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2014年02月06日
スタニスラフ・グロフ
スタニスラフ・グロフ(en:Stanislav Grof)は、トランスパーソナル心理学におけるLSDを用いたサイケデリック・セラピー、呼吸法を用いたホロトロピック・ブレスワークの創始者である。またアブラハム・マズローと並び、トランスパーソナル心理学会の創始者の一人である。
略歴[編集]
1931年チェコの首都プラハ郊外に生まれる。1940年代後半、アニメーション製作会社に就職。そこでジークムント・フロイトの『精神分析入門』に出会い、精神科医への道を決意する。チャールズ大学医学部を卒業し臨床医になったグロフは、精神分析のアプローチに限界を感じ始める。1956年、アルバート・ホフマンにより開発されたLSD25により神秘体験を経験したグロフは、LSDを用いたセラピーの研究を開始する。1960年代に入りアブラハム・マズローと出会いトランスパーソナル心理学会を創設する。1970年代に入りアメリカに移住するも、LSDを用いた医学実験が法律で禁止されるという事態になる。方向転換を余儀なくされたグロフはホロトロピック・ブレスワークと呼ばれる呼吸法を生み出しセラピーの代替手段とした。LSDセッションやブレスワークにより、膨大な臨床データを得たグロフはトランスパーソナル心理学の基礎を築くことになる。
思想[編集]
意識の作図学[編集]
グロフによれば、LSDは幻覚剤などではなく、自由連想法などより強力に深層心理を探ることができる手段となりうるものである、グロフは当初クライアントのトラウマ体験を引き出す目的で実験やセラピーを行った。しかし実際に引き出されたデータは、クライアントの出生時の記憶、胎児期の記憶、前世の記憶、臨死体験に似たトランスパーソナル(超個)体験など、グロフが予想した範囲を大きく超えるものであった。LSDセラピーでは約3000件のデータが得られたが、そうした膨大なデータから人間に様々なレベルの意識の層があることに気付いたグロフは、これまでの心理学の理論を統合するような「意識の地図」を作成しようと試みた。
第1段階:審美的領域[編集]
LSDを被験者に用いると、まず身体に気持ちの良い感覚を覚えたり、虫の羽音や鈴の音が聞こえてきたり、軽いビジョンを見たりといった体験が起きる。美しい感覚を伴う体験だが、グロフによれば、これは無意識の中に突入する際に起こる神経的反応に過ぎないとされる。
第2段階:自伝的(フロイト的)無意識の領域[編集]
次に被験者は、日常的に抑圧されてきたと思われる個人的な無意識を体験する。幼児期への退行現象やトラウマの再体験などが強い感情を伴って起きる。既存の心理療法的アプローチが注目してきた領域である。
第3段階:BPM (基本的出生前後のマトリックス)[編集]
ここで被験者は出生時の記憶と思われる領域を再体験する。体験は次第に個人を超えていき、人類史における集合意識をなぞる場合もあり、ユング心理学(分析心理学)における「元型」との出会いや、東洋の文献で見られる悪魔的存在との邂逅などが見られる。グロフの理論でも最も重きを置かれる領域である。グロフはBPM領域を以下の4つに分類した。
BPM1[編集]
胎児が子宮に回帰し、一体化を果たしていると思われる体験領域である。そこでは安全な子宮に包まれているという安心感が得られ、同時に「大洋的エクスタシー」と呼ばれる宇宙的一体感が訪れる。しかし、母親が飲んだ有毒物質に飲み込まれる体験などネガティブなものも見られる。また被験者は世界中の様々な楽園や天国と言った元型的イメージや豊かな自然のイメージと出会う。深いリラクゼーションが訪れる領域であり、稀に宇宙との神秘的一体感を得られるケースも見られる。
BPM2[編集]
BPM1を超えた被験者は次に、出口のない狭い場所に閉じ込められた閉塞感を覚える。巨大な螺旋や渦巻、宇宙の暗黒などに飲み込まれ監禁状態に陥る体験が訪れる。圧倒的な苦痛を伴う、地獄とも呼べる体験である。強制収容所に収容されるユダヤ人や、精神病院に閉じ込められ拷問的な行為を受ける患者の体験、地獄の罪人やプロメテウスといった「永遠の罪」を象徴する元型的な体験や、巨大な竜・クジラなどに飲み込まれる体験もここで見られる。この領域にいる間、被験者は深い孤独にさいなまれ、人生は無意味であるという絶望感に包まれる。
BPM3[編集]
BPM2を超えると、生と死の間を引き裂かれるような葛藤が被験者に訪れる。サド・マゾ的体験、強烈な性的興奮、悪魔との遭遇、糞便嗜好の体験、元型的な「火」との遭遇、英雄の冒険への参加体験など、BPMの中でも最も広範囲な体験が得られる領域である。特にティターン的闘争と呼ばれる、自然の荒々しいエネルギーの爆発に巻き込まれる体験が多い。被験者は大きな苦悩とエクスタシーの間をさまよい、その感情が拡大され、魔物と天使の神話的闘争に参加することもある。
BPM4[編集]
BPM3を超えると、被験者に実際に死と再生の体験が訪れる。まず被験者は恐ろしいまでの破滅感に襲われ、身体的破壊や絶対的呪詛など様々な形で「自我の死」を体験する。カーリー、シヴァなど様々な破壊神に殺害され、宇宙の奈落に落下する体験などが見られる。しかし、それを超えると即座に体験は超自然的な黄金の光のビジョンなどに変化し、被験者はそこで生まれ変わりや再生を経験する。キリストの死やオシリス神話との一体化、パールヴァティー、聖母マリアとの融合化など元型的な体験も多く訪れる。この領域や後のトランスパーソナル領域の存在により、セッションが終了した後も被験者は存在に対する全肯定的感情を保ち続けることができる。
第4段階:トランスパーソナル領域[編集]
BPM領域の再誕生体験を抜けると、時空間に囚われない個人的体験を超えたトランスパーソナル(超個)体験が訪れる。美しい色の光のビジョンなどと出会う神秘的合一のエクスタシー体験である。具体的には輪廻転生における未来世、前世の経験、テレパシ−や透視などの超常現象を伴う体験、生命の進化をたどり生命の原点に行きつく体験、植物や鉱物・動物との一体化、民族の集合意識との一体化、元型などの宇宙的知性との出会い、惑星の生成体験、宇宙意識との一体化、全人類の包括的意識との一体化、全物質宇宙における被造物全体との一体化、地球との一体化の体験などが起こる。それらを超えると、究極的な「光」との合一、宇宙全体を超えた「絶対」との一体化体験が訪れる。
作図学におけるサイケデリック体験の解釈[編集]
スタニスラフ・グロフはLSDから得られたデータの中でも、特にBPMの領域に注目した。グロフによればBPM領域の体験は「胎児が子宮から産道を経て、出生に至るまでのプロセス」によるものである。グロフはこの子宮を選択してから誕生するまでの間の感情の流れが、その後の人格形成の中核になる要因であると考えた。具体的な解釈は以下のようになる。
BPM1
出産が始まる前の、胎児が快適に子宮にいる状態に対応した体験。母親に完全に身をゆだねており、安心感に浸っている状態。
BPM2
子宮の収縮が始まる初期の状態に対応したもの。胎児が四方から締め付けられ、出口なしの閉塞状態に陥る体験。
BPM3
胎児が狭い産道の中に押し込められ、窒息に苦しみながらも、再生のために産道を通過しようとしている状態。強制的に外に連れ出されるトラウマ的な体験。
BPM4
出産が完了し、新しく生まれた自由と開放を感じる段階。へその緒が切られ、母親との肉体的分離が完了する。
グロフの解釈への批判[編集]
こうしたグロフの「解釈」については批判もある。霊性思想家であるヒューストン・スミス(en:Huston Smith)は、BPM領域には「出産時の体験」という生物学的歴史には還元され得ない体験が多く混在していることを指摘している。こうした体験も矮小化せずに平等に解釈する必要があるため、グロフのサイケデリック体験は再解釈される必要があるとされた。ヒューストン・スミスによると、LSD体験は身体→心→魂→霊のプロセスを辿り、個人的無意識を抜ける苦しみから、個を超えた歓喜のトランスパーソナルな体験へと移っていくプロセス体験である、とされる。こうした解釈で、LSD体験に個人的体験と集合的体験が混在する現象を説明できるとする[1]。
ホロトロピック・ブリージング[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
ホロトロピック・ブリージングとは、深く速い呼吸法に、情動喚起的な音楽、ボディーワークを組み合わせて、参加者を変性意識体験(とくに超個的な体験)に導くセラピーである。ホロトロピック・ブリージングでは、LSDによるサイケデリック・セラピーとほぼ同様の効果が得られるとされる。
スピリチュアル・エマージェンシー[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
スタニスラフ・グロフの神秘体験[編集]
スタニスラフ・グロフ自身もLSDを用い神秘体験を得ている。1956年に起きたその体験は以下のように描写されている。
「この実験の間、私は、原子の爆発の中核をなす光に例えられるような、あるいは、東洋の経典に述べられている死の瞬間にあらわれる超自然的な光に例えられるような光輝に打たれた。この電光は私を身体から放り出した。私は研究助手や研究所のこと、そしてプラハでの学生生活のこと、そうしたことの意識を一切失った。私の意識は爆発し、宇宙的次元に広がったかのようだった」
「自分が経験しているものが、世界中の偉大な神秘的経典で読んだことのある「宇宙意識」の体験に極めて近いことを心の中で確信した。精神医学の手引書では、そのような状態は深刻な病理の兆候と定義されていた。体験の真只中で、それが薬物によって引き起こされた精神異常の結果ではなく、日常的なリアリティを超えた世界を垣間見ている結果だということを知った」[2]
著作[編集]
『脳を超えて』 春秋社(主著)
『深層からの回帰 - 意識のトランスパーソナル・パラダイム』 青土社
『ホロトロピック・セラピー (自己発見の冒険)』 春秋社
『魂の危機を超えて - 自己発見と癒しの道』 春秋社
略歴[編集]
1931年チェコの首都プラハ郊外に生まれる。1940年代後半、アニメーション製作会社に就職。そこでジークムント・フロイトの『精神分析入門』に出会い、精神科医への道を決意する。チャールズ大学医学部を卒業し臨床医になったグロフは、精神分析のアプローチに限界を感じ始める。1956年、アルバート・ホフマンにより開発されたLSD25により神秘体験を経験したグロフは、LSDを用いたセラピーの研究を開始する。1960年代に入りアブラハム・マズローと出会いトランスパーソナル心理学会を創設する。1970年代に入りアメリカに移住するも、LSDを用いた医学実験が法律で禁止されるという事態になる。方向転換を余儀なくされたグロフはホロトロピック・ブレスワークと呼ばれる呼吸法を生み出しセラピーの代替手段とした。LSDセッションやブレスワークにより、膨大な臨床データを得たグロフはトランスパーソナル心理学の基礎を築くことになる。
思想[編集]
意識の作図学[編集]
グロフによれば、LSDは幻覚剤などではなく、自由連想法などより強力に深層心理を探ることができる手段となりうるものである、グロフは当初クライアントのトラウマ体験を引き出す目的で実験やセラピーを行った。しかし実際に引き出されたデータは、クライアントの出生時の記憶、胎児期の記憶、前世の記憶、臨死体験に似たトランスパーソナル(超個)体験など、グロフが予想した範囲を大きく超えるものであった。LSDセラピーでは約3000件のデータが得られたが、そうした膨大なデータから人間に様々なレベルの意識の層があることに気付いたグロフは、これまでの心理学の理論を統合するような「意識の地図」を作成しようと試みた。
第1段階:審美的領域[編集]
LSDを被験者に用いると、まず身体に気持ちの良い感覚を覚えたり、虫の羽音や鈴の音が聞こえてきたり、軽いビジョンを見たりといった体験が起きる。美しい感覚を伴う体験だが、グロフによれば、これは無意識の中に突入する際に起こる神経的反応に過ぎないとされる。
第2段階:自伝的(フロイト的)無意識の領域[編集]
