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2017年12月12日

精神科医「貴乃花の正義は不純物を含む」

PRESIDENT Online より

精神科医「貴乃花の正義は不純物を含む」

強すぎる処罰欲求のウラにあるもの

元横綱・日馬富士が暴行問題の責任を取って引退した。 だが騒動は一向に収まる気配がない。 モンゴル人力士や相撲協会に対する貴乃花親方の怒りは むしろ強くなっているようにも見える。 精神科医の片田珠美氏は、 貴乃花親方の処罰欲求には 「怒りや復讐願望などの“不純物”も入り交じっている」 と語る。その成分とはどんなものなのか――。

貴乃花親方の「正義は我にあり」のウラに透けて見えるもの

元横綱・日馬富士(33)の暴行問題は、 「引退」発表後も収束していないどころか、 むしろヒートアップしている感さえある。 その一因に、 殴られてけがをした貴ノ岩(27)の師匠である 貴乃花親方(45)と、 日本相撲協会の八角信芳理事長(54)をはじめとする 執行部との鋭い対立があるのは、 ご存じの通りだ。 協会執行部からすれば、 相互不信のきっかけを作ったのは 貴乃花親方のほうだと感じているかもしれない。 貴乃花親方は、 10月下旬の秋の巡業中、 巡業部長でありながらモンゴル人力士による暴行の件で 協会に相談する前に 鳥取県警へ被害届を出したし、 相撲協会役員室に呼び出されて 貴ノ岩への聴取協力を要請された際も 「お断りします」ときっぱりと拒否したからだ。 さらに、 11月30日に開かれた定例理事会でも、 貴乃花親方が協会による調査への協力を改めて拒否したため、 その場で鳥取県警に直接電話する事態になった。 県警の回答は 「協会の聴取に(貴乃花親方が)協力するのかどうかはお任せします」 というものだった。 これに対して貴乃花親方は 「任せると言っていたんですから、協力できない」 と態度を変えなかった。 そのため、 何人かの親方が 「なんでなんだ」と声をあげ、 一触即発の空気が漂ったという。 結局は、貴乃花親方も 「警察の捜査が終われば協力します」 と譲歩したようだが、 両者の相互不信が相当深刻であることは一目瞭然だろう。

▼貴乃花親方の怒りの矛先は「三者」に向けられている

ここまで深刻になったのはいったいなぜなのか。 精神科医である私の目には、 その一因に 貴乃花親方のかたくなな姿勢があるように映る。 親方の胸中には、 激しい怒りと強い正義感が潜んでいる。 その深層を解き明かしたい。 貴乃花親方が激しい怒りを覚えているのは明らかだ。 この怒りは、三者に向けられているように見える。 1)貴ノ岩を殴った日馬富士 2)日馬富士を制止しなかったモンゴル人力士 3)暴行問題に真摯に対応してくれない(と貴乃花親方が感じた)相撲協会

驚くべき「強い処罰欲求」貴乃花親方を精神分析する

まず、 愛弟子の貴ノ岩を殴った日馬富士への怒り。 古代ローマの哲学者セネカは、 怒りとは 「自分が不正に害されたとみなす相手を罰することへの欲望である」 (「怒りについて」) と述べている。 貴乃花親方は愛弟子が殴られたことによって 「自分が不正に害された」 と感じた可能性が高い。 それだけ、貴ノ岩との一体感が強いわけだが、 これは貴ノ岩が貴乃花親方にとって 特別な存在だからだろう。 部屋を作ったときに 「外国人力士は入れない」 方針だった貴乃花親方が、 その才能にほれ込んで 弟子にしたのが貴ノ岩なのだから、 思い入れは相当強いはずだ。 その大切な愛弟子を殴った日馬富士に 罰を与えたかったからこそ、 貴乃花親方は鳥取県警に被害届を出したと考えられる。 これは九州場所の部屋の千秋楽パーティーで 「正当に裁きをしていただかなきゃいけない」 と語ったことにも表れている。 処罰欲求の強さは、 この事件を捜査した鳥取県警も感じたようだ。 12月4日、鳥取県警は、 日馬富士を傷害容疑で書類送検すると同時に 検察に起訴を求める 「厳重処分」 の意見を付ける方針を固めたと報じられた。 こうした判断を下した背景には、 貴ノ岩の処罰感情が強いことがあるという。

▼次の標的は日馬富士以外の「モンゴル人力士」

貴ノ岩と貴乃花親方の処罰欲求が 日馬富士の引退によって満たされたのなら、 親方はその後、 協会からの調査への協力要請を すんなり受け入れたのではないか。 しかし、そうはしなかった。 処罰欲求が じゅうぶんに満たされたわけではないからだと推測される。 裏返せば、 それだけ処罰欲求が強いともいえる。 これは、 貴乃花親方の怒りの矛先が 日馬富士だけに向けられているわけではないためだろう。 暴行現場には 横綱の白鵬や鶴竜などの モンゴル人力士が同席していたにもかかわらず、 貴ノ岩が頭から出血するまで、 日馬富士を制止しなかったと報じられている。 だから、 その場に居合わせたモンゴル人力士に対しても、 貴乃花親方は怒っているはずだ。 もっとも、 貴乃花親方は この事件の前から モンゴル人力士に批判的だったようだ。 優勝40回という前人未到の偉業を達成した白鵬さえ 認めていないふしがあり、 「勝負後のダメ押し」「立ち合いの張り手」 「エルボーばりのかち上げ」などに対して 以前から厳しいまなざしを向けていたらしい。 もしかしたら、 “神事”としての相撲を 汚されたように感じているのかもしれない。

相撲原理主義者 vs. ハングリーな“出稼ぎ”外国人

そもそも、 貴乃花親方が“相撲道”を究めようとする 相撲原理主義者なのに対して、 モンゴル人力士の多くは出稼ぎに来た日本で 勝つためなら何でもするハングリー精神の持ち主のような 印象を私は受ける。 当然、両者は水と油だろう。 かつて巡業先で、 出発時間に遅れた白鵬を残したまま、 巡業部長の貴乃花親方がバスを発車させた 「白鵬置き去り事件」が発生したと報じられたが、 その一因に、こうした相撲観の違いがあるのではないか。

▼正義という名の復讐心は相撲協会にも向いている

さらに、 相撲協会の執行部に対する貴乃花親方の怒りも相当強そうだ。 執行部と貴乃花親方の間の確執は 昨日今日始まったことではなさそうだ。 前回の理事長選で貴乃花親方が 八角理事長に完敗したことや、 その後協会の花形である審判部長から 巡業部長に降格させられたことなどが、 今回の騒動の背景にあるとも聞く。 となれば、 貴乃花親方が協会への不信感だけでなく、 騒動を大きくして 協会に罰を与えたいという処罰欲求を抱いても 不思議ではない。 この処罰欲求が、 貴乃花親方の一連の言動の根底に潜んでいて、 事態を一層不可解なものにしているように見える。 もちろん、 貴乃花親方自身が口を閉ざしているので、 いずれも臆測の域を出ない。 ただ、1つだけたしかなのは、 正義はあくまでも自分の側にあると 貴乃花親方が確信していることだ。 「正義の心情には、2つの本質的な要素がある」 と、 イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは 述べている(「功利主義論」)。 1つは 「はっきりした被害者がいる」 という確信、 そしてもう1つは 「加害者を罰したい」 という欲求である。 両方とも、貴乃花親方にはある。 貴ノ岩こそ被害者であるという確信、 そして加害者である日馬富士、 さらにはモンゴル人力士と 相撲協会にも罰を与えたいという欲求が かなり強そうだ。 さらに、ミルは 「正義の心情は、 その一要素である処罰の欲求からみると、 以上のように、 人間に本来そなわる仕返しまたは復讐の感情だと私は思う」 とも述べている。

貴乃花親方の正義は「復讐願望などの不純物も含まれる」

これは誰にでも思い当たるふしがあるのではないか。 こちらに正義があると確信しているときほど、 「加害者を罰したい」 という欲求も、復讐願望も強くなる。 もちろん、 そういうときは胸中に強い怒りも煮えたぎっているはずだ。 前出のセネカは 「怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である」 と述べているが、 たしかに、 怒りと正義感はしばしば密接に結びついている。 表裏一体と言っても過言ではない。 今回の事件の被害者は貴ノ岩である。 だから、貴乃花親方が怒るのも、 正義はこちらにあると思うのも当然だ。 ただ、ミルが指摘した正義の心情の要素の1つである 「加害者を罰したい」 という欲求、 さらには復讐願望が強くなりすぎると、 少々困ったことになる。

