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たか
歴史と80年代ハードロック、80年代歌謡曲、競馬をこよなく愛する39歳(独身)です。 色々と好き勝手に述べます。
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2010年04月10日
我こそは本多平八郎忠勝なり!!
この所、気にはなっていたのですが、三国志ネタ、幕末ネタに押されて戦国時代ネタが少ないなって思ってました。
(だから4月5日はちょっと強引に戦国時代について記載しました。)

今日もちょっと強引ですが…。

本多平八郎忠勝は徳川家康に仕えた猛将で、四天王と呼ばれる武将の一人です。

この男、本当に信じられない男です。

有名な話なんですが…。

彼は生涯五十七度の合戦に参加しているようですが、その身に傷を負った事が一度もなかったそうです。

「へぇ〜」なんかですむ人もいるでしょうが…。

正直言って、これはあり得ない事ですよ。

戦場では目の前の敵だけじゃなくて、当然虚を突かれたり、流れ矢が飛んできたりしますよね。

しかも、彼は安全な本陣近くばかりにいた訳ではなく、しっかりと敵と戦っています。

武田信玄に攻められて敗走した際は殿を務めてますしね。

そんな男が無傷とは…。

本当にすごいですね。

愛槍「蜻蛉切(トンボギリ)」を片手に戦場を疾駆する様はかなり敵に恐怖を与えたのでしょうね。

ちなみに、蜻蛉切の名前の由来は彼の槍に蜻蛉がとまった際に、その蜻蛉がはらりと切れてしまったという逸話から蜻蛉切という名前になったそうです。

こちらはかなり胡散臭い話ですが…。
(っていうか切れるか?切れるようなとまり方をするか?)

まあ、箔を付ける為にそういった話を流布させたのかも知れませんね。

ちなみに真田昌幸の長男、信之の妻は本多忠勝の娘で、池波正太郎氏の「真田太平記」では、関ヶ原の後家康に対し父である真田昌幸と弟である真田幸村の命乞いをする信之に味方し、「かなわぬ時は殿と一戦も辞さない!」というスタンスで家康を説得してます。

これはかっこいいですよ。

本当かどうかは知りませんが…。

私は大阪に生まれ育った関係で、やはり徳川家康に対しては好印象を持てない(土地がら?)のですが、本多忠勝は好感を持つというか、結構好きな武将ですね。

2010年04月09日
陳羣という能吏
陳羣(チングン)字は長文(チョウブン)。

彼は結構地味な存在です。

三国志をちょっと詳しく読まれた方は「曹丕(ソウヒ)の四友の一人で九品官人法を制定した人です。」と答えられるでしょうが…。

ちなみに九品官人法とは、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を、法律として再度整備してそうした余地が入り込まないようにする狙いをもって、同時にまもなく起こる後漢から魏への易姓革命に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材のふるい分けを狙う制度であったと考えられているそうです。
(以上、Wikipediaより。)

この制度は隋代までの中国における人材登用の基本制度となったそうです。

と、彼の有名なエピソードを挙げるとこうなる訳ですが…。

ただ、このくだりは220年とか、226年辺りの事となります。

実は彼はもっと早くに登場しています。

それよりも30年ほど前に、曹操(ソウソウ)ではなく、劉備(リュウビ)に登用され、別駕となってます。

194年に劉備が徐州(ジョシュウ)刺史の陶謙(トウケン)が死んだ際に劉備が跡を継いで徐州を領有するのですが、その際に彼は「南に袁術(エンジュツ)、西から呂布(リョフ)が徐州を狙っているので危険」と言って反対しています。

劉備が呂布に敗れて領地を失うと野に下り、徐州で避難生活を送った後、呂布を滅ぼした曹操に仕える事になります。

彼は常に名誉と道義を重んじた人で、能臣郭嘉(カクカ)に対してもその品行の悪さを法に照らして罰しようとしたいわゆる信賞必罰の男だったようです。

とまあ、ばらばらと彼の事績を述べてきましたが、この男、実は若干日本に絡んでいるという説があります。

というのも、日本の事が文面に出てくる最古の物は魏志倭人伝(ギシワジンデン)ですが、これは正史三国志の中の魏志の中にある記述です。
(正式には、「三国志 魏書東夷伝倭人条」というそうです。)

倭国からの使者に対して皇帝曹叡(ソウエイ)はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えたという事ですが、この使者が曹叡に謁見する為に労を取ったのが司馬懿(シバイ)じゃないかと一部では言われてます。

