリャで発見されたので、ノヴァヤゼムリャ現象という別名もある。





逃げ水現象
下位蜃気楼[編集]

最も一般的に目にする機会の多い蜃気楼。アスファルトや砂地などの熱い地面や海面に接した空気が熱せられ、下方の空気の密度が低くなった場合に、物体の下方に蜃気楼が出現する。

ビルや島などが浮いて見える浮島現象や逃げ水現象もこのタイプに属する。

鏡映(側方)蜃気楼[編集]

物体の側方に蜃気楼が出現する。報告が最も少なく、極めてまれな現象であると言える。スイスのジュネーブ湖で目撃されたという報告がある。また、日本で不知火(夜の海に多くの光がゆらめいて見える現象。九州の八代海、有明海などで見られる)と呼ばれるものも、このタイプの蜃気楼に属すると言われている。

歴史[編集]





蜃気楼
鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』
蜃気楼と見られる記述が初めて登場したのは、紀元前100年頃のインドの「大智度論」第六まで遡る。この書物の中に蜃気楼を示す「乾闥婆城」という記述がある。また、中国では『史記』天官書の中に、蜃気楼の語源ともなる「蜃(あるいは蛟)の気(吐き出す息)によって楼(高い建物)が形づくられる」という記述がある。日本語の「貝やぐら」は、蜃楼の蜃を「かい」、楼を「やぐら」と訓読みにしたことばである。また、「mirage」という単語は、ナポレオン遠征時にモンジュが命名した[要出典]。

日本では近世に成立した『北越軍談』において上杉謙信が蜃気楼を見たとする逸話を記しているほか、『魚津古今記』(1700年頃)では、加賀藩当主である前田綱紀が魚津で蜃気楼を見て吉兆であると「喜見城」(帝釈天の居城)と名づけたと伝えられていたり、その他、同じく加賀藩当主、前田治脩は、1797年4月に江戸から金沢への参勤交代帰城道中に魚津で蜃気楼を発見し、その絵を描かせたと伝えられている。

蜃気楼を描いた芸術作品[編集]
芥川龍之介「蜃気楼――或は「続海のほとり」――」:神奈川県藤沢市の鵠沼海岸の蜃気楼。
江戸川乱歩:「押し絵と旅する男」(魚津の蜃気楼をめぐる作品)
歌川広重らによる浮世絵(四日市市立博物館)

電離層

電離層(でんりそう)とは、地球を取り巻く大気の上層部にある分子や原子が、紫外線やエックス線などにより電離した領域である。この領域は電波を反射する性質を持ち、これによって短波帯の電波を用いた遠距離通信が可能である。

概説[編集]

電離層の日変化と高度(km)

昼間 夜間
F2層 (220 - 800) F層 (150 - 800)
F1層 (150 - 220)
E層 (90 - 130)
D層 (60 - 90)

熱圏に存在する窒素や酸素などの原子や分子は、太陽光線などを吸収する。そのエネルギーによって、原子は原子核の回りを回転する電子を放出し、イオンとなる。この現象を光電離という。この電離状態であるイオンと電子が存在する領域が電離層である。大気に入った紫外線などは、熱圏内で次々と原子や分子に吸収されていくため、繰り返し光電離が生じる。こうして熱圏内は電子密度の高い状態となっている。

電離層は熱圏内(高度約60kmから500kmの間)に位置し、電子密度の違いによって、下から順にD層 (60km - 90km)、E層 (100 - 120km)、F1層 (150km - 220km)、F2層 (220 - 800km) の4つに分けられる。

上の層に行くほど紫外線は強く、多くの電離が生じるため電子密度は大きく、下の層は電子密度が小さい。夜間は太陽からの紫外線が届かないため、電子密度は昼間よりも小さくなる。最下層のD層は、夜間には太陽からの紫外線があたらないため、電離状態を維持することができずに消滅する。またF1層とF2層も夜間には合併して一つのF層 (150km - 800km) となる。これにより、昼間と夜間では電波の伝播状態が変化する。また11年周期の太陽黒点の増減によっても大きく変化する。このことをサイクルといい、1989年頃の太陽黒点の極大期をサイクル22、2000年頃をサイクル23、2011年頃をサイクル24…という。なお、観測が開始された初の極大期・サイクル1は、ダルトン極小期の終わった1829年である。

電離層による電波の伝わり方[編集]

周波数による違い[編集]





平常伝播状態における、電波の周波数帯別電離層反射長波は、昼はD層で反射して、D層が消滅する夜はE層で反射される(中波に似る)。
中波は、昼はD層で減衰されてしまうため、伝播距離は地表波が届く数十キロ程度に留まるが、D層が消滅する夜は主にE層で反射され、数百から1000キロ以上の遠方まで届くようになる。
短波は、常にD層を通り抜け主にF層で反射されるが,昼と夜では電離層の状態が異なるので伝わり方が変わる(昼は高い周波数が、夜は低い周波数が反射されるようになる)。
VHF・UHF以上の高い周波数(短い波長)の電波は、電離層を通り抜けてしまうので遠くには伝わらない(地上用としては、基本的に見渡せる距離しか伝わらない)。逆に、電離層を通り抜ける性質を使い、人工衛星や電波天文学など宇宙との通信に利用される。但し、電離層を通り抜けている間は、伝播速度が遅くなるため、GPSでは測位誤差の原因になる。

電波の入射、吸収、反射[編集]

電波は電離層に入射すると、電離層により吸収、屈折、反射される。それぞれの割合は、電離層の電子密度、電波の周波数、電波の入射角に依存する。電波の入射角が全反射の条件を満たすと入射したエネルギーが吸収も屈折もされることなく、すべて反射されることがある。これは空気から水に入った光が吸収されたり反射したり屈折したりする現象とほぼ同様である。電離層が電波を反射する条件が整った場合、地上からやってきた電波が電離層に入射すると、今まで通ってきた空気中よりも電子の数が急激に増すため、電波はそのスピードを失う。最終的に電波は電離層に反射させられ、再び地上に戻ってくる。電離層への入射角により、電波の一部は電離層により吸収されたり、屈折して宇宙空間に伝わったり、反射されたりする。

電波が電離層を透過する際に受ける減衰を第一種減衰、電離層を反射する際に受ける減衰を第二種減衰という。反射による減衰が急激に増加する周波数を最高使用周波数 (MUF) といい、短波ではその85%の周波数を最適使用周波数 (FOT) としている。最適使用周波数では電離層反射を最も効率的に利用でき、遠距離通信に適しているが、コンディションが変化して最高使用周波数が低下すると、突然電離層反射が利用できなくなることも起こり得る。

正割法則[編集]

電離層に対する電波の入射角を\theta とする。電波が電離層に対して垂直に入射した場合に (\theta =0) 反射される最大の周波数(臨界周波数)をf_0とすると、電波が電離層に対して斜めに入射した場合には、反射される最大の周波数はf_0 \sec \theta となる。正割の関係があることから正割法則(セカント法則)と呼ぶ。

実際には地球が球形であるため\sec \thetaの上限があること、電界強度は周波数の4乗に反比例することから、電離層反射による伝播のおおよその距離、および電離層反射を利用できる実用上の上限の周波数が推測される。例えば、50MHz帯でスポラディックE層による異常伝播が発生する確率に対する144MHz帯でスポラディックE層による異常伝播が発生する確率の比は (50/144)4 ≒ 1/69 と見積もりできる。

スポラディックE層[編集]

詳細は「スポラディックE層」を参照

突発的・局地的に100km程度の高度に発生する電離層を、スポラディックE層と呼ぶ。この層の状態によっては、通常は電離層で反射されない超短波 (VHF) が反射され、テレビやラジオの放送などで予期しない混信が生じることがある。

デリンジャー現象[編集]

詳細は「デリンジャー現象」を参照

太陽フレアが起きると、電離層の電子密度は通常よりも高くなる。この状態では地上からの電波は電離層に反射されずに吸収され、短波を用いた長距離通信に障害をもたらすことがある。これをデリンジャー現象と呼ぶ。

地震との関係[編集]

「宏観異常現象#電磁的現象」も参照

近年、電離層の異常と大地震との関連性が指摘されている。北海道大学の日置幸介教授(地球物理学)の調査によると、2011年3月の東北地方太平洋沖地震発生前の40分前から、震源域上空において電離層の電子密度が周囲より最大1割ほど高くなっていた事が確認されている。2010年のチリ地震(M8.8)、2004年のスマトラ島沖地震(M9.1)においても、同様の変化が起きている。ただし、2003年の十勝沖地震(M8.0)では微増だった。日置教授は「メカニズムは不明だが、巨大地震の直前予知には有望な手法だ」と期待している。なお、電気通信大学の早川正士教授(地震電磁気学)も前述の東北地方太平洋沖地震の5日前に電離層の異常が起きていたと述べている。[1]

オーロラ

オーロラ(英: aurora[† 1][† 2])は、天体の極域近辺に見られる大気の発光現象である。極光(きょっこう)ともいう[1]。

以下本項では特に断らないかぎり、地球のオーロラについて述べる。


名称[編集]





アウロラ
オーロラという名称はローマ神話の暁の女神アウロラ(Aurora)に由来する[2][3][4]が、科学術語になった過程については定説がない[5]。

この名称は17世紀頃から使用され始めたと考えられており、名付け親はフランスのピエール・ガッサンディという説があり[2][6]、エドモンド・ハレーが自らの論文の中でこの説を述べている[7]。その一方でイタリアのガリレオ・ガリレイが名付けたという説もある[2][3][8]。当時彼は宗教裁判による命令で天体に関することを書けなかったため、弟子の名を使ってこのことを著している[4]。

オーロラという名称が浸透する以前からも現象そのものは紀元前から様々な地で確認・記録されており、アリストテレスやセネカはオーロラを天が裂けたところであると考えていた。特にアリストテレスは『気象論』で「天の割れ目(CHASMATIS)」と表現した[9][10]。また、日本では古くは「赤気」「紅気」などと表現されていた[11]。現代日本語では北極近辺のオーロラを北極光、南極近辺のオーロラを南極光と呼ぶこともある[1][12]。

北アメリカやスカンジナビアではオーロラのことをnorthern lights(北の光)ともauroraとも呼ぶが、徐々にauroraも使うようになって来ている[4][13]。また北極光をnorthern lights、あるいはAurora Borealis、南極光をsouthern lights、 あるいはAurora Australisと呼ぶ[4][1]。オーストラリアではオーロラのことをnorthern lightsと呼ぶ[4]。ときにはAurora polarisと呼ばれることもある[4]。

観測史[編集]

日本の観測史については後述。

神話や伝承[編集]




そのころ、アンティオコスは再度のエジプト攻撃の準備をしていた。
折から、全市におよそ四十日にわたり、金糸の衣装をまとい、
槍と抜き身の剣で完全武装した騎兵隊が
空中を駆け巡るのが見えるという出来事が起きた。
すなわち、隊を整えた騎兵がおのおの攻撃や突撃をし、
盾が揺れ、槍は林立し、投げ槍が飛び、
金の飾りやさまざまな胸当てがきらめいた。
そこで人は皆、この出現が吉兆であるようにと願った。

−マカバイ記二 5章 1,2,3,4節 [14][15]

中国や西欧ほどの緯度ではオーロラの活動が活発な時にオーロラの上の部分、赤い部分が見える[16]。このことから中世ヨーロッパではオーロラの赤から血液を連想し、災害や戦争の前触れ、あるいは神の怒りであると解釈していた[17][18][19]。また中世までのヨーロッパでは、オーロラを「空に剣や長槍が現れ」て動いた・戦ったと表現することが多い。これはオーロラの縦縞が激しく動くさまを表している[15]。

ただし、彗星も空に現れる凶兆とされていたこともあって、オーロラなのか彗星なのか判別できない記述もある[20]。

古代中国ではオーロラは天に住む赤い龍に見立てられ[18]、やはり西洋と同様に政治の大変革や不吉なことの前触れであると信じられていた[21]。この他にも古代中国には赤い蛇のような体を持ち、体長が千里におよぶとされる燭陰という神がいた[22]。中国の神話学者・何新は、大地の最北極に住む燭陰はオーロラが神格化されたものではないかと論証している。その一方で中国の考古学者・徐明龍は、燭陰を、中国神話の神である祝融と同一神であるとし、太陽神、火神ではないかと述べている[23]。また中国の古文書の中で天狗、帰邪、赤気、白気、竜などと表現されている天文現象の中にも、オーロラのことを指しているのではないかと推測されるものがある[24]。

北欧神話においてオーロラは、夜空を駆けるワルキューレたちの甲冑の輝きだとされる[25][26]。北欧ではオーロラにより死者の世界と生者の世界が結びついている、と信じている人が未だにおり[27]、またエスキモーの伝説では、生前の行いが良かった人は死後、オーロラの国(実質的に天国のこと)へ旅立つということになっている[28]。

近代[編集]





ロシアで1890年から1907年まで出版されていた百科事典に載っているオーロラの挿絵。
近代以降、両極を探検した人々がオーロラを記録に残し始めた。ジェームズ・クックは、1773年2月の航海誌に「天空に光が現れた」と残しており、世界で最初に南半球のオーロラを見たヨーロッパ人であると言われている[29]。

オーロラを世に広く知らしめ、社会のオーロラへの関心を大きく高めた出来事としては、ジョン・フランクリン隊の遭難が挙げられる[30]。フランクリンは北西航路を発見するために1845年に出港し、その後行方不明となった。消息の途絶えたカナダ北部へとフランクリン隊を探すために多くの救助隊が向かい、そこで見たオーロラを報告書や回顧録に残したのである[31]。

両極を探検した人々もオーロラを手記や記録に残している。フリチョフ・ナンセンの著書や日記には木版画や絵画のオーロラが掲載されている[32][33]。またロバート・スコットも日記にオーロラの様子を残している[34][35]。



折り畳まれ、揺れる光のカーテンが空に立ち上がり、そして広がり、ゆっくり消えて行く。かと思うと、また生き返る。このような美しい現象は、大自然への畏敬の念を持たずに見ることはできない。

オーロラが人の心を動かすのは、なにかとらえ難い、霊妙な生命にあふれたもの、静かな自信に満ちて、それでいて絶えず流れ来るものを暗示することによって、人々の想像力を刺激するからである。 [35]

− ロバート・スコットの日記より

研究史[編集]

オーロラの発生原理については、古くから多くの科学者たちが解明に努めてきた[17]。特に18世紀から19世紀にかけてのオーロラ研究は電磁気学の誕生と発展そのものである、と言う研究者もいる[36]。

黎明期[編集]





まるで地面から吹出したように見えるオーロラもある[37]。
エドモンド・ハレーは1716年3月にオーロラを観測して論文を発表した。ハレーはオーロラの縞模様と球形磁石の磁力線と一致しているのを認識し、「磁気原子」という仮想の原子が地球内部から吹き出してきて、それが磁力線にそって発光するのではないか、という仮説をたてた[38]。フランスのド・メラン(en)はこの説を支持しなかったが、ジョン・ドルトンやジャン=バティスト・ビオは支持した。特にビオは、「磁気原子」の噴出は火山の噴火によるものだと主張した[39]。

ド・メランは1733年にオーロラに関する世界初の学術書を書いた。その中でド・メランは巻雲を原因とする説を退け、地球外物質を原因とした。黄道光を作る物質が地球の大気圏で発火する、という説を唱えたのである[40]。太陽黒点の数とオーロラの発生頻度に相関関係があることを発見したのもド・メランである[40]。また同著の中で、南半球にも北半球とよく似たオーロラが出るのではないかとも述べている[41]。

