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2016年06月19日
”とことんやっていない自分”にはとてつもない痛みと救いとを投げかける本でした。「悩みどころと逃げどころ」ちきりん、梅原 大吾
”月間200万PV・社会派ブロガー”のちきりんさんと、”ギネス認定・世界一プロゲーマー”の梅原大吾さんとの対談本。
ブロガーとプロゲーマーというニッチな世界での第一人者的な存在となった2人の対談本ということで、それだけでもかなり興味をソソラれるのに、テーマは「学び」や「学校」となっています。
なんと!と驚くとともに、
なんで?という疑問が実直に湧いてきました。
ブロガーとかプロゲーマー、特にプロゲーマーなんて学校とは最も縁遠そうな世界なのに・・・とは思いましたが、そういえば前に「東大卒プロゲーマー」であるときどさんの本を読んだことも思い出し、きっと面白いに違いないと考え、読んでみました。
対談本ということで割とさらっと読むことができました。
しかしながら、内容は複雑で面白いです。
まず特徴として、「学校」というものを2人の真ん中に置いたとき、2人が全く対象的な立場にある人だということが挙げられます。
ちきりんさんは、学歴エリートとのこと。
梅原さんは、真反対で、学歴には縁が遠いとのこと。
そして共通項として、学校での学びという経験に対して「面白くない」「意味がない」と考えているということ。
そのキーワードとして”学校的価値観”という言葉が使われています。
梅原さんは学校で授業を聞かず、いつも寝ていたそうで、完全に学校という視点から見ればドロップアウト的な存在です。でも今はプロゲーマーとして世界のトップに君臨し、かつ、日本においても社会的に認められる存在となっています。
そんな人が「学校なんて意味がないよ」と言うのはよく分かる話なんですよね。学校で勉強なんてしなくてもこの道で俺は生きてきて、成功したんだから、という事ですから。
しかし逆に梅原さんは本書の中で「とりあえず大学は出た方が良い」なんて事も同時言っています。
「学校での学びに意味がない」のに「とりあえず大学を出た方が良い」というのは、表面的には全く真逆のことを言っているように聞こえてしまい、混乱を覚えました。
一方ちきりんさんは、自身で言われているのですが、学歴エリートであり、そのまま大企業へ就職するという”学校的価値観でいうエリート”的な存在でありながら、「大学をとりあえず出とおけばは有害」と言っている。
これもまた混乱を覚えました。
この2方面からの混乱が、対談を進めるなかで一つ一つが解き明かされていき、2人の考えている本当の事が分かっていくという、謎解き要素も入ったような、読者も考えさせられる良書だと思いました。
学校教育に対して感じている疑問点を”学校的価値観”として2人は話していました。それは次の言葉の中に表れていると感じました。
ちきりんさん:「あそこを目指せ、方法はこれだ」
梅原さん:「ゴールと方法論をセットで指し示されることで、自分で考え、悩んであがいた上での自己決定が出来なくなる」
私もこの本を読みながら、自分自身の経験を振り返り、確かにそういった面が学校教育にはあるかもしれないと考えさせられました。
私はどちらかというと、ちきりんさんに近いかもしれません。
ブロガーとしては月とスッポン、ちきりんさんは完全に雲の上の存在ですが、学歴に関してはエリートとは言えませんが準エリートみたいな感じかなあと思います。
学校を卒業し、社会人として生活を送っていくなかで、じゃあその”準エリート”として過ごした学校教育から得られたものがあったかどうかを冷静に振り返ると、おおよそ2人の意見に「大きく違っていない」という考えに至りました。
勿論得られたことも有ります。いわゆる勉強の方法論というものや、計算能力、知識で解決する問題に関しての”考える力”などは学校教育の勉強の中で培った基礎体力として今も生きていると思います。
しかし、人生を生きる力、生きている中で直面する答えの無い問題を”考える力”、道を歩んでいく力などは、正直なところ弱いのじゃないかと思います。
前に『ほぼ日手帳の「今日の一言」・・・正解病について』という記事で
というものが自分にあったことに気付いたということを書きましたが、これは正にちきりんさんが言う「あそこを目指せ、方法はこれだ」という学校的価値観に沿ったもので、多分に強く影響を受けていたんだなあ・・・とこの本を読んで改めて気付かされました。
この本の中で最も強く刺さったのは、梅原さんの話の中に出てくる次の言葉でした。
これ、正に今の自分自身のことじゃんかと。
気がついたら考えているんです。
「あの時にもっと真剣に◯◯していたら、もっと違うことができていたのかもしれないな」とか、「もし出来るならもう一度中学生に戻って、もっと一生懸命にやりたいな」とかいうことを。
