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「桂馬の幻想」 坂口安吾 (03/31)
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「ボクのインプット&アウトプット法ー1日に10冊の本を読み3日で1冊の本を書く」 千田琢哉 (02/22)
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「100の地点でわかる地政学」 オリヴィエ・ダヴィド他 (02/19)
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「ボクのインプット&アウトプット法ー1日に10冊の本を読み3日で1冊の本を書く」 千田琢哉 (02/16)
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「ボクのインプット&アウトプット法ー1日に10冊の本を読み3日で1冊の本を書く」 千田琢哉 (12/23)
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「日本の地下経済−脱税・賄賂・売春・麻薬」 (12/22)
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「ボクのインプット&アウトプット法ー1日に10冊の本を読み3日で1冊の本を書く」 千田琢哉 (12/20)
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「桂馬の幻想」 坂口安吾 (12/12)
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「戦いの原則−人間関係学から組織運営の妙まで」 大橋武夫 (12/06)
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2014年01月09日
「鬼」 吉川英治
吉川英治の作品における悪人というのはどこかしら愛嬌がある。司馬の、ひたすら彼の思想にそぐわないものを断罪するかのような作風と異なり、なにかしら悪人をも温かいまなざしで見つめたものが多い。そんな吉川による、ある男の執念の物語である。

 町人から金を借り上げ逐電した福原主水を討てという君命に従わず、彼を見逃したために与右衛門は家中の「穀つぶし」とされ、笑いものになっていた。屈辱に耐えながら「何か御奉公したい」と思い続けていた与右衛門は、領内の貧困の大元である岩木川の氾濫を食い止めるために、治水を行おうとする。始めのうちは家中の同僚らも、農民たちも彼の計画を認めようとはしなかった。与右衛門の計画は金を浪費するばかりだと武士たちは非難し、農民たちは動員令を呪った。与右衛門の計画への出費によりもとより何もない津軽藩はますます困窮し、事態打開のため、彼を闇討ちするものさえ出る始末であった。そして少しでも成果が出たかと思われるとすぐに、氾濫で台無しになってしまう…。

 与右衛門と領民の苦労の末、治水に成功するまでを描くのだが、治水成功までに長い年月を要したため、短編であるにも関わらず数多くのドラマが展開される。

 題名の「鬼」についても、与右衛門が「鬼」となるのを決心する場面がある。

(俺は能なしだ、米喰い虫にちがいなかった、せめてこれくらいな事を仕遂げねば)

(幕府の御制度の中にある藩地である。藩の制度の下にある経済である。お上には、どんなご失費も滞渋ができぬように、下の者も、どんな事をしても、苛税に骨を削らなければならぬ。下ほどそれは辛くなる。出ないものを絞り出す苦悩なのだ−ところで、そういうお上と下のあいだに立っているのは誰だ?武士というもの達だ−この際、武士のすることは何か?)

(打開と云っても、御制度の中での打開だ。津軽領以外へ何の策も施す途はない。自己の持つ土の上に打開を求めるほかないではないか。−また武士は、自己の為すことを、自己の分の中から、今こそ求め探して、奉公にさし出す時ではないか。−元和、寛永の武士道をそのまま習慣にして、刀にかけてものをいうだけが士道だと心得ている時機ではなかろうが)

(世の中は、生きてゆく。殖えてゆく、進んでゆく。粗衣粗食の御節約も結構だが、絶対に、消極策というものは、どんな飢饉の地でも適合しない。つまりこの世の中というものの本質に適合しない)

(鬼になれ。−鬼になってやらねば出来ない!)

 始め与右衛門を突き動かしていたものは面子であり、承認欲求であり、あるいは百姓への憐みであったろう。しかし、鬼と化してからの与右衛門はそれら一切を振り払い、ただ治水の指揮に邁進する。最期に与右衛門が鞭を振るった相手といい、行政官のあるべき姿を描いたものといえよう。

 執念というキーワードで「恩讐の彼方に」や「五重塔」と比較してみるのも面白いかもしれない。







 

2014年01月08日
「織田信長」 坂口安吾
安吾の短編である。安吾の歴史小説の特徴については昨日も書いた通り、書きたいところのみをピックアップして記す点である。書きたい構図・関係性のみを見つめて各結果、必然的に作品は他に比べ簡潔に、短くまとまることとなる。