発生頻度の研究も行われた。イライアス・ルーミス(en)は1859年の太陽嵐をまとめ、1860年にオーロラの発生頻度分布図を作った[42]。図は約1世紀後の国際地球観測年により多くの情報を元に作られた分布図と比べても遜色のないほど正確である[43]。スイスのフリッツはルーミスの図を定量化し、一年でオーロラが発生する日数が同じ地点を線で結び、「アイソカズム」と名付けた[44][† 3]。

電磁気学の発展[編集]





カール・ステルマー(左・en)と助手のビルケラント(右)。1910年撮影。
1741年、アンデルス・セルシウスとその助手 Olof Hiorter はオーロラが発生すると地球磁場も変動するということを発見した[17][46]。またアレクサンダー・フォン・フンボルトは1845年から1862年にかけて刊行された『コスモス』の1章を割いてオーロラについて述べている[47]。彼はベルリンからアルプスの高山から赤道から極地まで地球磁場を準定量的に測り、ロシアとイギリスの王立協会に地磁気観測所を進言して設立させ、地磁気の擾乱が全球的なものであることを突き止めた[47]。そして、世界中の磁場が乱れて高緯度地方に強いオーロラが出たり低緯度地方にオーロラが出たりする現象に対し、フンボルトは「地球磁場のカミナリ」という新しい術語を作った[48][47]。20世紀に開かれた国際会議により、この現象は「磁気嵐(Magnetic storms)」と再命名されている[48]。

19世紀末になると、X線の発見やその研究、またジョゼフ・ジョン・トムソンによる電子の発見に象徴される、真空管を用いた実験が盛んになっていった[49]。トムソンは自著の中で放電管の光とオーロラの光は同一であろうと述べている[49]。ノルウェーの物理学者、クリスチャン・ビルケランドは1896年の時点で、太陽から高速で飛んでくる電子が地球の大気に突入して光ったものがオーロラではないかと考えた。そして数多くの遠征や小さな地球を模した磁石(テレラ)による実験(後述)、地磁気擾乱の解析などを経て、1913年に研究結果を1冊の本にまとめた。この本の中で彼は既に、オーロラに沿って流れる大電流について述べている[50]。

カール・ステルマーはビルケランドのテレラを見て数学者から理論物理地球学者に転向し、磁場内での荷電粒子の動きを計算した。しかし算出されたオーロラの発生範囲が実際のオーロラと違うことからステルマーは実測に力を入れ始め、計4万枚のオーロラの写真を撮った。この研究により、オーロラの下端が100キロメートル上空にあることが確認された[51]。シドニー・チャップマンは1918年に「磁気嵐の理論の概要」という論文を発表した[52]。その後この論文に対する反論を受けて助手フェラローとともに1931年、地球の磁気圏は太陽風によって彗星のような形になっているという、チャップマン=フェラーロ理論を発表した[53]。太陽のプラズマの中に「未知のもの」があるはずだというチャップマンに学会は反発したものの、数年後に「未知のもの」とは太陽の磁場であることがわかった[54]。チャップマン=フェラーロ理論は約30年後のアメリカの人工衛星エクスプローラー12号により1961年に実証された[55]。

ハンス・アルヴェーンはアルヴェーン波を予言し、「磁場の凍結」という概念を確立したノーベル物理学賞受賞者である[56]。アルヴェーンは「磁場の凍結に固執するから太陽面爆発やオーロラを説明できないのだ」と自らの理論を軽んじて、若い研究者から異端として扱われた。実際に磁場の凍結でオーロラは説明できない[57]。その後チャップマンとアルヴェーンの間で磁気嵐を巡る論争が起こり、チャップマンは「数学的な解に十分な基礎をおかない思索を避けねばならない」といい、アルヴェーンは「プラズマは数式を嫌い、そしてまた数式の示すところに従いたがらない」といい、ステルマーは「オーロラがカーテン状である理由を説明できない理論はオーロラの理論と呼べない。結局私の理論が一番正しいはずである」といった[58]。

分光[編集]

オーロラの光そのものを分析し、何が光っているのかを調べる研究もなされていたが、分光学そのものの発展を待たねばならなかった[59]。オーロラ分光学が始まったのは1850年台、そして最も代表的な緑白色の光の波長が正確に測定されたのは約70年後の1923年である[59]。当時の真空放電の装置では緑白色の光を再現できなかったり、分光が不正確で間違った同定がなされたりもした[60]。アルフレート・ヴェーゲナーは、大気の上層には「ゲオコロニウム」という下層に存在しない元素があり、これが発光のもとではないかと考えた[60]。ウィリアム・ラムゼーは著書の中で、「太陽中の放射性元素から放出されて飛来する電子が、大気中のクリプトンを励起することによってオーロラは作られる」と述べている[60]。

Lars Vegard(en)は電離した窒素分子の出す光と電離してない窒素分子から出る光を同定した[61]。また、窒素の放電管実験で出る光のうちにオーロラの中にも見られる光が一つ有ることを発見した。この光はアメリカのKaplanによって同定されたためVegard-Kaplan帯と呼ばれる[61]。アンデルス・オングストロームは19世紀後半、オーロラの分光を行い、オーロラの光は太陽光とは違って、短波長の光と狭い範囲の光の集まりであることを発見したと言われている[59]。そして緑白色の光の波長を556.7ナノメートルと測定した。正確には557.7ナノメートルである[59]。その後1925年にこの光が酸素分子から出ていることが発見された[62]。酸素原子の出す光も1930年に同定されるなど、オーロラの元となる気体の大部分が判明していき、大気の上層の組成もまた判明していった[63]。

全球的観測[編集]





ドミニク作戦I・スターフィッシュプライム実験で発生したオーロラ。1962年7月。
やがて分光学と磁気嵐の研究は深化するとともに専門化していった[64]。事実上、20世紀半ばの時点ではオーロラの分布や動きに関する研究は全くといっていいほど進んでいなかった[65]。

水素原子の光を同定したガルトラインが1947年に全天カメラを考案しており、国際地球観測年の委員長シドニー・チャップマンは極地全域で全天カメラを撮影することを計画した[66]。さらにチャップマンは全天カメラ研究が一段落ついた1965年頃に、人工衛星から写真を撮ることを提案し、これも後述するように実現した[67]。国際地球観測年ではロケットを2台、オーロラの光っている空域へ打ち込み、強力な電子ビームがあることもわかった[67]。

人工的にオーロラを出現させる実験もこの頃に実施された。最初の実験はNASAによって1969年に行われた[68]。しかし、この実験以前にも大気中核実験により期せずして人工のオーロラが発生したことがある[68]。

フェルドシュタインはオーロラの発生する地域を1963年に初めて確定し、環状になっていることを突き止めた。太陽から見るとオーロラの環が固定されていることも発見した[69]。赤祖父俊一も全天カメラやジェット機からの撮影によりオーロラの環の存在を示し、フェルドシュタインとともに1971年、発表したものの支持されなかった[70]。しかしカナダのアンガーが人工衛星ISIS IIによって実際に環を撮影すると、受け入れられた[71]。

発生原理[編集]





地球の夜側にプラズマシートが形成される。
2012年現在では、オーロラの発生原理は以下のように考えられている。

太陽からは「太陽風」と呼ばれるプラズマの流れが常に地球に吹きつけており、これにより地球の磁気圏は太陽とは反対方向、つまり地球の夜側へと吹き流されている。太陽から放出されたプラズマは地球磁場と相互作用し、複雑な過程を経て磁気圏内に入り、地球磁気圏の夜側に広がる「プラズマシート」と呼ばれる領域を中心として溜まる。このプラズマシート中のプラズマが何らかのきっかけで磁力線にそって加速し、地球大気(電離層)へ高速で降下することがある。大気中の粒子と衝突すると、大気粒子が一旦励起状態になり、それが元の状態に戻るときに発光する。これがオーロラである[72][73]。

発光の原理だけならば、オーロラは蛍光灯やネオンサインと同じである[74]。プラズマシートが地球の夜側に形成されるため、オーロラは基本的に夜間にのみ出現するものである。しかし昼間にもわずかながら出現することがある[75]。

どのようにして太陽風が地球の磁力圏に入り込むのか、なぜプラズマは特定の部分にたまるのか、何がきっかけで加速されるのかなど、発生原理の肝要な部分については未だ統一した見解はない[76]。最も有力な説は、入り込む理由や加速される理由を、地球の磁力線が反対向きの磁力線とくっつくこと(リコネクション)に求める説である[77]。

オーロラが突如として一気に広がる現象をブレイクアップという[78]。日本語ではオーロラ爆発とも訳される[79]。空から突然光が噴出し全天に広がり、色や形の変化が数分間続く。このブレイクアップに関しても、発生原因や発生過程などはあまり分かっていない[80]。

放出されるもの[編集]

可視光[編集]





フェアバンクスのオーロラ。上部は赤、下のほうは緑になっている。




珍しい紫のオーロラ。




大抵は月よりオーロラのほうが暗い。
オーロラの色は、宇宙からの粒子が大気に衝突する際に何の成分に当たったかだけではなく、どれくらいの高度で、どれくらいの頻度で、どれくらいの時間をかけて衝突し、どれくらいのエネルギーを与えられて励起し、どの基底状態に戻ったのか、など様々な要素が複雑にからみ合って決まる[81]。さらに、太陽光から特定の波長のみ吸収して起きる(共鳴散乱)オーロラがあるという説もあれば[82]、励起する際に原子軌道から跳ね飛ばされた電子(二次電子)が別の原子を励起して別の色を出すこともある[83]。

しかし実際には観測される色と出現する高度にはおおまかに相関関係がある[84][85][86]。なお、オーロラの色の見え方は人によってまちまちである。同じ緑白色のオーロラが人によっては黄緑や緑色に見えたり、ピンクのオーロラが赤色に見えたりする[87]。
高度およそ数百キロメートルにある窒素分子が、入射してきた電子によりイオン化され、励起・発光すると501.4ナノメートル近辺(青)と427.8ナノメートル近辺(紫)の光をだす。どちらもオーロラの色に幅がある。青紫色のオーロラは、発光するための機構が複雑だったり、人間の目が不得手な波長だったりすることから、肉眼で観測できるのは非常に珍しい[88]。
高度がおよそ150から200キロメートルよりも高い領域では大気の密度が低いため、エネルギーの小さい電子でも酸素原子を励起させることができる。酸素原子はすこし励起して波長630ナノメートルの光を出す。人の目には赤く見える。
高度およそ100から150キロメートルの辺りは大気の密度が高く、エネルギーの大きい電子でないと酸素原子を励起させられない。酸素原子は大いに励起してより波長の短い557.7ナノメートルの光を出す。人の目にはこれらの色が混ざり合って緑色や緑白色に見える。高緯度地域ではたいていこの色のオーロラが見られる。
高度およそ90から100キロメートルの辺りまで到達するにはよほどオーロラ活動が強くなくてはならない。この高度では酸素よりも窒素のほうが多いため、窒素原子が励起して585.4ナノメートル以下の赤や青の光を出す。人の目にはこれらの色が混ざり合って、緑色のオーロラのカーテンの縁に、ピンクまたは赤紫のフリルが附属しているように見える。

このように、降り込む粒子のエネルギーが高いほど、平均的なオーロラの発光高度は低くなる。

太陽活動が活発なときは、たまに日本や中国、西欧のような低緯度地方でも赤いオーロラが観測されることがある。これは磁力線が低緯度側にふれることや、中低緯度地域になると地球の丸みのために上部の赤いオーロラしか見えないこと[89]、オーロラの発光部分の上端が1000km以上に伸びること[90]などと関係がある。

明るさはレイリーで表される。おおよそ1700レイリーくらいが肉眼で見えるかどうかの境目である[91]。オーロラの明るさを照度で表すと、普通のオーロラは0.1–0.01ルクス程度である。最も明るいオーロラでは数ルクスほどになり、満月の明るさに匹敵する[92]。ただし、満月が出ていてもオーロラを見たり撮影したりすることはできる[93][12]。

またオーロラは肉眼で見えづらいものを含めれば、一晩中観測することが出来る。統計的には夜12時に近いほど見られやすいということが分かっている[94]。例えばアラスカではブレイクアップ(オーロラ爆発)は夜10時から翌3時までの間に起きやすい[95]。ブレイクアップそのものは普通おおよそ2 - 3分で終わるが、その前もその後もオーロラを見ることは可能である[96]。

形と分類[編集]

オーロラの形はよくカーテンに例えられる。これは下端がはっきりしていて襞があることに由来する[97]。下端は飛び込んでくる粒子の限界高度が、襞は磁力線の方向が可視化された結果である[97][† 4]。カーテンの、東西の長さは数千キロメートル、厚さは約500メートル、下端は前述のとおり地上約100キロメートル、上端は約300から500キロメートルである[99]。オーロラの活動が活発なときには上端は1000キロメートル以上の高さになる[90]。

オーロラの形にはバンド(帯)、コロナ(冠、放射状)、アーク(弧)[100]、トーチ(松明)、バルジ(腫れ)[101]など様々な形がある。しかし、これらは単にカーテンの襞のサイズや数[100]、カーテンの歪み方やねじれ方、曲がり方[101]のみで区別されているだけであり、オーロラそのものの種類が複数あるわけではない[100][101]。例えばコロナ型オーロラはカーテンが反物のように巻かれ、観測者がちょうど真下に立っている時に観測される[102][103]。細い線のように光っている部分をレイという。この部分はオーロラのカーテンが幾重にも重なっているため明るく見えるのである。たいてい水平方向(カーテンだったら引く方向)に移動する[103]。

なおこれとは別に点滅するオーロラもあり、脈動オーロラと呼ばれる[104]。

その他の波[編集]

オーロラ領域から観測される電磁波は可視光だけではない。紫外線や赤外線[105]、さらにはオーロラキロメートル電波(英語版)と呼ばれるキロメートル帯の電波など、様々な波長の電磁波が観測されている[† 5]。電磁波以外にもオーロラはヒトの可聴域よりも下の音(可聴下音、20 Hz 以下)を伝えていることが1960年代から知られている[107]。

オーロラが可聴音を発しているのではないかという点に関しては後述。

電流と磁場[編集]





MHD発電の原理。管の中にプラズマを流し、流れる方向と直角に磁場をかけると、プラズマの流れとも磁場とも直角な方向に電流が発生する[108][109]。




極域に降り注いだエネルギーの高い陽子によって、電離層の吸収が高くなり、短波通信ができなくなることがある。これをPCAという[110]
オーロラの元である太陽から流れてくるプラズマと地球磁場とが相互作用することにより、起電力が生じる[83]。これはMHD発電と同じ原理であり、太陽風と地球の磁気圏がぶつかるところで発電されている[111]。太陽風が速く、磁場が強く、磁場が南向きの時は発電量が多い[112]。


この「発電所」の出力はおよそ10の12乗ワット[113][† 6]、出せる電圧は数百キロボルトであることが推定されている[115][116]。太陽の活動が活発なときはおよそ10の14乗ワット出力できることも分かっている[117]。なおこれらの電力と電圧から、電流はおよそ数百万から数千万アンペアと算出されるが[118]、オーロラ内を流れる電流はその内の数百万アンペアである[117]。電流の強さとオーロラの明るさはおおよそ比例するが、絶対に比例するというわけではない[119]。

オーロラが光るぐらいの高さは電離層という領域で、太陽の出す紫外線やX線により大気成分の一部がその名の示すように電離している。つまり電流が流れやすくなっている。オーロラを発生させる粒子が降ってくると、さらに大気が電離し、オーロラが明るい場所を中心に電流が流れる[119]。つまり、上記の「発電所」と回路が繋がることになる[120]。ファラデーの電磁誘導の法則から分かるように、電流が流れると磁場が変化する。オーロラ電流による磁場の変化を読み取ることにより、極地にいなくてもどれくらいのオーロラ電流が流れているか算出することができる[121]。