▼正義に酔いしれて合理的な判断ができなくなる

現に、貴乃花親方も、 被害届の提出を協会に報告しなかったことや、 協会から貴ノ岩への聴取協力を要請されても 拒否したことについて批判を浴びている。 来年2月の理事改選で 貴乃花親方を落とす算段をしている親方衆がいる とも報じられている。 そうなれば、 貴乃花親方が目指す相撲協会の改革どころではないだろう。 自分自身、 あるいは愛する者が理不尽な目に遭ったとき、 相手の「不正」に対して怒り、 何らかの形で復讐したくなることは誰にでもある。 ただ、怒りも復讐願望も、 自分自身の心の中にあることを認めたくない 恥ずべき感情なので、 しばしば正義というベールで覆ってしまう。 そうなると、 正義に酔いしれて 合理的な判断ができなくなるかもしれない。 だから、正義は処罰欲求の仮面であり、 怒りや復讐願望などの不純物も含まれていることを忘れてはならない。
人間 普通の時は なんだかんだ言っても そんなに悪いことはしない。 自制心というものがある。 ない人も当然いるが それは社会を生きていく中で 面倒くさいことがおこるから 少しづつではあっても淘汰されていく。 しかし 大義名分があるときは違う。 よく考えれば悪いことであっても 気づかないか 気づかないふりをするのか わからないが ブレーキが効かない というか ブレーキをかける気がない。 だからそういう時にこそ 本当に悪いことが行われる。 大きな声で 「正義」 を語る人ほど その正義の中には 不純物がいっぱい混ざっていることは 全く珍しいことではない。 それどころか 不純物の処理に困って 「正義」を持ってきたりもする。 ゴミ袋みたいに 「正義」の袋に入れて 捨てる。 貴乃花親方だけを責めることも ちょっと本筋からそれてしまう危険があるが 少し立ち止まってほしい思いがある。 モンゴル力士が 脅威と感じる日本人がいるのは 当然だが、 モンゴル力士が文化の違う土地に来て 異国の伝統文化を盛り上げ 優れた実績を上げていくことは 並大抵の苦労ではないと単純に思う。 モンゴル力士同士の 繋がりが強いのは当然として その強さも かなり特異な強さになるだろう。 そして そのモンゴル力士社会の成員であることが 彼らにとっては 非常に大切な日本での活動を支える 精神的な基礎条件になっていることは 容易に想像できる。 そこでのトラブルは モンゴル力士の誰にとっても 計り知れない精神的なダメージだろう。 それは 日本の伝統的な相撲文化とまた別の パラレルなもので それがあってこその モンゴル力士の活躍と いう類のものだ。 日本の伝統的な大切な文化だから 日本人の理屈で考え それに合わせてほしいのは 山々であるが それだけでは 日本人にとっても モンゴル力士にとっても 良い姿に繋がらないように思える。 相撲の理屈とは別の 彼らに寄り添う姿勢があってこそ 彼らも 異文化に適応しようという意欲が 現れるものだ。
posted by sachi at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | エンタメ

2017年12月11日

麻生太郎氏、AIIB「サラ金発言」の意味 借金国に中国主導で取り立て属国化や領土分割の懸念残る 高橋洋一

産経ニュース より

麻生太郎氏、AIIB「サラ金発言」の意味 借金国に中国主導で取り立て属国化や領土分割の懸念残る 高橋洋一

麻生太郎副総理兼財務相が 11月29日の参院予算委員会で、 中国が主導するアジアインフラ投資銀行 (AIIB) の運営や融資審査について 「金を借りた方も、ちゃんと計画を立てて返済しないと、 サラ金に取り囲まれちゃうみたいな話になった場合、 元も子もない」 と発言した。 「金を貸した経験のない人が急に貸すという話だ。 お手並み拝見だと思って見ている」 とも述べている。 (夕刊フジ)   筆者は郵政民営化の際に、 民営化法案の作成や政策シミュレーションを行う 民営化サイドにいたので、 当時総務相だった麻生氏から目の敵にされたが、 周囲の人間に対して 極めて優しい政治家であるとの評判を聞いている。 政治家の話は、 官僚と違って味のある答弁が多いが、 麻生氏はいつも面白い話をしてくれる。 ときたま、 それが政治的には失言にもなるのだが、 よくいえば人間味でもある。   麻生氏の表現は具体的にはどのようなことを指すのか、 本コラムで推測してみたい。   AIIBは、途上国などに融資する国際金融機関である。 途上国が融資を受けた資金によってインフラ整備を行うが、 融資なので返済が必要になる。 国際金融機関とはいえ、 その融資機能は国内の金融機関やノンバンクと同じである。 一般論として 融資の返済可能性などについて審査をするわけだ。   ただ、AIIBは国際金融機関としての経験が乏しい。 それを 「金を貸した経験のない人が急に貸す」 と言っているのだろう。 金の貸し手は、 借り手の生活に大きく関わることもある。 金融業者の取り立てが社会問題化したことからもわかる。 取り立てでは、 担保設定された不動産を差し押さえすることもある。   AIIBは国際金融機関であるが、 借り手が返済しなければ当然取り立てを行う。 それはやはり中国主導となるだろう。   「取り囲まれちゃう」というのは、 債務返済がない場合、 借り手の途上国が中国の取り立てによって 政治的に困窮する状況を 示唆しているのだろう。   取り立ての一環として、 借り手が不動産を差し出すのは、 融資の世界ではよくあることだが、 国際金融の世界でAIIBが同じようなことをした場合、 借り手の途上国にとっては、 中国への属国化や 領土分割を意味することになってしまう。   従来の西側の国際金融機関であれば、 途上国の発展を考えて債務の減免を行うなど、 過酷な取り立てはしてこなかった。 しかし、 中国主導の国際金融では こうした国際基準があるのかどうか分からない。 麻生氏は、 そうしたAIIBに対する懸念を表現したかったのだろう。   筆者としては、 この麻生発言にさらに追加したい。 最近AIIBが 最上位の格付けを取得したと報道されているが、 本コラムで指摘したように 肝心なのは中国の資金調達レートだ。 AIIBの調達レートは格付けに関わらず、 中国を上回るだろう。 ということは、 西側の国際金融機関より 高金利になる可能性が高い。 この点も、高利貸のイメージである。 (元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)
利己的な行動だけでは行き詰まることが目に見えている。 かといって 利他的な行動は かなりの余裕がなければできるものではない。 どちらにしても 特に国家間の場合は なんらかの形で 自国の利益に繋がることしかできない。 その最終の利益を 余裕が少なければ少ないほど より直接的な形で求める。 反対に余裕があればあるほど 間接的な形で求めるのが 常道となる。 直接的であればあるほど 即時性が高く持続性は低い。 反対に 間接的であればあるほど 即時性は低いが 持続性や多くの発展性に 繋がる可能性を多く持つ。 極端に直接的で 即時性が高いのが 武力侵略だが そのあとをつなげるのが 今はあまりに難しい。 しかし 北朝鮮のように 余裕のない国では それしか考えられない。 間接的な方法論で 時間をかけて 確実に繁栄を築くなどということは 金持ちのたわごとくらいにしか 思っていない。 その意味で北朝鮮問題は その北朝鮮の余裕のなさの正体を 具体的にしっかり解析しないと 平和的な解決はほぼない。 それは普通の国では 考えられないレベルの 大きな欠乏だ。 ものだけではない。 むしろ本質はものではなく 考え方、広い意味で良い状態を作る方法論、 国としての正常な機能を作り出す方法論などが 欠乏しているのだろう。 ものの不足より そういったものの考え方の欠乏からくる 不安と余裕のなさは 計り知れない。 だから より直接的な方法を求める。 その北朝鮮と中国のそのあたりの距離・乖離を考えると 経済力は大きく違っても 考え方・方法論の不足はあまり差がないのかもしれないと ふと思ってしまう。 現に中国は 武力による直接的な 方法論を捨ててはいない。 だから 見かけの制度設計よりも 実際には かなり露骨な 直接的な方法論を選択すると見た方が素直だ。 やっぱり まだまだどう転んでも やばい国だ。 それにつけても 麻生さんの失言は 気配りや優しさの裏返しとは なのだろうか。 高橋洋一氏の言説には いつも大いに刺激をいただいているので よく考えて見たい。
おすすめです。
posted by sachi at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2017年12月08日

立憲民主・枝野代表 希望との再合流「あり得ません」

産経ニュース より

立憲民主・枝野代表 希望との再合流「あり得ません」

昔から「政治の世界は一寸先は闇」といわれていますが、自分自身が当事者となって、こんなに激しい体験をするとは思いませんでした。民進党の中でも新党や再編などに最も消極的な立場だったので、自分が党を立ち上げるなんて想像もしていませんでした。

政権交代目的化はダメ

「政権交代のため、野党はまとまらなければならない」 という言葉は、 この選挙では説得力を持っていませんでした。 国民にとって 「政権交代」が重要なのではなく、 結果的によい政治をしてくれるか否か。 むしろ、 党が何を目指すのか、 自民党とどこが違うのか 明確にしてほしいとの求めこそ 強くありました。   この声に応えたことが 今回の衆院選での 立憲民主党の結果につながりました。 違うものを無理やり1つの箱に入れるのでなく、 相違点を別々の党として明確にする。 その上で 「一致点の範囲で協力しましょう」 と目に見える形で決める。   私は民主党、民進党で幹事長をやっていたとき、 党運営に相当無理をしていた自覚がありました。 反省も込めていえば、 おそらく 国民の皆さんもそう感じていたからこそ、 いくらアピールしても 支持率や選挙結果に結びつかなかったのでしょう。 もちろん、 今のわが党の支持率が実力とは思いませんが、 明確に立ち位置を示すことが大事でした。   「なぜ希望の党や民進党と国会で統一会派を組まないのか」 とも指摘されますが、 統一会派という枠組みの話に引っ張られるあまり、 立憲民主党の立ち位置が 不明確になるのなら元も子もありません。 そもそも、 僕は希望の党との カラーの違いを感じたから 合流しなかったのですから。   したがって 希望の党と再合流なんてあり得ません。 自己否定になってしまいます。 立憲民主党と希望の党、民進党が再び1つになって 政権交代を目指すべきだとの意見もありますが、 衆院選を通じて学んだのは、 政権交代が自己目的化してしまったら 国民から支持されないという事実です。 可能な範囲で 野党間の連携、協力を進めることは必要ですが、 私は政権交代から逆算する立場とは違います。 国民の皆さんは、 理念、政策を無視してまで 何が何でも 政権が代わってほしいとは 思わないでしょう。

