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2018年09月23日
ウォルター・リップマンの言葉から、思考することの重要性を確認する
☆ Where all think alike, no one thinks very much.
☆ Without criticism and reliable and intelligent reporting, the government cannot govern.
Walther Lippmann
〔訳〕☆すべての人が同じ考え方をする所では、だれもあまり考えることをしない。
☆批評と信頼しうる賢い報告とがなければ、政府は政治をすることはできない。
岩田一男『英語・一日一言』祥伝社 191頁
ひとつの考え方に凝り固まっている集団において、個々の構成員は、深く考えていないですね。
所謂、教条的といいますか、ワンパターンの考え方を繰り返しているだけです。
確かに、考えるということは、脳に強烈な負担をかけることですので、脳のエネルギーの使用を節約するという意味で、結論をひとつ決めて置いて、ものを考えないというのは、経済的ではあります。
経済的であるのは、経済的にはよいかもしれませんが、こと脳に関すること、思考に関することにおいては、経済的であることに価値はありません。
簡単に言えば、経済的というよりは、単に怠惰なだけということであり、卑しいということに過ぎません。
しかし、教条主義的な人間は、考えることが嫌いですから、どこかの教祖様がいうことを答え、結論として、安心したいという欲求に囚われ、ワンパターンの思考回路で惰眠を貪るというわけです。
時代の変化、状況の変化に応じて、議論すべきこと、変革すべきことが出てきますので、その際、ものを考えながら話し合いをしていくことになるのですが、答えがひとつで押し通してきた人にとっては、ものを考える、話し合いをするということができませんから、興奮して喚き散らすだけになるのですね。
挙句の果てに、悪口、罵詈、雑言、中傷、誹謗を行うに至り、こちらとしては、困ってしまって、それでおしまいということになります。
よって、我々としては、そのような人々を相手にしなくなるのですが、あの人たちは今頃どうしているのでしょうか。
リップマンが言うように、すべての人が同じ考え方をすると、人はあまり考えることをしないという点は、気を付けておくべき点ですね。
端的に言うと、ものを考えない、思考しないといってもよく、思考停止の状態にあるといえるでしょう。
このような思考停止の団体は、批評を極端に嫌います。そして、信頼しうる情報をも嫌います。もちろん知性のある情報も嫌います。
よって、リップマンの言葉からするならば、早晩、このような思考停止団体は、統治機能を失い、没落していくことになるでしょう。
このように考えますと、思考停止に陥るということは、経済的にみえて実は悪いことだらけというわけです。
いかに大変であろうと、自らが考え、思考するということを止めてはいけません。
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2018年09月16日
読書に幻想を抱かず、自分の中の本棚を充実させること
われわれが企てることのなかでも、とりわけ幻想を抱きやすいのは読書です。本を読むという行為はすごく簡単なように思えるので、そのうちいつの日にか広範な文学書をことごとく読み尽してやろうという計画を立ててしまいがちです。せっせと本を集めても、その大部分はただ時間が足りないばかりに読まずに終わってしまうのに、こればかりはどうにもやめられない。私の友人に事務弁護士をやってたいそう繁昌していた男がいました。この男は読書について途方もない幻想を抱き、何千冊もの本を、しかもすべて豪華版で集めました。でも、それらの本のページを切ることもなく死んでしまいました。
P.G.ハマトン『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 151頁
学生時代の頃や、社会人になっても20代、30代前半ぐらいまで、まさに上記の通りでしたね。いつか読める、それも読み尽くすほどの勢いで読めると夢想するのですね。
確かに、せっせと本を買っていたことを思い出します。本棚の増強までしておりました。
学生時代は、まだネット時代ではなかったので、街の本屋にて購入し、社会人になると多少、経済的な余裕も出てくると共に、ネット社会となり、インターネットで手軽に本が購入できるので、よく利用していたものでした。