オーロラが引き起こした電磁場の変動により被害が出たこともある。例えば磁場の変動により変電所の変圧器に誘導電流が流れて壊れ、その結果停電が起きたり[122][123]、パイプラインに誘導電流が流れて腐食したり[124][125]、伝書鳩が正しい方向へ向かえなくなったりしたことがある[124][126]。またオーロラの電流が通電する電離層は、電波が伝送・反射する領域でもあるため、オーロラとともに電波障害が起こり、航空機と空港の間で無線連絡が難しくなることもある[127][128]。

熱[編集]

さらにオーロラの電流により電離層の大気が誘導加熱され、熱も出る[129]。上記のオーロラ発電機の出力はこの熱から算出されたものである[129]。オーロラの熱が赤道近辺まで届く大気振動を起こしていることも分かっている[130]。オーロラの熱が水平方向に伝播して気圧配置に関わる可能性も指摘されているが、あまり研究は進んでいない[130]。

オーロラに伴って発生した熱によって大気が膨張し、そこへ人工衛星が突入することがある[131]。大気の密度の違いによって、膨らみに突入した人工衛星の軌道が変わり、墜落したことも何度かある[131][† 7]。

出現地域[編集]





オーロラ帯は地磁気極を中心とする楕円である[134]。青点は北極点、赤点は地磁気極




宇宙から見た南極付近のオーロラオーバル(背景の地球は合成)
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南極点で撮影されたオーロラ
オーロラは完全な両極点近傍ではあまり観測されない。地磁気の緯度[† 8]でいえば、昼側では75度を中心としておよそ77度から78度のあたり、夜側では65度を中心としておよそ68度から70度のあたりに、地球の磁極を取り巻くドーナツ状の領域に発生する。オーロラの発生している領域を「オーロラオーバル」と呼ぶ[135][136]。そして、昼夜を平均すると地磁気の緯度でおよそ60度から70度のあたりにオーロラがよく発生するので、この領域を「オーロラ帯」(オーロラベルト)という。[137][138]。オーロラ発光の原因であるプラズマ粒子がほぼ磁力線に沿って動くという性質を持っていることと関係している。オーロラを起こす粒子が主要な供給源であるプラズマシートから地球電離層まで磁力線に沿って進入すると、このドーナツ上の領域にたどり着くため、そこでオーロラが発光しやすいのである[139]。最もオーロラの見られる頻度が高い地域では、一年に250日くらい見える。つまり、白夜ではない夜ならばほぼ毎日見られるのである[140]。オーロラの活動が活発なとき、オーロラオーバルは大きくなり、より低緯度側に現れる[† 9][141]。

カナダのイエローナイフ[142]やユーコン準州のドーソンシティ[143]、アラスカのフェアバンクス[144]、スウェーデンのキルナ[145]がオーロラがよく見られる場所として有名で、多くの観光客や写真家が訪れる。

1980年代に開始された人工衛星による観測で、まるでオーロラベルトの直径を示すかのように夜側から昼側へ延びる形のオーロラが発見され、その形からシータオーロラと命名された[146]。

共役点[編集]

オーロラは北極と南極で同じような形態(色や形)で発生することが知られている。これは同一の磁力線に沿ってオーロラを起こす粒子が同時に降下するからである[147]。このように同じ磁力線で繋がっている地点を共役点という[148]。共役点は地磁気の経緯度が同じである[149]。オーロラ帯の下にあって、地磁気の緯度が同じで、なおかつ南北共に陸上である地点は、地球上ではかなり限られている[149]。

1970年代頃、日本の昭和基地の共役点は運良く陸上に、アイスランドのレイキャヴィーク付近にあったため[150][149][151]、1980年代にアイスランド大学と協力して昭和基地とアイスランドでの同時観測を開始した[147]。その後2010年には昭和基地の共役点はアイスランド島を出ていってしまったが[151]、共役点観測は2013年まで続けられている[152]。

この観測の結果、同じような形態のオーロラを観測することもあったが、形態の異なるオーロラを観測することもあった[153]。共役点でなぜ違うオーロラが発生することもあるのかについては、未だ解明されていない[147]。

地上の寒さとの関係[編集]

オーロラは地球の高緯度地域でのみ見られ、主に冬に、特に寒い日によく見られる。しかし前述のとおりオーロラは大気圏上層で起きる現象であり、地上の気温は関係ない[154][155]。

高緯度地域で現れやすいのは地球のオーロラ帯がたまたま高緯度地域にあるためである[154]。夏にあまり見られず冬に見られやすいのは高緯度地域の極夜および白夜のためである[155]。寒い日に見られやすいのは、晴れた日には放射冷却が起こりやすいので[156]、オーロラが綺麗に見られるような快晴時は寒くなりがちなためである[157]。

出現時間[編集]

多様な出現形態を持つオーロラという現象全体をみると、出現時間も多様である[158][159][160]。

オーロラ帯(後述)における典型的なオーロラの出現パターンの例を挙げると、夜21時や22時頃(太陽時)から極側にかすかなオーロラが見え始め、それが次第に低緯度側へ拡大し西の方へ広がっていき、弱い場合は東の方から消滅していくが、強い場合はブレイクアップに伴う鮮やかなオーロラが一時的に現れたあと弱いオーロラが継続し、翌朝6時頃明るくなるに伴い消滅していく[158]。

ただし、例としてオーロラ帯にある南極昭和基地における1957年冬の観測例を見ると、1時間程度で終わってしまう場合もあれば8時間続く場合もあるし、弱いものが続く場合もあれば強弱変化を繰り返す場合もあり、深夜3時になって出現し始める場合もある[159]。

また低緯度でオーロラが多発した時期にあたる1957-1958年の日本での観測例を見ると、概ね夜18時-21時(日本標準時)に出現しその日のうちに消滅するものが多く、時間は数分の場合もあれば数時間続いた場合もあった[160]。

また極域全体を暈のように覆う形状の弱い光を放つオーロラの例では、強弱を繰り返しながら日を跨いで数日間以上継続する場合がある[158]。

出現回数[編集]

一日の内でオーロラが光ったことをカメラ・肉眼で観測した時、オーロラが一回出現したこととすることが多い[161][91]。

過去のオーロラの変動に関して、複数の報告から1500年から1948年の北半球中緯度におけるオーロラの年間観測日数をまとめた研究がある。これによると、日数変化は太陽活動との相関性が高く、太陽黒点数のグラフに似た変動をする。16世紀・17世紀の間は年間数日から10日程度であったものが1710年頃から増え始め、1730年頃に約50日のピークに達した後、1760年頃に数日程度と底を打った後再び増加、1790年頃には100日近くになる。1810年頃には1日程度に急減して底を打つが、その後再び数十日程度に増加、19世紀後半は50 - 100日程度を推移し、1900 - 1910年頃10 - 20日程度に減少した後、20世紀前半は40 - 80日程度で推移した[162][163]。過去100年の中では、2005年から2010年のオーロラの観測件数が最も少なくなっていることがわかっている[164]。

日本とオーロラ[編集]

日本国内での観測[編集]

稀ではあるが日本でもオーロラを観測できることがある。太陽の活動が活発な時期(後述)には北海道や本州北部で、肉眼では観測しづらいほどの弱光ながらも、赤いオーロラが出現する[165][91]。北海道で北の空を染める赤いオーロラを見た住民が山火事と勘違いして消防車が出動した記録もある[166][167]。また新潟県で、日本海上空が赤く輝く様子を見て、第九管区海上保安本部が火事ではないかと巡視船を出す騒ぎになったこともある[168]。

さらに、肉眼で見えないものも含めれば、比較的低緯度にある日本においても、磁気嵐の時にはオーロラが比較的頻繁に起きていることもわかっている[169]。

北海道の陸別町は1989年10月にオーロラが出現したことを契機として[166]、オーロラを観光資源の一つとしている町である[170]。町域にSuperDARN(スーパーデュアルオーロラレーダーネットワーク)の短波レーダーがある(北海道-陸別HFレーダー)[171]ほか、道の駅オーロラタウン93りくべつがある[172]。

昭和基地[編集]

南極の昭和基地はオーロラ帯の真下にありオーロラがよく見られ、ロケット、衛星、地上光学機器、レーダーなどを使った観測が行われている[173]。第一次越冬隊(1957年)では徹夜でオーロラを普通のカメラで撮影し変遷や角度をメモするだけであった[174]。その後研究設備が充実するにつれ、レーダーや磁気計や全天カメラによる自動観測を行ったり[175]、オーロラが発光している空域へロケットを打ち込んだり[176]している。

日本の観測史[編集]

見られる機会が非常に少ない現象ではあるが、日本語では古来「赤気(せっき)」という名前がついていた[177][24]。「紅気(せっけ)」という記述もある[11][178]。最古の記述は日本書紀まで遡り、推古天皇の統治時代である620年12月30日には[11]、「天に赤気があり、その形は雉の尾に似ていた。長さは一丈(約3.8メートル)あまりであった[† 10]。」という記録が残されている[180]。藤原定家の明月記でも、1204年2月21日に「北の空から赤気が迫ってきた。その中に白い箇所が5個ほどあり、筋も見られる。恐ろしいことだ。」と、オーロラのことだと推定される記録が残されている[181][180]。さらに1770年9月17日に出現したオーロラは、およそ40種の文献に登場しており、肥前国(長崎県・佐賀県)でも観測されたという記録が残っている[181][177]。

日本では明治期から「赤気」という言葉ではなく、「極光」や「オーロラ」が使われるようになった[168]。白瀬矗は1912年3月に南極から帰る際に現れたオーロラをスケッチし、報告書『南極』に残している[182]。日本社会へは1934年に開始された南極海での捕鯨により、オーロラが少しずつ紹介され始めた[1]。1958年2月11日には天候に恵まれたこともあって、北陸から関東ににかけて赤い、一部では脈動や黄色も見られるオーロラが出現した[160][168][177][181]。ちょうど国際地球観測年に当たる1957年から気象庁は各地の測候所へオーロラ観測を命令していたため、この日は長野県・東北地方・北海道などでも観測された[160][168]。オーロラが出現した日は世界中で電波障害が起き、ヨーロッパでもオーロラが見られた[168]。1989年にも北海道や東北地方などで肉眼で見えるオーロラが出現した[169]。2000年4月7日には、北海道陸別町で4.2kR(レイリー)のオーロラが観測された[183]。







オーストラリアで撮影された写真。 日本ほどの低緯度でオーロラが観測される時もこのように山際が赤黒く染まる。
太陽の活動との関係[編集]





太陽活動とオーロラの活動には深い関係がある。太陽風の磁力線と地球の磁力線の再結合、そして夜側の磁力線の再結合により、オーロラが起きる。
オーロラの原因となる太陽の活動としては、太陽フレアの発生[184]、突発的なコロナ質量放出により放出されたコロナの地球磁気圏への衝突[185]、高速の太陽風が噴出するコロナホールの生成[186]の3つが挙げられる[184]。

この中でも特にコロナホールは数か月の間ほとんど同じ場所で継続するため、太陽の自転周期を計算するだけでオーロラの活動の予測ができる[187]。またコロナホールは黒点のピークの年から数年経った後、つまり黒点周期の後半に多く生成する[188][189]。

旅行会社は黒点周期の11年ごとに「オーロラの当たり年」「オーロラ最盛期」などとしてオーロラツアーを組むことがある[190][26][191]。確かにオーロラの活動と太陽の活動は連動しているものの、実際には11年ごとのピークを逃しても活発なオーロラが出現することがあり、たとえ黒点の数がゼロになっても太陽にコロナがある限り太陽風は吹き、ある程度のオーロラは出現する[184]。

磁力線の再結合[編集]

地球の地磁気は、北極がS極、南極がN極になっているため、磁力線は南から北へと向かっている[192]。そのため太陽風の磁場が南向きの時は、太陽風の磁力線と地球の磁力線が再結合(磁気リコネクション)し、プラズマは磁気圏の中へ磁力線をたどって侵入できるようになる[192][193]。つまり、太陽からやってくる磁場が南向きの時は爆発的なオーロラが発達しやすく、逆に北向きの時は静かなオーロラが出やすいのである[112]。ただし1980年代には、より多くのプラズマで地球の磁気圏の中が満たされるのは、太陽風の向きが北向きの時である、ということが判明した[194]。その原因は、地球磁気圏と太陽風の間ではケルビン・ヘルムホルツ不安定性によって渦が発生していることから、この渦によりプラズマが地球磁気圏へ混ぜ込まれるのではないかという説がある[195][196]。

太陽風が速いと、地球の磁気圏がより引き伸ばされ、夜側(太陽の反対側)でも磁気リコネクションがおきることがある[192]。磁力線はリコネクションによりV字型になると、丁度パチンコのゴムひものように急激に縮み、周りにくっついていたプラズマをパチンコ弾のようにとばす性質がある[197][198]。磁気リコネクションによってプラズマ粒子が磁力線をなぞるように両極へなだれ込み、オーロラが出るのである[192][199]。リコネクションとオーロラの因果関係は未だ認められていないものの[200]、相関関係は認められており[201]、プラズマの加速理由を磁気リコネクションに求める説は、数十年来続くオーロラ発生機構の議論の中では最も有力な説である[77]。

地球以外の惑星におけるオーロラ[編集]





ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた土星のオーロラ。地球以外の惑星でも、南北に同じようなオーロラが現れる。オーロラは紫外線、土星本体は可視光で撮影。
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オーロラは地球に限らず、これまで火星[202]や金星、木星、土星、天王星、海王星でも観測されており[203][204]、大気と固有の磁場をもつ惑星ならばオーロラが出現する可能性があるとされる[204]。逆に言えば、月と水星にオーロラがほぼ出ないのは、月の大気も水星の大気もほとんどないに等しいためである[204]。

地球型惑星[編集]

2004年8月14日にマーズ・エクスプレスが搭載するSPICAM(紫外・赤外大気スペクトロメータ)により火星でもオーロラが観測された。場所は火星の東経177度南緯52度周辺。広がった時の大きさは30キロメートルで、上空およそ8キロメートルに出現した。マーズ・グローバル・サーベイヤーが収集したデータにある、地殻の磁力が異常な地帯と比べて分析したところ、出現した場所は磁場が一番強い所だと判明した。この関係が示唆するのは、やはり、オーロラの光は電子などが磁力線に沿って動き火星上空の大気を励起させた結果だ、ということである[203][205]。

ただし、金星には固有の(惑星が持っている)磁場はないにも拘らず、夜側にぼんやりとした、形の定まっていないオーロラが出る[206][207]。近年の観測により、金星には引き伸ばされた磁気圏があってそれに伴い磁気リコネクションが発生していることが分かり、オーロラの原因を説明できるのではないかとされている[207] 。

木星型惑星[編集]

木星と土星の磁場は地球と比べてかなり強く、どちらも強磁場により生じる放射線帯(地球におけるヴァン・アレン帯に相当)を持っている。ハッブル宇宙望遠鏡により明瞭なオーロラが観測できる[203]。

木星のオーロラオーバルは地球3個分の大きさであり[208]、エネルギーは地球のオーロラの1000倍ほどである[209]。これほど強力なオーロラが出る理由は、木星の磁場が強いことも挙げられるが、それ以外にも木星の衛星、とりわけ活発な火山を持っているイオも強力な発生源の一つとしてあげられる。イオの火山活動によって吹き出した硫黄や酸素のイオンが木星の磁場圏を満たしているのである[210][209]。なおオーロラの色は木星の大気の水素を反映したピンク色になる[208]。