 この作品は織田信長を彼固有の合理性と松永久秀との奇妙な友情という観点から描き出そうとした作品である。松永久秀と言えばご存じ、平蜘蛛の名器と共に大爆死した梟雄だ。

「だから、自信というものは、自分で作るものではなくて、人が作ってくれるものだ。他人が認めること
によって、自分の実力を発見しうるものである。このように発見せられた実力のみが自信であり、野心
児の狙いやウヌボレの如きは何物でもない」

「かかる信長に、三度や四度の戦勝が、まことの自信をもたらしてくれるものではない。信長にはもって生まれた野育ちの途方もないウヌボレがあった。それと同量の不安があった。このウヌボレをまことの自信に変えるためには不安と同量の、他人による、最高、絶対の認められ方が必要であった。」

と描かれる野生児信長の実力を老いた天下の執政・久秀は素直に認める。

「彼は信長を見抜いた。彼は次代を知り、世代の距りを知っていた。天下の執政などと実質的ならざる面目にこだわらず、次代の選手に依存する術を心得ていたのだ。実力失せた先代の選手を押しのけけ殺して自分の世代をつかみとった彼は、次代に依存する賢明さを、自らの血の歴史から学びとっていた。」

彼と信長との友情は互いを利用しあうものであるが、ただ利用し依存する先を変え続ける足利義昭のそれとは違う。

「然し、まことの悪党というものには、ともかく信義がある。(中略)ホンモノの悪党は悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。(中略)老蝮は蝮なりに妙テコリンな信義があった。そして、信長は義昭の心を信じなかったが、老蝮の信義を信じていいた。」

とこれに続き、信長の実証精神、科学する魂を信玄は理解できたかどうか…と続く。そこで信長の行動原理は彼が好んだ小唄「死のうは一定」に即していたのだと語られ、いよいよ佳境に入るところで唐突に終わる。この作品は未完なのだ。なので久秀と信長の決別も分からずじまいなのが残念だ。

 信長の合理性というのは小説の題材となりやすい上、一般的イメージもそれに即したものである。しかし、武田信玄や毛利元就など地方に王国を築きえた群雄たちは皆たいてい合理的思考を武器に領土を切り開いていった。その中で信長のみが天下に手をかけることができたのは彼独自の合理性に求めるべきなのか、あるいは地政学的、経済学的な彼の利点に求めるべきなのか。彼の政治思想と共に意見が分かれるところであろう。信長の科学精神、合理性について大衆作家で言及し世に広めたのは安吾ではなかったかと思わせるほど、合理主義に利点が置かれている。

 久秀と信長との互いを利用しあう固い信義に基づいた友情というのは国家間あるいは組織同士のあるべき交流関係とも言えよう。その破たんが描かれず終わっているのが実に残念だ。






2014年01月07日
「二流の人」 坂口安吾
 今年の大河ドラマの主人公は黒田官兵衛である。最近の大河ドラマは官兵衛や直江兼続、山本勘介などくせのかなり強い人物がやたらと主人公となっている。ドラマで描かれる際、その曲者ぶりが変に曲解されるせいで、ある程度その人物について知っている者からすれば悲しくなることもある。

 坂口安吾はこの「二流の人」以外にも「黒田如水」という短編も書いている。もっとも「黒田如水」は「二流の人」とほとんど同じような語り口・内容であり、この作品をもとに「二流の人」を描いたのはありありとわかるためまあ、読まずとも良い。

 司馬は長編で人物を描くときには基本的に通史を書くようにしている(新史太閤記や覇王の家といった尻切れトンボもあるが)。それに対し安吾の時代小説の凄いところは描きたいところのみをピックアップして書き、それ以外の部分は一切紙面に残さないことだ。

 小田原攻めの陣屋で黒田如水と家康が会談するところから始まる。

 「この二人が顔を合せたのはこの日が始まり。いはば豊臣滅亡の楔が一本打たれたのだが、石垣山で淀君と遊んでゐた秀吉はそんなこととは知らなかった。」

秀吉が恐れたのは家康であったがその次に恐れていたのは如水であったと続く。秀吉は如水が献策するたびに衆人の前で如水をほめたたえるのだが、同時に如水への警戒を強めていく。如水もあほではないからその都度ごとにしまったと思う。