次に被験者は、日常的に抑圧されてきたと思われる個人的な無意識を体験する。幼児期への退行現象やトラウマの再体験などが強い感情を伴って起きる。既存の心理療法的アプローチが注目してきた領域である。
第3段階:BPM (基本的出生前後のマトリックス)[編集]
ここで被験者は出生時の記憶と思われる領域を再体験する。体験は次第に個人を超えていき、人類史における集合意識をなぞる場合もあり、ユング心理学(分析心理学)における「元型」との出会いや、東洋の文献で見られる悪魔的存在との邂逅などが見られる。グロフの理論でも最も重きを置かれる領域である。グロフはBPM領域を以下の4つに分類した。
BPM1[編集]
胎児が子宮に回帰し、一体化を果たしていると思われる体験領域である。そこでは安全な子宮に包まれているという安心感が得られ、同時に「大洋的エクスタシー」と呼ばれる宇宙的一体感が訪れる。しかし、母親が飲んだ有毒物質に飲み込まれる体験などネガティブなものも見られる。また被験者は世界中の様々な楽園や天国と言った元型的イメージや豊かな自然のイメージと出会う。深いリラクゼーションが訪れる領域であり、稀に宇宙との神秘的一体感を得られるケースも見られる。
BPM2[編集]
BPM1を超えた被験者は次に、出口のない狭い場所に閉じ込められた閉塞感を覚える。巨大な螺旋や渦巻、宇宙の暗黒などに飲み込まれ監禁状態に陥る体験が訪れる。圧倒的な苦痛を伴う、地獄とも呼べる体験である。強制収容所に収容されるユダヤ人や、精神病院に閉じ込められ拷問的な行為を受ける患者の体験、地獄の罪人やプロメテウスといった「永遠の罪」を象徴する元型的な体験や、巨大な竜・クジラなどに飲み込まれる体験もここで見られる。この領域にいる間、被験者は深い孤独にさいなまれ、人生は無意味であるという絶望感に包まれる。
BPM3[編集]
BPM2を超えると、生と死の間を引き裂かれるような葛藤が被験者に訪れる。サド・マゾ的体験、強烈な性的興奮、悪魔との遭遇、糞便嗜好の体験、元型的な「火」との遭遇、英雄の冒険への参加体験など、BPMの中でも最も広範囲な体験が得られる領域である。特にティターン的闘争と呼ばれる、自然の荒々しいエネルギーの爆発に巻き込まれる体験が多い。被験者は大きな苦悩とエクスタシーの間をさまよい、その感情が拡大され、魔物と天使の神話的闘争に参加することもある。
BPM4[編集]
BPM3を超えると、被験者に実際に死と再生の体験が訪れる。まず被験者は恐ろしいまでの破滅感に襲われ、身体的破壊や絶対的呪詛など様々な形で「自我の死」を体験する。カーリー、シヴァなど様々な破壊神に殺害され、宇宙の奈落に落下する体験などが見られる。しかし、それを超えると即座に体験は超自然的な黄金の光のビジョンなどに変化し、被験者はそこで生まれ変わりや再生を経験する。キリストの死やオシリス神話との一体化、パールヴァティー、聖母マリアとの融合化など元型的な体験も多く訪れる。この領域や後のトランスパーソナル領域の存在により、セッションが終了した後も被験者は存在に対する全肯定的感情を保ち続けることができる。
第4段階:トランスパーソナル領域[編集]
BPM領域の再誕生体験を抜けると、時空間に囚われない個人的体験を超えたトランスパーソナル(超個)体験が訪れる。美しい色の光のビジョンなどと出会う神秘的合一のエクスタシー体験である。具体的には輪廻転生における未来世、前世の経験、テレパシ−や透視などの超常現象を伴う体験、生命の進化をたどり生命の原点に行きつく体験、植物や鉱物・動物との一体化、民族の集合意識との一体化、元型などの宇宙的知性との出会い、惑星の生成体験、宇宙意識との一体化、全人類の包括的意識との一体化、全物質宇宙における被造物全体との一体化、地球との一体化の体験などが起こる。それらを超えると、究極的な「光」との合一、宇宙全体を超えた「絶対」との一体化体験が訪れる。
作図学におけるサイケデリック体験の解釈[編集]
スタニスラフ・グロフはLSDから得られたデータの中でも、特にBPMの領域に注目した。グロフによればBPM領域の体験は「胎児が子宮から産道を経て、出生に至るまでのプロセス」によるものである。グロフはこの子宮を選択してから誕生するまでの間の感情の流れが、その後の人格形成の中核になる要因であると考えた。具体的な解釈は以下のようになる。
BPM1
出産が始まる前の、胎児が快適に子宮にいる状態に対応した体験。母親に完全に身をゆだねており、安心感に浸っている状態。
BPM2
子宮の収縮が始まる初期の状態に対応したもの。胎児が四方から締め付けられ、出口なしの閉塞状態に陥る体験。
BPM3
胎児が狭い産道の中に押し込められ、窒息に苦しみながらも、再生のために産道を通過しようとしている状態。強制的に外に連れ出されるトラウマ的な体験。
BPM4
出産が完了し、新しく生まれた自由と開放を感じる段階。へその緒が切られ、母親との肉体的分離が完了する。
グロフの解釈への批判[編集]
こうしたグロフの「解釈」については批判もある。霊性思想家であるヒューストン・スミス(en:Huston Smith)は、BPM領域には「出産時の体験」という生物学的歴史には還元され得ない体験が多く混在していることを指摘している。こうした体験も矮小化せずに平等に解釈する必要があるため、グロフのサイケデリック体験は再解釈される必要があるとされた。ヒューストン・スミスによると、LSD体験は身体→心→魂→霊のプロセスを辿り、個人的無意識を抜ける苦しみから、個を超えた歓喜のトランスパーソナルな体験へと移っていくプロセス体験である、とされる。こうした解釈で、LSD体験に個人的体験と集合的体験が混在する現象を説明できるとする[1]。
ホロトロピック・ブリージング[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
ホロトロピック・ブリージングとは、深く速い呼吸法に、情動喚起的な音楽、ボディーワークを組み合わせて、参加者を変性意識体験(とくに超個的な体験)に導くセラピーである。ホロトロピック・ブリージングでは、LSDによるサイケデリック・セラピーとほぼ同様の効果が得られるとされる。
スピリチュアル・エマージェンシー[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。
スタニスラフ・グロフの神秘体験[編集]
スタニスラフ・グロフ自身もLSDを用い神秘体験を得ている。1956年に起きたその体験は以下のように描写されている。
「この実験の間、私は、原子の爆発の中核をなす光に例えられるような、あるいは、東洋の経典に述べられている死の瞬間にあらわれる超自然的な光に例えられるような光輝に打たれた。この電光は私を身体から放り出した。私は研究助手や研究所のこと、そしてプラハでの学生生活のこと、そうしたことの意識を一切失った。私の意識は爆発し、宇宙的次元に広がったかのようだった」
「自分が経験しているものが、世界中の偉大な神秘的経典で読んだことのある「宇宙意識」の体験に極めて近いことを心の中で確信した。精神医学の手引書では、そのような状態は深刻な病理の兆候と定義されていた。体験の真只中で、それが薬物によって引き起こされた精神異常の結果ではなく、日常的なリアリティを超えた世界を垣間見ている結果だということを知った」[2]
著作[編集]
『脳を超えて』 春秋社(主著)
『深層からの回帰 - 意識のトランスパーソナル・パラダイム』 青土社
『ホロトロピック・セラピー (自己発見の冒険)』 春秋社
『魂の危機を超えて - 自己発見と癒しの道』 春秋社
アブラハム・マズロー
アブラハム・マズロー(Abraham Harold Maslow, 1908年4月1日 - 1970年6月8日)は、アメリカ合衆国の心理学者。
ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区に生まれる。彼は人間性心理学の最も重要な生みの親とされている。これは精神病理の理解を目的とする精神分析と、人間と動物を区別しない行動主義心理学の間の、いわゆる「第三の勢力」として、心の健康についての心理学を目指すもので、人間の自己実現を研究するものである。彼は特に人間の欲求の階層(マズローの欲求のピラミッド)を主張した事でよく知られている。マズローは人間についての学問に新しい方向付けを与えようとしたが、彼の著作はそれ以上に内容豊かなものになっている。著書、雑誌論文は100編以上に及び、アカデミックな心理学のみならず、教育や経営学のような隣接領域にまで彼の思索は及んでいる。
生涯[編集]
マズローは、20世紀初めにポグロムをのがれてアメリカに移住したユダヤ系ロシア人移民(貧困家庭)の長男(下に六人の弟・妹)として、ニューヨーク・ブルックリンに生まれた。高校卒業後ニューヨーク市立大学シティカレッジに入学。同大で2年間法律学を学ぶ。ウィスコンシン大学に転校し、心理学をまなび、1930年卒業。同大学で1931年心理学の修士号を取得。1934年に心理学博士号を取得した。1937年、彼はニューヨーク市立大学ブルックリン校から教授として招聘を受け、着任。1951年にはユダヤ系の大学として有名なブランダイス大学に移り、1969年まで在職した。1962年、「ヒューマニスティック心理学会」を設立。1967年-1968年、アメリカ心理学会会長。以後、自ら提唱する人間性心理学の旗頭として活躍し、自己実現、創造性、価値、美、至高経験、倫理など、従来の心理学が避けてきた、より人間的なものの研究に道を開いた。
マズローの人格理論は、通称「自己実現理論(欲求段階説)」と呼ばれ、心理学のみならず、経営学、看護学など他の分野でも言及される。
1967年にマズローは「今年のヒューマニスト」に選出される。後にマズローは、1970年6月8日、心臓発作で亡くなった。ヒューマニスティック心理学に対応した哲学・倫理学を打ち立てるという彼の学術的な企ては、結局未完のままに留まった。
ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区に生まれる。彼は人間性心理学の最も重要な生みの親とされている。これは精神病理の理解を目的とする精神分析と、人間と動物を区別しない行動主義心理学の間の、いわゆる「第三の勢力」として、心の健康についての心理学を目指すもので、人間の自己実現を研究するものである。彼は特に人間の欲求の階層(マズローの欲求のピラミッド)を主張した事でよく知られている。マズローは人間についての学問に新しい方向付けを与えようとしたが、彼の著作はそれ以上に内容豊かなものになっている。著書、雑誌論文は100編以上に及び、アカデミックな心理学のみならず、教育や経営学のような隣接領域にまで彼の思索は及んでいる。
生涯[編集]
マズローは、20世紀初めにポグロムをのがれてアメリカに移住したユダヤ系ロシア人移民(貧困家庭)の長男(下に六人の弟・妹)として、ニューヨーク・ブルックリンに生まれた。高校卒業後ニューヨーク市立大学シティカレッジに入学。同大で2年間法律学を学ぶ。ウィスコンシン大学に転校し、心理学をまなび、1930年卒業。同大学で1931年心理学の修士号を取得。1934年に心理学博士号を取得した。1937年、彼はニューヨーク市立大学ブルックリン校から教授として招聘を受け、着任。1951年にはユダヤ系の大学として有名なブランダイス大学に移り、1969年まで在職した。1962年、「ヒューマニスティック心理学会」を設立。1967年-1968年、アメリカ心理学会会長。以後、自ら提唱する人間性心理学の旗頭として活躍し、自己実現、創造性、価値、美、至高経験、倫理など、従来の心理学が避けてきた、より人間的なものの研究に道を開いた。
マズローの人格理論は、通称「自己実現理論(欲求段階説)」と呼ばれ、心理学のみならず、経営学、看護学など他の分野でも言及される。
1967年にマズローは「今年のヒューマニスト」に選出される。後にマズローは、1970年6月8日、心臓発作で亡くなった。ヒューマニスティック心理学に対応した哲学・倫理学を打ち立てるという彼の学術的な企ては、結局未完のままに留まった。
人間性回復運動