受験勉強、部活、恋愛、バンド、、、
そして一番辛いのが、梅原さんがいう「敗北が受け入れられない」という事なんです。とことんやってないから、自分の器が分からない。
これがどういう事かというと、例えば誰か優れた人間と会ったときに、ほんのわずかでも「俺だってあのときにちゃんとやってればこれくらい出来てたんだけどな」という思考が浮かんでしまい、変な劣等感を抱いてしまうって事があるんですよね。そしてその劣等感の行き先は、相手に対する敵対心ではなく、「過去に頑張らなかった自分自身」なんです。
もし梅原さんが言うように「とことんやって」いれば、自分が精一杯頑張れってやれなかったことを他の人がやっているのだから、「自分がどうやっても出来なかったことをこの人はやっている。凄い」と敗北をすっと受け入れ、敬う気持ちまでもを持つことが出来るのかもしれないなと。
そう気付かされました。
この梅原さんの言葉は2つのことを気づかせてくれました。
「自分は何もとことんやっていなかった、甘い考えの人間だ」
→とことんやることの大事さ。
「とことんやっていない自分自身に後悔を残している」
→自分を超える存在に会ったときに感じる負の感情の原因は、過去の自分自身への後悔。だとしたらその感情に振り回されることに意味は無いのだから、敗北を素直に受け入れるよう努力しよう。
どう学ぶかということは、どう生きるかということなんですよね。
それは生きるために何を学び、どう考えていけばいいのかという風に言い換えることができるかもしれません。
この事に対して、著者の2人は、今の学校というものが”学校的価値観”を刷り込む場でしかなく、本当に生きるための力を付けることにはなっていないという考えを共通して持っています。
そういった視点を持つことは面白く、また、大事かもしれないと考えさせられました。
また、対談の内容から、学校というものは単純に学びの場であるだけでなく、日本という社会の中では様々な価値を付加するものであるという側面もあり、一概に否定ばかりをするものではないということも読み取れます。
何より「あがくことで自分の器が見えてくる」という梅原さんの言葉が強く刺さり、強烈な痛みを感じながらも、何か自分の精神面のコリが一つほぐされたような気もして、とても意味のある読書となりました。
面白い本でした。
少しでも興味があれば、ぜひ!
ブロガーとプロゲーマーというニッチな世界での第一人者的な存在となった2人の対談本ということで、それだけでもかなり興味をソソラれるのに、テーマは「学び」や「学校」となっています。
なんと!と驚くとともに、
なんで?という疑問が実直に湧いてきました。
ブロガーとかプロゲーマー、特にプロゲーマーなんて学校とは最も縁遠そうな世界なのに・・・とは思いましたが、そういえば前に「東大卒プロゲーマー」であるときどさんの本を読んだことも思い出し、きっと面白いに違いないと考え、読んでみました。
どんな本だった?
対談本ということで割とさらっと読むことができました。
しかしながら、内容は複雑で面白いです。
まず特徴として、「学校」というものを2人の真ん中に置いたとき、2人が全く対象的な立場にある人だということが挙げられます。
ちきりんさんは、学歴エリートとのこと。
梅原さんは、真反対で、学歴には縁が遠いとのこと。
そして共通項として、学校での学びという経験に対して「面白くない」「意味がない」と考えているということ。
そのキーワードとして”学校的価値観”という言葉が使われています。
梅原さんは学校で授業を聞かず、いつも寝ていたそうで、完全に学校という視点から見ればドロップアウト的な存在です。でも今はプロゲーマーとして世界のトップに君臨し、かつ、日本においても社会的に認められる存在となっています。
そんな人が「学校なんて意味がないよ」と言うのはよく分かる話なんですよね。学校で勉強なんてしなくてもこの道で俺は生きてきて、成功したんだから、という事ですから。
しかし逆に梅原さんは本書の中で「とりあえず大学は出た方が良い」なんて事も同時言っています。
「学校での学びに意味がない」のに「とりあえず大学を出た方が良い」というのは、表面的には全く真逆のことを言っているように聞こえてしまい、混乱を覚えました。
一方ちきりんさんは、自身で言われているのですが、学歴エリートであり、そのまま大企業へ就職するという”学校的価値観でいうエリート”的な存在でありながら、「大学をとりあえず出とおけばは有害」と言っている。
これもまた混乱を覚えました。
この2方面からの混乱が、対談を進めるなかで一つ一つが解き明かされていき、2人の考えている本当の事が分かっていくという、謎解き要素も入ったような、読者も考えさせられる良書だと思いました。
読むことで得られたもの
