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2017年03月01日
西南戦争について考えるA
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二十人以上、川路の配下の薩摩人がいっぺんに一時帰国?したら、誰でも怪しいむ
と思いますが、私学校党の若者達が問い詰めたところ、やはり川路が放った密偵で、
しかも機会があれば西郷暗殺の任を帯びていた事が、明らかになりました。
血気に燃える私学校党の若者達の一部が先走り、鹿児島市草牟田に在った陸軍の
火薬庫(武器貯蔵所)を襲い、武器・弾薬を奪ったという報告をうけ、西郷は愕然とします。
こうなったら、薩摩が反乱を企てていると思われても釈明のしようがありません。
不平士族達の暴走を誰よりも気にかけていた彼は、自分なりの責任のとり方として、
反乱軍のリーダーに担がれる事を受け止めました。
但し、自らは移動中は籠に乗り、駐屯地でも奥の座敷に一人篭り、誰とも顔を合わせずに
まるで生き幽霊のようだったと伝えられています。
部隊の編成や作戦にも一切口を挟まず、桐野・篠原らに任せた為、この戦いは別名
「桐野の戦争」とも呼ばれました。
西南戦争は、薩摩が自ら挙兵したのではなく、大久保・川路が扇動して起こさせた
戦争だったというのが定説になっています。 (続く)
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明治6年、すべての官職を辞して鹿児島に帰った「西郷隆盛」は、
城下の武町に粗末なあばら家を建ててそこに住み、吉野村寺山の
開墾に励んでいました。「桐野利秋」もそれに習い、隣接した吉田村
にほったて小屋を建て、百姓として生活していました。
「武士が武士でなくなったらどう生きるか」という事を、自身
自ら、手本を示していたのでしょう。
しかし、武士階級だった若者達の不平不満は収まりません。
そんな血気盛んな者たちの怒りを発散させる場として、県内に
何ヶ所か「私学校」という教育機関を作り、篠原国幹・辺見十郎太
達に運営を任せていました。学問より、軍事教練が主な活動でしたが、
西郷の目的は、国家に対して反乱を起こす気など全くなく、帝国軍人と
に仕官させて、食べていけるようにするための「私学校」だったと思います。
しかし、中央政府はその噂を聞き、薩摩が挙兵するのではないかと恐れ、
「川路大警視」のもと、警視庁に仕官していた薩摩人二十数名を、一時帰郷の
名目で帰鹿させましたが、実際には薩摩の様子を探るための密偵(スパイ)でした。(続く)