天王星のオーロラは赤道付近に出る。これは軌道面から98度傾いている地軸周辺に天王星の地磁気軸がなく、地軸からさらに60度ひっくり返っているところにあるためである[211][208]。





木星でも南北に同じようなオーロラが現れる。オーロラは紫外線、木星本体は可視光で撮影。






木星のオーロラ拡大図。参考:英語による説明画像






木星の磁気圏。青い線が磁力線。緑の線がイオの磁束管。






天王星のオーロラ。


音[編集]





地上約100キロメートルよりも上空でオーロラは光っている
磁気嵐のときに現れるような強いオーロラが、まれに音を発したという話が古くより数多く存在しており[212][213]、その実在をめぐって議論が行われている。 このオーロラの音 (auroral sound) は聞こえるとしても非常にまれであり、強いオーロラが出ても何も聞こえないことも多い。日本の南極観測隊・第一次越冬隊の隊長である西堀栄三郎は自身の私記の中で、



三月二日。(中略)夜はすばらしいオーロラを見た。東北の空から西南にかけて、ほとんど全天に乱舞している。木星とともに、実に美しい。頭上をうねりたくるドンチョウが風でゆれるがごとく。気味がわるくなる。恐ろしいようだ。何の音もしない静かな夜だが、ものすごい音を立てて動いているような錯覚におちいる[214]。

と記している。

同時に多くの人が聞いた例もあれば、隣同士にいて一方にしか聞こえなかった例もある。 多くの体験者はこの音がその眼に見えるオーロラの動きと同調して変化すると主張しており、音波の伝播による時間的遅れはほとんどみられない。 音は「バチッバチッ」[215]や、葉音・衣ずれにしばしば喩えられる[216]「シュー」「ヒューッ」[216][215]といったノイズ音が代表的である。

既にローマ時代のタキトゥスの『ゲルマニア』にも、それを表しているともされる記述があるが[217][218]、科学的な議論は19世紀末から活発になった[219]。この音に対しては、主観的現象であるとするものや外界の物理的実在であるとするもの、またオーロラが何らかの関わりをもつとするものや関係のない音とするものなど、様々な説が提出されてきた。 しかし現在でも原因ははっきりしておらず、装置で記録された明確な証拠も得られていない[220]。

例えば、ヒトの耳ではいつでも小さな耳鳴りがしているが、静寂の中でこうした音に気づくだけだとする説が古くからある[221][222]。また、外界の物理的な音ではあるがオーロラとは関係なく、−40℃ のような低温で呼気中の水分が凍って、氷の粒子が衝突することによる音であるとする主張もある[223]。逆に、音はオーロラに関係するものの主観的なもので、オーロラが網膜の広い範囲を同期して刺激することで視覚情報が聴覚へと漏れだす一種の共感覚的現象ではないかともされる[224]。ただし例えば、19世紀の探検家オギルヴィー (William Ogilvie) はオーロラの音が聞こえていた探検隊のメンバーを目隠ししても、オーロラが活発になったほぼ全ての瞬間に対応して反応したとしており[225]、これらの説は必ずしも証言をうまく説明するものとはなっていない。

オーロラが、ヒトの耳に聞こえないような20 Hz 以下の可聴下音を伝えていることは1960年代から知られており、これはオーロラから直接伝わってくる音波である[107]。耳に聞こえる音もこうしたオーロラからの直接の音波ではないかともされる。しかし、こうした音はオーロラから届くまでに数分の時間がかかり同調して変化するという証言に合わない上、1 Hz かそれ以下で顕著なものであり、いくらか高い周波数、例えば 40 Hz では地上に届くまでにエネルギーが 1/1000 にまで減衰してしまう[221]。





キルナのオーロラ。
カナダの天文学者クラレンス・チャントは、20世紀の初めより学術雑誌上でオーロラの音に関する多くの情報を集め、1923年には音がブラシ放電によるコロナ音の可能性が最も高いと結論した[219][226]。この考えは1970年代にこのオーロラの音を最も精力的に調査したシルヴァーマン (S. M. Silverman) らによっても支持されている[212]。晴れた日の開けた地面には 1 m あたり 100 V の静電場があるが、オーロラがあるとこれはときに 10 000 V/m にまで上昇する[227]。この説ではこのとき観察者のそばの木の梢など、とがって電場が強くなるところからの放電が音を発生させているとする。こうしたブラシ放電の音は雷雲が接近した山中や、湿気が多い日の高圧送電線でも聞かれることがあるものである。ただし、オーロラの音においてはセントエルモの火のような放電に伴う光は観察されておらず、またこの説は同じ場所にいた一部の人にだけ聞こえたという事例を説明できないという問題点が指摘されている[227]。

対して、オーストラリアの天文学者コリン・ケイ (Colin Keay) は、オーロラの音は電磁波音ではないかとしている[228]。ケイは、巨大な流星が流れるのと同時にまれに音を立てるといわれる現象に対し、1980年に可聴域周波数 (20 Hz – 20 kHz) の電波が何らかのトランスデューサーとなるものを介して音波になるのではないかとの説を唱えていた[229]。こうした電磁波から音波への変換による音が電磁波音と呼ばれる。ケイの実験ではピーク間 160 V/m の 4 kHz の電場の振動があれば、髪の毛やメガネなどを介して一部の人はこうした音を聞くことができるとする。こうした極超長波・超長波の電波は実際衛星や地上の測定で確認され、録音されている[221][230]。一方でシルヴァーマンらはケイの議論で必要とされる電波は大き過ぎ、不合理であるとしている[231]。ドーンコーラスも参照。

一方、オーロラの音波を直接録音しようとした試みははっきりとした成果をあげていない。アラスカでは1960年代に録音が試みられたが、太陽の活動が不活発な時期に当たっていたこともあり成功していない[212]。2000年からはフィンランドで、音声記録と低周波の電波の測定実験が行われている[232]。最初の録音は2000年に行われたが[233][234]、不完全なものだった。2001年の1晩のデータだけからの解析では、オーロラの活動が活発なときに音波の変動が大きくなることが示され、また音響記録と地磁気の変動との間で時間遅れのない相関が見出されたとしている。しかし、電場との相関はなく、記録された音がオーロラの音と同じものなら、局所的な電場あるいはその変動がオーロラの音の原因とは考えにくく[235][236]、これはブラシ放電や電磁波音という説明が成立しないことを示唆している。

2011年、フィンランドのライネ(Unto K. Laine)らはオーロラに伴う複数の音を3つのマイクで同時観測し、2012年、音源は約70メートル上空だとする分析を発表した[237]。それによると、これらの微小な可聴音はオーロラと連動しており、恐らくオーロラを生じさせているのと同じ粒子の流れ(いわば目に見えないオーロラの裾)によるものだという。音が鳴る仕組みは依然解明されていない。「オーロラの音」とされるものの中には、実際には複数種類の別の現象が含まれていると予想される。ライネは、録音例について「幻聴・錯覚・ノイズなどではない」と強調している[238]。

人工オーロラ[編集]

オーロラの発生原理に基づいて、状況を人工的に再現すれば、人工的にオーロラを発生させることができる。実験室の中でもオーロラを発生させることができる。

1969年から1970年代にかけて、ロケットに電子銃をのせてオーロラが出る高度で発射する実験が行われた[239]。この実験により、電子ビームは南北半球を磁力線にそって往復してもエネルギーをほとんど失わないこと、磁力線の長さと形は算出・予想の通りだったことがわかった[240]。

「宇宙花火」も参照

電離しやすく色がある程度はっきり出る物質をロケットにつみこんで、上空約100キロメートル以上の空域でトレーサーとして撒けば、人工オーロラが出る[241][242]。使われる物質は、最初期の実験ではナトリウム[243]、その後はより残留する明るい物質としてセシウム、リチウム、ストロンチウム、バリウムなどが、また蛍光物質も使われることもある[244]。最も良いトレーサーはバリウムの蒸気が太陽光によって共鳴散乱してできる雲である[245]。このバリウムの雲は、赤色と黄色の2色で輝いてから緑色に変わるものと、紫色から青色に変わるものの2種類できる[245]。普通この実験はオーロラの仕組みを調べることよりも、上空の風や電磁場を調べるために行われる[246][245]。電離するためには太陽光が必要であり、なおかつ人工オーロラの光は太陽光にかき消されるほど弱いので、実験はたいてい宵や明け方に行われる[246][247]。赤道付近で人工オーロラを発生させると、赤道付近は磁力線が地面とおおよそ並行になっているため、横長なオーロラが出現する[248][249]。

テレラ[編集]





人工オーロラの実験を行うビルケランド。




磁石を真空中に置き、プラズマを当てる。
ノルウェーの物理学者クリスチャン・ビルケランドは19世紀末、人工オーロラの発生実験を行った。まず真空状態にした箱の中に蛍光塗料を塗った中空の鉄球を置き、そこへコイルを入れ磁場を作った。そして同じ箱のなかに電極を取り付け陰極とし、電子を鉄球に当てると、鉄球が陽極になって光らせることができた。この装置により、ビルケランドは電子が地球のどのあたりに当たるのか推定した[250][248]。

ヴェガロケット

ヴェガ(イタリア語: Vettore Europeo di Generazione Avanzata, VEGA)ロケットは、欧州宇宙機関(ESA)が開発した低軌道用人工衛星打ち上げロケットである。



概要[編集]

ESAの主力ロケットのアリアン5は静止軌道に6トンものペイロードを投入できるが、300kgから2,000kg程度の小型の科学衛星や地球観測衛星を低軌道(LEO)へ経済的に打ち上げたいという需要に応えるため、高度700kmの太陽同期軌道(SSO)に1.5トンの衛星を打ち上げられるヴェガを開発することになった。

イタリア宇宙機関(ASI)が開発プログラムを主導しており、ロケット機体および推進システムはフィアットアヴィオ社などが担当するほか、フランス国立宇宙センター(CNES)なども開発に参加し、打上げはCNESのギアナ宇宙センターのELA1から行う。参加各国の分担比率はイタリア65%、フランス12.43%、ベルギー5.63%、スペイン5%、オランダ3.5%、スイス1.35%、スウェーデン0.8%となっている。

開発及び製造はヴェガロケットの開発及び製造を目的として2000年12月に設立されたELV S.p.Aによってなされ、最低年4機の打ち上げを確保する予定である。

当初は2006年中の初飛行を目指していたが計画は大幅に遅れ、2012年2月13日に初打上げに成功した[2]。メインペイロードはLARES。

歴史[編集]

初期の構想は1990年代初頭になされ、アリアンの固体ロケットブースター(SRB)の技術を用いて小型衛星を打ち上げるロケットを補完するというものである。これは1988年にASIによって提案されたサン・マルコ・スカウト計画を引き継ぐものであった。サン・マルコ・スカウト計画は、引退したアメリカのスカウトを置き換える目的でZefiro モーターを用いた新たなロケットを開発するという計画であり、スカウト2として知られている試験機が1992年に1機が失敗し、制式型として予定されていたゼフィーロも含めて凍結されていた。

1995年の段階では3段構成で高度700kmのLEOに700kgの打ち上げ能力をもつロケットであり、直径1.9mのZefiro 16 固体ロケットモーターを1,2段目として用い、3段目としてIRIS (Italian Research Interim Stage) を用いるというものであった。

1997年には2つの型式がフィアット・アヴィオ社とウクライナのユージュノエ設計局の共同で提案された。
ヴェガ K0 前述の構想と同様に1、2段にZefiro 16 固体ロケットモーターを用い、第3段、第4段に非対称ジメチルヒドラジン(UDMH)と四酸化二窒素(NTO)を用いる液体ロケットエンジンであるRD-861とRD-869を用いる。高度700kmの極軌道に300kgの打ち上げ能力をもつ。
ヴェガ K ヴェガ K0の第1段をアリアン5のブースターであるEAPを短縮したP85 固体ロケットモーターで置き換えたもの。高度700kmの極軌道に1,600kgの打ち上げ能力をもつ。

1998年においてASIによってアリアンのブースター技術を用いた固体ロケットとして再び提案された。同年4月にアリアン5のSRBであるEAPのノウハウを用いたものとしてESAのプリプロジェクトとして採用された。これはヴェガ Kの下段に第3段としてZefiro 7 固体ロケットモーターを使用する3段構成のロケットであり、最上段に液体ロケットエンジンを用いた軌道精度向上モジュールの採用を検討していた。打ち上げ能力は700km円軌道に2,000kgとなる予定であった。

2000年11月27日から28日にアリアンプログラムとして承認され、同年12月15日に7ヶ国による共同開発計画として正式に開始される。

最終的には2004年に現在の構成に定まった。

アマチュア無線

アマチュア無線(アマチュアむせん)とは、金銭上の利益のためではなく、無線技術に対する個人的な興味により行う、自己訓練や通信、また技術的研究のことである [1] [2]。

アマチュア無線の通信(アマチュア無線業務)を行うアマチュア無線技士(アマチュア無線家)を一般的に「ハム」と呼ぶが、誤用としてアマチュア無線自体の事をそう表現される事がある(後述)。


概要[編集]

通信で使用する周波数はその性質から「人類共通の財産」とされており、ごく微弱なものを除き、電波を利用する者(電波利用者)は、全世界の人々と分け合って利用するものとされている。従って使用可能な周波数を電波利用者に割り当て、監理する(周波数を割当・監理する)のは各国の無線主官庁すなわち中央政府であり、また各国間の周波数割当調整も行う。

アマチュア無線とはその割り当てられた周波数を利用する通信、すなわち各国でそれぞれ区分される各種無線業務における「アマチュア業務」のことであり、学究無線業務のひとつである。なお通信において「アマチュア」とは「私的学究」を意味し「素人」の意味ではない。→#非営利・自由な私的学究無線

アマチュア業務を行おうとする者は、各国主官庁の実施する技術・技能認定試験(無線従事者試験)に合格し、所定の無線従事者免許を受けた後、各国主官庁にアマチュア業務を行う無線局=「アマチュア局」の開設を申請・許可を受けなければならない。なお、アマチュア業務を行う無線従事者 amateur radio operator は特に「ham ハム」と呼ばれることがある。

電波利用、無線業務の区分は国によってまちまちであるが、アマチュア業務については、航空無線、船舶無線などと同じく、国際的にほぼ共通したものとされ、他国との通信を制限あるいは禁止している国を除き、基本的に各国のアマチュア局は全世界のアマチュア局との通信が認められている国際無線局である。

国際法、すなわち国際電気通信連合憲章に規定する『無線通信規則』においてアマチュア業務とは「金銭上の利益のためでなく、もっぱら個人的に無線技術に興味を持ち、正当に許可された者が行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務(第1条第78項)」と定義され、日本の総務省令電波法施行規則においても「金銭上の利益のためでなく、もつぱら個人的な無線技術の興味によつて行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務をいう」と定義されている。→#条約・法律上の規定・定義

非営利・自由な私的学究無線[編集]

今日の電波利用は「営利」「非営利」のふたつに大別され、例えば米国であれば、Commercial radio、Non-commercial radio とされているが、アマチュア無線は後者である。 電波利用の歴史的経緯より、Non-commercial radio の代表として各国でアマチュア無線は法的に明確に分類、定義されている。

日本の場合、電波利用は日本国憲法を最上位主根拠として三大別(これを「三大電波利用」と呼ぶ。)されているが、その内訳は日本国憲法第23条、学問の自由の下にある「アマチュア業務」、同第21条、表現の自由の下にある「放送業務」、通信の自由の下にある、アマチュア、放送業務以外の「業務用無線」である[3][4]。

