教養とは、どのようなものなのでしょうか。ジョン・スチュアート・ミルの言葉を手掛かりに考えてみたいと思います。
「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させるところまで至ります。私の申し上げる一般的知識とは、漠然とした印象のことではありません。(中略)一つの主題について一般的知識をもつということは主要な真理のみを知ることであり、そしてその主題の肝心な点を真に認識するために、表面的ではなく徹底的にそれらの真理を知ることです。小さな事柄は、自分の専門的研究のために必要とする人々に任せればよろしいのです。広範囲にわたるさまざまな主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立しえないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養ある知識人が生まれるのであります」(J.S.ミル『大学教育について』竹内一誠訳 岩波文庫 28頁)
知識は単独では価値を生まず、ひとつひとつの知識もさまざまな知識と結びつくことによって価値のある知識になるということです。
そのひとつひとつの知識も曖昧な知識ではなく確固とした知識でなければなりません。
すべての知識に関して、専門的知識があればよいのですが、そのようなことはあり得ません。
せいぜいひとつの専門分野を持つのが精一杯ではないでしょうか。
また、専門分野を持てずに一生を終える人の方が多いのかもしれません。
ある事柄に詳しい専門家も自分の専門分野を離れると、その他のすべての分野に関しては単なる素人となります。
ただし、素人とはいっても専門家でないということだけであって、その他すべての分野の知識がなくてよいということではありません。
専門バカでは、全く教養のない人間となってしまいます。
ミルが求めているのは、専門ではないその他すべての分野に関しては、「主要」な「肝心」な点だけであっても徹底的に深く知ることです。
曖昧な表面的な知識ではいけません。
専門ではないその他すべての分野では、狭く深くという知識をたくさん持ちながら、ひとつの専門分野に関しては、広く深くという完璧なまでの知識を持つことが理想であり、それを実現している人を教養のある人としています。
上記のことから、まずは、自分自身の専門分野をひとつ持ち、その分野ではありとあらゆる知識を得て、ひとかどの専門家となるべきでしょう。
そして、専門分野以外の分野では、「主要」な「肝心」な点を見極め、その部分に特化して学んでいくことでしょう。
くれぐれも「枝葉末節」な部分、「浅い」部分に囚われてはなりません。
あやふやな知識の集合体や、広く浅い知識は、決して教養を形作りません。
専門知識とその他多数の一般的知識との結合による効果によって、にじみ出てくるものが教養といえるでしょう。
にじみ出てこなければ、まだまだ、修養が足りないということだと思われます。
いろいろ書いてきましたが、丸山眞男の説明が分かりやすいでしょう。
「J・S・ミルの定義した意味での「教養人」を志さざるをえないことになる。それは「あらゆることについて何事かを知っており、何事かについてはあらゆることを知っている人」というのだ。これだけじゃ一寸見当がつかないかもしれないが、あのオーケストラの指揮者を連想すればいいんじゃないかな。指揮者は管弦楽のあらゆる楽器の専門奏者には到底なれないが、少なくともそれぞれの性質や奏法を一応全部知っていなければならず、しかも指揮法については徹底的に精通していなければならない」(丸山眞男『政治の世界』岩波文庫 313頁)
ミルの言葉を要約すれば、専門分野では広く深い知識、その他の分野では狭く深い知識が必要ということです。
ポイントは「深い」知識です。
あれもこれもといった浮ついた態度は教養と正反対の態度といえるでしょう。
( Try to learn something about everything and everything about something )