・2人が感じていた”学校的価値観”
学校教育に対して感じている疑問点を”学校的価値観”として2人は話していました。それは次の言葉の中に表れていると感じました。
ちきりんさん:「あそこを目指せ、方法はこれだ」
梅原さん:「ゴールと方法論をセットで指し示されることで、自分で考え、悩んであがいた上での自己決定が出来なくなる」
私もこの本を読みながら、自分自身の経験を振り返り、確かにそういった面が学校教育にはあるかもしれないと考えさせられました。
・自分を振り返って
私はどちらかというと、ちきりんさんに近いかもしれません。
ブロガーとしては月とスッポン、ちきりんさんは完全に雲の上の存在ですが、学歴に関してはエリートとは言えませんが準エリートみたいな感じかなあと思います。
学校を卒業し、社会人として生活を送っていくなかで、じゃあその”準エリート”として過ごした学校教育から得られたものがあったかどうかを冷静に振り返ると、おおよそ2人の意見に「大きく違っていない」という考えに至りました。
勿論得られたことも有ります。いわゆる勉強の方法論というものや、計算能力、知識で解決する問題に関しての”考える力”などは学校教育の勉強の中で培った基礎体力として今も生きていると思います。
しかし、人生を生きる力、生きている中で直面する答えの無い問題を”考える力”、道を歩んでいく力などは、正直なところ弱いのじゃないかと思います。
前に『ほぼ日手帳の「今日の一言」・・・正解病について』という記事で
「この世界に正解は必ずある」という自分自身を縛り付ける無意識下の思い込み
というものが自分にあったことに気付いたということを書きましたが、これは正にちきりんさんが言う「あそこを目指せ、方法はこれだ」という学校的価値観に沿ったもので、多分に強く影響を受けていたんだなあ・・・とこの本を読んで改めて気付かされました。
・とことんやってない
この本の中で最も強く刺さったのは、梅原さんの話の中に出てくる次の言葉でした。
敗北が受け入れられない人の多くは、とことんやってないんですよ。そして自分でもそれがわかってる。後悔が残るとしたらソコなんです。
これ、正に今の自分自身のことじゃんかと。
気がついたら考えているんです。
「あの時にもっと真剣に◯◯していたら、もっと違うことができていたのかもしれないな」とか、「もし出来るならもう一度中学生に戻って、もっと一生懸命にやりたいな」とかいうことを。
受験勉強、部活、恋愛、バンド、、、
そして一番辛いのが、梅原さんがいう「敗北が受け入れられない」という事なんです。とことんやってないから、自分の器が分からない。
これがどういう事かというと、例えば誰か優れた人間と会ったときに、ほんのわずかでも「俺だってあのときにちゃんとやってればこれくらい出来てたんだけどな」という思考が浮かんでしまい、変な劣等感を抱いてしまうって事があるんですよね。そしてその劣等感の行き先は、相手に対する敵対心ではなく、「過去に頑張らなかった自分自身」なんです。
もし梅原さんが言うように「とことんやって」いれば、自分が精一杯頑張れってやれなかったことを他の人がやっているのだから、「自分がどうやっても出来なかったことをこの人はやっている。凄い」と敗北をすっと受け入れ、敬う気持ちまでもを持つことが出来るのかもしれないなと。
そう気付かされました。
この梅原さんの言葉は2つのことを気づかせてくれました。
「自分は何もとことんやっていなかった、甘い考えの人間だ」
→とことんやることの大事さ。
「とことんやっていない自分自身に後悔を残している」
→自分を超える存在に会ったときに感じる負の感情の原因は、過去の自分自身への後悔。だとしたらその感情に振り回されることに意味は無いのだから、敗北を素直に受け入れるよう努力しよう。
まとめ
どう学ぶかということは、どう生きるかということなんですよね。
それは生きるために何を学び、どう考えていけばいいのかという風に言い換えることができるかもしれません。
この事に対して、著者の2人は、今の学校というものが”学校的価値観”を刷り込む場でしかなく、本当に生きるための力を付けることにはなっていないという考えを共通して持っています。
そういった視点を持つことは面白く、また、大事かもしれないと考えさせられました。
また、対談の内容から、学校というものは単純に学びの場であるだけでなく、日本という社会の中では様々な価値を付加するものであるという側面もあり、一概に否定ばかりをするものではないということも読み取れます。
何より「あがくことで自分の器が見えてくる」という梅原さんの言葉が強く刺さり、強烈な痛みを感じながらも、何か自分の精神面のコリが一つほぐされたような気もして、とても意味のある読書となりました。
面白い本でした。
少しでも興味があれば、ぜひ!