電波利用は、公共の福祉増進のために行われる(日本では電波法第1条)ものであり、本来、金銭利益目的にされるものではないとされている。このため、学究、金銭利益を目的としない(してはならない)ことが明文化されているアマチュア無線、アマチュア局は国際的にあらゆる点で優遇される、自由度の高い無線局である。 日本ではともすれば空中線電力といった点で、事業用無線局との比較をされがちであるが、他の無線局の場合、一つの周波数の割当てを受けるだけでも多くの手続きなどを必要とし、空中線(アンテナ)の性能にまで細かく制限を受ける。 送信機からアンテナまで自由で通信・サービスエリアなどの制限もなく、かつ周波数を「帯域」として広く自由に利用できるのは、今日、私的学究目的のアマチュア無線だけである。

2011年現在、トータルで携帯電話会社5社分ともいわれるほどの周波数帯域を、たった一人でも自由に利用することが許されているアマチュア業務の性格上、従事の責任は大きく、アマチュア無線をはじめようとする者は全て、まず無線従事者にならなければならない(日本では電波法第39条の13規定)。

限定された周波数を利用する事業用無線局では、従事する者全員に無線従事者免許は要求されないのに対し、数多くの周波数の全てについて、無線設備、即ちアンテナや送信機の設計・製作、これらを用いての通信が認められているアマチュア無線の場合、無線従事者免許(「従免」と略称される。)を所有しない者が従事することはできない。 この免許保持者が「アマチュア無線技士」で、日本では第一級〜第四級の4つに区分されている。 なお日本では、一部の事業用無線従事者免許でアマチュア業務を行えるが、これは「アマチュア無線技士の操作の範囲に属する操作」とされる日本国内のみでの特例であり、 日本国外でこの免許でアマチュア局を開設・運用しようとすると国によっては拒否されることがある。

アマチュア無線技士は、アマチュア局の無線局免許(「局免」と略称される。)を受け免許人となってアマチュア業務を開始できる。 事業用無線局は、そのほとんどが個人ではなく法人が開設するものであり、法人または経営責任者(代表取締役など)が無線局の免許人となり、 業務を行うのに必要な無線従事者は、「排他的に確保(従業員として雇用する、派遣会社から派遣を受けるなど)」される。

条約・法律上の規定・定義[編集]

国際法及び各国の法律で、アマチュア無線は「個人的な無線技術の興味によって行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務」と規定されている。

国際電気通信連合憲章[編集]

「国際電気通信連合憲章に規定する『無線通信規則』」における規定
アマチュア業務 金銭上の利益のためでなく、もっぱら個人的に無線技術に興味を持ち、正当に許可された者が行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務(第1条第78項)
各国[編集]

日本[編集]

電波法施行規則の定義
アマチユア業務 金銭上の利益のためでなく、もつぱら個人的な無線技術の興味によつて行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務(同規則第3条第1項第15号)アマチユア局 金銭上の利益のためでなく、専ら個人的な無線技術の興味によつて自己訓練、通信及び技術的研究の業務を行う無線局(同規則第4条第1項第24号)
促音、拗音の表記は原文ママ

歴史[編集]

世界の初期[編集]

無線通信の黎明期、実用開始前は、グリエルモ・マルコーニに代表される個人の研究者が自らの技術的興味を満たすために無線機器を作って無線通信を行っていた。スコットランドのジェームズ・クラーク・マクスウェルにより、理論的に予想されていた電磁波(電波)の存在が確認されたのは1888年のハインリヒ・ヘルツの実験によるが、この時点ではまだ通信には用いられず、実際の利用は1895年、ロシアのアレクサンドル・ポポフ 、同年イタリアのグリエルモ・マルコーニの無線電信実験の成功以降である。

その後急速に電波の商業・軍事などへの利用が始まり、各国で電波利用に関する法が制定され、アマチュア無線もその下に置かれるようになった。初期の商業・軍事無線通信などには長・中波帯域が大電力で使われ、混雑した状況となり[5]、アマチュア無線家には当時あまり使用価値がないと思われていた短波の利用しか認められなくなった[5]。しかしアマチュア無線家らは緻密な計画や訓練によって短波の有用性を見出し、1923年11月27日に小電力による大西洋横断通信を成功させた[5]。 この功績などが無線界で認められたことをきっかけとして[5]、その後の国際電気通信連合での周波数分配会議などにおいて、アマチュア無線に周波数が割り当てられるようになった[5]。タイタニック号事件を契機として国際的な電波管理の枠組みが構築され、電波の国家管理が始まった後の時代においても、アマチュア無線の保護には格別の配慮が図られ、幅広い周波数の利用が認められ、今日でも長波からマイクロ波までの様々な周波数が、アマチュア無線に割り当てられている [3] [6]。

日本の初期[編集]

日本では1925年ころから東京、大阪、神戸で活動が始まり、1926年6月には38人によって日本アマチュア無線連盟(JARL)が設立された[5]。

法的に認められたこと[5](電波利用に関する法制定と国家監理開始)を条件とするならば、日本でのアマチュア無線の始まりは昭和初期の1927年である[5]。日本でのアマチュア局は「私設無線電信無線電話実験局」として許可された[5][3]。これは、東京放送局(JOAK, NHKの前身)のラジオ放送開始よりも数年先行している。当時、日本の電波は大日本帝国政府の完全掌握下にあり、無線局の全ては「官設」「私設」の二分類、電信法には「放送局」のカテゴリーはなく、NHKの放送局といえども「私設局」のひとつで、アマチュア局と同等扱いであった。日本でアマチュア無線が完全に「非営利私的学究無線」と位置付けられ、その活動そのものに権力の介入を許さないものとして独立、「アマチュア無線」の呼称になったのは、太平洋戦争後、新たに制定された現行電波法からである[3]

私設無線電信無線電話実験局は国家総動員法による体制に組み込まれていき、各地で「無線義勇団」「国防無線隊」が結成された。私設無線電信無線電話実験局は、1941年にはおよそ330局になっていたが[5]、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦に伴い、同日をもって、私設無線電信無線電話実験局の電波発射は禁止された[7]。以降、アマチュア無線家はその技術・技能ゆえに、最前線の通信隊あるいは国内での軍用通信機の設計・製作に終戦まで従事させられ、少なからぬアマチュア無線家が帰らぬ人となった。

太平洋戦争後[編集]

太平洋戦争が終戦すると、すぐに、生き残ったアマチュア無線家によるアマチュア無線の再開運動が始められた[5](八木秀次といった著名な科学者・技術者も行った。)が、国の完全掌握下にあった日本の電波の全てはそのまま直ちに占領軍の完全掌握下とされ、アマチュア業務用の周波数についても占領軍およびその関係者のアマチュア業務用として占有された。GHQは、日本語で行われる通信内容の検閲が困難、米ソ対立、朝鮮戦争といった理由より再開を認めず、日本のアマチュア無線はサンフランシスコ平和条約が発効し、国際法上、連合国との戦争状態が終結し、日本が完全に主権を回復した1952年にようやく再開された。(1950年に日本で施行された電波法で「アマチュア局」という名称が初めて使われ、資格制度や国家試験の内容も定められたが、実際には1952年になるまで再開できず、ようやく1952年に30局で再開した[5]。)

当時から国際条約によって、電波監理は主権国家によって行われること(これは、今日の国際電気通信連合憲章にも残されている。)、国防に関し、軍用無線設備について国家は完全な自由を保有するという内容があり、国家間軍事対立の間にあり、かつ主権を喪失、さらに終戦まで国により全ての電波が掌握されていた日本では結局、独立を回復するまで再開できなかった。これは同じ敗戦国でもイタリアでは終結直後、西ドイツでも1949年に再開されたのとは大きな違いであり、アマチュア無線に限らないが、この教訓は戦後新たに定められた電波法やその関連法に反映され、現在に至ることになった[8]。

かつては外国の武力侵入の際、放送・商業通信が全て統制された中で当局の厳しい監視をかいくぐり、スパイさながらに事件を世界中に伝えたこともあった(チェコ事件)。

日本では、1959年に電信級・電話級の初級資格が設置され、1966年にはこれが養成課程講習会の修了試験合格者にも与えられるようになり、ハードルが低くなったためにアマチュア無線家の爆発的な増加をもたらした[5]。その後、高度経済成長と、科学技術に対する国民の高い関心を背景として、日本のアマチュア無線は発展し、1970年代には「趣味の王様」と呼ばれるほどのブームとなり、1980年代には米国を抜いて世界最大のアマチュア無線人口を擁するに至った[3]。

現代[編集]

今日のアマチュア無線は直接的に広く実用できる新しい無線通信技術などを次々と開発して世界に提供するという部分での役目は終えている。しかし、しばしば争奪戦が繰り広げられるほど貴重な資源である周波数のうち、多くの周波数が今日においても、自由に使うことのできる「周波数帯」としてアマチュア無線に割当されているのは、学究目的であるアマチュア無線が、今日でも科学技術に従事する人材の継続的育成に大きな役割を果たし続けていることにある。電気・情報分野の第一線で活躍している科学者や技術者には、現役あるいは元アマチュア無線家が多く、事業用無線通信業務を行っている会社も、アマチュア無線クラブを擁していることが多い。(電話会社や各放送局のアマチュア無線クラブなどは、その規模も大きい。)[6]

米国では、公共サービスとして地域パレードでの通信を担うなど、趣味の範囲を超えて運用されることがある。米国では開拓時代から現代までボランティアが大きな役割を果たしており、ボランティア活動にアマチュア無線が貢献してきたことから、国際法でのアマチュア無線の定義の範囲を超える運用(臨時に・無償で公衆網を接続し有線通信の無線中継局とするなど)を国内法で認めている。ちなみに米国のアマチュア無線家の全国団体はアメリカ無線中継連盟 (ARRL: American Radio Relay League) というが、これはボランティア活動のための通信を中継して広い国土に伝えるために、アマチュア無線家を組織化したことに由来する。

アマチュア無線局の現状[編集]

日本の現状[編集]

1995年を境に日本のアマチュア局は減少に転じた。1995年には約135万局あったものが2009年には約47万局と激減しており、2009年現在でもなお減少傾向にある[9]。この原因として以下のような理由が挙げられている[9]。
少子高齢化による自然減。
公衆電気通信網(商業通信)と異なり、元来その目的の異なるアマチュア局の通信には多くの制限があり、内容は軽微で公衆電気通信網に依らない私的事項に限るとされ、営利目的、第三者の依頼、また暗語などの使用も禁じられている。そのため通常の電話のような利用はできず、誰でも簡単に使える携帯電話の登場と普及により、以前はアマチュア無線を簡単な電話代わりとしていた層が廃局した。
無線通信にはそれなりの設備が必要で、遠距離と通信しようとすればするほど大がかりで複雑なものとなる。アマチュア無線についても同様で、特に広い私有地を確保し難い日本では、個人で高能率の大掛かりな空中線を所有・管理することが難しい。また大出力とすると、近隣電波障害対策、電波の強度に対する安全施設の構築が難しくなるため、手軽に多目的に使えるインターネットの登場と普及により、見知らぬ相手や外国人と交流したい場合は、電子掲示板やチャットなどを利用するようになった。
これらの事情から、本来の学究的なアマチュア無線が復興してきた結果、秋葉原を中心に日本各地に存在したアマチュア無線関連の専門店が多数閉店し、家電販売店も収益の上がらないアマチュア無線部門から撤退(あるいは開店当初から扱わず)、機器を購入したり、目にする場が減った。またアマチュア無線用機器の生産・販売数が減って価格が上昇し、開局のハードルが高くなった。

世界の現状[編集]
米国のアマチュア局数は、1990年頃から一時、漸減傾向となり、1994年には約65万局となっていたが、その後再び漸増傾向に転じ、2009年現在、約69万局と過去最高数になっている。また米国では2005年以降、10代を中心とした若年アマチュア無線家の増加がはっきりしてきていることなどから、ARRLでは2011年現在、「静かなブームになっている。」と分析している。
またヨーロッパ各国の状況も、横ばいか漸増傾向にある[10][11]。

免許制度[編集]

アマチュア無線、すなわちアマチュア業務を行おうとするためには、無線従事者免許と、その業務を行う国などで、アマチュア無線局の免許を受ける必要がある。なお、どちらも国によって制度に違いがある。

概ね、アマチュア業務を行うために必要な無線従事者免許は「アマチュア無線技士」などとして他の無線従事者免許と独立しており、アマチュア業務を行うに必要な基本概念の理解と基本知識の取得を証明する試験に合格した者に与えられる [12]。 他の無線従事者免許でこれを満たすならば、その無線従事者免許をもってアマチュア業務を行うことができるとしている国もある。(日本はこれに該当する。)

電波監理は国家単位で行われるため、国によりアマチュア業務に従事するための無線従事者免許は異なっている。また無線従事者免許と無線局免許が完全に分けられている場合もあれば、アマチュア業務を行うための相当な設備を所有でき、アマチュア無線局を開設することを条件にその無線従事者免許を与える場合もある。

各国の免許制度[編集]


アマチュア無線


英名
Amateur radio

実施国
世界の旗 世界

資格種類
国家資格

分野
無線

試験形式
筆記試験

認定団体
郵便・電気・情報通信主管庁

後援
国際電気通信連合

根拠法令
国際電気通信連合憲章
国際電気通信連合条約

公式サイト
Amateur services page(英語)
ウィキプロジェクト ウィキプロジェクト 資格
ウィキポータル ウィキポータル 資格
テンプレートを表示

日本[編集]

アマチュア無線に限らず、無線の免許と言われるものは、
必要な技術・技能・法律知識を持っている人に与えられる無線従事者免許
必要な技術基準を満たしている無線設備に与えられる無線局免許

の二つがあり、無線局免許を与えられた無線設備を、無線従事者免許を所有者が運用あるいは監理するといったことが求められる。事業用無線局の場合、無資格の者でも無線設備の操作などが認められる(身近な例としては携帯電話がある。携帯電話端末は陸上移動局であるが、誰でも使用できる。)が、アマチュア局の場合、所定の無線従事者免許及び後述の相互運用協定に掲げる国の免許を保有する者以外は認められない。

詳細は「アマチュア局の開局手続き」を参照

アマチュア無線技士の資格は、下位資格から次の種類に分かれている。自らの望むアマチュア業務を行うに足りる必要な資格を取得しなければならない。なお、下位資格から順に取得することは求められていない。
第四級アマチュア無線技士
第三級アマチュア無線技士
第二級アマチュア無線技士
第一級アマチュア無線技士

また、第三級海上無線通信士以外の無線通信士および陸上無線技術士は、アマチュア無線技士と同等以上の技術・技能・法知識を持っているとみなされ、アマチュア業務を行える。

詳細は「無線従事者」を参照

従前は、第三級以上は電気通信術としてモールス符号の実技試験が課されていたが、国際電気通信条約に規定する無線通信規則(Radio Regulations、RRと略す。)が2002年に改正され、モールス符号による通信技能の要求は削除された。 これに伴い無線従事者規則からもアマチュア無線技士の電気通信術は、2005年10月から廃止・緩和され2011年10月は全廃された。 廃止後は、欧文モールス符号の知識を法規の科目内で取り扱うものとしている。 電気通信術#その他を参照

日本では、アマチュア無線技士に限らず無線従事者の受験に年齢制限はない。 そのため小学生のアマチュア無線技士の誕生もしばしば話題になる。 しかし無線従事者国家試験に合格し、アマチュア無線技士になったとしても、法的に日本のアマチュア局は「国際無線局」であり、無線局としては最上位にある[13]。 電波利用の本姿の一つであるアマチュア無線であることから、アマチュア局の開局手続きなどは今日、ずいぶん簡略化されてはいるものの、そうは言ってもいわば「本式の」国際無線局であるアマチュア局の開局、また本式の運用や監理を要求されるアマチュア局の免許人となるのはハードルが高い [14]。