護憲政党とは違います

  立憲民主党は「護憲政党」と レッテルを貼られることがありますが、 違います。 私自身、政治家として24年間、 「あなたは護憲派ですか、改憲派ですか」 という質問に 「護憲派」と答えたことは一度もありません。 憲法が良く変わるなら変えればいいし、 悪く変わるなら徹底的に反対する。   私もかつて、 解釈改憲ができないよう 憲法9条に個別的自衛権の限界を ギチギチに明記するのはありだと 私案に書いたことがあります。 もし憲法9条に3項を書き加え、 個別的自衛権まで否定するような案が出てきたら、 「改憲派」を称する人たちは猛反対するでしょう。 「護憲」と「改憲」は、 案件や方向で立場が入れ替わるのです。   わが党の憲法議論は「立憲主義」。 もし条文を変えるのならば、 憲法というルールで、 どう権力の暴走をより良く歯止めをかける方向に 持っていくか。 こういう議論です。 一番は、首相による解散権の制約の話。 次いで臨時国会の召集期限。 「護憲」ではないので、 建設的な良い議論なら否定しません。   現在の自民党の改憲議論は非常に内向きです。 そもそも 国民投票で否決されるような発議をすべきでない。 今回の衆院選で、 自民、公明両党を合わせた得票率は 選挙区でも5割を切りました。 その状況で、現在の、 たまたまの議席で押し切って発議して、 国民投票で否決されたらどうするんですか。 それこそ最悪ですよ。 あえていえば、 共産党にも賛成してもらうぐらいの 発議をしなければならないんじゃないですか。

今でも欅坂「不協和音」

  外交・安全保障の立ち位置も質問されますが、 コントロールできない周囲の国際状況に 左右されるため本来、選択肢の幅は狭い。 その中で何を選択するかは、 主義主張やイデオロギーでなく 現実的外交交渉の話です。 日米同盟は基軸ですし、 むしろ強化すべきだと考えています。   年が明ければ、 広く一般に党員募集に向けた動きを始めます。 党所属国会議員のいる地域には、 できれば年内に都道府県組織も立ち上げたい。 民進党で一緒にやってきた自治体議員らとの関係は 大切にしたいと思いますが、 それ以上に、 衆院選で立憲民主党に期待し投票いただいた皆さんに 応えていかなければならない。 地域に根を張った組織づくりを 進めることはそうした皆さんへの責任です。   衆院選後、趣味のカラオケに4、5回行きました。 党を立ち上げる直前に 私が欅坂46の「不協和音」を歌いたいとつぶやいたことが 話題になりましたが、 前から歌っていました。 今でも歌っています。
嘘もないし驕りもない 媚びることもしない高潔さが感じられながら カジュアルな雰囲気を忘れない能動性がある。 政党の指導者が参考にすべき点は多いのは確かだ。 悪い人ではないと 相手に感じさせる人柄には違いない。 しかし どうして これほど党としての考え方や 憲法や外交の考え方を 簡潔ではあるが 非常に明快に迷いのない姿勢を 表現できるのに どうして経済のことには 触れていないのだろう。 主要三教科以外は不得意だから センター試験は諦めて 私立一本に絞る受験生ならわかる。 しかし政治はそうはいかないし 見たくないものを見ないことで 高潔を保つのは どう考えても正しい姿勢ではない。 政治が経済のためのものであってはいけない、 しかし 政治には経済がその手段として 必要だ。 安倍政権にしても どの長期政権にしても 経済をよくするという ハンディを抱きながら 高邁な理想を追求するから 苦労しているわけで そこを本気で考え クリアすることなくしては 政権は取れない。 しかし枝野さんの言説をよく読むと 政権を取るつもりはないとは言わないまでも 政権奪取ありき ではないのは確かなようだ。 結果として 政権がついてくるという姿勢は 悪いとは思わないが 予め相手よりもハンディを減らした 身軽な条件の上で戦う設定を行うのは 正しいとは思わない。 昔からある 反対のための反対を唱える野党と 本質的には変わらない。 枝野さんご自身が 健全なお人柄であることは否定しないが 政党としての健全性を 語るには 経済を避けてほしくはない。 また 下のように 旧民進党には 党というブランドを尊重するより いかに自分を目立たせるか といった考え方が まだまだ根強い。 立憲民主というブランドが確立してきた頃をみ計らって わけのわからんアホなことを言い出す 引っ掻き回し屋が現れることは 十分に予想される。 民進党で苦労された枝野さんなら もうすでに想定されているかもしれないが 気をつけていただきたい。 下は 「お行儀が悪い」 と言いたいのではなくて 自分ファーストが 当たり前になってしまっていないかと 考えて欲しいという意味で。
産経新聞 より

これが立憲民主党の「まっとうな政治」か?本会議場をウロウロ、居眠り 今国会、党首の会見なし

【野党ウオッチ】

  10月の衆院選で 「まっとうな政治」というスローガンを掲げて戦い、 野党第一党に躍り出た立憲民主党が何かおかしい。 立憲民主党は、 民進党の希望の党への合流構想を嫌った有権者が、 「永田町の論理」と距離を置き 「草の根の民主主義」を訴えた 枝野幸男代表(53)の姿勢に共感して 躍進したとみられる。 だからこそ当選した議員もさぞ 「永田町の論理」から距離を置くのだろうと 本会議場を記者席からのぞいてみると、 「まっとうな政治」とは言えない光景が広がっていた。   「朝鮮半島で軍事衝突が発生した場合の甚大な犠牲は明らかです。 先月末の米国の議会調査局の報告では、 北朝鮮が通常兵器のみを使用する場合でも、 軍事衝突の最初の1日だけで、 ソウルで3万から30万人の民間人が 死亡すると想定されています。 日本が直接の標的となる可能性も 高いと言わざるを得ません」   11月21日午後、 衆院会派「無所属の会」に所属する13人を代表して 岡田克也氏(64)は 衆院本会議場でこう声を張り上げていた。 共産党席から時々、拍手が起こったが、 かつて民主党・民進党と野党第一党を率いた 岡田氏の代表質問に対する野党側の反応とは思えない 寒々しい印象を受けた。 岡田氏の代表質問は約10分だったが、 その間、 野党側記者席の真下では 立憲民主党の辻元清美国対委員長(57)や 山内康一国対委員長代理(44)、 手塚仁雄国対筆頭副委員長(51)らが うごめいていた。   この日、自民党の森山裕国対委員長(72)と辻元氏は、 特別国会後初となる衆院予算委員会の 開催日程や質問時間の与野党配分をめぐり、 午前中から断続的に協議していた。 与党側は従来の 「与党2対野党8」の慣例を改めて 「与党5対野党5」に変更するよう求めていたが、 野党側は従来通り行うよう主張し、 協議は平行線をたどっていた。   当時、 与党側は議席数に応じて 質問時間を配分するよう要求し、 一方の野党も行政府のチェックこそが 立法府の役割だとして一歩も譲らなかった。 この難しい局面をいかに取りまとめるかは、 野党第一党・立憲民主党の国対委員長である 辻元氏の手腕にかかっていた。   11月1日に召集された特別国会の会期は 当初8日間だったが、 野党側の強い要望により39日間となった。 質問時間の配分でも与党側の要求をはね付け、 野党第一党としての存在感を示したい−。 辻元氏らの頭にはそんな思いがよぎっていたのではないか。   本会議中、辻元氏と手塚、山内両氏は何度も席を立ち、 会話を交わし、 その光景を枝野氏が黙認していることに 猛烈な違和感を覚えた。 いやしくもかつての同僚である岡田氏が登壇し、 政府の方針をただしているにも関わらず、 眼下に広がる野党席では議員が落ち着きなく、 立ち歩き、際限なく“おしゃべり”を続けるのだ。   岡田氏が聞いた朝鮮半島有事に関する質問は、 国民の生命・財産に直結する事柄だ。 辻元氏らは、 国民の生命・財産に関わる以上に 大事な話をしていたのだろうか。 そもそも本会議場でなければできない話なのか。   いくら聞き耳を立てても 記者席から議場内での議員同士の会話は聞こえない。 本会議後に与野党が 11月27、28両日に衆院予算委を開くことに 決めたことから察するに、 辻元氏らは 質問時間の配分で強気の姿勢を崩さない与党側との 交渉戦術でも練っていたとみられる。 時に「与野党の談合」と称される 「国対政治」こそ「永田町の論理」の典型だが、 そんなことに構っていられなかったのだろう。   国民の知る権利に応えるためにも、 野党には仕事をしてもらわなければならない。 その意味で、 野党側が 従来通りに質問時間を配分するよう求めたのは理がある。 だが、 国民の負託を受けた立法府として 衆院の最終的な判断を下す本会議場でなすべきことなのか。   私は幼稚園のころから、 授業中は立ち歩かないよう、 人が話している最中は最後まで聞くよう教わってきた。 小学校の息子と、 幼稚園の娘も同じように教わっているだろう。 民間企業で会議中に部屋を抜け出したり、 同僚とペチャクチャ話したりすることはあり得ないし、 少なくとも私は見たことがない。 しかし、以前からそうだが、 永田町にこの常識はない。   立憲民主党は 「まっとうな政治」と「草の根の民主主義」 を掲げている。 辻元氏も衆院選の当選直後、 地元で 「まっとうな政治の実現に向けて大きな輪が広がり、当選させていただいた」 「一番大変な選挙だった。非常に厳しい国会運営になると思うが、ぶれずに新たな動きを作っていく決意を新たにした」 と語っていた。 しかし、辻元氏らが本会議場で繰り広げた行動は 「まっとうな政治」どころか、 旧態依然とした「永田町の論理」そのものだった。   国民の知る権利に応えるためにも、 野党には仕事をしてもらわなければならない。 その意味で、 野党側が従来通りに質問時間を配分するよう求めたのは 理がある。 だが、 国民の負託を受けた立法府として 衆院の最終的な判断を下す本会議場で なすべきことなのか。 立憲民主党の議員は 12月5日午後の衆院本会議でも 「永田町の論理」を実践した。 この日の議題は、 弾道ミサイルを発射した北朝鮮に対する抗議の決議や 国家公務員らの給与に関する 法律の改正案などの採決だった。 約35分間の短さだったにもかかわらず、 深く頭を垂れ、 気持ちよさそうにうつらうつらしている 立憲民主党の議員が続出した。   本会議や委員会での 離席、立ち話、談笑、居眠り、読書、スマホ操作は、 別に立憲民主党の議員に限ったことではない。 永田町の日常の風景である。 「まっとうな政治」を掲げ、 「永田町の論理」からの脱却を掲げる 立憲民主党の議員もまた、 何ら変わらず踏襲していた。   ちなみに立憲民主党は今国会中、 一度も枝野氏の記者会見を開いていない。 代表の定例記者会見を開くことが 「永田町の論理」だということだろうか。 不倫疑惑の渦中にある 同じ会派の山尾志桜里衆院議員(43)や、 セクハラ疑惑を週刊誌報道された 初鹿明博(48)、青山雅幸両衆院議員(55)に 関する質問が嫌なのではないかと勘ぐってしまう。   こうした疑いを払拭するためにも、 枝野氏は早々に代表としての記者会見を開き、 所属議員の疑惑について説明責任を果たし、 「まっとうな政治」の お手本を見せるべきではないだろうか。
posted by sachi at 07:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治