2016年06月15日
オシムの言葉 (集英社文庫) 木村 元彦
「社長・溝畑宏の天国と地獄 ~大分トリニータの15年」を読んで大いに感銘を受けたことは少し前の記事に書いたとおりですが、その感銘の対象は、大きくは「溝畑さんの生き方」と「取材して1冊の本にまとめた著者の力」の2つの点でした。
著者はスポーツライターの木村元彦さん。
Amazonで検索すると一番上に出てきたのがこの「オシムの言葉」でした。
オシムという名前は聞いたことがありました。
いつだったかは覚えていませんが、サッカー日本代表の監督をしていた人だったという記憶が私の中にもありました。そういえば、その頃はテレビでも盛んに「オシム」という名前が取り上げられていたような記憶もありました。
更に言えば、おぼろげながら「知性派監督」という印象もありました。
詳しくは知らなかったんですが…。
木村さんの本を読んでみたいという事と、オシムという人物への興味とが線を結び、ポチッと購入をしました。
届いた本を開いてみると、「第52回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書にもなった」との記載がありました。
これは面白いだろうな、と期待がさらに上がり、ページを捲っていきました。
タイトルは「オシムの言葉」。
ここから連想されたのはいわゆる「語録本」でしたが、中身は全く異なりました。
※語録本・・・ここでは、語録とその解説をまとめた本という意味で使いました。例えば、右側1ページに何か一つの言葉、左側に説明書きを書く、といったような構成で作られた本です。
いわゆる「オシムの言葉」は書中に多く書かれていますが、その言葉は、その言葉を形作った背景(サッカーの試合の展開やその解釈など)や、オシムさんの考えなどのエピソードの中でそれらを象徴するものとして使われている印象を受けました。
また、「オシムさんがどういう人物であるのか」ということについて、サッカーの現役時代から監督になるまで、その後日本に来るまでの間の話を、ユーゴスラビア紛争という時代の動きを捉えながら書かれています。
特にユーゴスラビア紛争と、その渦中でのオシムさんの動向に関する部分の臨場感が秀逸だと感じました。緻密な取材と、現地で得た肌感覚、更には木村さん自身の思い入れも強いのではないかと思いますが、読んでいて「こんなに辛いことが世界では起きているのか」と胸が締め付けられる思いでした。
この本は、まず、ジェフで監督をしていた時代のオシムさんと記者とのやり取りなどから「オシム監督の優れたものの見方・考え方」を知ることができる本です。
また、オシムという人物の成り立ちの背景や、それを語るうえで欠かすことができないと筆者が考える「ユーゴスラビア紛争」とオシムとの関わりについても知ることができ、オシムという人物を現在・過去・考察という立体的な視点で見ることが出来る本だな、と思いました。
・オシムさんのものの見方・考え方に影響を受ける
言葉だけでなくその背景にある想いとは何か。
サッカーに、選手に真摯に向き合う姿勢が本当に素晴らしいと感じます。その姿勢を支えているのは、選手=人間への強い愛情であることが書かれていて、考えさせられる点が大いにありました。
・目の前の辛さなんて、実は大したことがないんじゃないか?
日常の中で「なんか嫌だなあ」「苦しいなあ」「辛い」と思うことは誰にでもあると思います。
ですが、この本の中で描かれてているオシムさんの苦悩、ユーゴスラビアの人々の苦悩から考えれば、自分が感じていたものがいかに些細なものかということに気付かされます。
このことを記憶にしっかりと焼き付け、何か嫌なことがあったとき、辛いことがあったとき、「そんなこと、実は大したことがないんじゃないか?」と自分に問いかけるようにしたいと思いました。
・言葉というものの性格
本書のタイトルが「オシムの言葉」ということで、「言葉そのもの」が優れた力を持つ何かなのだという印象を持っていました。
しかし本書を読むと、「言葉そのもの」ではなく、実際に大切なのは言葉を生み出した背景であり、言葉を発した人間のものの見方・考え方であり、言葉とはそれを効果的に伝えるためのツールに過ぎないのではないか?という事を考えさせられました。
第7章「語録の助産婦」では、通訳の間瀬秀一さんの視点から書くという構成を使い、本の内容に深みを与えています。通訳という仲介者からの視点から「オシムの言葉」に向き合ったとき、それは、「オシムの意図を受け取り、相手に伝え、それが相手に本当に伝わっているかどうか」という次のステップへと変わります。
このことは、言葉を使った”コミュニケーション”そのものの形を浮かび上がらせているんじゃないかと感じました。
このあたりの話は、コミュニケーションの本質が「伝わること」「伝えること」であるということを如実に表しています。
普段忘れがちですが、伝えること、伝わることというのは、強く意識しなければなかなか難しいものなのかもしれません。
「オシムの言葉」とは少し脱線しますが・・・。
良いサッカーの試合を見て感動したとき。
閉塞感に自分を見失いそうになったとき。
本棚から引っ張りだして読み返したいと思いました。
とても内容のある本で、一度読んだだけでは感想をとてもまとめられませんでした。
著者はスポーツライターの木村元彦さん。
Amazonで検索すると一番上に出てきたのがこの「オシムの言葉」でした。
オシムという名前は聞いたことがありました。
いつだったかは覚えていませんが、サッカー日本代表の監督をしていた人だったという記憶が私の中にもありました。そういえば、その頃はテレビでも盛んに「オシム」という名前が取り上げられていたような記憶もありました。
更に言えば、おぼろげながら「知性派監督」という印象もありました。
詳しくは知らなかったんですが…。
木村さんの本を読んでみたいという事と、オシムという人物への興味とが線を結び、ポチッと購入をしました。
届いた本を開いてみると、「第52回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書にもなった」との記載がありました。
これは面白いだろうな、と期待がさらに上がり、ページを捲っていきました。
どんな本だった?
