所用があり、大阪・天満橋に出かけた。
事を済ませ、街なかを散策しているうちに目に留まったのが永田屋昆布本店。
店頭にスタンドが設けられ、そこに並べられているものがある。手にとってみると、「八軒家の今昔〜熊野街道のはじまり〜」と題した小冊子だった。
永田屋の主人が自費制作し、無料で配布しているとのことである。主人からその経緯を直接伺いたかったが、店員さんとの短い会話の後、小冊子をいただくことにした。
因みに、店頭のすぐ右側に、大阪市顕彰史跡としての八軒家船着場石碑があリ、「八軒家船着場の跡」と刻まれている。
小冊子の中から一部を抜粋し、紹介する。
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このあたりは、上町台地の先端で、縄文時代は台地より東側は生駒山麓まで「河内潟」と呼ばれた内海で、「チヌの海」と呼ばれた大阪湾とは上町台地の先端でつながり、潮の流れが速く、ここから「浪速」の呼び名が生まれたといわれる。
弥生時代には海退と淀川と大和川の堆積で「河内潟」は「河内湖」から「河内平野」になり、仁徳天皇が淀川と大和川の合流地を改修しこのあたりは「難波掘江」と呼ばれた。古代の国際交流の港「難波津」の発祥地である。
飛鳥、奈良時代には国際交易も盛んで「難波堀江」の両岸には寺や貴族の荘が集まり、倉が建ち並び、また外国使節のための客館「難波館」の施設があった。行基がかけた「難波ノ橋」もこの辺りにあった。
平安時代には「渡辺ノ津」と呼ばれ、紀州熊野詣での上陸地であった。
豊臣時代には天神橋・天満橋がかけられた。
江戸時代には「八軒家」と呼ばれ、淀川を上がり下りの三十石船の発着場で賑わった場所である。
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この小冊子には、安藤広重の「八軒家船着場の図」や「淀川三十石船の図」、歌川國員の「八軒家夕景」や「天満ばし風景」など、当時の様子が描かれたヴィジュアル資料もふんだんに盛り込まれている。
小冊子は店の宣伝も兼ねているのだろう。それにしても、コンパクトながら内容が濃く、上手に纏められている。自分が帰属する地域社会の誇りを伝えたいという永田屋の主人の情熱が伝わって来る。
ともすれば、私たちは自己が属する地域社会にどっぷりと浸かることで、その様を客観視出来ず、自然遺産や歴史遺産、文化遺産を忘れがちになる。この小冊子は、私にその様なことを教えてくれたのだと思っている。
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