2017年12月07日

橋下徹"藤原帰一氏の対北論は疑問だらけ"

PRESIDENT より

橋下徹"藤原帰一氏の対北論は疑問だらけ"

藤原帰一氏の「通常兵器による抑止力」は、ここがおかしい

こないだ東大で行われたシンポジウムに行ってきた。 「核の脅威にどう対処すべきか」 というテーマ。 国際政治学者の三浦瑠麗さんの所属する 東大政策ビジョン研究センター安全保障ユニットと 長崎大学核兵器廃絶研究センターが 合同で行ったもので、 13時から16時30分までみっちり3時間半。 もちろん僕は一般聴講者として参加したよ。 北朝鮮問題に関して メディアを賑わしている学者の意見を聞いても、 ビビッと感じるものがない。 現状を説明して、 あとは北朝鮮問題は難しいですね、 解決策は浮かばないですねという話ばかり。 この方向に行けば 解決の糸口が見えるかもしれない と感じるような意見は皆無なんだよね。 政治家は解決に向けて 何らかの方策を採らなければならない。 評論家のように 意見を言うだけじゃダメだめなんだ。 ゆえに少しでも事態を動かすきっかけ、 糸口が欲しい。 しかしこの北朝鮮問題に関しては、 一度この方向に行ってみるか、 と政治家に思わせるような提言が 学者からなされることはほとんどない。 ほとんどが現状の解説なんだよね。 (略) 東大での藤原さん (藤原帰一・東京大学大学院教授) たちの議論も、 北朝鮮は悪い、 世界から核をなくしていくことが良いことだ、 という大前提を基にしていた。 そこへの疑いはなさそうだった。 ただし、 アメリカが正しいという前提はなさそうだった。 この前提を基に、 藤原さんには、 さらに興味深い認識の前提があった。 それは 「通常兵器による抑止力は認めるが、核兵器による抑止力は認めない」 というもの。 北朝鮮問題に対する国際社会の対応が 手詰まりになっている現在においては、 誰もが当然視している 「核兵器NO」、 「核による抑止力NO」、 「北朝鮮NO」 という大前提について もう一度疑ってかかる必要がある。 この大前提に狂いはないのかという視点で。 そうすると 元政治家の僕としては、 藤原さんが前提としていた 「通常兵器による抑止力は認めるが、核兵器による抑止力は認めない」 というころには強い違和感を覚えるんだよね。 (略)

物理学の「力の均衡」とは違い通常兵器の力の均衡はほぼ不可能

抑止力とはそれを一方的に 「保有すること」 が目的ではない。 抑止力によって 「力の均衡を保つこと」 が目的であり、 抑止力そのものは手段である。 ここは皆さんがこれまで聞いていた話とは 少し異なるところかもしれないので、 よく考えて下さい。 ここがまさに、 これまで当然視されていた大前提への疑問・検証です。 抑止力とは 「相手に負けない力」 と解するのがこれまでの一般的な理屈。 とにかく相手に負けないように 自分の力を強くする。 でも自分の力を強くするだけでは、 力の強弱は永遠に解消されず、 いつまでたっても不安定な状態が続く。 つまり 強い者から弱い者への 攻撃の可能性が残り続ける。 この不安定な状態が武力紛争を生む最大の要因だ。 だから武力紛争を生まないために 重要なことは自分の力と相手の力を 「均衡」させ、 国どうしの力関係を安定させることだ。 自分の力だけを強化すればいいというわけではない。 相手の力に釣り合うものでなければならない。 他方、自分の力だけで足りない場合には、 仲間(同盟国)の力を借りて 相手の力と均衡させる。 すなわち、 抑止力とは相手に対する一方的な力のことではない。 相手との関係で 「力の均衡」 を保つための力こそが抑止力だ。 抑止力=力の均衡だ。 では 通常兵器によって どのように国どうしの力の均衡を保つのか。 藤原さんのように 頭の中では通常兵器による抑止力 (=力の均衡) を考えることは可能であっても、 現実の国際政治の世界で、 通常兵器によってどのように 国の力を均衡させるのかを論じることは不可能だろう。 今回のシンポジウムでも藤原さんは、 「通常兵器による抑止力」 という言葉を発することはあっても、 では それをどのように 実現するかについては全く言及がなかった。 力の均衡という言葉を発するのは 誰でもできるけど、 実際に力を均衡させる行動をとるのは至難の業。 例えば高層ビル間を ロープで繋いだ綱渡りをやっている人を見て、 「いやーバランスが取れている!」 と他人事のように言葉を発するのは誰でもできる。 でも、 じゃあお前が綱渡りをやってみろ!  と言われても そんなことはできるはずがない。 藤原さんが 通常兵器による力の均衡 という言葉を発することは、 まさに危険を冒して綱渡りをやっている人に対して、 安全なところから 「バランスが取れている!」 と解説していることと同じ。 しかし 政治家はその綱渡りをする当事者なんだよね。 (略) そういや物理学で出てくる 「力の均衡」は、 結構簡単に実現できる。 計測が可能で 計算で求めることができるからね。 だからお勉強をずっとやってきた人たちは この物理学での知識が影響しているのか、 軍事力を各国で均衡させることは 簡単にできると考えがちのような気がする。 実際のケンカをやったことがある者は皆知っている。 ケンカをやる前に、 自分と相手との力が均衡しているかどうかを知ることは 至難の業であるということを。 だってケンカの際の力なんて 単純な数字で測ることはできないからね。 だから現実の国際政治のプレイヤー(指導者)が 軍事力を均衡させるのはほぼ不可能に近い。

「核兵器は悪」という大前提に流されない議論を!

それでも、 このように事前に知ることが 困難な軍事力の均衡状態を唯一認識できる たった一つのポイント・状態というものは存在する。 それは、 自分が手出しをすれば 自分も必ず死に至るほどの 反撃力を相手が持っている状態。 そこまでの圧倒的な力を 自分も相手も双方が持っている場合には、 力の均衡状態を 明確に認識することができる。 だって 自分が手出しすれば 自分も必ず死に至るんだったら 普通は手出しをしないでしょ。 そしてお互いに そういう状態に陥っているのなら、 お互いに手出しはしないはず。 つまりこのような場合に 初めて双方お互いに手出しができないという意味で 力の均衡状態が明確になるんだ。 これを国際政治学での安全保障論の世界では 「相互確証破壊」 という小難しい言葉で表現する。 お互いに相手国の存在を 確実に消してしまうほどの力を相互に持っていること。 自国が相手国に手出しをすれば、 自国も確実に完全に消滅させられる状態に 相互が置かれている状況。 国を人間に置き換えて言えば、 お互いにピストルを至近距離で突き付け、 そのピストルの引き金に お互いに指をかけている状態。 つまりお互いに手出しが全くできない状況。 これは大変な恐怖に満ちた状態だけど、 力の均衡は保たれている。 これを国家間の関係に当てはめると、 核兵器を相互に保有することになるんだ。 通常兵器では、 相手国を完全に消滅させるというところまでは 簡単には至らない。 ゆえに必ず強者と弱者が生まれる。 よって力の均衡状態には至らず、 何かのきっかけで一方当事国が武力行使を始め得る。 つまり相手国に手出しする場合が生じ得る。 ところが、 核兵器の場合には相手国を 確実に完全に消滅させる。 そうするとお互いに核兵器を保有することで 力の強弱はなくなる。 自国が確実に消滅するリスクが 目の前に現れることによって、 初めて相手国に全く手出しができなくなる。 まさに核兵器を相互に持つことによって、 軍事力の均衡状態が生まれる。 以上をまとめると、 通常兵器での抑止力=力の均衡を作り出すことは 現実的には不可能。 軍事力の均衡状態を作り出すには、 核兵器による抑止力=力の均衡しかあり得えない。 藤原さんら学者の世界で 通常兵器による抑止力=力の均衡が可能と言うのであれば、 世界各国がどのような 通常兵器をどのように配備・配置すれば 均衡状態に達するのか しっかりと具体的に明示すべきだ。 藤原さんの持論は、 通常兵器による抑止力=力の均衡が 可能だという大前提を基に、 だからこそ 核兵器による抑止力=力の均衡は 不要だというロジックだ。 もし通常兵器による抑止力=力の均衡が 不可能なのであれば、 核兵器による抑止力=力の均衡を 不要だと安易に主張することは 国際政治の専門家として 無責任極まりない。 国際社会、 特にインテリの世界において 「核兵器は悪だ」と当然視されている大前提に 流されているに過ぎない。 (ここまで約3300字、メルマガ本文は約1万5000字です)
いつも感心するが 橋下徹は 多くの日本人がいつも大切に育てている 「罪悪感」と言う妖怪に騙されない。 日本人の多くは 罪悪感によって人をコントロールし また 罪悪感によって 自分を律しようとする人さえいる。 そうやって社会のバランスをとって来た。 決して合理的な論理性によって 物事を決定して 考え抜かれた社会のあり方を 作り出して来たわけではない。 だから 罪悪感によるコントロールの効かない人を 半ば本能的に排除しようとする。 橋下徹ような人物を嫌う人の多くは その思想や言説について 論理的に間違いを指摘するのではなくて 罪悪感のよるコントロールが効かないことに 恐怖を感じている。 そして 「核」についても 罪悪感を設定して来た。 そして核が悪であることを確立して そして恐怖をコントロールしようとして来た。 もちろん核がないに越したことはない。 ないに越したことはないと言うのは 世の中に存在しないに越したことはない と言う意味だ。 しかし 存在する事実があれば それを管理しなくてはならない。 その管理は力の均衡は必要だ。 核への恐怖心をコントロールすることと 核そのものをコントロールすることは違う。 恐怖心をコントロールするには 対象から極力離れることが大切だが 対象そのものをコントロール・管理するには 好むと好まざるとに関わらず 極力対象の近くに行かなくてはならない。 政治学などの社会科学は 自然科学ほど明確な数値での立証などは できないのはわかるが 明確な根拠を示すことなく 核を持たないことを前提に 論を進めるのは 良いこととは思えない。
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2017年12月05日