人間性回復運動、または、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント(Human Potential Movement / HPM)とは、1960年代のアメリカ合衆国、それも主として心理学分野において生じたムーブメント。 「幸福」「創造性」「自己実現」の主体である人間の「人間性」や「人間の潜在能力」を、回復・発展させることを旨とする。
ただし、自己啓発セミナーのルーツの1つとしても知られているとおり、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントという呼称は、自己啓発セミナーやマルチ商法系の人脈によって広められた面が否めず、一般的にはサイケデリックの実験もしくはムーブメントと大差ないものとして理解されている。
時代背景としては、行動主義心理学に対する反省や、実存主義の影響などを挙げることができる。[要出典] 心理学の「第三勢力」と俗に呼ばれる人間性心理学と連動したムーブメントであり、「第四勢力」としてのトランスパーソナル心理学へとつながる基盤となった。
ただし、自己啓発セミナーのルーツの1つとしても知られているとおり、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントという呼称は、自己啓発セミナーやマルチ商法系の人脈によって広められた面が否めず、一般的にはサイケデリックの実験もしくはムーブメントと大差ないものとして理解されている。
時代背景としては、行動主義心理学に対する反省や、実存主義の影響などを挙げることができる。[要出典] 心理学の「第三勢力」と俗に呼ばれる人間性心理学と連動したムーブメントであり、「第四勢力」としてのトランスパーソナル心理学へとつながる基盤となった。
フォーカシング
ジェンドリンは、カウンセリングの成功要因を探る研究の中から、クライエントが自分の心の実感に触れられるかどうかが重要であることを見いだした。そこからジェンドリンは、心の実感に触れるための方法を、クライエントに教える必要があると考え、そのための理論として体験過程理論を構築し、具体的な技法としてフォーカシングを提唱した。
ジェンドリンは来談者中心療法を確立したカール・ロジャースの共同研究者であり、ロジャースの創始した来談者中心療法の実践の中からフォーカシングを体系化した。来談者中心療法とフォーカシングの関係については、両者は別個の体系であるという見解と、フォーカシングは来談者中心療法の本質であるとする見解の2通りがあり、研究者によって意見が異なっている。
体験過程理論[編集]
体験過程理論は、人の心の中に感じられ、刻一刻と変化し流動していく体験過程 (Experiencing) に関する理論である。体験過程は、意識と無意識の境界に注意を向けることで直接、身体的に感じられるものであり、体験過程の流れは、言葉などによって表現される、つまり象徴化されることによって、人が成長する方向へ向かって流れていく。しかし、人の意識が体験過程に向けられず、象徴化の機会が奪われると、体験過程は滞り、様々な心理的困難が生じてくる。
フォーカシング[編集]
フォーカシングという用語は、「現象としてのフォーカシング」と、「技法としてのフォーカシング」という2つの意味で用いられることがある。
現象としてのフォーカシングとは、人がまだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごすことをいう。
一方、技法としてのフォーカシングとは、体験過程に直接注意を向け、その象徴化を促進する一連の技法のことをいう。ジェンドリンが考案した方法のほかにも、アン・ワイザー・コーネルによる技法体系など、複数の方法が考案されている。
ジェンドリンによる「技法としてのフォーカシング」をショートフォームという。 具体的には、まず胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら、何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ。次に、その感じにぴったりな言葉(ハンドル)を探し、見つかれば、その言葉がフェルト・センスにぴったりかどうかを突きあわせて感じてみる。違っているようであれば、再びぴったりくる言葉を探し、もう一度、フェルトセンスと照合してみるという過程を繰り返す。フェルト・センスとハンドルがぴったりであれば、フェルト・シフトと呼ばれる、ぴったりだという感覚と解放感が得られることがある。さらにフォーカシングを続ける場合、今度はフェルト・センスに対して、「何がそんなに〜なのか」「その感じは私の生活の何と関係があるのだろうか」などの質問をし、フェルト・センスのほうから、自然に何かしらの反応が返ってくるのを静かに待つ。何か反応が得られるようであれば、それを受容的に受け取る。時間的な限界や、フォーカシングを終えてもよいという感覚があれば、最後にフォーカシングの中で得られた体験を丁寧に自分の中に受け取る作業を行ってから、フォーカシングのセッションを終える。
これらのフォーカシングの過程は、一人で行うこともできるが、慣れないうちはフォーカシングの過程を聞いてくれる相手がいるほうがよい。その場合には、フォーカシングを行う人をフォーカサー、聞き役をリスナーとよぶ。また、フォーカサーがまだフォーカシングに不慣れであり、リスナーのほうから積極的に教示を提案するスタイルで行う場合には、ガイドと呼ばれることもある。
フォーカシング指向心理療法[編集]
カウンセリングのエッセンスを抽出する形で生まれたフォーカシングであるが、ジェンドリンはさらにフォーカシングをカウンセリングに還元する方法を体系だてた。それがフォーカシング指向心理療法 (Focusing Oriented Psychotherapy) である。
フォーカシング指向心理療法とは、カウンセリングの過程を、クライエントとカウンセラーの体験過程が導いていく心理療法である。つまり、フォーカシングの技法を使用していても体験過程が動かないカウンセリングはフォーカシング指向心理療法ではなく、フォーカシングの技法を一切使用していなくとも、体験過程がカウンセリングの過程を動かすカウンセリングは、すなわちフォーカシング指向心理療法であるといえる。
ジェンドリンは、フォーカシング指向心理療法においてまず大切なことは、第一にカウンセラーとクライエントの関係性であり、第二に傾聴であり、そして第三にようやくフォーカシングがくるとしており、クライエント自身を無視したような「フォーカシング中心」療法になることを再三、戒めている。
フォーカシング指向心理療法では、クライエントが自分のフェルト・センスに触れることを援助するために、フォーカシングの技法が用いられることがある。それは、何気なくフェルト・センスが感じられるであろうポイントをセラピストが指し示す応答から、フォーカシングに独特な言い回しをそのまま用いた教示まで使用されることがある。
さらに、フォーカシング指向心理療法では、体験過程を促進するために、他の様々な流派の技法や理論を導入することができる。それらの技法や理論を提案し、それがクライエントの体験過程に響くようであれば、その技法・理論を採用し、響かないようであれば、提案を速やかに撤回して傾聴に戻る。そうすることにより、様々な流派の理論を統合的に使用しながらも、クライエントの自主性を尊重することができるのである。
参考文献[編集]
ユージン・ジェンドリン『フォーカシング』福村出版 1982年
池見陽 『心のメッセージを聴く 〜実感が語る心理学〜』講談社現代新書 1995年
アン・ワイザー・コーネル『やさしいフォーカシング 〜自分でできるこころの処方〜』コスモス・ライブラリー出版 1999年
関連書籍[編集]
訳書[編集]
コーネルA.W. (著) 村瀬孝雄(監訳) 大澤美枝子(訳) 1996 フォーカシング入門・マニュアル 東京:金剛出版
コーネルA.W.(著) 村瀬孝雄(監訳) 大澤美枝子・日笠摩子(訳) 1996 フォーカシングガイド・マニュアル 東京:金剛出版
ユージン ジェンドリン (著), 池見 陽 (著, 翻訳), 村瀬 孝雄 (翻訳) 1999/4 セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解 金剛出版
コーネルA.W.(著) 大澤美枝子・日笠摩子(訳) 1999/9 やさしいフォーカシング:自分でできるこころの処方 東京:コスモス・ライブラリー
ヒンターコプフE.(著) 日笠摩子・伊藤義美(訳) 2000 いのちとこころのカウンセリング:体験的フォーカシング法 東京:金剛出版
フリードマンN.(著) 日笠摩子(訳) 2004 フォーカシングとともに@:体験過程との出会い 東京:コスモス・ライブラリー
マケベニュK.(著) 土井晶子(訳) 2004 ホールボディ・フォーカシング:アレクサンダー・テクニークとフォーカシングの出会い 東京:コスモス・ライブラリー
フリードマンN.(著) 日笠摩子(訳) 2004 フォーカシングとともにA:フォーカシングと心理療法 東京:コスモス・ライブラリー
クラインJ.(著) 諸富祥彦(監訳) 前田満寿美(訳) 2005 インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー:カウンセラーの力量アップのために 東京:誠信書房
フリードマンN.(著) 日笠摩子(訳) 2005 フォーカシングとともにB:心理療法・瞑想・奇跡 東京:コスモス・ライブラリー
アン・ワイザー・コーネル,バーバラ・マクギャバン(著) 大澤美枝子・上村英生(訳)2005/10 フォーカシング・ニュー・マニュアル―フォーカシングを学ぶ人とコンパニオンのために 東京:金剛出版
パートンC.(著) 日笠摩子(訳) 2006 パーソン・センタード・セラピー:フォーカシング指向の観点から 東京:金剛出版
アン・ワイザー・コーネル,マクギャバン,バーバラ(著)大澤美枝子(訳) 2007/09 すべてあるがままに―フォーカシング・ライフを生きる コスモスライブラリー
バラ・ジェイソン (著), 日笠摩子監訳 (翻訳), 久羽康・堀尾直美・酒井茂樹・橋本薫訳 (翻訳) 2009/2/17 解決指向フォーカシング療法―深いセラピーを短く・短いセラピーを深く 金剛出版
ローリー・ラパポート (著), 池見 陽 (翻訳), 三宅 麻希 (翻訳) 2009/5/18 フォーカシング指向アートセラピー 誠信書房
キャンベル・パートン (著), 伊藤 義美 (翻訳) フォーカシング指向カウンセリング 2009/12 コスモス・ラブラリー
和書[編集]
村山正治・増井武士・池見陽・太田民雄・吉良安之・茂田みちえ(著) 1984 フォーカシングの理論と実際 東京:福村書店
村山正治(編) 1991 フォーカシング・セミナー 東京:福村書店
池見陽(著) 1995 講談社現代新書1241 心のメッセージを聴く:実感が語る心理学 東京:講談社
村瀬孝雄・日笠摩子・近田輝行・阿世賀浩一郎(著) 1995 フォ−カシング事始め:こころとからだにきく方法 東京:日本精神技術研究所
池見陽(編著) 秋山恵子・阿世賀浩一郎・近田輝行・岩島千河子・吉良安之・森あい子・野田悦子・妹尾光男・鈴木陽子・田村隆一(著) 1997 フォーカシングへの誘い:個人的成長と臨床に生かす「心の実感」 東京:サイエンス社
村山正治(編) 1999 現代のエスプリ382 フォ−カシング 東京:至文堂
伊藤義美(著) 2000 フォーカシングの空間づくりに関する研究 東京:風間書房
伊藤研一・阿世賀浩一郎(編) 2001 現代のエスプリ410 治療者にとってのフォ−カシング 東京:至文堂
伊藤義美(編著) 2002 フォーカシングの実践と研究 京都:ナカニシヤ出版
近田輝行(著) 2002 フォーカシングで身につけるカウンセリングの基本:クライエント中心療法を本当に役立てるために 東京:コスモス・ライブラリー
村山正治・藤中隆久(編) 2002 クライエント中心療法と体験過程療法 京都:ナカニシヤ出版
日笠摩子(著) 2003 セラピストのためのフォーカシング入門 東京::金剛出版
伊藤義美(著) 2005 フォーカシングの展開 京都:ナカニシヤ出版