司馬懿というのは諸葛亮(ショカツリョウ)のライバルとして登場しますが、この人も曹丕の四友の一人です。

当時陳羣の功績が大きく、そこに焦りを感じていた司馬懿に倭国からの使者が来たという情報が入ります。

この使者は貢物をもっているので、司馬懿が皇帝に謁見させれば、司馬懿の功績になります。

そんな状況もあり、陳羣への対抗意識から、司馬懿が倭国を必要以上の大国と皇帝に吹き込み、謁見させたという説を読んだ事がありますが…。

それはないです。

倭国の使者が来たのが239年。

陳羣が亡くなったとされる年は235年説と238年説があるようです。

どちらにしても、陳羣は死んでいます。

司馬懿も死んだ男に対抗する訳がないですよね。

という事で、結局陳羣は倭国には絡んでいませんでした。

ちゃんちゃん。

Posted by たか at 02:36 | 三国志 | この記事のURL
2010年04月06日
本能寺の変、黒幕一人消します?
日本史において、これほど未来の日本に影響を与えた事件は無いのでは?
なんて思えるのが本能寺の変です。

この事件、それほど重要な事件であるにも関わらず、今なお謎の多い事件ではあります。

まず、光秀の単独行動なのか?もしくは黒幕がいたのか?といった部分からして明白ではありません。

事件後の光秀の無計画さを考えると単独犯かも知れませんが…私としてはやはり黒幕がいたんじゃないかな?と思ってます。

以前、2009年11月10日のブログで「本能寺の変、光秀の勝算」という記事を書きましたが、単独犯(野望説)ではない理由についてはそちらに記載しています。
(ファンブログ版をご覧の方はリンク集から私的歴史道seesaa版をクリックしていただければご覧頂く事が出来ます。)

現在、黒幕説を取られている方々の中で有名なのは下記方々。

1.朝廷
2.羽柴秀吉
3.徳川家康
4.足利義昭


この中で、朝廷はありうる事ですし、羽柴秀吉はそもそも信長が討たれる状況(少人数で滞在する)をお膳立てした人物。
しかも、中国大返しという離れ業をしたタイミングからも、黒幕ではないとは言い切れません。

徳川家康はかなりの少人数で畿内にいたにも関わらず逃げおおせている辺り、あやしいにおいもします。

という事で、先ほど挙げた1〜3はいまだに私の中ではグレーです。

しかしながら足利義昭に関しては…黒幕ではなかったと考えられます。

彼は本能寺の変が起こった時点で毛利家にやっかいになってます。

もし、彼が黒幕であるならば当然、毛利家を抱き込んでいるはずです。

本能寺の変が起こった際、通説では光秀が毛利家に宛てた密使が間違って秀吉の陣営に入ってしまったという事になってます。

これだけを考えたら、毛利家との連携がありそうな匂いがしますが…。

普通、密使が陣営を間違えるでしょうか?

最もあり得ない話と思います。

この話はフィクションの匂いがしますね。

ただ、光秀は当然毛利家にも密使を送ったとは考えられます。

理由としては、織田軍団の敵でもありますし、今後手を握る事も視野に入れないといけない勢力ですからね。

その為、密使を毛利に放ったからと言って、光秀と毛利のラインが出来上がっていたと考えるのは早計と思います。

一番注目しなければいけない事は、秀吉が毛利と和議を結んだ事と考えます。

もし、足利義昭がこの一件に絡んでいたら、毛利家を抱き込んでいるはずなので、当然ここでの和議は考えられません。

毛利家は、強気に秀吉との決戦を望むはずです。

また、本能寺の変を知った毛利家は秀吉の追撃について議論してますが、ここも当然、追撃をするはずです。

が、実際は小早川隆景の「秀吉に恩を売る」という主張が通り、追撃をしていませんよね。
(でも吉川元春は追撃論で、採用されなかった彼はへそを曲げて隠居しますが…。)

こういう状況から考えると、足利義昭が黒幕という説は根本的に無理があると考えます。

まあ、実際に事が起こった際に毛利家が足利義昭を裏切ったと考える事もできますが…。

どうでしょう。

光秀と完全なラインが出来上がっているのでしたら、秀吉を追撃して、上手くいけば尼崎辺りまで毛利の領地にすることができた状況を捨てますかね。

私は、そんなことはできないと思います。

という事は、やはり光秀との共謀はなかったと考えるのが自然と思われます。

2010年04月05日
龍馬伝14話を見て
本日はとうとう、人斬り以蔵が誕生しましたね。

武市の狂い方にも凄味が出てきました。

岡田以蔵はよく書かれるのは精神の弱い男として描かれますが、この龍馬伝の以蔵も精神的な弱さを醸し出してますね。

結局彼は、武市にさんざん利用されて最後は武市に毒殺されそうになる訳ですが…。

そんな彼の悲しい結末に向けての第一歩と言っていい場面でした。

今回の龍馬を見て…。

大河ドラマが始まる前に言っていた「今までとは違う龍馬を描く」という意味がようやくわかってきた気がします。

ほがらかな龍馬と時折見せるストイックな龍馬。

この姿を描きたかったんですね。

確かに龍馬って、今まで描かれてきた像が決まってましたが、龍馬自体あんなに隙のある男であるはずがないですからね。

といっても、今回の龍馬もありというだけで、この龍馬が良いというわけではないですが…。

今後の展開が楽しみになってきました。
(凄い事に、現在なお皆勤賞です。)