石破 茂 韓国・仁川でのフォーラムなど

BLOGOS より

石破 茂 韓国・仁川でのフォーラムなど

石破 茂 です。   今週衆参両院において開催された 予算委員会は、 野党側の質問内容の重複や 論点の拡散などが目立ち、 質問と答弁との擦れ違いもあって 消化不良のままに終わってしまった ように思われました。   質問に臨むにあたっては、 予め一貫したストーリーを組み立て、 議論のあらゆる展開を想定して 精密に構成と内容を 練り上げておかなくては ならないのですが、 どうにもそのような姿勢が 多くの野党側の質問者に感じられず、 これが通常国会でも 延々と続くのかと思うと 暗澹たる思いが致します。   政府・与党側にせよ、 野党側にせよ、 有権者には 政治家の真剣な姿勢の有無が 見抜かれていることを思い、 一層自重自戒しなければならないと 痛感しています。   27日に韓国・仁川で開催された 「次世代のグローバルガバナンスと北東アジア協力」 と題するフォーラムは、 なかなか興味深いものでした。 韓国からは国会議長をはじめとする 国会議員、ロシアからは国会副議長、 中国からは清華大学教授が参加し、 それぞれの立場の違いが 垣間見えたようにも思いました。   私はスピーチの中で、 「日韓は『対立の管理』から『協力の開拓』の関係を目指すべき」 と述べたのですが、 韓国側の虚を突かれたような 反応が印象的でした。 領土問題や歴史認識で 両国の立場は大きく異なっており、 譲れないものは 決して妥協してはなりませんが、 置かれた現状が相当に似通っている 安全保障問題や人口急減、 首都一極集中、 外国人労働者問題など、 互いに話し合い、 解決を目指すべきテーマは 多くあるのであって、 文在寅大統領の提唱する 「ツー・トラック方式」 がそれを志向しているものであれば いいと思います。 国内世論に配意するあまりの 日韓の冷えた関係が 何処を利する結果となるのか、 考えてみる必要があります。   今回の 北朝鮮によるミサイル発射についても、 その意図を巡って 様々な議論がありますが、 ああまたか、 と反応を鈍化させることは禁物で、 ミサイルと核の小型化の技術が 着実に進展しつつあることを よく認識しなくてはなりません。 北朝鮮とアメリカが ICBMの廃棄、核拡散の凍結、 体制の保障などで合意し、 現状が固定されるという状況を 回避するために何をすべきなのか、 まさしく時間との戦いです。   その意味で 「米中戦争前夜 新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ」 (グレアム・アリソン著・ダイヤモンド社刊) は興味深い論考です。   著者は レーガン政権からオバマ政権まで、 40年近くにわたって 米国国防長官の顧問を務めた ハーバードケネディスクールの 初代学長ですが、 年末年始に精読してみたいと思います。   毎年 この時期に述べている気も致しますが、 12月となりクリスマスも近づくと、 いつも0・ヘンリーの不朽の名作 「賢者の贈り物」 を読み返したくなります。   さる11月26日、 立正大学熊谷キャンパスで 講演をした際にお目にかかった 斎藤昇学長は アメリカ文学の研究家なのですが、 同学長からご著書 「ユーモア・ウイット・ペーソス 短編小説の名手0・ヘンリー」 〈NHK出版〉を ご恵贈いただきました。 文庫本末尾の解説とは また違った深い味わいがあり、 短編集や傑作選 (いずれも新潮文庫) と併せて読んでごらんになることを お勧めいたします。   週末は、 3日日曜日に 長野県佐久市における講演会 「国政の動きと佐久市の将来展望」 (午後3時・佐久平交流センター)、 参加者の方々との懇談夕食会 (午後5時半・佐久市内) という日程です。   本年もあとひと月たらず、 皆様ご多忙のことと存じますが、 ご健勝にてお過ごしくださいませ。
与党は頭の良い人の集まりで、 野党は頭の悪い人の集まり という事態だけは 何としても避けたい。 それでは 結果的に民主主義が機能しない。 現状がそこまで行っているとは さすがに思わないが この先 そうなってしまうのではないかと 心配させられることは多々ある。 特に世間では 頭の良い人ということになっている 東大出身者の 独善的な振る舞いとか 官僚としての成功体験が そのまま政治の世界で通用すると 思っているとしか思えない振る舞い などが目につく。 学業など 一点突破的な能力に秀でていても コミュニケーションや洞察 そして創造的な発想力に 優れていなければ 政治家として 頭がいいとは言えないことを 理解しているようには思えない。 今 石破さんか安倍さんの どっちを支持するか と問われれば 安倍さんと言うが 石破さんの文章を読むと 石破さんが 優れた政治家であることは 一目瞭然だし 何よりも 政治家である以前に 人として 心豊かなで 極めて聡明な人物であることがわかる。 良い言い方でないのは 百も承知だが 本当に頭がいいのである。 このままでは 与党と野党の 質的な格差がますます広がる。 それをなんとかできるのは 野党自身だ。 本当に長期的な視野に立って 本気で考えてほしい。

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辻元清美議員の「本性」...横暴で重要法案が相次ぎ「飛ぶ」、関係者が大迷惑

 より

辻元清美議員の「本性」...横暴で重要法案が相次ぎ「飛ぶ」、関係者が大迷惑

国会議員秘書歴20年以上の 神澤志万です。 解散総選挙から1カ月あまり、 再就職先を探していた秘書たちの活動も やっと落ち着いてきたところです。 議員会館の通路で 新しい名刺を交換している姿を見る機会も 減ってきました。 さて、 私たち秘書が 10月分のお給料をもらうことができる 登録の期限は、 総選挙後の10月23日から11月20日でした。 この間は、 国会内に 秘書採用登録の 特設会場が設けられ、 毎日数回の館内放送でも、 その旨が アナウンスされます。 再選した議員事務所の秘書も含め、 衆議院の公設秘書全員が この期間中に再登録するのですが、 落選で失職した秘書たちは必死です。 再就職先を11月20日までに 見つけられなかった場合、 解散後の仕事は文字通りの “タダ働き”となってしまうからです。 以前なら、 落選候補のなかには “お疲れさま料”として、 ある程度の金額を包んでくれるケースもありましたが、今回はあまり聞きませんでした。 みんな、財布事情は苦しいのが実情なんですね。

●立憲民主党議員、秘書採用に“異例の条件”提示

今回、 秘書たちの再就職希望先で もっとも人気のなかった政党が 立憲民主党でした。 泣く泣く、立憲民主党議員の秘書になった 仲間が大勢います。 なぜなら、 共産党との選挙協力が いつまで続くのか不透明だからです。 次回の選挙では 落選あるいは立候補自体できない状況に なるかもしれない……という不安があるのです。 また、 党として政策立案を重要視しているようで、 秘書の採用条件に 「国会質疑対応ができること」 を採り入れた新人議員が 多かったことも ネックになったと聞いています。 実は、 政策秘書のなかでも 国会議員の質問を作成できる能力を持つ人は 2割ほどしかいないといわれています。 立憲民主党のある新人議員は、 その条件を提示したことで 数人の秘書に採用を 辞退されてしまったそうです。 議員側が「採用」と言っているのに 秘書側から断るなんて、 聞いたことがありません。 まぁ、その新人議員さんの 「性格に難がある」 という噂も影響しているのかもしれませんが。