村山正治(監修) 福盛英明・森川友子(編著) 2005 マンガで学ぶフォーカシング入門:からだをとおして自分の気持ちに気づく方法 東京:誠信書房
日笠摩子・近田輝行(編) 2005 フォーカシングワークブック:楽しく、やさしい、カウンセリングトレ−ニング 東京:金剛出版
土江正司 2008/10 「こころの天気を感じてごらん―子どもと親と先生に贈るフォーカシングと「甘え」の本」コスモス・ライブラリー
伊藤研一(著)・諸富祥彦(編著)2009/05 「フォーカシングの原点と臨床的展開」岩崎学術出版社 (ISBN 978-4-7533-0903-0)
諸富祥彦・末武康弘・村里忠之(著) 2009/08 「ジェンドリン哲学入門―フォーカシングの根底にあるもの―」コスモス・ライブラリー (ISBN 978-4-434-13554-5)
ジェンドリンは来談者中心療法を確立したカール・ロジャースの共同研究者であり、ロジャースの創始した来談者中心療法の実践の中からフォーカシングを体系化した。来談者中心療法とフォーカシングの関係については、両者は別個の体系であるという見解と、フォーカシングは来談者中心療法の本質であるとする見解の2通りがあり、研究者によって意見が異なっている。
体験過程理論[編集]
体験過程理論は、人の心の中に感じられ、刻一刻と変化し流動していく体験過程 (Experiencing) に関する理論である。体験過程は、意識と無意識の境界に注意を向けることで直接、身体的に感じられるものであり、体験過程の流れは、言葉などによって表現される、つまり象徴化されることによって、人が成長する方向へ向かって流れていく。しかし、人の意識が体験過程に向けられず、象徴化の機会が奪われると、体験過程は滞り、様々な心理的困難が生じてくる。
フォーカシング[編集]
フォーカシングという用語は、「現象としてのフォーカシング」と、「技法としてのフォーカシング」という2つの意味で用いられることがある。
現象としてのフォーカシングとは、人がまだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごすことをいう。
一方、技法としてのフォーカシングとは、体験過程に直接注意を向け、その象徴化を促進する一連の技法のことをいう。ジェンドリンが考案した方法のほかにも、アン・ワイザー・コーネルによる技法体系など、複数の方法が考案されている。
ジェンドリンによる「技法としてのフォーカシング」をショートフォームという。 具体的には、まず胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら、何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ。次に、その感じにぴったりな言葉(ハンドル)を探し、見つかれば、その言葉がフェルト・センスにぴったりかどうかを突きあわせて感じてみる。違っているようであれば、再びぴったりくる言葉を探し、もう一度、フェルトセンスと照合してみるという過程を繰り返す。フェルト・センスとハンドルがぴったりであれば、フェルト・シフトと呼ばれる、ぴったりだという感覚と解放感が得られることがある。さらにフォーカシングを続ける場合、今度はフェルト・センスに対して、「何がそんなに〜なのか」「その感じは私の生活の何と関係があるのだろうか」などの質問をし、フェルト・センスのほうから、自然に何かしらの反応が返ってくるのを静かに待つ。何か反応が得られるようであれば、それを受容的に受け取る。時間的な限界や、フォーカシングを終えてもよいという感覚があれば、最後にフォーカシングの中で得られた体験を丁寧に自分の中に受け取る作業を行ってから、フォーカシングのセッションを終える。
これらのフォーカシングの過程は、一人で行うこともできるが、慣れないうちはフォーカシングの過程を聞いてくれる相手がいるほうがよい。その場合には、フォーカシングを行う人をフォーカサー、聞き役をリスナーとよぶ。また、フォーカサーがまだフォーカシングに不慣れであり、リスナーのほうから積極的に教示を提案するスタイルで行う場合には、ガイドと呼ばれることもある。
フォーカシング指向心理療法[編集]
カウンセリングのエッセンスを抽出する形で生まれたフォーカシングであるが、ジェンドリンはさらにフォーカシングをカウンセリングに還元する方法を体系だてた。それがフォーカシング指向心理療法 (Focusing Oriented Psychotherapy) である。
フォーカシング指向心理療法とは、カウンセリングの過程を、クライエントとカウンセラーの体験過程が導いていく心理療法である。つまり、フォーカシングの技法を使用していても体験過程が動かないカウンセリングはフォーカシング指向心理療法ではなく、フォーカシングの技法を一切使用していなくとも、体験過程がカウンセリングの過程を動かすカウンセリングは、すなわちフォーカシング指向心理療法であるといえる。
ジェンドリンは、フォーカシング指向心理療法においてまず大切なことは、第一にカウンセラーとクライエントの関係性であり、第二に傾聴であり、そして第三にようやくフォーカシングがくるとしており、クライエント自身を無視したような「フォーカシング中心」療法になることを再三、戒めている。
フォーカシング指向心理療法では、クライエントが自分のフェルト・センスに触れることを援助するために、フォーカシングの技法が用いられることがある。それは、何気なくフェルト・センスが感じられるであろうポイントをセラピストが指し示す応答から、フォーカシングに独特な言い回しをそのまま用いた教示まで使用されることがある。
さらに、フォーカシング指向心理療法では、体験過程を促進するために、他の様々な流派の技法や理論を導入することができる。それらの技法や理論を提案し、それがクライエントの体験過程に響くようであれば、その技法・理論を採用し、響かないようであれば、提案を速やかに撤回して傾聴に戻る。そうすることにより、様々な流派の理論を統合的に使用しながらも、クライエントの自主性を尊重することができるのである。
参考文献[編集]
ユージン・ジェンドリン『フォーカシング』福村出版 1982年
池見陽 『心のメッセージを聴く 〜実感が語る心理学〜』講談社現代新書 1995年
アン・ワイザー・コーネル『やさしいフォーカシング 〜自分でできるこころの処方〜』コスモス・ライブラリー出版 1999年
関連書籍[編集]
訳書[編集]
コーネルA.W. (著) 村瀬孝雄(監訳) 大澤美枝子(訳) 1996 フォーカシング入門・マニュアル 東京:金剛出版
コーネルA.W.(著) 村瀬孝雄(監訳) 大澤美枝子・日笠摩子(訳) 1996 フォーカシングガイド・マニュアル 東京:金剛出版
ユージン ジェンドリン (著), 池見 陽 (著, 翻訳), 村瀬 孝雄 (翻訳) 1999/4 セラピープロセスの小さな一歩―フォーカシングからの人間理解 金剛出版
コーネルA.W.(著) 大澤美枝子・日笠摩子(訳) 1999/9 やさしいフォーカシング:自分でできるこころの処方 東京:コスモス・ライブラリー
ヒンターコプフE.(著) 日笠摩子・伊藤義美(訳) 2000 いのちとこころのカウンセリング:体験的フォーカシング法 東京:金剛出版
フリードマンN.(著) 日笠摩子(訳) 2004 フォーカシングとともに@:体験過程との出会い 東京:コスモス・ライブラリー
マケベニュK.(著) 土井晶子(訳) 2004 ホールボディ・フォーカシング:アレクサンダー・テクニークとフォーカシングの出会い 東京:コスモス・ライブラリー
フリードマンN.(著) 日笠摩子(訳) 2004 フォーカシングとともにA:フォーカシングと心理療法 東京:コスモス・ライブラリー
クラインJ.(著) 諸富祥彦(監訳) 前田満寿美(訳) 2005 インタラクティヴ・フォーカシング・セラピー:カウンセラーの力量アップのために 東京:誠信書房
フリードマンN.(著) 日笠摩子(訳) 2005 フォーカシングとともにB:心理療法・瞑想・奇跡 東京:コスモス・ライブラリー
アン・ワイザー・コーネル,バーバラ・マクギャバン(著) 大澤美枝子・上村英生(訳)2005/10 フォーカシング・ニュー・マニュアル―フォーカシングを学ぶ人とコンパニオンのために 東京:金剛出版
パートンC.(著) 日笠摩子(訳) 2006 パーソン・センタード・セラピー:フォーカシング指向の観点から 東京:金剛出版
アン・ワイザー・コーネル,マクギャバン,バーバラ(著)大澤美枝子(訳) 2007/09 すべてあるがままに―フォーカシング・ライフを生きる コスモスライブラリー
バラ・ジェイソン (著), 日笠摩子監訳 (翻訳), 久羽康・堀尾直美・酒井茂樹・橋本薫訳 (翻訳) 2009/2/17 解決指向フォーカシング療法―深いセラピーを短く・短いセラピーを深く 金剛出版
ローリー・ラパポート (著), 池見 陽 (翻訳), 三宅 麻希 (翻訳) 2009/5/18 フォーカシング指向アートセラピー 誠信書房
キャンベル・パートン (著), 伊藤 義美 (翻訳) フォーカシング指向カウンセリング 2009/12 コスモス・ラブラリー
和書[編集]
村山正治・増井武士・池見陽・太田民雄・吉良安之・茂田みちえ(著) 1984 フォーカシングの理論と実際 東京:福村書店
村山正治(編) 1991 フォーカシング・セミナー 東京:福村書店
池見陽(著) 1995 講談社現代新書1241 心のメッセージを聴く:実感が語る心理学 東京:講談社
村瀬孝雄・日笠摩子・近田輝行・阿世賀浩一郎(著) 1995 フォ−カシング事始め:こころとからだにきく方法 東京:日本精神技術研究所
池見陽(編著) 秋山恵子・阿世賀浩一郎・近田輝行・岩島千河子・吉良安之・森あい子・野田悦子・妹尾光男・鈴木陽子・田村隆一(著) 1997 フォーカシングへの誘い:個人的成長と臨床に生かす「心の実感」 東京:サイエンス社
村山正治(編) 1999 現代のエスプリ382 フォ−カシング 東京:至文堂
伊藤義美(著) 2000 フォーカシングの空間づくりに関する研究 東京:風間書房
伊藤研一・阿世賀浩一郎(編) 2001 現代のエスプリ410 治療者にとってのフォ−カシング 東京:至文堂
伊藤義美(編著) 2002 フォーカシングの実践と研究 京都:ナカニシヤ出版
近田輝行(著) 2002 フォーカシングで身につけるカウンセリングの基本:クライエント中心療法を本当に役立てるために 東京:コスモス・ライブラリー
村山正治・藤中隆久(編) 2002 クライエント中心療法と体験過程療法 京都:ナカニシヤ出版
日笠摩子(著) 2003 セラピストのためのフォーカシング入門 東京::金剛出版
伊藤義美(著) 2005 フォーカシングの展開 京都:ナカニシヤ出版
村山正治(監修) 福盛英明・森川友子(編著) 2005 マンガで学ぶフォーカシング入門:からだをとおして自分の気持ちに気づく方法 東京:誠信書房
日笠摩子・近田輝行(編) 2005 フォーカシングワークブック:楽しく、やさしい、カウンセリングトレ−ニング 東京:金剛出版
土江正司 2008/10 「こころの天気を感じてごらん―子どもと親と先生に贈るフォーカシングと「甘え」の本」コスモス・ライブラリー
伊藤研一(著)・諸富祥彦(編著)2009/05 「フォーカシングの原点と臨床的展開」岩崎学術出版社 (ISBN 978-4-7533-0903-0)
諸富祥彦・末武康弘・村里忠之(著) 2009/08 「ジェンドリン哲学入門―フォーカシングの根底にあるもの―」コスモス・ライブラリー (ISBN 978-4-434-13554-5)
人間性心理学
人間性心理学(にんげんせいしんりがく、英語:humanistic psychology)とは、それまで支配的であった精神分析や行動主義とは対照的に、主体性・創造性・自己実現といった人間の肯定的側面を強調した心理学の一群の潮流のことを指して言うものである。ヒューマニスティック心理学とも呼ばれる。
提唱者であるアブラハム・マズローは、精神分析を第一勢力、行動主義を第二勢力、人間性心理学を第三勢力と位置づけた。