一方で、アマチュア用の無線機は、免許がなくても購入できるため、不法なアマチュア局の開局が後を絶たない。 これら不法無線局に対しては、電波利用料を元に総合通信局(沖縄総合通信事務所を含む。)が取締りに当たっている。

また、1994年より144MHz帯および430MHz帯の無線機は、不法無線局に使われやすいものとして指定無線設備とされている。 これらの販売業者は、指定無線設備の“使用には免許が必要”などと告知する義務がある。

ノーコード・ライセンス[編集]

免許制度の特徴として、電波法制定以来、入門級(現行は第四級、従前は旧第二級(現行の第二級とは異なるので旧を冠して区別する。)または電話級)にはモールス符号による実技試験の無いノーコード・ライセンスであることが挙げられる。かつてのRRでは短波を運用する無線従事者にはモールス符号による通信技能を求められていたにもかかわらず、日本政府はアマチュア局に許可する空中線電力が小さいことを理由に、短波の運用を旧第二級から認めていた。

また米国などと異なり、アマチュア局に許可される最大空中線電力は事実上1kWまでであり、併せて米国などと異なり入門級と上級の差が少ない、つまり上級無線従事者資格取得のモチベーションを下げているといったことも取り沙汰されるが、これは特に「アマチュア局であるから」という理由からではなく、日本の場合、地理上、また地形的条件より、小さな空中線電力であっても、近隣諸国との間で複雑で難しい混信の問題が発生する「物理的根拠」による制限であり、他の陸上局に許可される空中線電力や実効輻射電力の細かな制限と同じである[15]。その分、使用できる周波数帯の制限を緩くしているのが日本のアマチュア無線の制度である。

なお、上述のとおり2002年RR改正によりモールス符号による通信技能の要求が削除されたため、日本と同様のノーコード・ライセンスを導入する動きが各国に広がっている。

個人局と社団局[編集]

アマチュア局の無線局免許には
個人が開設するアマチュア局に与えられる個人局(1950年より)
団体が開設するアマチュア局に与えられる社団局(1959年より)

の二つがある。社団局は、学校や職場、地域などのアマチュア無線クラブが開設する。博物館などの科学教育施設や、福祉施設などにも社団局が設置されていることもある。

呼出符号(コールサイン)[編集]

「識別信号#アマチュア局」および「世界のコールサイン割り当て一覧」も参照

アマチュア局には呼出符号(コールサイン)が割り当てられる。アマチュア局は国際通信を行う無線局であることから、コールサインは世界でひとつになるように割り当てられる。

アマチュア無線局の識別信号/呼出符号(コールサイン)は、基本的には「JA1A××」のように、JA+(地域番号)+Aから始まる2または3文字のアルファベットから構成される。ただしSOSやXXX、Qから始まるものでQ符号に当てはまるものは除かれる。JA+(地域番号)の部分をプリフィックス、その後に続くA××の部分をサフィックスと呼ぶ。電話(音声)交信の際には、アルファベットのみでの聞き取り誤り(例えばジーかジェーかなど)を防ぐため一般にフォネティックコード(通話表)で確認する。また場所や指名についても同様に確認する。

JAにあたる部分は、JA-JSまでのうちJB、JCを除くもの、また関東では7K-7N(小笠原はJD1)が割り当てられている。7Jは相互運用協定に基づく外国人有資格者へ割り当てられていたが、現在はJA-JSのプリフィックスが割り振られている。特別局(記念運用)に8J-8Nが使われる。記念局以外は、希望の文字列の付与はしない。記念局の例として、ハムフェアなどでJARLが運用する 8J1A、最近(2007年)では、月面反射通信 (EME)を目的とした 8N1EME、FISノルディックスキー世界選手権札幌大会・特別記念局 8J8WSC、8N8WSE などがある。日本初の記念局は大阪万博会場に設置されたJA3XPOである。

地域番号は、無線局の所在地である、北海道(8)、東北(7)、関東(1)、信越(0)、北陸(9)、東海(2)、近畿(3)、中国(4)、四国(5)、九州(6)の10の各総合通信局及び沖縄総合通信事務所の管轄により指定される。ただし、関東総合通信局管内においては変則的・例外的に地域番号が使用され、7K-7Nのプリフィックスについては1から4までが使われている。

また、旧長野県(信越)山口村は現在岐阜県(東海)中津川市に越県合併したことにより地域番号は0から2に変わったが、合併時に開設されていた局に指定されていた呼出符号はそのまま使用する事が認められたため、東海総合通信局管轄内に例外的に地域番号「0」が存在することとなった。

サフィックスが2文字の場合は、個人であればOT(オーティー、Old Timerの略で、戦後アマチュア無線が再解放された直後の時期に開局した超ベテラン)であり、JRの2文字局はレピータに割り振られている。沖縄総合通信事務所管内では、米国統治下でのKR8 2文字局が復帰時にJR6に振り替えられたため異なる。またY、Zで始まる3文字局は社団局であるが、JPプリフィックスはレピータに割り振られている。

従前は、一度指定された呼出符号は、廃局後に別の局に指定されることはなかったが、呼出符号が枯渇してきたことにより1985年からは失効後6ヶ月経過したものは再指定、すなわち他の新規開設者に割り当てることができることなり関東を皮切りに1991年より近畿、1992年より東海、1999年より九州の個人局に対し実施されている。
失効しても旧呼出符号が再指定されていなければ、旧免許人に指定される。

ゲストオペレータ制度[編集]

アマチュア業務を行うことができる資格者(ゲスト)が、一定の条件下で他人(ホスト)のアマチュア局の運用をすることができる制度である。 1997年の告示 [16] 改正により制度化された。 条件として、下記のすべてを満たしていなければならない。
ゲストがアマチュア局の操作が可能な資格を有していること。
操作する設備が、ホスト無線局免許の範囲内であること。

例として、第一級アマチュア無線技士(ゲスト)が、第四級アマチュア無線技士(ホスト)の無線局を運用する場合、10MHz帯、14MHz帯、18MHz帯およびモールス電信の運用はできない。
操作する設備が、ゲストが保有する資格の範囲内であること。

例として、第四級アマチュア無線技士が、第一級アマチュア無線技士の無線局を運用する場合、 10MHz帯、14MHz帯、18MHz帯およびモールス電信による運用はできない。 また、空中線電力10Wを超える無線設備で30MHz以下、20Wを超える無線設備で30MHzを超える周波数の電波を使用するとして免許された無線設備は、出力を低く設定しても使用できない。
運用の際に、ホスト局の免許人(社団局の場合は代表者または構成員)が立ち会うこと。
運用の際には、ホスト局のコールサインを使用すること。

法令には規定されていないが、必ずゲストのコールサインまたは名前を送出して、ゲストによる運用であることを示すことが、JARLを中心にマナーとして指導されている。 この制度は、無線局免許(コールサイン)を持たない無線従事者や後述の相互運用協定を締結している国の資格の保有者も利用することができる。

米国[編集]

下位資格から順に次の種類に分かれている。所管は連邦通信委員会 (Federal Communications Commission, FCC)。
ノビス(Novice)級(廃止)
テクニシャン(Technician)級
ゼネラル(General)級
アドバンスト(Advanced)級(廃止)
アマチュア・エクストラ(Amateur extra)級

2000年にノビス級、アドバンスト級は廃止されたが、これらの試験および新規の資格付与を行わないという意味であり、当該資格を既に取得している者には影響は及ばない。

試験はElementと呼ばれる単位に分かれている。従前はテクニシャン級以外はモールス符号の試験が課されたが、2000年にElement 1に簡素化・統合され2007年に廃止された。
Element 1(モールス)(廃止)5語/分の速度のモールス符号を受信し、内容に関する質問に10問中8問の正解、または25文字連続の正確な書取りで合格。
Element 2(テクニシャン級)35問中26問で合格。
Element 3(ゼネラル級)35問中26問で合格。
Element 4(エクストラ級)50問中37問で合格。 これらは、四年周期で見直される。


アメリカでは最下位資格から受験し、順にステップアップする制度となっている。すなわち、
テクニシャン級の取得には、Element 2のみ
ゼネラル級の取得には、Element 2とElement 3
エクストラ級の取得には、Element 2からElement 4のすべて

に合格せねばならない。但し、条件が揃えば一日で全てを受験することも可能である。

従前はElement 2とElement 1に合格した場合には上位資格に許可される周波数帯域の一部が運用できた。 これはTechnician plus、Technician with HFなどと呼ばれていた。 Element 1の廃止に伴いこの範囲はテクニシャン級に組み込まれている。

試験はVolunteer Examiner (ボランティア試験官、VEと略す。)と呼ばれるVolunteer Examiner Coordinator(ボランティア試験官コーディネーター、VECと略す。)により認定を受けた三名以上のアマチュア無線資格者により実施される。 試験は米国外でも実施されており、米国で郵便を受けられる住所がある限り、全世界で受験可能である。[17]

試験問題は全て公開されており[18]、新規出題は多くはないので、これらを勉強して受験すれば合格は比較的容易である。

日本と比べて初級資格でも比較的大電力の空中線電力を扱える(級を問わず最大1.5kW)一方、周波数帯の制限は厳しく、日本の局がFCCの監視局から郵政省(当時)を通じて周波数逸脱を警告された例もある。 [19]

資格区分によってコールサインが変えることができ、資格外運用を容易に判別できる上級資格を取得するモチベーションを刺激される制度である。 但し、コールサインの変更は資格保持者の任意であるため、コールサインのみでの資格の判断が困難な場合がある。[20] 資格者の情報はデータベース化されていて誰でも参照できる。 また、日本でいう無線従事者免許証と無線局免許状が一体となった包括免許方式であるため、資格内での運用である限り無線機の登録などは必要なく、しかも取得の定義が「FCCデータベースに入力された時点」なので、無線機が手元にあれば、登録確認次第、すぐに運用を開始することができる。

相互運用協定[編集]

アマチュア局は、電波を発射する場所の中央政府の規制を受ける為、原則として当該国のアマチュア無線の許可(ライセンス)を受ける必要があるが、一部の国々との間では、相手国のアマチュア資格を自国で受け入れる代わりに、自国のライセンスで相手国でも運用ができるように、政府同士が相互運用協定を締結している場合がある。

日本から見た相互運用[編集]

告示 [21] に定める国と相互運用協定を締結している。

外国の資格による日本での運用は、アマチュア局の開局手続き#資格を、日本の資格による外国での運用は、アマチュア無線技士#外国での運用を参照のこと。

なお、臨時に告示された場合は相互運用協定を締結していない国の資格者でも運用できる。

相互運用協定を締結していない国においても、恒常的に日本の資格を認めて運用を許可したり、発展途上国の場合は、許可に関する規定が整備されていないことも多く、交渉により特別に許可する場合がある。 基本的に事前に申請し許可を受ける必要がある。書類の審査のみで、試験は課されないことが殆どである。 例として、
パラオ共和国は、日本のアマチュア無線技士免許を受けていれば、日本での級に関係なく最上級ライセンスが1年間認められ、持ち帰ることを条件に無線機を持ち込める。
中華人民共和国は、無線機の持込みはできないが、グループ運用局に訪問しゲストとして運用を2年間許される。

相互運用協定が締結されている訳ではないので、逆にこれらの国々の人が日本で運用することはできず、厚意によるものであるから、爾後、許可が出ることを保証されている訳ではない。

通信方式[編集]

アマチュア無線で使われる通信方式(電波型式)には以下のようなものがある。

電話[編集]
音声による通信(電話)短波では占有帯域幅が狭く遠くまで電波の届くSSBが、VHF以上では音質の良いFMが使われることが多い。また自作が容易なことから、周波数に余裕のある50MHz帯や28MHz帯あるいは2009年に拡張された7MHz帯の上端部ではAMも愛好者を中心に使用される。デジタル変調方式による音声通信も一部で行われはじめている。
電信[編集]





モールス信号を打つための電鍵(キー)の一例。接点が2つある高速入力用。この機種は単独では使えず、マイコンを内蔵したエレクトロニクスキーヤー(自動式符号送出機)に繋いで使うことが絶対条件になる符号による通信(電信)手送りのモールス符号 (CW)モールス符号による通信は、デジタル技術に取って代わられ、他業務では一部の海事や軍事用途を除いて廃止されているが、アマチュア無線では熱心な愛好者が多い。最大占有周波数が500Hz程度しか必要としないため、混信に非常に強い。
同じ理由で、電波が弱くても明瞭に通信ができる。
最低限、世界共通のQ符号や略符号を並べて打鍵するだけで交信が成立することから、外国語が苦手でも海外との交信にあまり困らない。
和文符号を使うと電文はカタカナによる普通文となる。ベテラン層に愛好者が多く、国内との通信が主体となる3.5・7・144・430 MHz帯の利用が多い。
印刷または画面表示によるラジオテレタイプ (RTTY)印字通信である。古くは機械式のテレタイプ端末と、これを無線装置に接続する変復調器などによって構成されていた。今日ではパソコンのサウンド入出力端子に簡単なインターフェイスを介して無線装置を接続し、ソフトウェア(MMTTYなど)でRTTYの送受信ができるシステムが作られ、日本語の文字通信も可能なPSK31といった通信方式も登場したことにより運用しやすくなっている。
特殊モード[編集]

モードとは電波型式のことで、この節で掲げるのは電信・電話以外のものである。
コンピュータによるデータ通信(パケット通信)パソコン通信やインターネットが利用されている。アマチュアテレビ (ATV)テレビ放送と同一規格の映像をやり取りするものと、SSTV(低速度走査=スロースキャンテレビ)と呼ばれるものがある。前者は周波数帯域を広く(最大占有周波数6MHz)必要とするため、1200MHz帯以上でなければ免許されない。後者は「テレビ」という名称が付いてはいるが、実際には1枚の静止画像を30秒かけて送信するものである。その代わり必要とする使用する周波数帯域は音声と同程度(2.5kHz程度)であるため、短波を使用して海外局とのやり取りも楽しめる。近年ではパソコンのサウンド入出力端子に無線装置を接続し、ソフトウェアのみでSSTVを実現するシステムなどが作られている。アマチュアFAX古くからあるが事例は少ない。近年では、パソコンのサウンド入出力端子に無線装置を接続し、ソフトウェアのみでアマチュアFAXを実現するシステムなどが作られている。
楽しみ方[編集]

アマチュア無線家によって楽しみ方はさまざまにある。以下は代表的なもの。

交信を楽しむ[編集]

ラグチュー[編集]

いわゆる雑談である。英語の「Chew the rag(チュー・ザ・ラグ=ぼろ切れを噛む)」を語源とし、転じて、くだらない話や他愛も無いお喋りを止めどなく続けることを指す。 アマチュア無線では、国内、国際法ともに重要な内容(例えば絶対的に秘密を守らなければならないような内容)を含む通信を禁じているので、基本的に第三者に聞かれてもよい程度の世間話、すなわち「友人同士の雑談」のみであり、また見知らぬ友人を求める趣味でもあることから、ラグチューはアマチュア無線の基本のひとつということになる[2]。携帯電話の登場と普及前、友人とのラグチューを目的としてアマチュア無線を始める者も少なくなかった。

遠距離通信 (DX)[編集]

DXとは、短波においては海外、VHF以上では見通し距離外の局との通信を目指す、遠距離通信のことをいう。 「DX」とは、英語の"Distance X"を略したものである。 1937年には既にARRLが「DXCC」というアワード(後述)を制定している。