●辻元清美が露呈した「融通のきかなさ」

「落ち着いたところで本格的に政策論争がスタート」 となればよかったのですが、 融通のきかない立憲民主党の 国会対策委員長・辻元清美議員のせいで、 衆院予算委員会の質疑時間配分をめぐって、 また委員会質疑が ストップする事態になりました。 確かに、 「予算委員会の質疑時間の配分を与党も野党も同じように」 というのはおかしいと思います。 しかし、 その交渉を、 ほかの質疑時間を犠牲にしてまで 同じテーブルで話し合うのは どうなのかと思います。 この融通のきかなさは、 民進党時代とまったく変わっていません。 おかげで、 今国会で成立させるべきだった法案が いくつも飛びました。 「飛ぶ」とは、 今国会で成立する見込みがなくなってしまった という意味です。 いずれの法案も、 国民の生活に密接にかかわっているものでした。 予定されていた委員会日程も 変更になり、 また秘書や官僚たちの家族が 迷惑を被りました。 「何も変わらないなら、民進党のままでいればよかったのに」 とすら思います。 たった3議席の違いですが、 立憲民主党が野党第1党という状況は、 今後がとても心配です。 まぁ、 いつまで第1党でいられるかはわからないですが。 (文=神澤志万/国会議員秘書)
希望の党は小池さんが去って 政党支持率が旧民進党並みに戻って 言うことやることが旧民進党と変わらなくなって 実質的にもう死に体だ。 エダノンの人気で持っている立憲民主も エダノンに スポットが当たっているうちは良いが どんどん民進化している。 その民進化とはどういうことかというと 状況の読み込みが足りない または 状況が客観的に見えていない。 だから 党全体のことよりも 自分が目立つことを重視する。 そのため 物事の重要度の優先順位がつけられない。 それが 全体として 何をどうしたいのか わかりずらい つまり 支持しづらく 投票しづらい党になっている。 辻元さんにとっては 必要な法案の早期成立は 優先順位の高くない事柄ということなのだが それを普通の人間は理解できない。 心情的には誰しも理解できるが 優先順位のあり方としては 理解できない。 そう見られることを 理解していないことも 理解できない。 希望の党の姿を見ても 立憲民主の状態を見ても やはり 旧民進党の皆さんは あそこまで支持率が下がって 実質的に 解党せざるを得なかった理由を 本気で考えているとは 思えない。 野党が全部ひとかたまりになって 自民党に対抗すれば 自民は負ける。 しかし 民進党が党内でもまとまらず 実質分裂してみれば 随分考えの違う人たちが 一緒の党になっていたことに 改めて驚き さらに 希望の党は 憲法や安全保障で実は一枚岩ではない ことが明らかになる。 これだけ見ても 野党が一つにまとまるわけがない。 選挙の時だけ一緒になって 政権をとったとしても 実際には政権は機能するわけがない。 野党が本当に健全な 政権移行可能な野党になるのであれば、 そういう実際に 政権をとったときに 本当に機能できるかを 本気で考えられないうちは 自民一強が続く。 政権に対抗したり 批判するよりも 今後に向けての有効なやるべきことに 気付いて欲しい。 反対の弁が通っても 政治の機能をそこなえば 政治家個人にとっても 党にとっても マイナスだという メタ認知を持って欲しい。

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2017年12月02日

日本教育の“弱点” グローバルな人材が育たない3つの理由

文春オンライン より

日本教育の“弱点” グローバルな人材が育たない3つの理由

『レッジョ・アプローチ 世界で最も注目される幼児教育』が画期的な理由

1991年、ニューズウィーク誌で 「世界で最も先進的な初期教育」 として「レッジョ・アプローチ」 を取り入れた幼児学校が紹介された。 その教育はモンテッソーリを継ぐ 画期的な手法であるとして 世界中のインテリ層が注目している。 『レッジョ・アプローチ  世界で最も注目される幼児教育』 の著者で、 自身も日本で子育て中の アレッサンドラ・ミラーニさんに、 その特徴を聞いた。 ◆◆◆ 『レッジョ・アプローチ 世界で最も注目される幼児教育』 (アレッサンドラ・ミラーニ 著 水沢透 訳)   私がレッジョ・アプローチに初めて出会ったのは、 今から十数年前のことです。 当時私は、アメリカでしていた、 獣医学の研究者という仕事を途中で中断し、 日本に来て、 インターナショナルスクールの 幼児クラスの教師をしていました。 イタリアで幼稚園教師の資格は 取得していたものの、 現代の、 いろいろな文化的背景を持った 子供を預かる国際的なクラスで教えるために、 一番ふさわしい教育方法は 何かを模索していました。 そんな中で出会ったのが、 1945年に北イタリアの小さな街、 レッジョ・エミリアで生まれた レッジョ・アプローチという 教育法だったのです。

グローバルな人材が育たない日本の教育

 私自身、女の子と男の子、 2人の子供の母親なのですが、 我が子を最初は日本の公立の小学校に 通わせていました。 その体験から、 どんどんグローバル化してゆく これからの社会を 背負って立つ人を育てるという観点から見ると、 日本の教育には大きな欠点が いくつかあることに気付きました。   1つめは、 教育内容が、 子供たちから見て受け身の、 知識の習得中心に偏り過ぎていること、 そして生徒たちがペーパーテストの結果に 縛られ過ぎていることです。   その一方で、 知識を現実の社会や生活と結びつけて、 創造的な学習をすること、 自発的、かつ批判的な思考をしながら、 クリエイティブに物事を推し進めていく力を 養うような教育が、 軽視されているように感じました。   2つめは、 子供の個性を尊重し、 伸ばすような教育がきちんと行われていないこと。 特に中学校以降になると、 全ての生徒が画一的に、 無条件に守らなければいけない 「校則」があります。 でも、その校則が何のためにあるのか、 子供や家族には説明がありません。 ただ決まりだから、 みんな守っているからというだけ。 それを誰も不思議に思わない。 そんな環境で個性的な人間が育つのかな、 という疑問を持ちました。   3つめは、 自分の考えを積極的に主張したり、 他の子と議論したり、 ネゴシエーションしたりということを、 あまりにもさせないこと。 実は、これが一番問題だと思います。 自分とは立場や考え方が違う人と議論したり、 コミュニケーションをとったりという機会が 少ないまま育てられた子供は、 これからどんどん社会が国際化する中で、 様々に意見や利害、 立場が異なる人々が一緒に働く場に置かれたとき、 チームの仕事に重要な貢献をしたり、 イニシアチブをとったりしていくことが、 困難になると思います。

レッジョ・アプローチが日本の子供の弱点を補う

本書のテーマである レッジョ・アプローチは、 子供を無力で、大人から一方的に 物事を教えてもらうべき、 未熟な存在とみなしません。 子供を、 大人と同じ権利を持った人間として認めた上で、 子供の自発的な選択、発想、意志といったものを 最大限に生かします。 これによって子供たちの 自主性、創造力、決断力、表現力が伸びていきます。   レッジョのプレスクールで学ぶ子供たちを見て、 よく驚かれるのは、 パソコンやプリンター、ウェブカメラといった ハイテク機器を使いこなしているだけでなく、 アクリル絵の具や泥、針金といった、 ふつうは幼児に触らせないようなものを使って、 自在にものを作り出していることです。 こうした「汚れるもの」「あぶないもの」から 遠ざけるのではなく、 子供たち自身が注意して扱えるよう 大人がサポートするのが、 レッジョの考え方といえるでしょう。   また、レッジョ・アプローチの教育法には 「時間割」というものがありません。 その日にやる主な活動のプログラムは、 朝のミーティングの時間に 子供たち同士が話し合って決めます。 こうしたことによって 「指示待ち」人間とは違う、 将来、イノベーションを起こせる 能力を持った人材が育っていくのです。   もう1つ重要な点は、 レッジョ・アプローチが、 グループで話し合い、行動する、 つまり「協働」することを重視している ということです。 そうした中で、 子供たちは他者とコミュニケーションをとり、 ネゴシエーションし、 お互いの考え方や好み、 立場の違いをすり合わせながら 物事を前に進めていきます。 本当の意味での 社会性を伸ばしていくことができるのです。   たとえば、 本書の中でも紹介した例ですが、 ある4歳児のグループが皆で使っている 小テーブルの長さを測ることになりました。 彼らはメジャーや物差しのような 道具を持っていないし、 使い方も知りません。 どうしたと思いますか?  最初は毛糸で測ろうとしていたのですが、 両側から引っ張ると 伸びて長さが変わることに気付き、 話し合いの結果、 引っ張っても長さの変わらない お絵描き用のカラーマーカーを 使うことにしたのです。 テーブルの長さは 「カラーマーカー8本とペットボトルのふた1個分」 であることがわかりました。 彼らは4歳にして、 ちゃんと協議し、 皆で協力し合ってものごとを 解決する能力を持っているのです。   このような観点から見ると、 レッジョ・アプローチには、 日本の子供たちの弱い点を 補う力があると思います。 もちろん、幼児教育だけで 教育問題が解決するわけではありません。 しかし、 コミュニケーション能力、社会性、創造性 といったものの基本的な部分は、 子供時代のごく初期に形成され、 その人の生涯にわたって決定的な影響を与える、 非常に重要なものとなります。 ですから、 レッジョ・アプローチの 幼児教育を経験する子供は、 確実に大きなプレゼントを もらうことになるでしょう。