代表的な人間性心理学者には、前述のマズローの他、カール・ロジャーズ、ゲシュタルト療法家のフレデリック・パールズなどがおり、また、ロロ・メイや個人心理学の創始者アルフレッド・アドラーをこれに加える向きもある。
人間性心理学に属する理論・療法には、実存分析、現存在分析、マズローの自己実現理論、来談者中心療法、ゲシュタルト療法、交流分析、エンカウンターグループ、フォーカシングなどがある。
人間性心理学は、機械論的で物質主義的な傾向へ反論する精神によって生じたとされている[1]。行動主義的心理学は人間性を一面的にしか見ておらず、また、精神分析のほうは、意識の役割を軽視していたため、決定論的になりすぎていた[2]。それらへの反論として提唱された学問である。
マズローが人間性心理学を唱えた背景には、それまで第一勢力であった行動主義では人間と他の動物を区別せず、第二勢力とした精神分析では人間の病的で異常な側面を研究しており、どちらも正常で健康な人間を対象とする視点が欠如しているという思いがある[3]。
人間性心理学は、ひとりひとりを異なった独自の存在と見なすという点で、実存主義的な心理学と共通点がある[4]。異なる点は人間性心理学が自己実現(self-actualization)の活動を主眼とするのに対して、実存主義では人生の意味や死の意味に重点を置いていることである[5]。
マズローは、行動主義の強かった動物の研究から転向した基礎心理学者であり、ロジャーズは臨床の立場から人間性心理学へと向かった[6]。
それまでの心理学では、行動の原因の動機として空腹などの単純な特定の欲求を満たすような欠乏動機(deficiency motivation)に重点を置いて満足してしまっていたが、マズローはそれだけでは説明できない人間のある種の成長への欲求を存在動機(being motivation)と呼び、より高次の価値を求める人間について研究しようとしたのである[7]。現在では、マズローの自己実現理論は高校の教科書にも記述されるほど広く知られるようになっている[8]。
カール・ロジャーズは1930年代の精神分析がさかんな時代に心理療法を学び、問題をもつ子供の治療を通じて、普通の人々に施す治療法についての洞察を得た[9]。1942年の『カウンセリングと心理療法』において、それまで被治療者が「患者(patient)」と呼ばれていたのを「クライエント(client)」と呼ぶようにし、やがて療法をクライエント中心療法と呼び、クライエントの持っている自己実現傾向を強調するようになった[10]。ロジャーズは、健康的なパーソナリティを促す方法のひとつとして無条件の肯定的配慮というものを考えている。
提唱者であるアブラハム・マズローは、精神分析を第一勢力、行動主義を第二勢力、人間性心理学を第三勢力と位置づけた。
代表的な人間性心理学者には、前述のマズローの他、カール・ロジャーズ、ゲシュタルト療法家のフレデリック・パールズなどがおり、また、ロロ・メイや個人心理学の創始者アルフレッド・アドラーをこれに加える向きもある。
人間性心理学に属する理論・療法には、実存分析、現存在分析、マズローの自己実現理論、来談者中心療法、ゲシュタルト療法、交流分析、エンカウンターグループ、フォーカシングなどがある。
人間性心理学は、機械論的で物質主義的な傾向へ反論する精神によって生じたとされている[1]。行動主義的心理学は人間性を一面的にしか見ておらず、また、精神分析のほうは、意識の役割を軽視していたため、決定論的になりすぎていた[2]。それらへの反論として提唱された学問である。
マズローが人間性心理学を唱えた背景には、それまで第一勢力であった行動主義では人間と他の動物を区別せず、第二勢力とした精神分析では人間の病的で異常な側面を研究しており、どちらも正常で健康な人間を対象とする視点が欠如しているという思いがある[3]。
人間性心理学は、ひとりひとりを異なった独自の存在と見なすという点で、実存主義的な心理学と共通点がある[4]。異なる点は人間性心理学が自己実現(self-actualization)の活動を主眼とするのに対して、実存主義では人生の意味や死の意味に重点を置いていることである[5]。
マズローは、行動主義の強かった動物の研究から転向した基礎心理学者であり、ロジャーズは臨床の立場から人間性心理学へと向かった[6]。
それまでの心理学では、行動の原因の動機として空腹などの単純な特定の欲求を満たすような欠乏動機(deficiency motivation)に重点を置いて満足してしまっていたが、マズローはそれだけでは説明できない人間のある種の成長への欲求を存在動機(being motivation)と呼び、より高次の価値を求める人間について研究しようとしたのである[7]。現在では、マズローの自己実現理論は高校の教科書にも記述されるほど広く知られるようになっている[8]。
カール・ロジャーズは1930年代の精神分析がさかんな時代に心理療法を学び、問題をもつ子供の治療を通じて、普通の人々に施す治療法についての洞察を得た[9]。1942年の『カウンセリングと心理療法』において、それまで被治療者が「患者(patient)」と呼ばれていたのを「クライエント(client)」と呼ぶようにし、やがて療法をクライエント中心療法と呼び、クライエントの持っている自己実現傾向を強調するようになった[10]。ロジャーズは、健康的なパーソナリティを促す方法のひとつとして無条件の肯定的配慮というものを考えている。
トランスパーソナル心理学
トランスパーソナル心理学とは、1960年代に展開しはじめた心理学の新しい潮流で、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学。人間性心理学における自己超越の概念をさらに発展させたとされる。人間の究極的な目的とは、自己を越えた何ものかに統合されると考え、そのための精神統合の手法を開発した。
トランスパーソナル心理学の定義[編集]
Lajoie and Shapiro (1992) は、40の1969年から1991年までの記事になったトランスパーソナル心理学の定義をレビューし、各定義に共通の5つの特徴を抽出した。それは(1)意識的な状態、(2)至高または究極の潜在性、(3)自我または個人的な自己を超える点、(4)超越性(トランセンダント)、(5)スピリチュアルであること、だとした。
Walsh and Vaughan (1993)は、存在論的または方法論的に、暗黙的合意を前提としてしまっている点について、多くのトランスパーソナル心理学の定義を批判した。 また、彼らはトランスパーソナル心理学を、意識の健康な状態や、永遠の哲学にだけ結びつけようとする定義の問題点を指摘した。これらの研究者はトランスパーソナルな体験や現象に気を配るだけでなく、「これらの現象は、トランスパーソナルな経験の原因、効果や相関物、修行やそれらの影響で創り出されたものも含む。」と記している。(Walsh & Vaughan, 1993, p203).
発展の歴史[編集]
ウィリアム・ジェームズ、ジークムント・フロイト、オットー・ランク、カール・グスタフ・ユング、アブラハム・マズロー、ロベルト・アサジオリは、この領域の時代を形作る主要な人たちである。(Cowley & Derezotes, 1994; Miller, 1998; Davis, 2003). Vich (1988)の研究によると、最初の「トランスパーソナル」という言葉は、ウィリアム・ジェームズが1905-6年ハーバード大学の授業の準備のために用意したノートに見られる。この新しい学問領域を確立する有力な動機になったものは、アブラハム・マズローの至高体験に関するすでに出版されていた発表であった。マズローの研究は、1960年代の人間性回復運動から育ってきたものであり、「トランスパーソナル」という言葉が、人間性回復運動の中で、次第に、区別されるものとして認識されるようになっていった。
主な研究機関[編集]
日本国内にも、大学等で研究する研究者は存在する。
大学院レベルでトランスパーソナル心理学を専攻できる大学としては、
The Institute of Transpersonal Psychology (US) John F. Kennedy University (US) California Institute of Integral Studies (US) Saybrook Institute (US) Naropa University (US) Liverpool John Moores University (UK)
等がある。
代表的な心理学者[編集]
代表的な心理学者としては、イタリア人でフロイトの弟子の一人サイコシンセシス(精神統合)のロベルト・アサジオリ、人間性心理学でも知られ、至高体験にも焦点をあてたアブラハム・マズロー、ホロトロピック・ブレスワークを開発した精神科医のスタニスラフ・グロフなどが上げられる。
なお、現在、インテグラル思想の提唱者として活躍するアメリカの思想家・ケン・ウィルバー(KW)のトランスパーソナル運動との関りについては、注意が必要となるだろう。ウィルバーは、執筆活動の初期より、トランスパーソナル運動が内包していた諸々の構造的な問題を認識しており、数々の著作をとおして、その克服のための提言をくりかえして行ってきている。しかし、そうしたこころみにもかかわらず、トランスパーソナル運動は、Spiral Dynamics理論において"Green vMeme"と形容される価値観の構造的な限界を克服することができないままに、確実に調査・研究・実践の領域において劣化をつづけている(Wilber, 2000)。こうした状況のもと、1990年代の後半、ウィルバーは、当時Association for Transpersonal Psychology(ATP)の総監督(Executive Director)を務めていたMiles Vichの辞任を契機として、自らもATPの運営を離れて、また、トランスパーソナル運動そのものとも訣別を表明している。その意味では、ウィルバーをトランスパーソナル運動の一員としてみなすことは、もはや無理があるといえるだろう。
トランスパーソナル心理学への批判[編集]
新しい学問領域であるため、プロトサイエンスのレベルに達しているかどうかという疑問がもたれる場合もあるが、臨床では一定の効果が認められる。その点に関して、思い込めば効果はある(プラセボ)という見方もあり、それが科学かどうかとは別の論点であるという指摘がある。もともとニューエイジ思想の影響が色濃く、「自己を超えたなにものか」という領域は、再現性に乏しい上にスピリチュアリティーも扱うため宗教に近い部分もあり、そのため宗教やオカルトそのものであるとの批判がある。ユング心理学のようにオカルトあるいは疑似科学であるとの批判に対し、十分な説明がなされていないという意見が批判者の間では大勢である。
再現可能性、実験再現性、再観測可能性や、臨床試験を中心に据えた研究発表が現時点では非常に少なく、反駁不可能な領域に関しても言及しようとする傾向が強いことが、批判される一因である。
トランスパーソナル心理学の定義[編集]
Lajoie and Shapiro (1992) は、40の1969年から1991年までの記事になったトランスパーソナル心理学の定義をレビューし、各定義に共通の5つの特徴を抽出した。それは(1)意識的な状態、(2)至高または究極の潜在性、(3)自我または個人的な自己を超える点、(4)超越性(トランセンダント)、(5)スピリチュアルであること、だとした。
Walsh and Vaughan (1993)は、存在論的または方法論的に、暗黙的合意を前提としてしまっている点について、多くのトランスパーソナル心理学の定義を批判した。 また、彼らはトランスパーソナル心理学を、意識の健康な状態や、永遠の哲学にだけ結びつけようとする定義の問題点を指摘した。これらの研究者はトランスパーソナルな体験や現象に気を配るだけでなく、「これらの現象は、トランスパーソナルな経験の原因、効果や相関物、修行やそれらの影響で創り出されたものも含む。」と記している。(Walsh & Vaughan, 1993, p203).
