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2017年08月25日

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(4)」最終回

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(4)」最終回
日本人はるかな旅 4-4

(前回の話)
日本列島に熱帯ジャポニカが根付き始めた縄文時代(六千年前)の頃、長江流域での新たな試みがなされていました
それは、稲作の起源地である長江流域江蘇省の五千五百年前の炭化米を検査したところ現代の米の大きさになっていたことをうけて

おそらくこの時期、稲を湿地で育てると生産性が飛躍的に高まる事を発見し人工湿地での生産を始めたのではないかと言われているのです

この結果生まれたのが今、私たちが食べている「温帯ジャポニカ」です

その水田技術も今から3千年前には朝鮮半島の南端まで達していましたが、そこで営んでいたのはなんとあの縄文人だったのです

今まで私たちが学んできた弥生人により水田稲作の伝来の根拠はことごとく打ち破られる事になったのです
こうした水田が九州北部から日本列島全土に広がって行き、森の木の実に変わり人々の新たな主食が誕生したのです

水田稲作を中心とした時代の幕開けです

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およそ二千六百年前の縄文時代末期、九州北部で水田稲作が始まり日本列島に稲作の雛形が誕生したのです

その後、日本列島の広い範囲に水田が広まって九州北部から本州最北の地に到達したのは二千年前の事だという調査結果がまとめられています

津軽平野の「田舎館村」で二千年前の水田が発見されたのです
青森水田跡.JPG

この発見により日本での稲作は(弥生時代中期の)西暦元年には北緯41度の本州最北の地に達していた事が分かりました
北緯39度.JPG

それは、二千年前頃の水田遺跡の分布からその当時世界で最も北に位置する水田だったのです

実は、このように寒冷地での稲作を可能にしたのは熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの混植によるものだったのです

それは最北の二千年前の遺跡から発見されたの炭化米を調べたところ水田の稲、温帯ジャポニカと思われていた稲に縄文の稲、熱帯ジャポンカが混じっていた事から分かったです
炭化米.JPG

さらに熱帯ジャポニカの米粒は全国十二箇所の(弥生時代の)水田跡から見つかりました
12箇所.JPG

静岡大学実験農場において稲の生育における生物多様性と早生に関する混植の実験が行われました
温帯ジャポニカと熱帯ジャポンカの混食によって生まれた「交雑種」は実験の結果一ヶ月も早い生育状況の確認をする事が出来たのでした
40日後.JPG

夏の短い寒冷地で稲作をするには短期間で実を付ける「早生(わせ)」の品種改良を必要としました
縄文時代の人々は現代に先駆けて知ってか知らずか生物多様性の理論を実践していたのです

熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの混植によって生まれた「早生」の技術が(弥生時代に入って300年で)今から二千年前本州最北端まで稲作を広めることを可能にしたのです

二千年前の世界最北の水田には私たち祖先の足跡が残されています
大人の足跡にまじり
足跡大.JPG

子供の足跡も見つかりました
子供の足跡.JPG

二千年前の秋の家族総出での稲刈りの景色が目に浮かぶようです
稲刈り.JPG

中国の長江流域で始まった稲作は1万2千年の旅を経て、現在は日本列島の北海道から沖縄まで根付いています

太古の人々の思いは日本列島の隅々まで今もなお受け継がれ、そして残っているのです

おわり・・

2017年08月24日

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(3)」

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(3)」
日本人はるかな旅 4-3

(前回の話)
日本人の記憶から忘れ去られようとしている幻の稲「熱帯ジャポニカ」の元の姿を東南アジアのラオス奥地のナムガー村に見る見ることが出来ました
ナムガー村での「熱帯ジャポニカ」の栽培は焼畑で行われている事から縄文の稲作も焼畑のスタイルであったのでしょう
しかし「熱帯ジャポニカ」は温帯に属する日本列島では全域に馴染むところまで行かなかったのです
日本人が稲の民となるにはさらに水田と言う技術の登場を待たなければなりませんでした

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焼畑による稲作から水田による稲作への変革?
誰がどのように行ったか?
日本列島では水田はどのように始まった?