「最も先進的な幼児教育法」と評価される理由

レッジョ・アプローチは、 1つの固定したメソッドではありません。 また一種のマニュアルでもありません。 その本質はひとつの哲学であり、 子供へのアプローチの姿勢です。 その教育現場での実践内容は、 世界の様々な地域の 文化的状況によって変わります。 また新しい社会環境の変化に応じて、 日々刻々と 「アップデート」 されていくものです。   こうした、 ダイナミックに動き続ける 仕組みを持った教育法は、 いままで世界に 例がなかったのではないでしょうか。 だからこそ、 ニューズウィークを始めとする 世界のメディアからも注目を集め、 現在、最も先進的な幼児教育法として 評価されているのです。   本書が、これから日本にレッジョ・アプローチが 導入されるときの 入り口になることができれば幸いです。   私の本を読まれて、 レッジョ・アプローチに 興味を持たれた方もいらっしゃることでしょう。 しかし残念ながら現在のところ、 日本国内には、 まだレッジョ・アプローチに関する専門の組織や、 完全なかたちで レッジョ・アプローチによる教育を行っている 幼稚園等はありません。 ただ私を含め、 数人の教師によって レッジョ・アプローチを取り入れた教育をしている プレスクールが東京にあります。 スクール側の日程と都合が合えば、 ご参観いただける可能性がありますので、 幼児教育の専門家や親御さんで参観を希望される方は、下記までお問い合わせください。 KOMAZAWA PARK INTERNATIONAL SCHOOL FOREST KINDERGARTEN http://www.kpischool.com/j.contact.html   なお、ご予約なしのご訪問は固くお断りいたします。   本書の内容、およびレッジョ・アプローチに関するご質問は、お手数ですが、下記のアドレスまで必ず英文にてお問い合わせください。 milani@il-centro.net ――― アレッサンドラ・ミラーニ 1966年、イタリアのカステルフランコ・ヴェネト生まれ。故郷で幼児教育と学童教育を学び、小学校教員の資格を取得。パルマ大学獣医学科を卒業後、EUの奨学金でスペインのサラゴサ大学に留学。1993年米国のカリフォルニア大学デービス校に移り、比較病理学の修士号を得る。その後同校の研究者として勤務していたが、幼児教育への情熱を捨てがたく、縁あって来日した後はその道に専心。約9年前、在日イタリア人やイタリア人とのハーフの子供を教えるプレスクール、ダンテ・アリギエーリ協会東京支部「GGDA」http://www.il-centro.net/wpggda/を創設、校長兼教員に就任。レッジョ・エミリアのメソッドを使った教育を実践している。二児の母でもある。
だいたいこの手の話は 日本の将来に向けた話で 緊急性はない話として 扱われるものだが、 そのこと自体が 大きな問題だと思っていただきたい。 確かに来月末までには なんとかしなければいけない ような緊急性ではないが 欧米の人間が 今普通にしているような 国という単位を意識せずに いろいろな文化を受け入れて楽しみ たくさんの意味ある刺激から より個性的な自己や社会のあり方を 考えている姿を考えると 日本がこのままで良いわけがない とごく当たり前に感じる。 生活のエリアが 狭ければ狭いほど 人間関係や 形式的な手続きのようなものの 重要度が増す。 反対に エリアが広くなれば広くなるほど 自分が自分の立場や もののあり方を 主張しなければならない場が増え 結果的に積極的な工夫や創造が 必要になる。 人間関係や 形式的な手続きのようなものでも 当然工夫や創造は本来必要なのだが ともすれば 過度に周囲に自分を合わせること つまり 考えないことの方が 価値を持ちやすくなる。 そこで違ってくる 個人の人生の質 また 社会への意識の質 社会そのもの質の違いは まだまだ日本人の多くには 伝わっていないかもしれない。 もっとも それは海外旅行で 知ることのできる質のものではない。 短期間であっても 海外の生活にふれ 家庭生活にふれ 個人のヴィジョンにふれなくては 実感できないかもしれない。 しかし 本などのメディアから 知識として知って置くことは できるし必要だと思っている。 そして グローバル化とは 乗り越えなくてはいけない 難しい課題ではなくて 待っている すばらしく 楽しい姿であることも 知っていく必要がある。

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2017年12月01日

朝日批判した自民・和田政宗参院議員のFB投稿、安倍首相がシェア 森友設置趣意書問題

産経新聞 より

朝日批判した自民・和田政宗参院議員のFB投稿、安倍首相がシェア 森友設置趣意書問題

安倍晋三首相が自らのフェイスブックで、 自民党の和田政宗参院議員が書いた 学校法人「森友学園」問題をめぐる 朝日新聞の報道姿勢を批判する投稿を シェアしていたことが30日、分かった。 これまで首相のフェイスブックは 各国首脳会談の内容や 政策の進捗(しんちょく)などについての 投稿が多く、 他の政治家の投稿をシェアするケースは珍しい。   首相が共有したのは、 25日に和田氏が書き込んだ フェイスブックの投稿だ。   朝日新聞は5月、 同学園前理事長、 籠池泰典被告への取材に基づいて、 同氏が「安倍晋三記念小学校」 という校名を記した 「設置趣意書」を財務省近畿財務局に 提出していたと報じていた。 だが、近畿財務局が24日、 同学園の設立趣意書を公開したところ、 「開成小学校」と記載されていた。 同紙は報道した事実が 異なっていたにもかかわらず、 訂正しなかった。   これを受けて和田氏は25日、 自身のフェイスブックで 「朝日新聞はこのまま開き直るのだろうか」 「提出した設置趣意書のコピーを 籠池氏は持っているはず (当たり前のこと) で、朝日新聞はそれを確認せずに報道した」 と批判した。 さらにNHKでの経験を踏まえ、 「普通はデスクが、 原稿を書いた記者に 『確認したのか? 証拠は?』 と問い、 コピーの確認ができていないのであれば 確定的に報道しない」 などと書き込み、 朝日新聞の姿勢に疑問を投げかけた。   首相も28日の衆院予算委員会で、 「籠池氏が言ったことをうのみにし、 『安倍晋三小学校』 という申請があったと報道した」 などと批判していた。
事実が どれだけ大きなことかを 理解していないのだから 慰安婦問題を起こして当然だ。 そのあと 誤報を認めても その「事実」に対する姿勢は 全く変わっていないのであれば またやらかすのは当然だ。 これは 朝日新聞が 右であるとか 左であるとかといった イデオロギーの問題のこととは 全く関係ない。 レストランで出す料理に 毒を入れてはいけない という当たり前の社会の約束事と 同じレベルのことだ。 そもそも誤報とは 言葉の意味は 誤った報道ということで どんな場合でも 誤った報道は 誤報といって良いわけだが 実際にその言葉が使用される場合 基本的に事実を報道するつもりで 報道したしたものがなんらかの理由で 誤っていた。 ということなわけだ。 しかし 和田氏の指摘を見る限り 人並みのチェックが なされた形跡が ないことを考えると 半分意図的な誤報と言えるし 意図的な誤報とは 誤報というより 単なる嘘つきなのである。 表現の自由、言論の自由は 守られなくてはいけない。 しかし 逆説的な話だが 悪意の表現、悪意の言論が 蔓延すれば 表現の自由は立ち行かなくなるわけで 公権力が行使される前に その蔓延を防ぐのは 世論の力や市民レベルの表現 つまり抑止力も 表現の自由から発するのが 社会のあり方として健全だ。 下の話のように 健全な方向に向かう力はあるが そういった批判力が 情報リテラシーの高さ低さで 差が出ているとすれば 情報リテラシーの重要性は もっと語られなければならない。
長崎県平戸市長「朝日、購読やめた!」ツイートでフォロワー1千人近く増加 「こんなに嫌われているのか」
http://www.sankei.com/entertainments/news/171201/ent1712010021-n1.html
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2017年11月30日

デーモン閣下、“かわいがり”は必要と「相撲協会750人のうち740人が思ってる」と指摘

スポーツ報知 より

デーモン閣下、“かわいがり”は必要と「相撲協会750人のうち740人が思ってる」と指摘

好角家として知られるミュージシャンのデーモン閣下が29日、TBS系情報番組「ひるおび」(月〜金曜・前10時25分)に生出演し、横綱・日馬富士(33)=伊勢ケ浜=が貴ノ岩(27)=貴乃花=に暴行して負傷させた問題についてコメントした。

デーモン閣下は 「ちょっと改造手術をして、 入院とかしてたんで」 とケガをしていたことを明かし、 松葉杖をついて登場。 この日明らかになった 日馬富士の引退に 「世間一般的にはこういうことになるのは 当然だという風潮はあるでしょうけど、 相撲ファンとしては 一番望んでいなかった結果」 と言い、 「場所前も横審総見で 4横綱ほとんど休んでる中、 日馬富士だけが頑張って 若手に胸を出して 横綱らしさを見せていた。 吾輩はそれを見て立派な横綱になったなと 本人にも言ったくらい。 そんな矢先なので」 と明かした。   また 「今回の件が世間を騒がせる大きな理由に 2つ問題があると思う」 とし、 「1つは横綱が暴行を起こした。 その暴行が どのくらいの処分に値する問題だったか」 と指摘。   もう1つは 相撲協会の体質について言及。 相撲協会が公益財団法人に移行し 「かわいがりと称して体罰するのを 一切止めましょうと表向きに言っていた」 が、関係者の多くが 「多少の体罰なしでは 指導できるわけないんじゃないかと思っている」 と指摘。 「750人いる相撲協会の人のうち 740人ぐらいまでそう思ってる」 と語った。   その上で 「多かれ少なかれ 若い奴らを指導するのに 番付上位のものが手を出すことは 当たり前だと思ってる。 本当に心の底から相撲協会全員が一丸となって、 今の時代に 反することなんだから 心を入れ替えてそういうことをやらないで 指導していくことができるかどうかの 岐路に立たされている」 とコメントした。   また、 貴乃花親方(45)は相撲協会理事として 「経営者でもある」 と指摘。 理事として改革を目指す貴乃花が 「なあなあの昔ながらの意識の中で やっているならそれは立派」 としたが、 「自分の部屋の若手がひどい目に遭わされて、 私情が絡む。 そこのバランスが 上手く取らなかったなというのが吾輩の見方」 と語った。
いろいろ 誤解を招きやすい表現が あるかもしれないが、 お許しいただきたい。 あえて極端な表現がある。 出された料理を食べて とても美味しいと思い 何かレシピに秘策が 隠されていて特別な材料とか 聞いたことのない調味料が 使われているのだろうと思って レシピを尋ねると 案外 全くありふれた食材や どこの家庭にも常にある 調味料しか使っていない ということがある。 つまり 割合の問題なのだ。 特別な食材を使えば 特別な味になるが ありふれた食材を使っても その配合の割合次第で 美味しい料理はできる。 その場合 恐ろしく安い値段で 美味しいものはできる。 日常の事柄は 一つ一つの要素の良し悪し ではなくて 様々な要素の割合で うまく成り立っている という面がある。 それは 日常の多くのことが うまくいくのも うまくいかないのも 割合つまり 物事の程度問題だということなのだろう。 しかしそれは 境界線を曲線で引くようなもので わかりにくいとかスッキリしないと 感じる人は多い。 だから直線で境界線を引いた方が 良いと考え直線で境界線を引く。 するとそこで様々な不都合が起こる。 暴力はいけないということは理性的な判断で 問題を暴力によって解決しようとすることは 感情的判断で 理性的ではないということになっている。 その事を否定する人はまずいない。 しかし 自分の部屋の若手がひどい目に遭わされて、 私情が絡んで 暴力を訴えるのは理性なのかというと 表向き理性だということで世の中には通るが 釈然としない。 福井県池田中の中2自殺も 担任副担任が 叱責で自殺に追い込んだと 報告されても 体罰は加えていないから 直線で引かれた境界の外には出ていない。 実際にはそうとうひどかったと思う。 体罰が禁止されれば他の方法が 発達してしてまうのが 直線の境界線のもつ性格だ。 人間が利口になるしかないのか、 利口になれないから こういう世界ができているのか。 けっこう 本気で 考えなくてはいけないことかもしれない。
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2017年11月29日