発展の歴史[編集]
ウィリアム・ジェームズ、ジークムント・フロイト、オットー・ランク、カール・グスタフ・ユング、アブラハム・マズロー、ロベルト・アサジオリは、この領域の時代を形作る主要な人たちである。(Cowley & Derezotes, 1994; Miller, 1998; Davis, 2003). Vich (1988)の研究によると、最初の「トランスパーソナル」という言葉は、ウィリアム・ジェームズが1905-6年ハーバード大学の授業の準備のために用意したノートに見られる。この新しい学問領域を確立する有力な動機になったものは、アブラハム・マズローの至高体験に関するすでに出版されていた発表であった。マズローの研究は、1960年代の人間性回復運動から育ってきたものであり、「トランスパーソナル」という言葉が、人間性回復運動の中で、次第に、区別されるものとして認識されるようになっていった。
主な研究機関[編集]
日本国内にも、大学等で研究する研究者は存在する。
大学院レベルでトランスパーソナル心理学を専攻できる大学としては、
The Institute of Transpersonal Psychology (US) John F. Kennedy University (US) California Institute of Integral Studies (US) Saybrook Institute (US) Naropa University (US) Liverpool John Moores University (UK)
等がある。
代表的な心理学者[編集]
代表的な心理学者としては、イタリア人でフロイトの弟子の一人サイコシンセシス(精神統合)のロベルト・アサジオリ、人間性心理学でも知られ、至高体験にも焦点をあてたアブラハム・マズロー、ホロトロピック・ブレスワークを開発した精神科医のスタニスラフ・グロフなどが上げられる。
なお、現在、インテグラル思想の提唱者として活躍するアメリカの思想家・ケン・ウィルバー(KW)のトランスパーソナル運動との関りについては、注意が必要となるだろう。ウィルバーは、執筆活動の初期より、トランスパーソナル運動が内包していた諸々の構造的な問題を認識しており、数々の著作をとおして、その克服のための提言をくりかえして行ってきている。しかし、そうしたこころみにもかかわらず、トランスパーソナル運動は、Spiral Dynamics理論において"Green vMeme"と形容される価値観の構造的な限界を克服することができないままに、確実に調査・研究・実践の領域において劣化をつづけている(Wilber, 2000)。こうした状況のもと、1990年代の後半、ウィルバーは、当時Association for Transpersonal Psychology(ATP)の総監督(Executive Director)を務めていたMiles Vichの辞任を契機として、自らもATPの運営を離れて、また、トランスパーソナル運動そのものとも訣別を表明している。その意味では、ウィルバーをトランスパーソナル運動の一員としてみなすことは、もはや無理があるといえるだろう。
トランスパーソナル心理学への批判[編集]
新しい学問領域であるため、プロトサイエンスのレベルに達しているかどうかという疑問がもたれる場合もあるが、臨床では一定の効果が認められる。その点に関して、思い込めば効果はある(プラセボ)という見方もあり、それが科学かどうかとは別の論点であるという指摘がある。もともとニューエイジ思想の影響が色濃く、「自己を超えたなにものか」という領域は、再現性に乏しい上にスピリチュアリティーも扱うため宗教に近い部分もあり、そのため宗教やオカルトそのものであるとの批判がある。ユング心理学のようにオカルトあるいは疑似科学であるとの批判に対し、十分な説明がなされていないという意見が批判者の間では大勢である。
再現可能性、実験再現性、再観測可能性や、臨床試験を中心に据えた研究発表が現時点では非常に少なく、反駁不可能な領域に関しても言及しようとする傾向が強いことが、批判される一因である。
無意識
無意識(むいしき、独: Unterbewusstsein, das Unbewusste、英: subconscious または英: unconscious ※現在は「意識を失う(to be unconscious)」との誤解を避ける為に「subconscious」が使われるようになった)には、大きく以下の二つの意味または使用法がある。
「意識がない」状態。(通常の心理学や精神医学での用法)
心のなかの「意識でない」領域。(ジークムント・フロイトが提唱した精神分析学や、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学での用法)
名称[編集]
ユングはフリードリヒ・シェリング(対象化された自己意識を「無意識」(独: Unbewusstsein 意識でないもの、独: Bewusstlosigkeit 意識を欠いた状態)とした)が西洋における無意識の発見者であるとしている。無意識の領域を、簡単な表現で、「無意識(独: Unbewusste、英: the unconscious)」とも呼ぶ(ここでいう「無意識」は、「意識されていない心(英: unconscious mind)」などとは異なる概念である)。 ちなみに、AD4世紀頃現れた仏教の唯識思想、「唯識三十頌」では、前五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と言う意識のほかに無意識とも解釈できる末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という二つの深層意識層を想定した。(八識説)
意識の存在[編集]
無意識とは何かということは、その前提に、意識とは何かということの了解がなければならない。「意識」とは、人間一般において、「わたしが意識していると、意識しているとき、自明的に存在了解される何か」であるとされる(デカルトの「我思う、ゆえに我あり」。哲学の分野では長い間、意識と自我は同一視された)。
このように意識は、主観的に把握されてきたが、近代に成立した科学がその研究対象とするには、客観的な規定としては適切ではなく、曖昧であり、かつ定量的把握も困難であった。そのため心の学である心理学においても、心や魂、あるいは意識は科学的に定義されないとして、刺激と反応で心理学を築こうとした行動主義心理学などが出現した。現在でも心の概念と同様、意識の概念も主観的に把握されるものに過ぎず、その存在を客観的に把握するのが難しいものであると考える心理学派もある。
しかし、科学的対象として客観的把握が困難であるとしても、「意識を意識する者には、意識の存在は自明である」という命題もまた真理であると考えられることから(主観的把握)、科学的客観的には観察されないにしろ、心の概念と同じように意識の概念も存在していると最初から前提している心理学も多い。少なくとも一般人は意識が無いとは考える人は少ない。そのため科学的に証明されていなくても、意識は自明のものとして扱われたりしているのが現状である。もちろん意識もまた存在しないと考える学派もあり、確定していないのが現状である。
無意識の存在[編集]
無意識の意味1[編集]
記憶 意識状態[要出典]
覚醒状態 深睡眠
短期記憶
作動記憶
長期記憶 有意識 無意識
意識喪失
フリンジ
長期記憶
深層意識
深層意識
無意識は、「意識がない状態」と「心のなかの意識でない或る領域」の二つの主要な意味がある。
「意識がない 独: unbewusst, bewusstlos, 英: unconscious」とは、強い意味だと、大脳の働きがほとんどない状態を意味する。しかし大脳の働きは、人間が生きている限り、完全に停止するということはなく、「ほとんどない」とはどこまでないことなのか、客観的な基準が曖昧である。
他方、弱い意味で「意識がない」という場合は、「気づかない」という意味でもある。例えば、音楽を聞きながら本を読んでいると、最初は本の文章の内容と、音楽の両方が意識される。しかし、読書に集中していて、ふと何かで中断されると、「音楽が急に聞こえて来る」ということがある。音楽はずっと鳴っていたのであるが、読書に集中していたため、音楽の進行に「気づかなく」なっていたのである。
人間は時間のなかで、非常に多数の感覚刺激や意味の刺激を受け、その多くを意識している。しかし、「意識していない・気づいていない」感覚刺激や意味の刺激で、大脳は感受し、記憶に刻んでいるものは、もっと膨大な量が存在する。記憶に関する心理学の実験からそのことが言える。
意識と記憶[編集]
人間は様々なものを意識するが、目前、あるいは「いまここの感覚的・意味的刺激のパターン」以外で、「意識するもの」は、広義の「記憶」である。記憶の再生は、ある言葉や知識などが再現されることもあるが、また内的なイメージの形で、過去の情景(視覚的・聴覚的等)が思い出されることもある。
記憶は日常的に再現されており、複雑な手順を必要とする作業でも、その一々の手順を「意識しない」で、機械的に遂行することが可能である。例えば、複雑な漢字を書く場合、どの線を引いて、次はどの線をどこにどう書き加えてなどと、一々記憶を辿って書いている訳ではない(参考:手続き記憶)。
「記憶を想起しているという意識」なしで、非常に多くのことが、この現在に想起され、イメージや感情や意味で構成される「意識の流れ」が持続している。
しかし、その他方で、何かを思い出そうとして、確かに知っているはずなのに、どうしても思い出せないというようなケースが存在し、このとき、意識の滑らかな流れは滞り、記憶を再生しようとする努力が意識に昇る。
思い出そうとして、努力などが必要な記憶は、「滑らかに流れて行く意識の領域」には、想起が成功するまでは、存在しなかったことになる。では、そのような記憶はどこにあったのか。無論、大脳の神経細胞の構造関係のパターンのなかに存在していたのであるが、主観的な経験としては、そのような記憶は、「現在の意識領域」の外、「前意識」と呼ばれる領域にあったとされる。
無意識の意味2[編集]
日常的に流れて行く意識のなかでは、様々な「意識の対象」が存在している。この現在の意識の対象は、現前している感覚・意味・感情等のパターンであるが、また、滞りのない自然な、「気づくことなく」想起されている記憶の内容が、その対象である。
「意識」という言葉自体が、「覚醒意識がある」、「何かに気づいている」という通常の意味以外に、主体が意識している「対象の総体」が存在している「領域」の意味を持っている。何かを「意識している」、または、何かに「気づく」とは、対象が、「意識の領域」に入って来ること、意識に昇って来ることを意味するとも言える。
人間は一生のなかで、膨大な量の記憶を大脳の生理学的な機構に刻む。そのなかで、再度、記憶として意識に再生されるものもあるが、大部分の記憶は、再生されないで、大脳の記憶の貯蔵機構のなかで維持されている。
このような膨大な記憶は、個々ばらばらに孤島の集団のように存在しているのではなく、連想が記憶の想起を促進することから明らかなように、感覚的あるいは意味的・感情的に、連関構造やグループ構造を持っている。そして、このような構造のなかで記憶に刻まれている限りは、いかなる記憶であっても、再生、想起される可能性は完全なゼロではないことになる。
人の一生にあって、再度、想起される可能性がゼロではないにしても、事実上、一生涯において二度と「意識の領域」に昇って来ない、膨大な量の記憶が存在する。主観的に眺めるとき、一生涯で、二度と想起されないこのような記憶は、「意識の外の領域」に存在すると表現するのが妥当である。
「意識の外」と言っても、科学的には、大脳の神経細胞ネットワークのどこかに刻まれているのであり、「意識の外」とは、主観にとって、現象的に「意識でない領域」に、膨大な記憶が存在するという意味である。このような、「意識でない領域」が、無意識の第二の意味となる。
無意識の存在[編集]
記憶 意識領域[要出典]
精神分析学 分析心理学
短期記憶
作動記憶 意識 意識
長期記憶 前意識 前意識
深層
長期記憶
深層構造 無意識 個人的
無意識
(未定義) 集合的
無意識
意識が対象とするものは、記憶だけではない。また記憶は、何らかの意味で「構造化」されており、「無意識の領域」の膨大な記憶がどのように構造化されているのかということも問題である。
人間には経験や学習によって得た記憶・知識以外に、生得的または先天的に備えていたとしか言えない「知識」や「構造」が存在する。その一つの例は、「人間の言語」であり、人間の言語は、現在の知見では、人間しか完全には駆使できない。ノーム・チョムスキーの生成文法は、人間の大脳に、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっていることを主張している。
子供は成長過程で、有限数の単語を記憶する。単語は、単語が現れる文章文脈と共に記憶される。しかし、子供の言語生成能力は、それまで聞いたことのない文章、従って、記憶には存在しない文章を言葉として話すというところにある。「記憶したことのない文章」を子供が話すということは、それは記憶ではないのであり、それではどこからこのような文章が湧出するのか。
それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと言える。チョムスキーの考えた普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する整序構造である。言語の自然な生成、言語の流れの生成は、意識の外で、すなわち意識の深層、無意識の領域で、言葉と意味をめぐる整序が行われているということを意味する(生成文法では、無意識とか深層意識という表現を後に避けたが、言語の先天的な構造性の主張に変化はない)。
このように、意識の領域に現れる訳ではないが、意識の外の領域、すなわち無意識の領域に記憶や知識や構造が存在し、このような記憶や構造が、意識の内容や、そのありように影響を及ぼしているという事実は、仮説ではなく、科学的に実証される事実である。脳が無ければ言語は存在しないのであるから。
とはいえ、「無意識」という用語は、定義が曖昧で、通俗性が高く、恣意的な意味で使用される危険性が大きい。[要出典]現在では、精神分析学に対する批判も含めて、「無意識」という言葉・概念を使用することに対する消極的な傾向が存在する。[要出典]
深層心理学理論と無意識[編集]
フロイトの抑圧する無意識
深層心理学の理論の代表とも言えるジークムント・フロイトの提唱した精神分析学では、無意識に抑圧の構造を仮定し、このような構造において、神経症が発症するとして、その治療法の理論を展開した。(批判:「抑圧する無意識」は実証できない)。
また、精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した。例えば癖や一見偶発的に見える言い誤りに対し、本人は後に説明を試みる(合理化)が、客観的に辻褄の合わない場合も多々あるためそこに個人的な抑圧構造を見られるとした。これはユングの言語連想法にも受け継がれている。
ユングの自己実現の無意識