このような疑問を払拭していきましょう

日本列島に熱帯ジャポニカが根付き始めた縄文時代(六千年前)の頃、稲作の起源地である長江流域では稲に大きな変化が起きていました

中国大陸での稲の変化の研究調査が長江下流域の江蘇省で行われました
中国の調査.JPG

南京郊外の地層からそれぞれの年代の四箇所から見つけた炭化米を検査してところ五千五百年前の物がほぼ現代の米の大きさになっていました
4時代の炭化米.JPG

このことはこの時期の人々が水田で管理的な稲の栽培を開始した事を物語っています 
稲を湿地で育てると生産性が飛躍的に高まる事を発見し六千年前から人工湿地での生産を始めたのです
人口湿地.JPG

このような環境変化によって熱帯ジャポニカの稲は系統的に新しい稲に生まれ変わる事を余儀なくされたのでした

この新しい系統の稲は現在「温帯ジャポンカ」と呼ばれ、今私たちが食べている稲の種類になります

水田による稲作は大陸全体への広がりを見せ、水田稲作の技術は今から三千年前には朝鮮半島南端まで到達したのです
朝鮮半島南端の水田の遺跡.JPG

半島南端.JPG

朝鮮半島南端の三千年前の集落の遺跡からは炭化米と共に縄文人の生活一式が出てきたのです
もちろん縄文土器も多数発見されました
縄文土器.JPG

縄文土器2.JPG

これらの事は縄文人が朝鮮半島南端に三千年前、集落を形成していたことの証明です

韓国の考古学者がこの事をもって、稲作の技術をこの時日本列島に持ち帰ったと主張しているが、違和感を否めない

現在のように国境で区切られた感覚で縄文時代を論じてはならない思いました

縄文時代を語るときは、時には私たちが今もっている民族感情さえも度外視しなければならないと痛感した

佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは二千六百年前の日本最古の水田跡が発見されましたが一緒に発見された生活道具の一切が縄文時代のものであることから縄文人によって水田が作られたものと考えられています
最古の水田跡.JPG

水田遺跡から縄文土器.JPG

いままでの弥生人よる水田技術の渡来説が覆され縄文人によるほぼ完成された水田稲作が行われていたという事になります
水田遺跡.JPG

弥生人による稲作の伝来に疑惑を持たざるを得ないという事になります

それは明らかな縄文人自身によるなだらかな改革だったのです

こうした水田が九州北部から日本列島全土に広がって行き森の木の実に変わり人々の新たな主食が誕生したのです
弥生時代の到来.JPG

水田稲作を中心とした時代の幕開けです
つづく・・・

(今回のまとめ)
日本列島に熱帯ジャポニカが根付き始めた縄文時代(六千年前)の頃、長江流域での新たな試みがなされたいました
それは、稲作の起源地である長江流域江蘇省の五千五百年前の炭化米を検査したところ現代の米の大きさになっていたことをうけて

おそらくこの時期、稲を湿地で育てると生産性が飛躍的に高まる事を発見し人工湿地での生産を始めたのではないかと言われているのです

この結果生まれたのが今私たちが食べている温帯ジャポニカです

その水田技術も今から3千年前には朝鮮半島の南端まで達していたがそこで営んでいたのはなんとあの縄文人だったのです

今まで私たちが学んできた弥生人により水田稲作の伝来の根拠はことごとく打ち破られる事になったのです
こうした水田が九州北部から日本列島全土に広がって行き森の木の実に変わり人々の新たな主食が誕生したのです

水田稲作を中心とした時代の幕開けです

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(2)」

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(2)」
日本人はるかな旅 4-2

(前回の話)
縄文時代の稲作を紐解いて行くと、現在の日本では幻の稲となってしまった「熱帯ジャポニカ」を訪ねる旅に行き着いてしまいました

その発祥は現在の中国、湖南省の玉蟾岩遺跡で1万2千年前の遺跡から野生ではなく栽培種として見つかりました

今から七千年前の河姆渡を経由して九州の佐賀へと伝来した事が米の分析結果から明らかになっています

そして、対馬の半農半漁の生活を見ていると縄文時代に潜水漁労の技術と熱帯ジャポニカの系統を継ぐ赤い稲を携えた河姆渡の民が対馬にも来たであろう事を窺(うかが)わせるのです