世界のエリートに学ぶ「創造的思考力」の伸ばし方

Forbes より

世界のエリートに学ぶ「創造的思考力」の伸ばし方

この数年で 「デザイン思考」 が新しいフェーズに入り、 イノベーションを生む手段としてのみならず、 企業を変革する経営戦略のツールとしても 使われるようになってきています。 さらには、 数年前から 「デザイン」を「芸術」に 広げた考え方も出てきています。 特に、 昨年ごろからその動きは 顕著といえるでしょう。 昨年、 フィナンシャル・タイムズが 「The art school MBA that promotes creative innovation (美術大学のMBAが創造的イノベーションを加速する)」 という記事で、 グローバル企業が幹部トレーニングを 美術系大学院と一緒に行う実態を報じました。 また、別の記事では、 『Art Thinking』(邦訳なし)の著者である エイミー・ウィタカー氏を紹介するなど、 芸術をビジネスに取り込む重要性を説いています。 『Art Thinking』の中で、 デザイン思考は、 自分の外側から与えられた条件の中で 創造的アイデアを出すものであり、 アート思考は 自分の内側から湧き起る目的を作るとものだと 説明されています。 デザイン思考が普及する中で、 経営手法は 「デザイン」を包括した「芸術」へと 進化していっているのです。

日本でも問われる「芸術思考」の重要性

日本では、2012年に 明治大学の阪井和男氏と 東北芸術大学の有賀三夏氏が 「芸術思考」という言葉を作り、 提唱し始めています。 文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成事業に 採択され、 数多くの研究が進められ、 論文にまとめられたり、 講演やワークショップなどが行われたりしています。 たとえば、 2015年に情報コミュニケーション学会の全国大会で 研究奨励賞を受賞した 阪井氏・有賀氏・筆者の3名で書いた 「新規事業を生み出す芸術思考」では、 新規事業におけるデザイン思考の限界を指摘し、 芸術思考を ゼロから顧客を生み出す事業に適用し、 5つのステップにまとめています。 1. 新規事業を思い描き、関係者に共有する 2. 思い描いた事業を実現するための人・モノ(技術)・金を含むパーツを揃える 3. 現在あるものでシンプルなビジネスモデルを作る 4. 少額の投資によるフィージビリティ・スタディで実現性をチェックする 5. 実現可能であれば実行し、さもなければギャップが何かを調べ(1)あるいは(2)に戻る 顧客が明確でない新規事業の開発の場合は、 目的を問い直す芸術思考で 新しい仮説やビジョンを創造したあとに、 デザイン思考を適用することが有効です。 欧米では90年代から芸術教育 (美術、音楽を含む) の効果を測定する研究が多数行われています。 その中でわかってきているのは、 芸術は創造的思考力を 伸ばすということです。 コロンビア大学の芸術教育センターでは、 3つの州の公立学校に通う 2046人の子供たちを対象に 大規模調査が行われました。 芸術の授業に多くの時間を使っている生徒ほど、 創造的思考力の能力が 向上していることがわかったのです。 創造的思考力には、 次の4つの能力が含まれています。 ・問題解決力: より多くのアイデアや問題解決へのアプローチが考えられる ・オリジナリティ: より多くの創造的な問題解決アプローチを生み出せる ・進化させる力: 問題を解決するプランを作成する際、より詳細な案を練ることができる ・粘り強さ: 多様な価値観を受け入れ、早計に判断を下さない。また解決策に対してすぐに満足しない この調査によると、 芸術で培った創造的思考力は、 業界などに依存せず、 すべての分野で発揮できるものでした。 音楽教育の効果については、 ドイツのゲッティンゲン大学の教育学者、 クリスチャン・リッテルマイヤー氏らの 研究によっても指摘されています。 音楽はひとりだけで完結できる美術と比べると、 対人的な能力も求められる。 よって芸術的な経験に加えて、 人と人とのコミュニケーションを 繰り返すことで効果を 上げていると述べています。 美術も音楽もどちらも創造性が養われますが、 それぞれ異なる脳の領域を使っているので、 身につく能力に違いは出てきます。 美術は、創造性を具現化して可視化する能力、 音楽は創造性を表現したり 人とコミュニケーションを取ったりする能力を 育んでくれます。 もちろん どちらも取り入れることが理想的ですが、 まずは、音楽を聴いてみる。 または美術館へ出かけてみる。 少しずつでもアートと触れ合うことで、 創造的思考力をより磨く第一歩が踏み出せるでしょう。
古代ギリシャの主要三科目は 数学、音楽、体育だったという。 確かにこの三つが人並み以上にできたら 結構幸せな人生がおくれるかもしれない。 テレビ番組で聞いた話だが 東大生の習い事経験で、 もっとも多いのはピアノで 確か52パーセントが ピアノを習った経験を持つそうだ。 普通の公立の中学などで ピアノを習っているか 習った経験のある人が 圧倒的に女子が多いことを考えると 男女比ほぼ4:1の東大で 52パーセントというのは 驚くべき数字だ。 今の日本の学校教育では 芸術教育は尊重されているとは 言い難い。 時間数も少ないし 内容も充実しているとは言い難い。 理由は簡単で 他に教えなくてはならないことが たくさんあるからということだろう。 高校に情報科の授業が必修になった時 割を食ったのは芸術教科だった。 多くの普通科の高校で 4単位だったものが 2単位になった。 感覚的に良いことではないのではないかと思った。 しかし 芸術科の指導要領や教科書と 情報科の指導要領や教科書を 読み比べてみると確かに 「お役人様がそうお考えになるのも無理はございません」 と皮肉を込めても込めなくても思ってしまった。 そもそも 目に見えるものを中心に 生きてきた官僚が 目に見えない世界のことより 情報化の社会の中で 目に見える危険が迫りつつある 青少年に 必要な情報化社会の知識を 短期間にしっかりと教えなくてはならない 気持ちはわかる。 そして こういう話が一事が万事で 日本の社会全体として より直接的に成果を上げることが 重要視される度合いが 極端に高まってきた。 「文学部不要論」 などもその最たる例で 直接的な効用がわかりやすい 理系学部だけがあれば良いなどと いう人までいる。 しかし より成果を上げる人たちの 成果に至るプロセスを 事細かに見聞きすると そこには 文学部不要論者の唱えるような 成果のパラダイスは 全くありえないことに 気づかされる。 上の文章なども良いし 少し前に話題になった本に 『ハーバード大学は「音楽」で人を育てる──21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』 などもあるし、 そして心や脳を育てることに 芸術がどう関わるかといった研究も 結構ある。 そういう書物に寄らなくても 実際に成功した人 有能だとされる人 ストレス知らずな人 社会的にも プライベートでも幸せな人たちと 直接やりとりをしても 音楽、美術、文学に長けた人は 思いの外多いし 彼らがその芸術を学び楽しむ過程で 身につけた能力は多い。 そもそも 人間は普通考えられているほど 原因と結果の関係に気づいていないし その関係を諭されても なかなか気づくものではないし また 原因と結果の位置が 遠ければ遠いほど わかる人は少ないから よほど 物事の 全体像が把握できる人でないと わからないことも多々ある。 そして (皮肉や冗談ではなくて) その物事の全体を把握する力も 芸術や哲学などの抽象的思考で 培われるところがあるから 堂々巡りになる。 つまり わかる人は大いにわかるが わからない人は 全くわからないことが起こる。 そういう 大いにわかる人と 全くわからない人の 乾いた争いが 一国や社会全体の 命運を分けるようなことには なってほしくない。 と考えると 芸術教育は 学校教育でも必要だし 社会教育としての 芸術教育も 趣味レベルではなく あって良い。 文学部不要論者のような種類の 成果論者は 物事を因果関係という形で見ようとしない。 または 因果関係を 狭い範囲でしか適用しようとしないから 結果の部分と そのとりあえずの周辺だけを見て より成果を上げることを考える。 だから 根性論になってしまったり 給料を増やせば 誰でもモチベーションが上がると 本気で思い込んだり できなければ 努力が足りないと思い込む。 こういう上司は 過労死やブラック労働の 温床となるばかりでなく 良い企業風土や 企業の歴史的遺産まで 破壊する。 さらにタチが悪いのは その当事者本人は 良いことをやっていると 本気で思っている。 「人は善意でやったことには 反省はない」(河合隼雄)から あっという間に 大変なことになってしまう。 いわゆる「企業の不祥事」の多くは こういうことに集約されることが 多いのではないか ちなみに 希望の党の支持率3パーセント台も 因果関係がまるで見えてなくないか。 ひどいことだ。
posted by sachi at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事
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