分析心理学を提唱したカール・グスタフ・ユングは、「自我である私」が「なにゆえ私である」のかを問うた。「私である意味」は、魂の完全性、円球的完全性の実現にあると考えた。無意識は、自我を自己(ゼルプスト)すなわち「神」へと高めて行く構造を持つと仮定した。(批判:「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない)。
分析心理学は、「神話の意味」、「死と生の意味」などを思想的に解明するに有効であった。ユング自身は、科学理論として慎重に理論を構成したが、それは表層構造において、容易に、宗教やオカルトに転用可能な理論であった。
広義の無意識[編集]
「意識でない領域」に関しては、様々な解釈が行われている。催眠状態での意識状態や、宗教的な儀式や薬物摂取で生じる「変性意識(変成意識)」なども、通常の意識でない状態である。
また、このような広義の変成意識などの他に、サブリミナルなどの「意識でない状態・領域」が考えられてきた。「意識でない領域」の存在は確実であるとしても、主観的に把握されるそのような領域について、客観的な記述や説明が行えるかというと困難である。
フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
しかし、無限定に無意識を述べることは、個々人の主観的な把握になり、またトランスパーソナル心理学における無意識もそうであるが、あまりに仮説的要素の大きい無意識は、実証性がますます困難であり、疑問となる。サブリミナルも、何を意味する概念なのか、不確定要素が多すぎる。主観的要素や解釈があまりに大きなそのような言葉の用法や概念については、疑問があると言うべきである。
「意識がない」状態。(通常の心理学や精神医学での用法)
心のなかの「意識でない」領域。(ジークムント・フロイトが提唱した精神分析学や、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学での用法)
名称[編集]
ユングはフリードリヒ・シェリング(対象化された自己意識を「無意識」(独: Unbewusstsein 意識でないもの、独: Bewusstlosigkeit 意識を欠いた状態)とした)が西洋における無意識の発見者であるとしている。無意識の領域を、簡単な表現で、「無意識(独: Unbewusste、英: the unconscious)」とも呼ぶ(ここでいう「無意識」は、「意識されていない心(英: unconscious mind)」などとは異なる概念である)。 ちなみに、AD4世紀頃現れた仏教の唯識思想、「唯識三十頌」では、前五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と言う意識のほかに無意識とも解釈できる末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という二つの深層意識層を想定した。(八識説)
意識の存在[編集]
無意識とは何かということは、その前提に、意識とは何かということの了解がなければならない。「意識」とは、人間一般において、「わたしが意識していると、意識しているとき、自明的に存在了解される何か」であるとされる(デカルトの「我思う、ゆえに我あり」。哲学の分野では長い間、意識と自我は同一視された)。
このように意識は、主観的に把握されてきたが、近代に成立した科学がその研究対象とするには、客観的な規定としては適切ではなく、曖昧であり、かつ定量的把握も困難であった。そのため心の学である心理学においても、心や魂、あるいは意識は科学的に定義されないとして、刺激と反応で心理学を築こうとした行動主義心理学などが出現した。現在でも心の概念と同様、意識の概念も主観的に把握されるものに過ぎず、その存在を客観的に把握するのが難しいものであると考える心理学派もある。
しかし、科学的対象として客観的把握が困難であるとしても、「意識を意識する者には、意識の存在は自明である」という命題もまた真理であると考えられることから(主観的把握)、科学的客観的には観察されないにしろ、心の概念と同じように意識の概念も存在していると最初から前提している心理学も多い。少なくとも一般人は意識が無いとは考える人は少ない。そのため科学的に証明されていなくても、意識は自明のものとして扱われたりしているのが現状である。もちろん意識もまた存在しないと考える学派もあり、確定していないのが現状である。
無意識の存在[編集]
無意識の意味1[編集]
記憶 意識状態[要出典]
覚醒状態 深睡眠
短期記憶
作動記憶
長期記憶 有意識 無意識
意識喪失
フリンジ
長期記憶
深層意識
深層意識
無意識は、「意識がない状態」と「心のなかの意識でない或る領域」の二つの主要な意味がある。
「意識がない 独: unbewusst, bewusstlos, 英: unconscious」とは、強い意味だと、大脳の働きがほとんどない状態を意味する。しかし大脳の働きは、人間が生きている限り、完全に停止するということはなく、「ほとんどない」とはどこまでないことなのか、客観的な基準が曖昧である。
他方、弱い意味で「意識がない」という場合は、「気づかない」という意味でもある。例えば、音楽を聞きながら本を読んでいると、最初は本の文章の内容と、音楽の両方が意識される。しかし、読書に集中していて、ふと何かで中断されると、「音楽が急に聞こえて来る」ということがある。音楽はずっと鳴っていたのであるが、読書に集中していたため、音楽の進行に「気づかなく」なっていたのである。
人間は時間のなかで、非常に多数の感覚刺激や意味の刺激を受け、その多くを意識している。しかし、「意識していない・気づいていない」感覚刺激や意味の刺激で、大脳は感受し、記憶に刻んでいるものは、もっと膨大な量が存在する。記憶に関する心理学の実験からそのことが言える。
意識と記憶[編集]
人間は様々なものを意識するが、目前、あるいは「いまここの感覚的・意味的刺激のパターン」以外で、「意識するもの」は、広義の「記憶」である。記憶の再生は、ある言葉や知識などが再現されることもあるが、また内的なイメージの形で、過去の情景(視覚的・聴覚的等)が思い出されることもある。
記憶は日常的に再現されており、複雑な手順を必要とする作業でも、その一々の手順を「意識しない」で、機械的に遂行することが可能である。例えば、複雑な漢字を書く場合、どの線を引いて、次はどの線をどこにどう書き加えてなどと、一々記憶を辿って書いている訳ではない(参考:手続き記憶)。
「記憶を想起しているという意識」なしで、非常に多くのことが、この現在に想起され、イメージや感情や意味で構成される「意識の流れ」が持続している。
しかし、その他方で、何かを思い出そうとして、確かに知っているはずなのに、どうしても思い出せないというようなケースが存在し、このとき、意識の滑らかな流れは滞り、記憶を再生しようとする努力が意識に昇る。
思い出そうとして、努力などが必要な記憶は、「滑らかに流れて行く意識の領域」には、想起が成功するまでは、存在しなかったことになる。では、そのような記憶はどこにあったのか。無論、大脳の神経細胞の構造関係のパターンのなかに存在していたのであるが、主観的な経験としては、そのような記憶は、「現在の意識領域」の外、「前意識」と呼ばれる領域にあったとされる。
無意識の意味2[編集]
日常的に流れて行く意識のなかでは、様々な「意識の対象」が存在している。この現在の意識の対象は、現前している感覚・意味・感情等のパターンであるが、また、滞りのない自然な、「気づくことなく」想起されている記憶の内容が、その対象である。
「意識」という言葉自体が、「覚醒意識がある」、「何かに気づいている」という通常の意味以外に、主体が意識している「対象の総体」が存在している「領域」の意味を持っている。何かを「意識している」、または、何かに「気づく」とは、対象が、「意識の領域」に入って来ること、意識に昇って来ることを意味するとも言える。
人間は一生のなかで、膨大な量の記憶を大脳の生理学的な機構に刻む。そのなかで、再度、記憶として意識に再生されるものもあるが、大部分の記憶は、再生されないで、大脳の記憶の貯蔵機構のなかで維持されている。
このような膨大な記憶は、個々ばらばらに孤島の集団のように存在しているのではなく、連想が記憶の想起を促進することから明らかなように、感覚的あるいは意味的・感情的に、連関構造やグループ構造を持っている。そして、このような構造のなかで記憶に刻まれている限りは、いかなる記憶であっても、再生、想起される可能性は完全なゼロではないことになる。
人の一生にあって、再度、想起される可能性がゼロではないにしても、事実上、一生涯において二度と「意識の領域」に昇って来ない、膨大な量の記憶が存在する。主観的に眺めるとき、一生涯で、二度と想起されないこのような記憶は、「意識の外の領域」に存在すると表現するのが妥当である。
「意識の外」と言っても、科学的には、大脳の神経細胞ネットワークのどこかに刻まれているのであり、「意識の外」とは、主観にとって、現象的に「意識でない領域」に、膨大な記憶が存在するという意味である。このような、「意識でない領域」が、無意識の第二の意味となる。
無意識の存在[編集]
記憶 意識領域[要出典]
精神分析学 分析心理学
短期記憶
作動記憶 意識 意識
長期記憶 前意識 前意識
深層
長期記憶
深層構造 無意識 個人的
無意識
(未定義) 集合的
無意識
意識が対象とするものは、記憶だけではない。また記憶は、何らかの意味で「構造化」されており、「無意識の領域」の膨大な記憶がどのように構造化されているのかということも問題である。
人間には経験や学習によって得た記憶・知識以外に、生得的または先天的に備えていたとしか言えない「知識」や「構造」が存在する。その一つの例は、「人間の言語」であり、人間の言語は、現在の知見では、人間しか完全には駆使できない。ノーム・チョムスキーの生成文法は、人間の大脳に、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっていることを主張している。
子供は成長過程で、有限数の単語を記憶する。単語は、単語が現れる文章文脈と共に記憶される。しかし、子供の言語生成能力は、それまで聞いたことのない文章、従って、記憶には存在しない文章を言葉として話すというところにある。「記憶したことのない文章」を子供が話すということは、それは記憶ではないのであり、それではどこからこのような文章が湧出するのか。
それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと言える。チョムスキーの考えた普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する整序構造である。言語の自然な生成、言語の流れの生成は、意識の外で、すなわち意識の深層、無意識の領域で、言葉と意味をめぐる整序が行われているということを意味する(生成文法では、無意識とか深層意識という表現を後に避けたが、言語の先天的な構造性の主張に変化はない)。
このように、意識の領域に現れる訳ではないが、意識の外の領域、すなわち無意識の領域に記憶や知識や構造が存在し、このような記憶や構造が、意識の内容や、そのありように影響を及ぼしているという事実は、仮説ではなく、科学的に実証される事実である。脳が無ければ言語は存在しないのであるから。
とはいえ、「無意識」という用語は、定義が曖昧で、通俗性が高く、恣意的な意味で使用される危険性が大きい。[要出典]現在では、精神分析学に対する批判も含めて、「無意識」という言葉・概念を使用することに対する消極的な傾向が存在する。[要出典]
深層心理学理論と無意識[編集]
フロイトの抑圧する無意識
深層心理学の理論の代表とも言えるジークムント・フロイトの提唱した精神分析学では、無意識に抑圧の構造を仮定し、このような構造において、神経症が発症するとして、その治療法の理論を展開した。(批判:「抑圧する無意識」は実証できない)。
また、精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した。例えば癖や一見偶発的に見える言い誤りに対し、本人は後に説明を試みる(合理化)が、客観的に辻褄の合わない場合も多々あるためそこに個人的な抑圧構造を見られるとした。これはユングの言語連想法にも受け継がれている。
ユングの自己実現の無意識
分析心理学を提唱したカール・グスタフ・ユングは、「自我である私」が「なにゆえ私である」のかを問うた。「私である意味」は、魂の完全性、円球的完全性の実現にあると考えた。無意識は、自我を自己(ゼルプスト)すなわち「神」へと高めて行く構造を持つと仮定した。(批判:「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない)。
分析心理学は、「神話の意味」、「死と生の意味」などを思想的に解明するに有効であった。ユング自身は、科学理論として慎重に理論を構成したが、それは表層構造において、容易に、宗教やオカルトに転用可能な理論であった。
広義の無意識[編集]
「意識でない領域」に関しては、様々な解釈が行われている。催眠状態での意識状態や、宗教的な儀式や薬物摂取で生じる「変性意識(変成意識)」なども、通常の意識でない状態である。
また、このような広義の変成意識などの他に、サブリミナルなどの「意識でない状態・領域」が考えられてきた。「意識でない領域」の存在は確実であるとしても、主観的に把握されるそのような領域について、客観的な記述や説明が行えるかというと困難である。
フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
しかし、無限定に無意識を述べることは、個々人の主観的な把握になり、またトランスパーソナル心理学における無意識もそうであるが、あまりに仮説的要素の大きい無意識は、実証性がますます困難であり、疑問となる。サブリミナルも、何を意味する概念なのか、不確定要素が多すぎる。主観的要素や解釈があまりに大きなそのような言葉の用法や概念については、疑問があると言うべきである。
Personal unconscious
In analytical psychology, the personal unconscious is Carl Jung's term for the Freudian with the collective unconscious. Often referred to by him as "No man’s land," the personal unconscious is located at the fringe of consciousness, between two worlds: "the exterior or spacial world and the interior or psychic objective world" (Ellenberger, 707). As Charles Baudouin states, "That the unconscious extends so far beyond consciousness is simply the counterpart of the fact that the exterior world extends so far beyond our visual field" (Ellenberger, 707).