 「如水は律儀ではあるけれども、天衣無縫の律儀でなかった。律儀という天然の砦が無ければ支へることの不可能な身に余る野望の化け物だ。彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望ほど偉くないのが悲劇であり、それゆゑ滑稽笑止である。秀吉は如水の肚を怖れたが、同時に彼を軽蔑した。」

 如水という不世出の軍略家とその飼い主・秀吉、その飼い主が最も恐れた家康の三人の実力者の構造を如水から少し離れた視点から描く。面白いのは如水は才気が顔に出てしまうほどの者ながら、事態については冷静に見つめているため、秀吉の心情を巧みに汲んで、自身を破滅へは追いやらない。

 司馬の「播磨灘物語」の如水はもうすこし凛々しげなのだが、「二流の人」の如水は鬱屈が顔に出ている様がありありと想像できる。これが司馬と坂口の違いなのだろう。

 No2のあり方を描く作品は多いが、心の鬱屈・屈折を感じさせる作品は少ない。史実の如水は秀吉に牙をむかなかったが、実際のところ心の中ではどう思っていたのか。秀吉と如水とは、優れたリーダーと、不分相応な力量を持ってしまった献策者との関係性を読み解くには格好の題材であろう。

黒田官兵衛






2014年01月05日
「梟雄」 坂口安吾
 堕落論で有名な坂口安吾による時代小説である。彼は他にも「二流の人」「鉄砲」「織田信長」といった歴史モノを多く残している。精神主義を嘲笑うような合理主義と緻密な内面描写が特徴である。

 梟雄とは残忍猛々しく、狡猾な傑物を指す。梟雄としてよく名が挙がるのは、北条早雲や毛利元就、浮田直家、松永久秀といったどれもまあ納得の面々である。そしてその筆頭ともいえるのがこの作品の主人公、斉藤道三である。

 京・妙覚寺の高名な学僧・法蓮房は薄っぺらな寺社会に嫌気がさし、「時運にめぐまれれば一国一城の主となることも天下の権力者となることもあながち夢ではない」乱世を目指し還俗する。「人生万事、ともかく金だ」と油屋の娘と結婚する。講談で有名な油売りの秘儀など手練手管を用い、蓄財に励む傍ら、彼は独自の兵法研究に余念がなかった。やがて財を成した油売りは、サムライになろうと考える。かつての学僧仲間を頼り美濃に落ち着いた彼は、内通・毒殺・クーデターと謀略の限りを尽くして美濃を奪い取る。主を変える度に名を変えた油売りは、その都度自身に流れる新しい「血」を見つめていた。しかし美濃奪取後、彼が奪った「血」は思いもかけぬ形で彼の胎外で成長を遂げ、彼に向かうのだった…。

 斉藤道三を扱った小説では司馬遼太郎の長編「国盗り物語」が代表作であろう。本作「梟雄」は短編であるが切れの良さと構成の巧みさでは「国盗り物語」と比べても全く遜色ない。むしろ心理描写の秀悦さでは部分的には上回る場面もある。道三の美濃奪取後や、義龍謀反後の心理描写がそれである。「国盗り物語」の斉藤道三編の終末部は、織田信長編に移行するために道三個人の描写が少なく淋しいものがあった。

 道三自体は父子2代説が近年提唱されていたりと、メジャーな武将に比べ正体が不明な人物であり、そのイメージの大半は江戸期以降の軍記・講談文化がつくりだしたものである。道三が斉藤妙椿と同居していたりと史実的誤謬も見受けられるものの、道三の内面を「血」というキーワードで解き明かそうとしたこの作品は、道三という梟雄ひいてはクーデターでのし上がった権力者の内在論理を理解するにあたり格好のテキストと言えるだろう。

梟雄 斉藤道三






2013年12月18日
「光秀の定理(レンマ)」 垣根涼介
 関東から流れてきた兵法者新九郎が辻博打を生業とする謎の坊主、愚息と巡り合うところからこの話は始まる。愚息の博打は常に必ず愚息が勝つのだが、新九郎にはその理由がわからない。分からないなりに彼は愚息とつるみ始め、やがて二人は十兵衛−明智光秀と出会う。幕府再興・お家再興のために奔走する十兵衛と浮世のことは気にせずのんびりと暮らす新九郎・愚息らは互いの境遇が変わっても交流を続ける。