Posted by たか at 02:35 | 幕末 | この記事のURL
2010年04月04日
惜しいかな陳宮
この所、三国志ネタが続いてますが…。

実は、ちょっとばたばたしている関係で、さらっと書けるというと三国志になる訳で…。

最近は龍馬伝なども放送されているので、幕末ネタをもっと増やすべきだとは思うのですが…。

三国志ネタにします。

陳宮(チンキュウ)字を公台(コウダイ)。

この人は私の中ではかなり惜しい人物です。

三国志演義では、董卓暗殺に失敗して洛陽から逃げ出した曹操(ソウソウ)を捕まえる、中牟県(チュウボウケン)の県令として登場します。

一度は曹操を捕らえますが、その志に感服し共に逃亡する事になるのですが…。

途中で立ち寄った曹操の知人の呂伯奢(リョハクシャ)の家で、隣の部屋から「一気に殺してしまえ」といったような言葉が聞こえ、呂伯奢の家族に殺されるのではと疑心暗鬼にかられ、曹操と一緒に呂伯奢の家族や使用人の全てを殺害します。

実は曹操と陳宮をもてなす為に猪を殺して料理しようとしていたのですが…。

さらに家から逃げ出す途中、曹操は何も知らない呂伯奢をも口封じのため殺害してしまう曹操を見て、そのあまりの身勝手さに呆れた陳宮は、彼の寝込んだ隙に暗殺しようと考えるのですが、思いとどまり、1人で東郡(トウグン)へ去ります。

その後、呂布(リョフ)の軍師として登場し、曹操が徐州(ジョシュウ)の陶謙(トウケン)を攻めた際に曹操の拠点である兗州(エンシュウ)を奪い取ります。

結局は曹操に負け、斬首される事になります。

史実では…。

天下が動乱の時代を迎えた際に曹操に仕え、その覇業を助けるのですが、曹操が徐州を攻めた際に呂布をかついで反旗を翻します。

その後は演義の下りと同じになります。

何が惜しいかというと、この男はなかなかの戦略眼とか戦術眼をもっています。

例えば、曹操から独立するタイミング等は絶妙ですし、呂布の配下として曹操と戦っていた際の献策等も的を得たものです。
(あまり採用されませんでしたが…。)

曹操も、陳宮を処刑する際になんとか改心させて自分の手元に置こうとしていますが、それを潔しとしない陳宮は処刑されます。

この男が何故曹操から独立したかという所は諸説あります。

例えば、曹操が陶謙に攻め込んだ際、陶謙の配下に曹操の父親を殺された事が発端で攻め込む訳ですが、その侵攻が徐州の民から家畜まで、全て殺しつくして進んでいくという非情さを見て曹操に見切りをつけたという説。

もうひとつは、彼は漢の張良(チョウリョウ)のように君主を意のままに操る軍師になりたかったが、曹操の元では荀ケ(ジュンイク)、郭嘉(カクカ)等、優れた軍師が多く、曹操自身が優秀な軍師の資質を持っていた事もあり、なかなか理想通りに行かなかった為、思い通りになりそうな呂布を担いだ等とも言われてます。

私が惜しいというのは、彼は能力があるので、もっと他に担ぐ人がいたんじゃないか?と思う所です。

あの当時の君主を考えた場合…。

袁紹(エンショウ)の元には田豊(デンポウ)、沮授(ソジュ)等がいるし、孫策(ソンサク)の元には周瑜(シュウユ)がいるのでNGとしても、袁術(エンジュツ)、陶謙等、軍師不在といっていい君主がいました。