The personal unconscious includes anything which is not presently conscious, but can be. The personal unconscious is made up essentially of contents which have at one time been conscious but have disappeared from consciousness through having been forgotten or repressed. The personal unconscious is like most people's understanding of the unconscious in that it includes both memories that are easily brought to mind and those that have been suppressed for some reason. Jung's theory of a personal unconscious is quite similar to Freuds creation of a region containing a person's repressed, forgotten or ignored experiences. However, Jung considered the personal unconscious to be a "more or less superficial layer of the unconscious." Within the personal unconscious is what he called "feeling-toned complexes." He said that "they constitute the personal and private side of psychic life."
The personal unconscious includes anything which is not presently conscious, but can be. The personal unconscious is made up essentially of contents which have at one time been conscious but have disappeared from consciousness through having been forgotten or repressed. The personal unconscious is like most people's understanding of the unconscious in that it includes both memories that are easily brought to mind and those that have been suppressed for some reason. Jung's theory of a personal unconscious is quite similar to Freuds creation of a region containing a person's repressed, forgotten or ignored experiences. However, Jung considered the personal unconscious to be a "more or less superficial layer of the unconscious." Within the personal unconscious is what he called "feeling-toned complexes." He said that "they constitute the personal and private side of psychic life."
個人的無意識
個人的無意識(こじんてきむいしき)とは、個々の人間に固有な無意識であり、集合的無意識の対語である。個人の人生の過程と関連した不快な記憶や情動、感情を混乱させる幼児期の外傷体験や原始的な本能を抑圧する領域である。個人の自我を種々の不快な記憶や苦痛な刺激となる欲求から防衛する機能を持っている。
Collective unconscious
Collective unconscious
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Illustration of the structure of Hell according to Dante Alighieri's Divine Comedy. By Sandro Botticelli (1480 ou 1495). According to Carl Gustav Jung, hell represents, among every culture, the disturbing aspect of the collective unconscious.
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Collective unconscious is a term of analytical psychology, coined by Carl Jung. It is proposed to be a part of the unconscious mind, expressed in humanity and all life forms with nervous systems, and describes how the structure of the psyche autonomously organizes experience. Jung distinguished the collective unconscious from the personal unconscious, in that the personal unconscious is a personal reservoir of experience unique to each individual, while the collective unconscious collects and organizes those personal experiences in a similar way with each member of a particular species.
Contents [hide]
1 Jung's definitions 1.1 Archetypes and collective representations
2 Minimal/maximal interpretations
3 See also
4 References
5 Further reading
6 External links
Jung's definitions[edit]
For Jung, “My thesis then, is as follows: in addition to our immediate consciousness, which is of a thoroughly personal nature and which we believe to be the only empirical psyche (even if we tack on the personal unconscious as an appendix), there exists a second psychic system of a collective, universal, and impersonal nature which is identical in all individuals. This collective unconscious does not develop individually but is inherited. It consists of pre-existent forms, the archetypes, which can only become conscious secondarily and which give definite form to certain psychic contents.”[1]
Jung linked the collective unconscious to 'what Freud called "archaic remnants" - mental forms whose presence cannot be explained by anything in the individual's own life and which seem to be aboriginal, innate, and inherited shapes of the human mind'.[2]
Archetypes and collective representations[edit]
Jung considered that 'the shadow' and the anima/animus differ from the other archetypes in the fact that their content is more directly related to the individual's personal situation',[3] and less to the collective unconscious: by contrast, 'the collective unconscious is personified as a Wise Old Man'.[4]
Jung also made reference to contents of this category of the unconscious psyche as being similar to Levy-Bruhl's use of collective representations or "représentations collectives," Mythological "motifs," Hubert and Mauss's "categories of the imagination," and Adolf Bastian's "primordial thoughts."
Minimal/maximal interpretations[edit]
In a minimalist interpretation of what would then appear as 'Jung's much misunderstood idea of the collective unconscious', his idea was 'simply that certain structures and predispositions of the unconscious are common to all of us...[on] an inherited, species-specific, genetic basis'.[5] Thus 'one could as easily speak of the "collective arm" - meaning the basic pattern of bones and muscles which all human arms share in common'.[6]
Others point out however that 'there does seem to be a basic ambiguity in Jung's various descriptions of the Collective Unconscious. Sometimes he seems to regard the predisposition to experience certain images as understandable in terms of some genetic model'[7] - as with the collective arm. However, Jung was 'also at pains to stress the numinous quality of these experiences, and there can be no doubt that he was attracted to the idea that the archetypes afford evidence of some communion with some divine or world mind', and perhaps 'his popularity as a thinker derives precisely from this'[8] - the maximal interpretation.
Marie-Louise von Franz accepted that 'it is naturally very tempting to identify the hypothesis of the collective unconscious historically and regressively with the ancient idea of an all-extensive world-soul'.[9] New Age writer Healy goes further, claiming that Jung himself 'dared to suggest that the human mind could link to ideas and motivations called the collective unconscious...a body of unconscious energy that lives forever'.[10] This is the idea of monopsychism.
See also[edit]
Collective consciousness (sociology)
Collective memory
Depth psychology
Evolutionary psychology
Hippocampus
Precognition
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Illustration of the structure of Hell according to Dante Alighieri's Divine Comedy. By Sandro Botticelli (1480 ou 1495). According to Carl Gustav Jung, hell represents, among every culture, the disturbing aspect of the collective unconscious.
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Collective unconscious is a term of analytical psychology, coined by Carl Jung. It is proposed to be a part of the unconscious mind, expressed in humanity and all life forms with nervous systems, and describes how the structure of the psyche autonomously organizes experience. Jung distinguished the collective unconscious from the personal unconscious, in that the personal unconscious is a personal reservoir of experience unique to each individual, while the collective unconscious collects and organizes those personal experiences in a similar way with each member of a particular species.
Contents [hide]
1 Jung's definitions 1.1 Archetypes and collective representations
2 Minimal/maximal interpretations
3 See also
4 References
5 Further reading
6 External links
Jung's definitions[edit]
For Jung, “My thesis then, is as follows: in addition to our immediate consciousness, which is of a thoroughly personal nature and which we believe to be the only empirical psyche (even if we tack on the personal unconscious as an appendix), there exists a second psychic system of a collective, universal, and impersonal nature which is identical in all individuals. This collective unconscious does not develop individually but is inherited. It consists of pre-existent forms, the archetypes, which can only become conscious secondarily and which give definite form to certain psychic contents.”[1]
Jung linked the collective unconscious to 'what Freud called "archaic remnants" - mental forms whose presence cannot be explained by anything in the individual's own life and which seem to be aboriginal, innate, and inherited shapes of the human mind'.[2]
Archetypes and collective representations[edit]
Jung considered that 'the shadow' and the anima/animus differ from the other archetypes in the fact that their content is more directly related to the individual's personal situation',[3] and less to the collective unconscious: by contrast, 'the collective unconscious is personified as a Wise Old Man'.[4]
Jung also made reference to contents of this category of the unconscious psyche as being similar to Levy-Bruhl's use of collective representations or "représentations collectives," Mythological "motifs," Hubert and Mauss's "categories of the imagination," and Adolf Bastian's "primordial thoughts."
Minimal/maximal interpretations[edit]
In a minimalist interpretation of what would then appear as 'Jung's much misunderstood idea of the collective unconscious', his idea was 'simply that certain structures and predispositions of the unconscious are common to all of us...[on] an inherited, species-specific, genetic basis'.[5] Thus 'one could as easily speak of the "collective arm" - meaning the basic pattern of bones and muscles which all human arms share in common'.[6]
Others point out however that 'there does seem to be a basic ambiguity in Jung's various descriptions of the Collective Unconscious. Sometimes he seems to regard the predisposition to experience certain images as understandable in terms of some genetic model'[7] - as with the collective arm. However, Jung was 'also at pains to stress the numinous quality of these experiences, and there can be no doubt that he was attracted to the idea that the archetypes afford evidence of some communion with some divine or world mind', and perhaps 'his popularity as a thinker derives precisely from this'[8] - the maximal interpretation.
Marie-Louise von Franz accepted that 'it is naturally very tempting to identify the hypothesis of the collective unconscious historically and regressively with the ancient idea of an all-extensive world-soul'.[9] New Age writer Healy goes further, claiming that Jung himself 'dared to suggest that the human mind could link to ideas and motivations called the collective unconscious...a body of unconscious energy that lives forever'.[10] This is the idea of monopsychism.
See also[edit]
Collective consciousness (sociology)
Collective memory
Depth psychology
Evolutionary psychology
Hippocampus
Precognition