 六角攻めの際、敵がどの間道に潜むか判断付きかねた光秀はよく似た状況−愚息の賭を思い出す。彼自身その仕組みは分からなかったが、ともかく彼は愚息に指示を仰ぎ、無事敵を撃破する。戦後、光秀からあらましを聞いた信長は愚息と会い、そのトリックを知ろうとする。そこで十兵衛らは人間心理に裏づいたトリックに愕然とするのであった。

 やがて時は流れ、老いた愚息と新九郎の会話が描かれる。彼らはなぜ光秀が本能寺の変を起こしたのかを語り合うのであった。

 要約すると以上である。話の構成からすると非常に奇策である。短編でやりそうなトリックを長編の、しかも主題にまで持ってくるところが凄い。従来の歴史小説とは構成・展開・主題とどれも違いすぎて、先が読めないまま最後まで突っ走ってしまう。

 詳細は書かないがトリックはモンティ・ホール問題である。この問題を小説にすればこうなるのかと驚きを禁じ得ない。さらにこの問題をモチーフにする描写が何度も現れる。時々、これは強引だなと違和感を感じることもあるが、総じて完成度・意外性共に高い。

 新たな視点から考えるということを実践した小説である。

明智光秀 垣根涼介 本能寺の変






2013年12月11日
「山霧−毛利元就の妻」 永井路子
 戦国ものの時代小説において女性が男性と同等に活躍するものは少ない。活躍するとしても色香で城を傾けるものや、せいぜい「真田太平記」に出てくるくノ一のようなものぐらいだ。本書はその点においては「功名が辻」と並び、珍しく女が男と同等に知恵を振るい、戦国の世を生き抜く話である。

 大河ドラマ「毛利元就」の原作となった本作は、22歳の弱小国人領主、少輔次郎の元に近隣の強豪・鬼吉川の娘、美伊が嫁ぐ所から始まる。元就・美伊二人の視点・心情が代わる代わる展開していく。

 この作品で興味深いのが元就と美伊の関係は単純な夫妻ではないことだ。元就も美伊も互いを深く愛し合っており、そのことは物語終盤まで変わらない。ただ、各々の配下のスパイに話がいく時だけさっと夫婦の関係ではなくなるのだ。さながら冷戦下のスパイマスター同士がカフェで対峙するようなものか。毛利元就が弱小領主の身から奸詐謀略をもって中国の太守となったことはよく知られている。その妻である美伊の背景は絶妙なものだ。親が近隣の強豪・鬼吉川「国経」で、叔父には尼子経久がいたりと元就も気が抜けない。現に美伊の付添いの侍女はたびたび美伊に向かい情報戦のアドバイスをしてくる。最終的には、美伊は元就の城下から完全に実家からのスパイを去らせるに至るのだが、この作品は戦国時代の夫婦関係・諜報戦・弱小土豪のありさまを実によく描けている。

 「たしかに戦国の花嫁は、ただの着飾った人形ではない。ある意味では複雑な性格の二重スパイでもある。婚家先は彼女を相手方との親善の窓口としながらも、一方では情報収集に利用しようとする。また花嫁も、頬には笑みを湛えながら、ぬかりなく実家に婚家の動きを伝えたりもする。」
 
 「戦国の女たちはしたたかなのだ。後世『政略結婚』と名づけられたこうした嫁ぎ方を、女の権利を無視した人身御供的なありかたと思うのは、およそ見当違いである。」

と作者は書く。元就と美伊の「毛利家」が隣接する大内・尼子という大勢力の間で知略の限りを尽くして生き抜くさまがありありと浮かぶ本作。この他にも連歌師による情報活動などにも触れられており面白い。毛利元就は知名度の割には小説が少なく、この小説が出る以前の有名どころだと山岡荘八の「毛利元就」があるがこれは元就配下のスパイを中心とした記述が多く、元就自身の心情描写が少ないのが淋しい。毛利元就を扱った小説で代表作を挙げるならば間違いなく本作を推す。「政略結婚」や「国人領主」、「戦国の女」といったトピックでも同様だ。

 小説冒頭にはこうある。
 
 「これは乱世の梟雄、毛利元就の物語ではない。中国山脈の山裾の霧の中を這いずりまわりつつ、十六世紀を生きた若い男と女の話である。」
毛利元就 戦国の女







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