単に空中線電力を上げるだけでは受信はおぼつかなく、交信が成立しなくなることもあるため、高利得のアンテナが必要となる。 またトランシーバではなく、送受信機を別にし、アンテナもまた送信・受信で独立させるといった高度なシステムと技量も必要になる。 良好な電波伝搬を得るため、適した場所に移動して運用することもある。 国外に設備とキャンプ装備一式を担いで行き、無人島や定住アマチュア無線家のいない地域から電波を発射して全世界からの交信リクエストに応える 「DXペディション(DX-pedition)」 (DX+Expedition、冒険)というものもある [22]。

海外のアマチュア無線家と親しくなると、相手と直接面会することもある。アマチュア無線家が民間外交官と呼ばれる所以である。なお、無線で話している者同士が直接面会することをアイボールQSO(目玉で交信を意味する)という。 インターネットのオフラインミーティングと同じものであるが、アマチュア無線のアイボールQSOは国境を越えることが珍しくない[22]。

コンテスト[編集]

アマチュア無線のコンテストとは、参加者同士で得点を競う競技である。

詳細は「コンテスト (アマチュア無線)」を参照

アワード[編集]

アマチュア無線のアワードとは、積み重ねた交信が決められた条件を満たしたときに与えられる賞である。

詳細は「アワード (アマチュア無線)」を参照

QSLカード[編集]

アマチュア無線では、交信をすると、その証明となるQSLカード(交信証明書)を交換する慣習がある。 これは、法的な義務ではない。

詳細は「QSLカード」を参照

自作を楽しむ[編集]

アマチュア無線は技術研究を楽しむ趣味であるため、法的にも無線設備を全て自分で作り、検査に合格して運用することが許されている。 黎明期は、無線設備のおよそ全てを自作して無線通信を行っていた[3]。

今日では検査に係る無線設備(無線機本体)などは市販品を用い、 空中線や電源などの検査に関わらない周辺機器を必要に応じて自作するのが一般的であるが、敢えて無線機(送信機)本体の自作に挑戦し、検査に合格して運用するアマチュア無線家もいる。

詳細は「自作 (アマチュア無線)」を参照

外に出ることを楽しむ[編集]

アマチュア無線は無線機を使って他者と対話するものであるため、ともすれば自宅などのシャック(無線室)にこもりがちであるが、屋外に無線機やアンテナを持ち出す移動運用の楽しみ方もある。

モービル[編集]

モービルとは、自動車やオートバイに小型の無線機とヘッドセットや特殊な送受システムを組み込み、移動して通信実験を行うことを指す。 運転しながら通信操作を行うことを考え、安全運転のために様々な研究が重ねられてきた(パトカーや消防車は複数乗務。タクシー運転手は走行中にタクシー無線のマイクを握ることは絶対にない。)が、携帯電話やカーナビゲーションシステムの登場と運転中の使用等による交通事故が問題となり、道路交通法第71条第5号の5によって併せて規制対象となった。 しかし規制前よりヘッドセットや各種分割型ワンタッチスイッチなどがモービルでは研究・実現されており、規制後も、モービル通信法のノウハウとともにそのまま使用可能である [23] [24]。

フォックスハンティング[編集]





受信機を手に目標物を探すARDFの競技者
ARDF世界大会(2004年チェコ)にて
隠れている電波発信源(送信機)を探し出すことである。 通常、小型で鋭い指向性を有する空中線を高感度の受信機にセットし、これを用いて送信機を探し出す。 古くからアマチュア無線家の間でフォックスハンティングは競技として行われてきた。 競技においては、決められたエリア内に置かれた複数の送信機を全て探し出すまでの速さなどを競う。 通常、送信機は物陰などに隠す、あるいは何かに偽装して置かれるが、競技の趣旨によっては運営スタッフが、送信機を所持して移動するといったことも行われる[25]。

二点以上の場所から電波の到来方向を調べることにより、無線局の位置を特定できることから従来、沿岸地域にある複数のアマチュア局が、遭難信号を送出している船の位置を共同で探索し、救助に協力することもあった。 またテレビ・ラジオなどに受信障害を発生させている発信源の発見と除去に、アマチュア無線家が自らのフォックスハンティングの技術をもって協力することもある[26]。

詳細は「フォックスハンティング」を参照

信号を発しているポールを求めて、これをオリエンテーリングに似たルールで競技化したものがARDF (Amateur Radio Direction Finding)である。 ARDFは自分の足で野山を走り回るハードなスポーツであるという点で、他のアマチュア無線の楽しみ方と大きく異なる。

詳細は「ARDF」を参照

自然物・自然現象を利用して通信する[編集]

自然物・自然現象を利用した通信は不安定であるため、絶対安定した通信が条件となる商業通信では嫌われるが、これに敢えて挑んで安定さを排除する方法を見出し、「使い物にならない」と考えられていた周波数を事業用として可能にしたなどの歴史的業績がある。今日でも熱心に研究を続けているアマチュア無線家は多い。

電離層反射通信[編集]

短波が電離層と地表との間で反射を繰り返しながら遠方まで伝搬する性質を用いて遠距離通信を行うのが電離層反射通信である。電離層には下層から順にD層、E層、F層という名前がつけられており、各層の性質を利用して通信を行う。初夏から夏にかけ、局地的にE層付近にスポラディックE層(Eスポ)と呼ばれる高密度の電離層が局地的に発生することがある。これはVHFまでの電波を反射するため、ラジオやテレビにとっては混信原因となる迷惑者だが、アマチュア無線家にとっては普段交信できない地域と交信するチャンスである。Eスポが発生するかどうかはある程度予測可能であり、また太陽活動の変動に伴い「当たり年」となることもあるため、これを狙って通常その周波数帯では不可能な遠距離通信を試みることができる。なお太陽活動はほぼ11年周期で変動しているが、その程度にはむらがあるため、特にSSN(Sun Spot Number, 太陽黒点指数)が太陽活動の状況を知るためのものとして重視されている。

流星散乱通信[編集]

宇宙空間の微細な塵が大気に突入する際に大気中の原子を電離させると、一時的に微小な電離層が発生したようになり、そこで電波を反射することがある。通常の電離層と異なり存在する場所が限定されるため、反射された電波を受信できるのは短時間であるが、テキスト通信として実用化もされている。年に何度かある流星群の時期にはある程度連続して現象が発生するためこの時期を狙ってアマチュア無線の交信を試みることもある。通信手法の確保の観点から流星バースト通信 (Meteor Burst Communication, MBC) と呼ばれることも多い。

詳細は「流星バースト通信」を参照

月面反射通信[編集]

電波を反射する相手として月を選ぶのが、月面反射通信(EME:Earth-Moon-Earth)である。

詳細は「月面反射通信」を参照

小電力通信に挑む[編集]

「QRP」と呼ぶ。QRPとはQ符号の一つで、空中線電力を下げることを意味するが、法にある「必要最小限度」ではなく、「限りなく小電力で」遠距離通信に挑むことを指す。

詳細は「QRP」を参照

中継設備を利用する[編集]

個人が開設しているものから、JARLが開設しているものまで、様々な中継設備が運用されている。これにより通信可能な範囲が広がる。

アマチュア衛星通信[編集]

宇宙空間にはアマチュア無線家によって製作された、アマチュア無線のための通信衛星であるアマチュア衛星が打ち上げられている。現在ではアマチュア通信用の衛星は常時10基以上運用されているので、アマチュア無線家にとっては身近なものとなっている[27]。衛星には通信を中継する機能や、地上から送信された信号を一定時間記憶し再送出する機能が搭載されており、電話・電信で直接交信するほか、コンピュータを用いてデータ伝送を行ったりする。ただしアマチュア衛星は静止軌道には投入されておらず、通信中はアンテナで衛星を追尾する必要があるため、ある程度の慣れと設備を必要とする。

詳細は「アマチュア衛星」を参照

レピータ[編集]

見晴らしの良い山頂やビルなどにレピータ(レピーター、リピータ)と呼ばれる中継局を設置し、これを介して遠距離通信を安定的に実現する。

詳細は「中継局#アマチュア無線」を参照

フォーンパッチ[編集]

中継に有線通信を用いるものである。 通信の途中に電話回線やインターネットによる中継を挟むことで、直接電波が届かない地域との通信を実現する。 有線用の電話機から公衆回線を通じてアマチュア無線に接続する形態、つまり電話機側の人がアマチュア無線家でないこともあり得る。 欧米では古くから実用化されており、特にアメリカでは普及していた。

日本においては、従前の公衆電気通信法下では公衆通信回線に無線機を接続することは警察・消防など公共目的以外には禁止されていた。 1985年の公衆電気通信法廃止および電気通信事業法施行により、原則として禁止されるものではなくなった [28] が、1998年になって郵政省電気通信局(現総務省総合通信基盤局)が要件を明確にしたことにより認められた。 有線回線を中継して互いが無線機を用いるD-STAR(JVCケンウッド、アイコムとJARLが推奨)やWiRES-II(八重洲無線が提唱)、Echolink、eQSO、IRLP(いずれもフリーソフト)がある。

パケット通信[編集]

アマチュア無線を用いたデータ通信である。OSI参照モデルに基づき、各階層でのプロトコルやサービスが開発されている。データリンク層プロトコルとしてはパケット交換方式であるAX.25が事実上の標準規格であり、このことからパケット通信と呼ばれるようになった。上位層では、RBBS (Radio BBS) が運用されているほか、TCP/IPを実装してインターネットと接続することも行われている。

詳細は「パケット通信 (アマチュア無線)」を参照

アパマンハム[編集]

アパートやマンションなどの共同住宅のベランダや屋上にアンテナを設置するアマチュア無線家のことを「アパマンハム」と呼ぶ。 一軒家による運用と比べると、隣家(隣室)との距離が短く、共同資産もある事から、それらに対する配慮がさらに必要となる。 小型・高性能・安全なアンテナが要求されるため、その技術的研究が盛んに行われており、 個人のウェブサイトや書籍 [29] にアイデアを公開しているケースも多い。

この造語は日本では便利で一般的である一方、日本国外でも同様のアパマンハムがいる。例えば、Hidden Stealthなどの形容詞、Apartment Dweller, Antenna Restriction, CC&Rなどの規制、制限条件などから具体的なカテゴリーや表現を用いるが、「限られたスペースでいかにアンテナを動作させるか」という同義での研究が盛んである。また、日本のマンションと日本国外のマンションの定義も異なり、むしろ日本でいうところのマンションもアパートのカテゴリーと定義できる。更には、アパートでの接地条件が垂直系アンテナの効率に大きく影響するため、接地条件が不良なケースでの研究対象やアンテナの展開の仕方、材料なども論議されている。このように広義なアパマンハムにとり、技術的には車や移動運用で使用するアンテナを応用、活用できるという共通部分も少なくない。また、戸建所有者にあっても、地面がなく、密集地であったり、ベランダのみでの運用を余儀なくされるなどの住宅事情から、その研究テーマや条件はアパマンハムと共通であることが多い。

社会貢献[編集]

科学技術の発展に以外にもアマチュア無線の社会貢献はある。

非常通信[編集]

アマチュア無線の社会的貢献が取り上げられるものとして、災害時など非常時の通信がある[1]。 携帯電話やインターネットが広く普及した今日にあっても、アマチュア無線の災害時対応などについては社会からの期待がある [30]。

日本では、
1953年 昭和28年西日本水害で行われたのが最初である。[31]
1964年 新潟地震では、連絡の途絶えた佐渡島の無事を確認した。[32]
1995年 阪神・淡路大震災では、郵政省からJARLに臨時発給局が免許され、日本アマチュア無線機器工業会(JAIA)の協力により被災地に無線機を送った。[33]
2008年 岩手・宮城内陸地震では、中山間地で孤立した集落や山中の行楽客からのアマチュア無線を活用した通報により、多数の孤立者が迅速に救助され、人的被害の拡大を防いだ。
2011年 東日本大震災でも総務省からJARLに臨時発給局が免許された。

などの事例がある。

国際的にも、2004年に発生したインド洋大津波を契機に国際条約の整備を目指した国際会議が発足し、各国関係主管庁への働きかけが進められている。先進的な法整備がなされている米国では、災害時など非常時の通信を主目的とするアマチュア無線による非営利の公共業務 (public service) を従来のアマチュア業務に加え、これを推進するための関連法を整備している[30]。

なお、日本におけるアマチュア局の非常通信の取扱いについては議論がある。詳しくは「日本でのアマチュア無線をめぐる諸問題」を参照されたい。

社会福祉[編集]

障害者、特に視覚障害者にとっては、アマチュア無線は社会参加の有力な手段の一つである。そのため、社会福祉施設などにクラブ局が設置され、アマチュア無線の交信を通じて社会参加を図る場面が見受けられる。

特殊な場所のアマチュア無線局[編集]

アマチュア無線従事者資格を持つ、特殊な環境下で観測などの業務を行っている科学者や技術者が、業務時間外の余暇を利用してアマチュア局を運用することがある。過酷な環境下に居る当該運用者の精神衛生を保つ効果や、また機会の少ない場所との通信に価値を見出すアマチュア無線家などにとっての魅力がある。

国際宇宙ステーション[編集]

国際宇宙ステーションでは、アマチュア無線局ARISS (Amateur Radio on the ISS) が運用されている。各宇宙飛行士が余暇時間を用いて運用を行う。 通常の通信の他に教育を目的として、あらかじめ特定の学校と日時を決めて通信を行う、スクールコンタクトと呼ばれる運用も行われている。 この際のコールサインはNA1SSとRS0ISSが用いられる。 日本では、2002年より臨時局において上級資格を持つアマチュア無線家の監督の下、児童・生徒が無資格運用できる [34] こととなった。

他にスペースシャトルやミールでも同様の運用実績があり、それぞれSAREX, MIREXと呼んだ。

南極[編集]
アムンゼン・スコット基地(米国)のKC4AAA
マクマード基地(同上)のKC4USV
ボストーク基地(ロシア)のR1ANC
デービス基地(Davis Station)(オーストラリア)のVK0BP

などが知られている。

日本は、昭和基地に1957年の第1次隊から個人局を開設した。 1966年の第7次隊から社団局8J1RLを、2003年からドームふじ観測拠点に8J1RFを開設している。 その他、みずほ基地、あすか基地で8J1RMが開設したことがある。

南鳥島[編集]

南鳥島には一般人は上陸できず、海上自衛隊・海上保安庁・気象庁の職員が駐在している。気象庁職員がJD1YAAを開設している。

富士山測候所[編集]

富士山測候所では1971年から気象庁職員がJA2YYNが運用していたが、2004年夏を以って観測員常駐が廃止されアメダス測候に切り替えられたのに伴い廃局となった。

イベント(博覧会など)[編集]

大きなイベント、特に国際的なイベントの際には記念局が開設されることがあり、来訪するアマチュア無線家が運用する。局はアマチュア無線連盟直轄の社団局として扱われ、連盟会員であれば会員証と免許証を提示の上で誰でも運用できる。

アマチュア無線の交信は最もわかりやすい民間レベルの国際交流であるため、国際的なイベント(万博、オリンピック、FIFAワールドカップなど)には記念局が積極的に開設される。記念局の運用やそことの交信も、アマチュア無線家にとって記念になる。

日本初の記念局は、1970年の大阪万博会場に設置されたJA3XPOであり、万博開催期間中に運用された。その後の日本で開催された万博では、1985年の科学万博(8J1XPO)、1990年の花の万博(8J90XPO)、2005年の愛知万博でも8J2AIのコールサインで記念局が開設された。

他に、1972年と1998年の冬季オリンピック(札幌、長野)、2002年のFIFAワールドカップ日韓大会(会場となった地区)でも記念局が開設された。

アマチュア無線家[編集]

アマチュア業務をおこなう無線従事者のことを一般に「アマチュア無線家」(radio amateur)という。

アマチュア・コード[編集]