タイトルは「オシムの言葉」。
ここから連想されたのはいわゆる「語録本」でしたが、中身は全く異なりました。
※語録本・・・ここでは、語録とその解説をまとめた本という意味で使いました。例えば、右側1ページに何か一つの言葉、左側に説明書きを書く、といったような構成で作られた本です。
いわゆる「オシムの言葉」は書中に多く書かれていますが、その言葉は、その言葉を形作った背景(サッカーの試合の展開やその解釈など)や、オシムさんの考えなどのエピソードの中でそれらを象徴するものとして使われている印象を受けました。
また、「オシムさんがどういう人物であるのか」ということについて、サッカーの現役時代から監督になるまで、その後日本に来るまでの間の話を、ユーゴスラビア紛争という時代の動きを捉えながら書かれています。
特にユーゴスラビア紛争と、その渦中でのオシムさんの動向に関する部分の臨場感が秀逸だと感じました。緻密な取材と、現地で得た肌感覚、更には木村さん自身の思い入れも強いのではないかと思いますが、読んでいて「こんなに辛いことが世界では起きているのか」と胸が締め付けられる思いでした。
この本は、まず、ジェフで監督をしていた時代のオシムさんと記者とのやり取りなどから「オシム監督の優れたものの見方・考え方」を知ることができる本です。
また、オシムという人物の成り立ちの背景や、それを語るうえで欠かすことができないと筆者が考える「ユーゴスラビア紛争」とオシムとの関わりについても知ることができ、オシムという人物を現在・過去・考察という立体的な視点で見ることが出来る本だな、と思いました。
読むことで得られたもの
・オシムさんのものの見方・考え方に影響を受ける
言葉だけでなくその背景にある想いとは何か。
サッカーに、選手に真摯に向き合う姿勢が本当に素晴らしいと感じます。その姿勢を支えているのは、選手=人間への強い愛情であることが書かれていて、考えさせられる点が大いにありました。
・目の前の辛さなんて、実は大したことがないんじゃないか?
日常の中で「なんか嫌だなあ」「苦しいなあ」「辛い」と思うことは誰にでもあると思います。
ですが、この本の中で描かれてているオシムさんの苦悩、ユーゴスラビアの人々の苦悩から考えれば、自分が感じていたものがいかに些細なものかということに気付かされます。
このことを記憶にしっかりと焼き付け、何か嫌なことがあったとき、辛いことがあったとき、「そんなこと、実は大したことがないんじゃないか?」と自分に問いかけるようにしたいと思いました。
・言葉というものの性格
本書のタイトルが「オシムの言葉」ということで、「言葉そのもの」が優れた力を持つ何かなのだという印象を持っていました。
しかし本書を読むと、「言葉そのもの」ではなく、実際に大切なのは言葉を生み出した背景であり、言葉を発した人間のものの見方・考え方であり、言葉とはそれを効果的に伝えるためのツールに過ぎないのではないか?という事を考えさせられました。
第7章「語録の助産婦」では、通訳の間瀬秀一さんの視点から書くという構成を使い、本の内容に深みを与えています。通訳という仲介者からの視点から「オシムの言葉」に向き合ったとき、それは、「オシムの意図を受け取り、相手に伝え、それが相手に本当に伝わっているかどうか」という次のステップへと変わります。
このことは、言葉を使った”コミュニケーション”そのものの形を浮かび上がらせているんじゃないかと感じました。
監督が何かを言う。で、100パーセント、日本語で伝える。伝わったはず。なのに、選手ができない時がある。てことは、伝えたことになってないんですよ。
だから、まず伝わるように訳す。例えば監督がギャグを言う。そしたら、絶対笑わしてやる。
このあたりの話は、コミュニケーションの本質が「伝わること」「伝えること」であるということを如実に表しています。
普段忘れがちですが、伝えること、伝わることというのは、強く意識しなければなかなか難しいものなのかもしれません。
「オシムの言葉」とは少し脱線しますが・・・。
こんな時にまた読みたい
良いサッカーの試合を見て感動したとき。
閉塞感に自分を見失いそうになったとき。
本棚から引っ張りだして読み返したいと思いました。
とても内容のある本で、一度読んだだけでは感想をとてもまとめられませんでした。
2016年06月07日
日清食品さんの細やかな心づかいに感動した話「U.F.O.の小袋が、内蓋の上に・・・!?」
日清焼きそば「U.F.O.」といえば、日本人なら誰でも名前を聞いたことがある伝統の一品ということで異論はないと思います。
すみません。言い過ぎました。そう思っているのは私だけかもしれません・・・。でも、まあ、日本のカップ麺を代表する一品であることは間違いないでしょう。
さて、今日はそんなU.F.O.にまつわる日清食品さんの細やかな心づかいに感動した!という話です。
U.F.O.って、1年のうちに何回か衝動的に食べたくなりませんか?