しかし、ハマトンが指摘するように、ほとんどの本は、読まなかったですね。断捨離ブームに乗っかり、結局、ほとんどの本はブックオフに行くか、資源ごみとして処分しました。
やはりあの本を読みたいと思う場合は、どうするかということですが、心配することはありません。図書館で借りればよいのです。ほとんどの本は、蔵書があります。
図書館で借り入れも、結局、読まなかった本もあり、単に見栄で買った、知的虚栄心で買った本であったのでしょう。本棚を豪華にするためだけの本ということでしょうね。これでは、読まないはずです。
知的虚栄心は、知的という言葉が付いているにしても、ただの虚栄心です。意味はないですね。読書は、読みたいという強い衝動がなければ読めるものではなく、そこまで力まなくとも、本当に読みたいという気持ちがなければ読めるものではありません。
いずれにしても、いつかは猛烈に読書ができるという勘違いは、やはり勘違いであり、
本はページにわけられ、それぞれに数字が記入されているのですから、ちょっとばかり算数の能力を働かせれば当然、自分にできる限界はあらかじめわかるはずです。
同書 152頁
とハマトンが言うように、ページ数を計算すれば、おおよその読了見込みは分かります。
また、本は何度も読むのがよいと思いますね。読んだ冊数を気にするのではなく、読んだ本をどこまで身体化したかにこだわるべきでしょう。
そうしますと、何度も繰り返し読むということになりますが、気に入った本については、蔵書として所有しつつ、一生付き合うのがよいでしょう。
本を自分のものにするということですね。ここで言う自分のものにするというのは、所謂、本という物体を所有ということではありません。本の内容を血肉化、身体化するということであり、本との一体化といってもよいでしょう。
頭の中だけでなく、身体、身体だけでなく自らの存在そのものに本の内容を染み込ませるという感覚ですね。
要は、本という物体がなくなっても、自分の中に本が存在するという次元に至って、読書したといえると思うのです。
自分の中に本があれば、手ぶらであっても、何度も反芻できます。どこにいても、読書ができます。
本という物体がなければ読書ができないというのは、初見の本ではその通りですが、毎度毎度、初見の本ばかりでは、本棚は豪華になろうとも、自分の中の本棚はスカスカのままです。
あくまでも、物体としての本棚を豪華にするのではなく、自分の中の本棚を豪華にするような読書を心掛けるべきでしょう。
2018年09月15日
言葉の微妙なニュアンスの違いを味得すること
完全に外国語を修得することは知的生活に大いに役立つが、生半可な外国語の知識が学生を知的に豊かにしたという例はいまだかつて聞いたことがありません。ある言語の微妙なニュアンスの違いまでも味得できないうちは、その言語は精神的教養にとってなんら助けにも向上にもならず、ただ際限もなく誤解を繰り返すだけです。
P.G.ハマトン『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 130頁
外国語をマスターしたいと考える向きは多いのですが、
やってみようという動機にはこと欠かないが、修得する人はめったにいません。
同書 121頁
というのが実情です。
そうはいっても、「はい、そうですか」では、つまらないわけで、少なくとも英語はどうにかしたいと思うところです。
上記のハマトンの指摘にあるように、完全に修得するという姿勢が大事ですね。この完全ということですが、「微妙なニュアンスの違いまでも味得」するほどの修得がひとつの目安になります。
英語においても、同じような意味でありながら数語の単語ありますが、なんとなくスルーして、その言葉の違い、それも微妙なニュアンスの違いに関して、さほど気にかけていないところは反省すべき点でしょうね。まさに、「味得」という次元で外国語、英語と対峙すべきでしょう。
生半可な知識にとどまっている場合、単に「際限もなく誤解を繰り返すだけ」ということであり、手厳しい指摘ではありますが、いい加減な理解では、誤解、誤訳に終始し、無知よりもたちが悪くなります。
翻って考えますと、我々の母語である日本語においては、それなりに言葉の微妙なニュアンスの違いを味得できますが、その精度は如何ほどかと考えますと、まだまだ改善の余地ありと思われます。
また、古文、漢文に関していうと、どれほど微妙なニュアンスの違いを味得できているか。大したことがないというのが現状でしょう。
そう考えますと、外国語、英語を修得する上で注意すべき点は、そのまま、我が母国語の日本語、また、古文、漢文にも適用できることが分かります。
外国語を学ぶ意義は、母国語を再認識する点にもあるといえましょう。