しかし対馬ではこれ以上縄文の米作りがどのように行われたかその記憶を辿る事は最早、出来ませんでした

そこで・・・・

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日本人の記憶から忘れ去られようとする幻の稲「熱帯ジャポニカ」を東南アジアのラオス奥地のナムガー村に見ることが出来ました
ナムガー村.JPG

その村では昔ながらの方法で「熱帯ジャポニカ」を作り続けているというのです
「熱帯ジャポニカ」は温帯の地域では見られなくなった今もラオス奥地では変わらず作られています

稲籾は、やや赤みを帯びておりセイロで蒸して食べます
粘り気が多く餅米のような食感があります

雨季を迎える四月、米作りの始まりです
開かれた山の斜面に火をかけて工作地をつくります
焼畑.JPG

なんと「熱帯ジャポニカ」の栽培は焼畑で行われているのです
五ヶ月後には実りの時を迎えるそうです

もしかしてら縄文時代に行われていた稲作も焼畑農法だったのかもしれません
日本の縄文稲作は焼畑.JPG

縄文時代の稲作が確認された遺跡の分布から「熱帯ジャポニカ」の米作りは南九州、中国地方といった比較的温暖な地域だけで営まれていた事が確認できます
日本の焼畑.JPG

実は日本列島で稲作が始まった六千年前頃、地球の平均気温は今より三から四度も高くなっていました

本来、暑い気候を好む「熱帯ジャポニカ」の稲はこの温暖化の中で海を越え日本列島にある程度根付くことが出来たのでしょう

縄文時代の人々は森や海で狩猟、採集をするかたわら森を切り開いた耕作地で稲作を始めました

米作りだけでなくプラントオパールの分析から粟や稗を一緒に作っていたことも分かって来ました

たぶん、米が不作でも粟や稗で食いつないで行こうというリスク回避の為だと思われます
縄文の生業.JPG

しかし、結果的に温帯の属する日本列島全域に「熱帯ジャポニカ」は馴染むところまで行かなかったようです

日本人が稲の民となるにはさらに水田と言う技術の登場を待たなければなりませんでした

つづく・・・

(今回のまとめ)
日本人の記憶から忘れ去られようとしている幻の稲「熱帯ジャポニカ」の元の姿を東南アジアのラオス奥地のナムガー村に見る事が出来ました
ナムガー村での「熱帯ジャポニカ」の栽培は焼畑で行われている事から縄文の稲作も焼畑のスタイルだったのでしょう
しかし「熱帯ジャポニカ」は温帯に属する日本列島では全域に馴染むところまで行かなかったのです
日本人が稲の民となるにはさらに水田と言う技術の登場を待たなければなりませんでした

2017年08月23日

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(1)」

「縄文稲、知られざる一万二千年の旅(1)」
日本人はるかな旅 4-1

日本列島の稲はいつどの様してもたらされたのか?
稲の民、日本人はどの様に誕生したのか?

近年、稲作の起源に新たな事実が明らかになって来ました
その事実とは日本列島では太古の米のDNA分析から縄文時代から稲作が始まっていたというのです

もともと日本列島に存在していなかった稲は何処から伝来してきたのでしょうか?

島根県の頓原町にある縄文時代の遺跡からプラントオパールと呼ばれる稲の細胞の一部が発見されました
特に岡山の朝寝鼻貝塚から発見された稲のプラントオパールは6000年前のものだったのです
朝寝鼻貝塚の米.JPG

朝寝鼻貝塚から稲のプラントオパール.JPG

確実に日本で稲作が行われるようになったのは縄文時代という事が明らかになったのです
では縄文時代の日本列島に米は何処からどのようにして伝えられたのでしょうか?