そして集中的に何個か食べると、あの濃いソース味に「お腹いっぱい」になり、しばらくはもういいや・・・という感じでちょっと遠ざかってしまうんです。
しかしまた何ヶ月か(短い時は何週間か)経つと、脳裏にあのソース味が蘇ってきて、何だか匂いが漂っているような気がして、また買ってしまう、そんな商品がU.F.O.です。
そうそう、誰か他の人が近くで食べたりすると一発KOですね。
あのソースの匂いの射程距離と破壊力は凄まじいの一言です。
そんな訳で久し振りにU.F.O.を衝動買いし、さあ食べるぞ!ということでパッケージをいそいそと開けました。
その時に「ん?」と何か違和感を感じたんですよ。
何か違う・・・。
「あ!!」
そう、違和感の正体は、内蓋の上に貼り付けられていた「ふりかけ」の小袋でした。
以前はこんなところに、こんなものは存在していなかった。
※赤い袋が「ふりかけ」の小袋です。
これまでのU.F.O.は、内蓋を開けると、中に2つの小袋が入っていました。
一つはソース。
一つがふりかけでした。
U.F.O.を食するとき、内蓋を開け、お湯を注ぐ前にこの2つの小袋を取り出すことから始めなければなりませんでした。
この時に「ふりかけ」の袋が曲者だったんです。
何故かというと、単純な話ですが、サイズが小さかったから。
ソースの袋は真っ赤な上に、サイズが大きいため抜群の存在感を放ち、取り出すことになんら問題はありませんでした。
その重量感ゆえに、少し手前に傾けると「ドスン」という感触とともに滑り落ちてきて、簡単に手で取り出すことが可能でした。
一方、「ふりかけ」。
サイズが小さくて軽い。開封時のポジションが悪ければ、揺するくらいでは簡単に出てきません。場合によっては麺の横に入り込んだり、記憶によれば最悪の場合には麺の底に潜りこんだりすることさえもあったように思います。
とにかく取り出すのが大変、という印象でした。
さらに言えば、その小ささゆえに存在を忘れてしまい、取り出さないままお湯を注いでしまうという大失態を演じてしまったことさえありました。
何とかならないのかなーと、ちょっとした不満を感じていたんです。
でもそんな事はいつしか忘れていました。
U.F.O.ってやっぱり美味しいよね、ということで、時間とともに気にならなくなっていたんです。
でも日清食品さんは、「ふりかけを内蓋の上に貼り付けてしまう」というコペルニクス展開的な発想で、この問題を私が知らない間に解決してしまっていました。
これなら絶対に取り出しに苦労することは無いし、取り忘れて袋が入ったままでお湯を注ぐことも物理的に不可能です。
小さな改善かもしれません。
でも私は、この消費者のちょっとした不満や悩みを敏感に感じ取って、そしてひっそりとその声に応えていくという姿勢に感動を覚えました。
「気付いてもらえなくてもそれでいい。
消費者の方が、少しでも楽に、美味しく、U.F.O.を味わっていただければ…」
そんな開発者の声が聞こえたような気が、はたまた、消費者に寄り添うという食品メーカーの魂を感じた気がしました。
「凄いよ日清食品さん・・・!!」
この記事を書いている間に、また脳裏にあのソースの味が蘇ってきました。
きっとスーパーでまた買ってしまうと思いますが、今度は、開発者チームの方に(顔を見たことはありませんが)「ありがとうございました」と感謝の気持ちを捧げながら、買い物カゴの中に入れるようにしたいと思います。
あとは、まあ、あの抜群に多いカロリーを何とかしてもらえたら・・・とは思います。
あの濃密な味だからしょうがないとは考えていますが、もしかしたら!?
すみません。言い過ぎました。そう思っているのは私だけかもしれません・・・。でも、まあ、日本のカップ麺を代表する一品であることは間違いないでしょう。
さて、今日はそんなU.F.O.にまつわる日清食品さんの細やかな心づかいに感動した!という話です。
久し振りにU.F.O.を買ったときに気付いた違和感
U.F.O.って、1年のうちに何回か衝動的に食べたくなりませんか?
そして集中的に何個か食べると、あの濃いソース味に「お腹いっぱい」になり、しばらくはもういいや・・・という感じでちょっと遠ざかってしまうんです。
しかしまた何ヶ月か(短い時は何週間か)経つと、脳裏にあのソース味が蘇ってきて、何だか匂いが漂っているような気がして、また買ってしまう、そんな商品がU.F.O.です。
そうそう、誰か他の人が近くで食べたりすると一発KOですね。
あのソースの匂いの射程距離と破壊力は凄まじいの一言です。
そんな訳で久し振りにU.F.O.を衝動買いし、さあ食べるぞ!ということでパッケージをいそいそと開けました。
その時に「ん?」と何か違和感を感じたんですよ。
何か違う・・・。
「あ!!」
そう、違和感の正体は、内蓋の上に貼り付けられていた「ふりかけ」の小袋でした。
以前はこんなところに、こんなものは存在していなかった。
※赤い袋が「ふりかけ」の小袋です。
そういえば、ちょっとした不満があった・・・。
これまでのU.F.O.は、内蓋を開けると、中に2つの小袋が入っていました。
一つはソース。
一つがふりかけでした。
U.F.O.を食するとき、内蓋を開け、お湯を注ぐ前にこの2つの小袋を取り出すことから始めなければなりませんでした。
この時に「ふりかけ」の袋が曲者だったんです。
何故かというと、単純な話ですが、サイズが小さかったから。
ソースの袋は真っ赤な上に、サイズが大きいため抜群の存在感を放ち、取り出すことになんら問題はありませんでした。
その重量感ゆえに、少し手前に傾けると「ドスン」という感触とともに滑り落ちてきて、簡単に手で取り出すことが可能でした。
一方、「ふりかけ」。
サイズが小さくて軽い。開封時のポジションが悪ければ、揺するくらいでは簡単に出てきません。場合によっては麺の横に入り込んだり、記憶によれば最悪の場合には麺の底に潜りこんだりすることさえもあったように思います。
とにかく取り出すのが大変、という印象でした。
さらに言えば、その小ささゆえに存在を忘れてしまい、取り出さないままお湯を注いでしまうという大失態を演じてしまったことさえありました。
何とかならないのかなーと、ちょっとした不満を感じていたんです。
でもそんな事はいつしか忘れていました。
U.F.O.ってやっぱり美味しいよね、ということで、時間とともに気にならなくなっていたんです。
ひっそりと消費者の声に応えていく姿勢に感動した!