アマチュア無線はあくまで趣味であるため、本業がおろそかにされてはならない。アマチュア無線家たちが本業をおろそかにし、アマチュア業務にのめりこむことへの戒めとして、JARLが1959年に社団法人化された際、アマチュア無線家が社会人・市民として守るべき以下の5つの徳目を定めた。これが「アマチュアコ−ド」である。
アマチュアは善き社会人であること
アマチュアは健全であること
アマチュアは親切であること
アマチュアは進歩的であること
アマチュアは国際的であること

「ハム」の由来[編集]

アマチュア無線家 (radio amateur) のことをハム (HAM) とも呼ぶが、この言葉の由来には諸説ある。
amateurの最初の2文字をとり発音しやすいようにhをつけたもの
いわゆる“大根役者”(アマチュア)のことを英語でhamと言うことから
アマチュア無線の黎明期に有名だったアマチュア無線局のコールサインから
電源交流の回込みやアンプの低周波の発振によるブーンというノイズをハムノイズ、略してハムとも言い、往年のアマチュアの機材ではよくこれが電波に乗ったところから来ているという説。しかしその綴りは hum である。

また日本では「アマチュア無線」そのものもハムと呼ぶが、これは日本独特の呼び方である。英語圏では、アマチュア無線のことは、"amateur radio" または "ham radio" といい、"ham" とだけ言うことはない。"hammy"(ハミー)と呼ぶことはある。

アマチュア無線に用いられる用語[編集]

他の無線通信業務と同じく、定められた無線用語(Q符号や通話表)が使われるが、その他、アマチュア業務に適した用語が用いられている。ただしアマチュア業務において暗語の使用は禁止されている(日本では電波法第58条)。これはアマチュア局の通信の相手方が「全世界不特定のアマチュア局」であることに由来する。他の無線通信業務においても通信の相手方が同様のものについては暗語の使用は禁止されている。

通信内容[編集]

アマチュア無線は法律上、発信者の身元保証や通信内容について厳格に規定されており(虚偽の通信の禁止と罰則規定―電波法第106条)、通信内容の正確性が担保されているとされる。なお無線局運用規則第259条により、非常通信などを除いて、第三者の依頼による通報はできない。

アマチュア無線が引き起こす問題[編集]

他の機器などへの電波障害[編集]

アマチュア局はその近隣に電波障害を与えることがある。テレビ・ラジオ・パソコン・無線LAN[35]、医療機器 [36] あるいは他の無線装置などにアマチュア無線の電波が妨害を与えることがあるため、アマチュア無線家の周囲に住む人々に迷惑をかけ、問題となることがある。

アマチュア局は、自局の発射する電波が他の無線局の運用または放送の受信に支障を与え、または与えるおそれがあるときは、すみやかに当該周波数による電波の発射を中止しなければならない[37]。アマチュア局はそのような状態を避けるため細心の注意を払わなければならないと法令に定められている。

電波の人体に与える影響[編集]

他の無線局と同様、無線機やアンテナの選択や設置状況によっては電波、すなわち電磁波が、それを運用しているアマチュア無線家自身のみならず、周囲の人々の健康に悪影響を及ぼしている、あるいは及ぼしている可能性があるとされることがある。

2011年現在、電磁波の生体に与える影響は病理学的に明確ではなく研究途上にある。 諸説あり、また周波数によって生体への影響は異なるとされる。 どのくらいのレベルの電磁波から規制するかは、国によって差がある[38]。 日本では、アマチュア局を含む無線局は周波数と輻射電力などに応じた防護策を講じること(電波防護指針と呼ぶ。)が電波法施行規則第21条の3 [39] に定められている。

国際非電離放射線防護委員会ガイドラインや電波防護指針を基に磁界強度だけでなく電界強度まで考慮すると、例えば磁界放出型のループアンテナ(周波数14MHz、空中線電力10Wと想定)などは、人体から2m以上の距離を確保しなければならない[40]。

アマチュア衛星

アマチュア衛星(アマチュアえいせい)は、政府機関や商業衛星サービス企業による一般的な通信衛星に対し、個人的な趣味の団体や、大学の研究室などが自ら製作する通信衛星で、アマチュア無線の周波数帯を用いて通信を行うものをいう。

1961年という宇宙開発の黎明期に打ち上げられたオスカー1号以来、約70機もの軌道投入の実績がある。

製作団体[編集]

衛星の企画や製作は様々な独立の団体が行っており、これらを統括管理する組織があるわけではないが、互いに技術協力を行って製作したり、打上げ後の追跡管制で協力体制を敷くことが多い。

これらの団体の多くはAMSATの名前を冠しており、1969年に創設されたアメリカ合衆国の団体"AMSAT"(アムサット:Radio Amateur Satellite Corporation,AMSAT)と協力関係を持って自国アマチュアの衛星計画を推進している。例えば、ドイツではAMSAT-DL、イギリスではAMSAT-UK、日本ではJAMSATがそれにあたる。合衆国のAMSATを他国のAMSAT系団体との区別のためAMSAT-NAということがある(NA=North America)。

また、製作は必ずしも「アマチュアの手作り」に限らない。UoSATシリーズは、英国のサレー大学が技術をスピンアウトして商業化した例である。また、東大阪宇宙開発協同組合が開発した「まいど1号」など、地場産業として小型衛星の開発を根付かせるために、基礎開発をJAXAとの連携のもとに行っている例もある。しかし、多くのアマチュア衛星の企画・製作は、非営利の団体やグループが寄付とボランティア作業で行っている。

米国では衛星を打ち上げ、さまざまな実験を行ったり、目標への到達を競ったりするARLISSと言うイベントが行われている。

名称[編集]

「アマチュア無線搭載人工衛星」を意味するOrbiting Satellite Carrying Amateur Radioにちなみ、以後の衛星の名称の一部に「OSCAR(オスカー)」を入れ、一連番号をつけることが慣例化しており、その意味で「オスカー」は国際協力のもとでつくられたアマチュア衛星としてのアイデンティティでもある。ソビエト連邦時代に打ち上げられたアマチュア衛星は「RS-xx号」という独自の名称が用いられた(RSはRadio Sputnikの略)が、1991年のRS-14号はAMSAT-OSCAR-21の名称も用いている。 国際アマチュア無線連合(IARU:International Amateur Radio Union)とAMSAT-NAが定めたルールでは「オスカー」の名称と連番は各アマチュア衛星の保有団体の依頼を受けてAMSAT-NAが発行しており、軌道に投入されて動作したものに対してのみ与えられることになっている。

用途はアマチュア無線用の通信衛星が多いが、地球観測・天体観測などの科学衛星もある。

主なアマチュア衛星[編集]

オスカー[編集]
OSCAR-1 →オスカー1号
OSCAR-2
OSCAR-3
OSCAR-4
Austraris-OSCAR-5 (AO-A)
AMSAT-OSCAR-6 (AO-C) →オスカー6号
AO-7(AMSAT-OSCAR-7)(AO-B) →オスカー7号
AO-8(AMSAT-OSCAR-8)(AO-D) →オスカー8号
AO-9(AMSAT-OSCAR-9) AMSAT-Phase III-A →PHASE-III衛星 打上げ失敗
UO-9(UoSAT-OSCAR-9)(UoSAT-1) →UoSAT衛星
AO-10(AMSAT-OSCAR-10)(Phase III-B) →PHASE-III衛星
UO-11(UoSAT-OSCAR-11)(UoSAT-2) →UoSAT衛星
FO-12 Fuji-OSCAR-12 (JAS-1/ふじ1号)
AO-13(AMSAT-OSCAR-13)(Phase III-C) →PHASE-III衛星
UO-14(UoSAT-OSCAR-14)(UoSAT-3) →UoSAT衛星
UO-15(UoSAT-OSCAR-15)(UoSAT-4) →UoSAT衛星
AO-16(AMSAT-OSCAR-16)(PACSAT-1)
DO-17(DOVE-OSCAR-17)
WO-18(WEBERSAT-OSCAR-18)
LO-19(LUSAT-OSCAR-19)
FO-20 Fuji-OSCAR-20 (JAS-1b/ふじ2号)
AMSAT-OSCAR-21 (RS-14)
UO-22(UoSAT-OSCAR-22)(UoSAT-5) →UoSAT衛星
KO-23 KITSAT-OSCAR-23 →UoSAT衛星
Arsene-OSCAR-24
KO-25 KITSAT-OSCAR-25 →UoSAT衛星
IO-26(Italy-OSCAR-26) (ITAMSAT)
AO-27(AMRAD-OSCAR-27) (EYESAT-1)
PO-28(PoSAT-OSCAR-28) →UoSAT衛星
FO-29 Fuji-OSCAR-29 (JAS-2/ふじ3号)
Mexico-OSCAR-30(UNAMSAT-B)
TO-31 Thai-Microsatellite-OSCAR-31(TMSAT-1)
GO-32(Gerswin-OSCAR-32)(TechSat-1b)
SO-33(SEDSat-OSCAR-33) (SEDSAT-1)
PO-34(PANSAT-OSCAR-34)(PANSAT)
SO-35(SUNSAT-OSCAR-35)(SUNSAT)
UO-36(UoSAT-OSCAR-36)(UoSAT-12) →UoSAT衛星
Arizona State-OSCAR-37(ASUSat1)
OO-38(OPAL-OSCAR-38) (OPAL)
WO-39(Weber-OSCAR-39)(JAWSAT)
AO-40(AMSAT-OSCAR-40)(Phase-IIID) →PHASE-III衛星
SO-41(SausiSat-OSCAR-41)(SaudiSat-1a)
SO-42(SaudiSat-OSCAR-42)(SaudiSat-1a)
SO-43(Starshine-OSCAR-43)(Starshine-3)
NO-44(Navy-OSCAR 44)(PCSat)
NO-45(Navy-OSCAR 45)(Sapphire)
Malaysian-OSCAR-46 (TiungSAT-1)
BreizhSAT-OSCAR 47 (IDEFIX CU1)
BreizhSAT-OSCAR 48 (IDEFIX CU2)
AATiS OSCAR-49 (SAFIR-M)
SO-50(SaudiSat-OSCAR-50) (SAUDISAT-1C)
VO-52(VUSat OSCAR-52) (HAMSAT)
AO-54 (SuitSat-1)
CO-55(CubeSat-OSCAR 55) CubeSat Cute-1
CO-57(CubeSat-OSCAR 57) CubeSat XI-IV
CO-58(CubeSat-OSCAR 58) CubeSat XI-V
HO-59(HIT-SAT-Oscar-59) (HIT-SAT)
NO-62(FCAL)
DO-64 (Delfi OSCAR-64) CubeSat Delfi-C3
CO-65(Cubesat Oscar-65) CubeSat Cute-1.7 + APD II
CO-66(Cubesat Oscar-66) CubeSat SEEDS-II
HO-68(Hope Oscar-68) (XW-1)
FO-69(Fastrac Oscar-69) (FASTRAC 1(Sara Lily))
FO-70(Fastrac Oscar-70) (FASTRAC 2(Emma))
MO-72(MagyarSat-OSCAR 72) CubeSatMasat-1
AO-73 CubeSatFUNcube-1

Radio Sputnik[編集]
RS-1
RS-2
RS-3
RS-4
RS-5
RS-6
RS-7
RS-8
RS-10
RS-11
RS-12
RS-13
RS-14(AO-21)
RS-15
RS-16
RS-17(Sputnik-40)
RS-18(Sputnik-41)
ISKRA-2,ISKRA-3

最近の日本のアマチュア衛星[編集]
XI-IV : 2003年(平成15年)6月30日打ち上げ、東京大学CubeSatプロジェクトによる
CUTE-I : 2003年6月30日打ち上げ、東京工業大学CubeSatプロジェクトによる
XI-V : 2005年(平成17年)10月27日打ち上げ、東京大学CubeSatプロジェクトによる(2機目の成功)
Cute-1.7+APD : 2006年(平成18年)2月22日打ち上げ、東京工業大学CubeSatプロジェクトによる
HIT-SAT:2006年9月23日北海道衛星プロジェクト(北海道キューブサット開発チーム)による

その他[編集]
UNAMSAT-1/TechSat-1a
StenSAT

通信方法[編集]

ほとんどのアマチュア衛星が該当する低軌道衛星を用いて無線通信を行う方法の概略は次の通りである。
アップリンク(自局から衛星へ信号を伝送する)周波数において電波の発射が可能な送信機、およびアマチュア局の免許(無線従事者免許証、無線局免許状)を準備する。事前の予約などは特に必要なく、免許を受けているアマチュア局であればいつでも誰でも利用できる。
郵政省令(現総務省令)無線局免許手続規則に関しては、 1975年(昭和50年)までは宇宙無線通信に関する規定は無かった。
1976年(昭和51年)からは「アマチュア業務と同一の目的で行われる宇宙無線通信の業務」を行う許可を受け、無線局免許状の「無線局の目的」欄に「宇宙無線通信を含む」の但書きを要した(アマチュア衛星通信の業務とアマチュア業務は別の存在とされた)。
1986年(昭和61年)にアマチュア衛星に関する規定が整備され、6月から施行された。 「アマチュア業務と同一の目的で行われる宇宙無線通信の業務」の規定が無くなり、無線局免許状の「無線局の目的」欄の「宇宙無線通信を含む」の但書きを要しないものとなった(アマチュア衛星通信の業務はアマチュア業務の一部とされた)。
「人工衛星に開設するアマチュア局」と「人工衛星に開設するアマチュア局を遠隔操作するアマチュア局」が規定された(利用する“アマチュア衛星地球局”、衛星に載っている“アマチュア衛星宇宙局”、管理する衛星管制局に関する免許手続きは異なるものとなった)。


アップリンクとダウンリンク(衛星から自局へ信号を伝送する)では異なる周波数帯を用いている(例えばアップリンク430MHz帯/ダウンリンク144MHz帯)。自局の信号が正常に中継されていることを確認するため、アップリンクと同時にダウンリンクの周波数を受信できる設備が望ましい。受信時にはハウリングを防ぐためヘッドホンを使用する。衛星によってはハンディトランシーバー附属のホイップアンテナなど簡便な空中線で受信できる。
ウェブサイトや軌道計算ソフトによって、衛星が可視できる時刻、方角を確認する。1回のパスにつき可視できる(通信できる)時間は数分から10数分である。多くのアマチュア局が利用できるよう、この間に簡潔な通信(RSTレポートの交換のみで終わることが多い)を行わなければならない。
交信できる範囲は、自局・相手局とも同時に衛星を可視できる範囲であるため、日本であれば距離1000〜2000kmの近隣諸国までである。衛星を可視できる仰角が低いほど遠距離との通信が可能である。
空中線を衛星の方向に向け、衛星からダウンリンクされた他局のCQ呼び出しに応答、あるいは自局からCQ呼び出し(アップリンク)を行い、交信を行う。
ドップラー効果を補正するため、衛星が近づく時にはアップリンク周波数をわずかに低く、衛星が遠ざかる時にはアップリンク周波数をわずかに高くする場合がある。
国際宇宙ステーション(ISS)に設置されたアマチュア局との交信も、アマチュア衛星とほぼ同じ方法で可能である。但し、飛行士が余暇に行なう運用をうまく捉えられた場合に限る(「スクールコンタクト」は予約を要する)。
アップリンク・ダウンリンクの周波数で近くに不法無線局がいる場合、衛星通信に重大な障害をもたらす。不法無線局のほとんどは垂直偏波のアンテナを用いているため、水平偏波のアンテナを用いることにより混信を軽減できる場合があるが、不法無線局の信号があまりに強力な場合は完全に防止する手段が無い。
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