5月24日の土曜日のことです。奈良県の飛鳥資料館でキトラ古墳壁画展が開催されていましたので、午前中に出かけました。資料館に到着したのが11時頃。しかし、入館者が多く、3時間半ほど待たないと観れないとの事でした。残念ですが、諦めることにしました。
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折角奈良まで来たのだからと思い、訪れたのが壷阪寺です。南に桜の名所吉野山を控え、北に万葉のふるさと大和三山奈良盆地を一望におさめる壷阪の山の上に建ちます。
壷阪寺は、大宝三(703)年に元興寺の弁基上人がこの山で修業していたところ、愛用の水晶の壷を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んでまつったのが始まりと言われています。
壺阪寺は西国三十三ヶ所観音霊場の第六番札所で正式には真言宗壺阪山南法華寺といいます。養老元(717)年に元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜リました。
礼堂に続く本堂八角円堂のご本尊は、十一面観音菩薩です。胸の前に手を合わせ、法力を湛えた姿で衆生救済への力強さを感じさせます。特に眼病の観音様、目の観音様として、広く信仰を集めてきました。
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さて、失明回復祈願にまつわる夫婦愛を描いたお里・沢市の物語について記します。
本尊の十一面観音の霊験を記した「壺坂寺由来記」があります。この由来記を基にした作者不明の浄瑠璃が「壷坂霊場記」で、それに補綴を加えたのが「壺坂霊験記」です。この浄瑠璃は明治八(1875)年の頃の作とされ、巷で大きな共感を呼んだそうです。その後、歌舞伎に移されたのが明治二十一(1888)年の頃です。
歌舞伎の「壷坂霊験記」のストーリーは以下のようなものです。
江戸時代の寛文(1661年〜73年)の頃、盲目の沢市はお里と壷阪寺の近くに所帯を持っていました。妻のお里は大変な美人で、夫の沢市を深く愛していました。
ですから、お里はなんとかして、沢市の眼病を治そうと壷阪寺の観音様に夜毎お参りするのでした。
それを知らぬ沢市は、夜な夜なお里が家を離れるので、自分をさしおいて不倫でもしているに違いないと邪推します。
ある夜、沢市はお里の後をつけていきます。すると不倫どころか、お里は沢市のために壷阪まいりをしているではありませんか。なんという愚かな邪推をしてしまったのかと沢市は詫びます。そして、それが恥ずかしくて沢市は近くの谷に身を投げてしまうのです。
お里も悲しんで後を追って身を投げます。この夫婦愛に感じた観音様が二人の命を助け、沢市の目も開くのです。
「壺坂霊験記」はただこれだけの単純な物語です。神仏を信心すれば神仏の通力によって霊験があるというストーリーは宣伝めいています。似たようなご利益話は壺阪寺に限らず他にもある筈です。しかし、このような物語は単純ながらも浄瑠璃や歌舞伎、そして演歌などへと受け継がれ、人々の心を捉えてはなさないのです。そこに日本人の心を見る想いがするのです。
みっちゃんの名で親しまれれる中村美律子さん。この名演歌歌手は、全国的な知名度はともかく、関西においては絶大な人気を博します。「壷坂情話」は彼女の代表作の一つです。
今夜も何処かのカラオケで誰かがマイクを握っている、そして「壷坂情話」を歌っている・・・。夜の帳が下り酒がまわる頃、私はその様なことを思い浮かべるのです。
てm
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