でも日清食品さんは、「ふりかけを内蓋の上に貼り付けてしまう」というコペルニクス展開的な発想で、この問題を私が知らない間に解決してしまっていました。
これなら絶対に取り出しに苦労することは無いし、取り忘れて袋が入ったままでお湯を注ぐことも物理的に不可能です。
小さな改善かもしれません。
でも私は、この消費者のちょっとした不満や悩みを敏感に感じ取って、そしてひっそりとその声に応えていくという姿勢に感動を覚えました。
「気付いてもらえなくてもそれでいい。
消費者の方が、少しでも楽に、美味しく、U.F.O.を味わっていただければ…」
そんな開発者の声が聞こえたような気が、はたまた、消費者に寄り添うという食品メーカーの魂を感じた気がしました。
「凄いよ日清食品さん・・・!!」
この記事を書いている間に、また脳裏にあのソースの味が蘇ってきました。
きっとスーパーでまた買ってしまうと思いますが、今度は、開発者チームの方に(顔を見たことはありませんが)「ありがとうございました」と感謝の気持ちを捧げながら、買い物カゴの中に入れるようにしたいと思います。
あとは、まあ、あの抜群に多いカロリーを何とかしてもらえたら・・・とは思います。
あの濃密な味だからしょうがないとは考えていますが、もしかしたら!?
2016年06月01日
米原万里の「愛の法則」 米原万里
米原万里さんはロシア語通訳として活躍され、その後に作家・エッセイストとして活動されていた方です。
独特のユーモア溢れる語り口で書かれる文章は、読んでいるだけで楽しいです。
それに下ネタも時々入ってくる。これがまた面白いんです。
前に米原さんの本を読んだことがあったのですが、Amazonでふらふらと探索しているときに偶然この本を見つけけました。何が惹かれたのかは分かりませんが、ポチッと購入してしまいました。
ということで少し紹介させてください。
この本は、米原さんの幾つかの講演をまとめた本となっています。
「愛の法則」
「国際化とグローバリゼーションのあいだ」
「理解と誤解のあいだー通訳の限界と可能性」
「通訳と翻訳の違い」
という4本の講演によって構成されています。
「愛の法則」では、男性、女性についての米原さんの捉え方を話していく、という内容です。
文学作品や、オス・メスに関する生物学上の現象、自分自身の経験などから”男女の愛”という現象を解き明かしていくという構成です。
この章を読むにあたっては、内容が学術的にどうかということを考えるのではなく、米原さんの物の見方を
楽しんでみるという姿勢で臨むことで、とても面白く読むことが出来ました。
物事の捉え方が少し広がったと感じます。
「愛の法則」の章は面白く読まさせていただきましたが、どちらかというと本の内容的にはオマケかな?と感じました。
それは何故かと言うと、2つ目以降の講演の内容が一段と充実しているからです。
2つ目以降の講演では、「国際化」や「言葉」について語っていくという内容になっていますが、米原さん自身が子供の頃から海外で過ごした経験、さらに通訳者として仕事をした経験から組み立てられた内容は深い洞察にもとづいていて、なるほどなあ、と考えさせられる点がとても多かったです。
普段何気なく使っている「国際化」という言葉の意味や、「国際社会とは何か」という事について、机の上の解説ではなく、実際に世界で過ごした肌感覚での意味を感じることが出来ます。
サミットでの同時通訳のエピソードは目から鱗でした。
米原さんによると、サミットでの首脳同士の会話の同時通訳について、日本語は一端英語へ通訳されたあと、英語から他の言語、例えばドイツ語に通訳されるというのです。ドイツ語が日本語に通訳される時も、同様に英語への通訳を経由するのだと。一方、日本以外の参加国については、それぞれの言語が一対一の関係で通訳されるのだそうです。
米原さんはこれを”異常事態”だと言いますが、全くそのとおりではないかと考えさせられました。例えば人間同士のコミュニケーションで、間に2人の人間が入ったら、物凄く遠い感じがするのではないかと。ニュアンスだって、伝言ゲームよろしくその間に変わってしまう可能性が高くなりますよね。
軽いショックを覚えました。
この本を読むことで、「国際化」という概念について、自分の中に新しい感覚を持つことが出来たと思います。
また、言葉というものについても、「通訳者という、言葉を用いて相手の意図を別の人間に出来るだけ近しい形で伝える特殊な仕事」を通じての関わりという、私たちの日常的な関わりとは違う角度からの分析が新鮮でした。
言葉というものは単なる「コード」であり、その言葉を使ってコミュニケーションを成り立たせるという行為の本質はこうだよ、ということを鋭く指摘しています。
書中では、次のような表現で出てきます。
言葉やコミュニケーションについても、新しい感覚を持つことが出来たと思います。
どんな人にもオススメできる本だと思いましたが、特にオススメしたいのは、「言葉とは何か」や「国際化とは何か」ということについて興味がある人に対してです。
実際の経験を通じた肌感覚での解説、それもリアリスティックな視点での解説はとても分かりやすく、イメージが湧きやすいです。
米原さんが言うところの”もやもやの正体”がきっと分かると思います。
独特のユーモア溢れる語り口で書かれる文章は、読んでいるだけで楽しいです。
それに下ネタも時々入ってくる。これがまた面白いんです。
前に米原さんの本を読んだことがあったのですが、Amazonでふらふらと探索しているときに偶然この本を見つけけました。何が惹かれたのかは分かりませんが、ポチッと購入してしまいました。
ということで少し紹介させてください。
どんな本だった?