中でも劉備(リュウビ)が一番よかったのでは?なんて思ってます。

彼のもとには関羽(カンウ)、張飛(チョウヒ)等の豪傑はいても軍師がいませんでした。

そこに陳宮の頭脳が加わると…なかなかの集団になったのでは?と思われます。

しかしながら彼が選んだのは呂布。

あまり良い選択肢ではないような気が…。

恐らく、呂布を君主と選んだ時点で彼はジョーカーを引いていたんでしょうね。

Posted by たか at 02:33 | 三国志 | この記事のURL
2010年04月01日
悲しき魏延
魏延(ギエン)字を文長(ブンチョウ)。

反骨の相(頭蓋骨が後部にでていることで裏切りの象徴とされる)で有名な武将です。

この人、最後は裏切り者として殺されます。

でも、そうなんでしょうか…。

今回は三国志演義をメインに記載する事になりますが…。

三国志演義における魏延の初登場シーンは、曹操(ソウソウ)が南制を始め、荊州(ケイシュウ)に攻め込んできた為、当時劉表(リュウヒョウ)に身を寄せていた(と言っても、この時点では劉表は既に死に、子の劉j/リュウソウが継いでいましたが…)前線の劉備(リュウビ)は民を引き連れて撤退を開始し、襄陽(ジョウヨウ/劉表の本拠)の城に辿りつきます。

しかしながらその時には、劉jは既に曹操に降伏した後の為、劉備を城の中へ迎え入れる事をせず、反対に弓矢を打ち込んできました。

そんな劉j(と言っても、全ての権力と決定権は蔡瑁/サイボウ にあり、劉jはそれに従っただけなんですが…)の仕打ちに憤りを感じて、城の内部から反乱を起こし、劉備を城の中に引き入れようとしたのが魏延でした。

そんな状況を見て、劉備は城にはいる事をせず、江陵(コウリョウ)に向かった為、おいてきぼりをくらった魏延は長沙(チョウサ)に向かい、太守の韓玄(カンゲン)の元に仕えます。

その後、劉備と孫権(ソンケン)の連合軍が曹操に赤壁(セキヘキ)で勝利した後、劉備は長沙に攻め込みます。

この戦で魏延の同僚の黄忠(コウチュウ)が関羽(カンウ)との一騎打ちで引き分け、城に帰ってきた所、韓玄に内通を疑われ、処刑されそうになると、魏延は民や兵士を扇動して韓玄を斬り、城を開けて劉備に降伏しました。

ね、この魏延という男は本当に劉備の為に色々と働いているでしょう?配下でもないのに。

にも関わらず、彼の最後は味方であるはずの馬岱(バタイ)によって斬られます。

その経緯は…。

五丈原(ゴジョウゲン)で蜀軍は魏(ギ)と戦っていましたが、諸葛亮(ショカツリョウ)はその陣中で没します。

諸葛亮が死ぬ間際、自分が死んだら撤退するように服臣に伝えますが、その折に「もし魏延が撤退に反対したらおいてきぼりにしろ。」なんて言い、最悪の場合、魏延を斬るという策を授けます。

諸葛亮が死ぬと魏延は撤退に従わず、諸将が自分を無視して撤退を開始したことを知ると、怒った魏延は先回りをして桟道を焼き払い、退路を遮断します。

そこで戦闘になるのですが、魏延の兵たちは魏延が命令を無視している事を知っているので、離散し、結局馬岱に斬られて死ぬ訳です。

ちょっと、可哀そうな最後ですよね。

実際あの時点における蜀で、魏延程の武勇の持ち主はいないにも関わらず、彼を殺す策を立てる諸葛亮も、ちょっとと思われます。

ただ、この魏延という男はどうも性格に難があったようで、諸葛亮が死んだ後、この男を制御できる人材がいなかったのも事実のようですが…。

劉備の為に生き、劉備の為に戦った男の最後としては余りに可哀そうな最後ですね。

ちなみに、撤退作戦の際の魏延の命令不服従を謀反とする話が多いですが、これは決して謀反ではないですね。

自軍に先回りして退路を断った訳ですから…。

全軍を率いて魏軍に当たりたいという意思ですよね。

謀反なら、そのまま魏に降るか、独立して魏と結び、蜀軍を追撃しますよね。

これを謀反にしてしまうのも、可哀そうな話です。

ちなみに、長沙で降伏し、劉備に対面した際に側にいた諸葛亮が主君である韓玄を裏切った行動をとがめ、「反骨の相があるので、魏延を斬るように」なんて進言され、あやうく斬られる状況になってしまいます。
(劉備のとりなしのお陰で処刑は免れますが…。)

このくだりは恐らく三国志演義の作者が、魏延の最後と照らし合わせ、諸葛亮を神がかりの軍師に仕立てる為に造ったフィクションなんでしょうね。


今日は長々と魏延の話を記載しましたが、実を言うと、この魏延という武将、とりわけ好きなわけではありません。

どちらかというと、それほど好きではない武将です。

でも、可哀そうは可哀そうなので書いてみました。

Posted by たか at 02:32 | 三国志 | この記事のURL
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