中国大陸の長江の中流域に位置する湖南省の玉蟾岩遺跡では1万2千年前から人の痕跡が見つかっています
玉蟾岩遺跡.JPG

この人々こそ世界最初に野生の稲から稲作を始めたのではないかと言われています
遺跡から発見された世界最古の稲籾の芒(のぎ)という籾の先端の棘が退化していることから野生ではなく栽培種であることが分かったのです
稲籾には芒.JPG

米の栽培は五千年後中国大陸の沿岸地域まで達しました

今から7千年前には湿地に打ち込まれたこの何本もの柱の上には住居が建ち並び数百人が暮らしていたと言われる現在の中国浙江省に河姆渡遺跡があります
河姆渡遺跡.JPG

稲のたわわに実って稲を描いた土器も発見されています
河姆渡遺跡の土器に稲の絵.JPG

土器の稲の絵.JPG

河姆渡遺跡から発見された炭化した米は分析結果から「熱帯ジャポニカ」であることが分かりました
熱帯ジャポンカの遺伝子配列を示す研究結果↓
熱帯ジャポニカの配列.JPG

そして佐賀県の遺跡から発見された縄文時代晩期の炭化米も「熱帯ジャポニカ」であった事から縄文時代の稲の傾向がはっきりして来たのです
佐賀の熱帯ジャポニカ.JPG

日本人の記憶から忘れ去られようとしている幻の稲「熱帯ジャポニカ」は河姆渡から伝わって来たのでしょうか?

それを確かめる為に当時の河姆渡に住んでいた人々の生活を見てみる事にしましょう

河姆渡遺跡からは動物の骨で作ったモリや釣り針など漁労の為の道具が見つかった事から稲を作っていた人の意外な側面を知る事が出来ます
もり.JPG

モリ等.JPG

7千年前、河姆渡は海のすぐ近くにあってモリを使って魚を獲って生活していたことが分かりました
木製の舟のオールも発見された事から河姆渡の民は海に漕ぎ出す漁労民でもあったのです
舟のオール.JPG

河姆渡遺跡の近くの沿岸では現在でも竹を組み合わせた昔ながらの舟で魚を獲る人々が生活しています
竹で編んだ舟.JPG

この漁民にとって日本列島は遠い存在ではありません
現在でも汐の流れや風の影響で九州あたりまで流される事は珍しい事ではないというのです

さらに河姆渡遺跡で発見されたものは七千年前に舟の上で猟師たちが使った竈(かまど)です
船上竈.JPG

この竈を使って舟の上で米を炊き、遠くの海に乗り出す事を可能にしたであろうことは十分考えられます

太古の昔(今から七千年まえ)中国大陸の漁労民によって稲が日本列島にもたらされた可能性が浮かび上がって来たのです

対馬に現在までつながる潜水漁労と赤い稲「熱帯ジャポニカ」はとりもなおさず中国大陸沿岸に源を発する潜水漁労の技術と熱帯ジャポニカの系統を継ぐ赤い稲、

これらが

遥か昔大陸から縄文時代の日本列島に伝来した事の裏づけになるのではないでしょうか?

しかし対馬ではこれ以上縄文の米作りがどのように行われたかその記憶を辿る事は出来ませんでした

・・・つづく

(今回のまとめ)
縄文時代の稲作を紐解いて行くと、現在の日本では幻の稲となってしまった「熱帯ジャポニカ」を訪ねる旅に行き着いてしまいました

その発祥は現在の中国、湖南省の玉蟾岩遺跡で1万2千年前の遺跡から野生ではなく栽培種として見つかりました

今から七千年前の河姆渡を経由して九州の佐賀へと伝来した事が米の分析結果から明らかになっています

そして、対馬の半農半漁の生活を見ていると縄文時代に潜水漁労の技術と熱帯ジャポニカの系統を継ぐ赤い稲を携えた河姆渡の民が対馬にも来たであろう事を窺わせるのです
プロフィール
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定年退職後の日々
定年まであと何年と数える歳になりにけり。定年後も元気で働きたい親父です(現在は過ぎ去りし願望に似たり)・・時々(我流)短歌も
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