この本は、米原さんの幾つかの講演をまとめた本となっています。
「愛の法則」
「国際化とグローバリゼーションのあいだ」
「理解と誤解のあいだー通訳の限界と可能性」
「通訳と翻訳の違い」
という4本の講演によって構成されています。
「愛の法則」では、男性、女性についての米原さんの捉え方を話していく、という内容です。
文学作品や、オス・メスに関する生物学上の現象、自分自身の経験などから”男女の愛”という現象を解き明かしていくという構成です。
この章を読むにあたっては、内容が学術的にどうかということを考えるのではなく、米原さんの物の見方を
楽しんでみるという姿勢で臨むことで、とても面白く読むことが出来ました。
物事の捉え方が少し広がったと感じます。
「愛の法則」の章は面白く読まさせていただきましたが、どちらかというと本の内容的にはオマケかな?と感じました。
それは何故かと言うと、2つ目以降の講演の内容が一段と充実しているからです。
2つ目以降の講演では、「国際化」や「言葉」について語っていくという内容になっていますが、米原さん自身が子供の頃から海外で過ごした経験、さらに通訳者として仕事をした経験から組み立てられた内容は深い洞察にもとづいていて、なるほどなあ、と考えさせられる点がとても多かったです。
読むことで得られるもの
普段何気なく使っている「国際化」という言葉の意味や、「国際社会とは何か」という事について、机の上の解説ではなく、実際に世界で過ごした肌感覚での意味を感じることが出来ます。
サミットでの同時通訳のエピソードは目から鱗でした。
米原さんによると、サミットでの首脳同士の会話の同時通訳について、日本語は一端英語へ通訳されたあと、英語から他の言語、例えばドイツ語に通訳されるというのです。ドイツ語が日本語に通訳される時も、同様に英語への通訳を経由するのだと。一方、日本以外の参加国については、それぞれの言語が一対一の関係で通訳されるのだそうです。
米原さんはこれを”異常事態”だと言いますが、全くそのとおりではないかと考えさせられました。例えば人間同士のコミュニケーションで、間に2人の人間が入ったら、物凄く遠い感じがするのではないかと。ニュアンスだって、伝言ゲームよろしくその間に変わってしまう可能性が高くなりますよね。
軽いショックを覚えました。
この本を読むことで、「国際化」という概念について、自分の中に新しい感覚を持つことが出来たと思います。
また、言葉というものについても、「通訳者という、言葉を用いて相手の意図を別の人間に出来るだけ近しい形で伝える特殊な仕事」を通じての関わりという、私たちの日常的な関わりとは違う角度からの分析が新鮮でした。
言葉というものは単なる「コード」であり、その言葉を使ってコミュニケーションを成り立たせるという行為の本質はこうだよ、ということを鋭く指摘しています。
書中では、次のような表現で出てきます。
私たちは、この概念が表現されたものを、文字とか音で受け取ったときに、まずその内容を解読しますね。聞き取って解読する、あるいは読み取って解読する。解読して、ああこれが言いたかったのかと、もやもやの正体というものを受け取るのです。そこで、このもやもやの正体がわかったところで、理解できた、となるわけです。文字そのものではないのです。
言葉やコミュニケーションについても、新しい感覚を持つことが出来たと思います。
どんな人にオススメできる?
どんな人にもオススメできる本だと思いましたが、特にオススメしたいのは、「言葉とは何か」や「国際化とは何か」ということについて興味がある人に対してです。
実際の経験を通じた肌感覚での解説、それもリアリスティックな視点での解説はとても分かりやすく、イメージが湧きやすいです。
米原さんが言うところの”もやもやの正体”がきっと分かると思います。