アフィリエイト広告を利用しています

広告

posted by fanblog

2017年07月13日

ウド鈴木が25年ぶりに恩人と再会して涙。。。【芸能人の師弟関係エピソード】

ハッピーメール 18禁






お笑いコンビ・キャイ〜ンのウド鈴木が、7月14日に放送されるABCテレビのバラエティ番組『オオサカミッドナイトパーティ』(関西ローカル)で、下積み時代の恩人と涙の再会を果たす。

この番組は、謎のコーディネーター"宴深夜(うたげしんや)"に扮したTKOの木下隆行が、東京からやって来たウドと鈴木奈々を大阪の街へ案内。個性的な人々が夜な夜な集まる店を訪ね、そこで繰り広げられているディープなパーティを体験するというものだ。

木下が「エッチなお店で開かれるマグマグパーティ」が楽しめると2人を案内したのは、アジア系マッサージ店が並ぶ大阪・ミナミのあやしげな路地裏にある店。そこでウドは、懐かしい人物との思わぬ再会に感激する。

その人物とは、ウドがまだ売れない芸人だった25年前、苦しい生活を互いに支え合ったという"超大物有名人"。当時の思い出を語るうち、感極まったウドが思わず涙を浮かべ、「俺としたことが…」と照れる一幕も。数々の武勇伝を持つ"超大物有名人"の正体はもちろん、「マグマグパーティ」の気になる実態にも注目だ。

番組では他にも、大勢の客がひたすら「ハァハァ」しているという「ハァハァパーティ」が毎夜繰り広げられている店に潜入。また、60歳を超えた性別不明の常連客らが「コスコスパーティ」で盛り上がる店では、ウドがなぜか服を脱ぎ出し、セクシーな気分になった鈴木奈々がおかしな挙動を見せるなど、爆笑ロケが展開される。


芸能人は下積みが長く、ご飯を食べれない時期や辞めようと考える時期など、人それぞれ分岐点があるものですが、そんな辛い時代に支えてくれた「恩人」との感動エピソードをまとめてみたのでご紹介します。


≪芸能人の恩人との感動エピソード≫


【村上ショージ ・明石家さんま】

さんまさんと会い続けているショージさんだからこそ知る最大の魅力は、“優しさ”だと言葉に力を込めました。

1989年、お金も全然なかったのに、僕はハワイで挙式をさせてもらったんです。なんでできたかというと、雑誌の企画として式を挙げさせてもらったんです。
 …ただ、僕の結婚に、おいそれとタイアップが付くようなことはありませんわね(苦笑)。これは後から僕も知ったことやったんですけど、そもそもで言うと、フジテレビのプロデューサーを通じて、雑誌社からさんまさんに話が来たんです。

とても優しいさんまさんなんですけど、それと同じくらい、恥ずかしがりでもあるんです。その人が、奥さんと仲人をして、それを雑誌に載せるということまで了承してくれた。しかも、僕にとっては、「雑誌に載る」という芸人として目立つ“オイシイ”形を作ってくれて。

さらに、そんなことをくどくど言うわけではなく、全部を決めてから「こんな話があるみたいやわ」とだけ言ってプレゼントしてくださったんです。
さんまさんは全国の1億人を笑わせてますけど、僕にはそれはできない。でも、僕が一番うれしいのはさんまさん1人を笑わせた時なんです。

これからも、お互いに元気で、さんまさんは1億人を、僕はさんまさんを、笑わせられるように過ごしていけたらエエなぁと思っています。


【ガダルカナルタカ・ビート たけし】

たけしさんは唯一の師匠!オレには弟子の人生は背負えない。

正直、もうお笑いを辞めようかな…と思ってた時に、「お笑いスタ誕」を通じて付き合いがあった東(現・東国原英夫衆院議員)が、声を掛けてくれたんだよね。「たけしさんが野球チームを作るんだけど、野球できたよね?」って。

ヒットを打ったのか、きちんと守ってたのか、さらには試合が勝ったのか負けたのか…。全然覚えてない。自分の中の何かが「ここは人生のポイントだ」と無意識に反応して、普通じゃない精神状態になってたのかも…。

たけしさんはリサーチをしっかりやる人だから、オレたちが当時どんな状況なのかを調べたうえで、手を差し伸べにきてくれた。それがなかったら、今のオレと枝豆はないし、その思いに報いなければというのが、今日まで続いてるんだよね。
今でも、朝、楽屋に挨拶に行って「おう」と言葉をもらうまでは、とんでもなく緊張する。何年やっても、この緊張感はとれないんだよな。

とてもじゃないけど、オレは弟子をとれない。オレが知ってる師匠は、たけしさんだけ。弟子をとるということは、たけしさんのように相手の人生を背負うということだからね。残念ながら、オレには、そんな度胸はないもんね(笑)


【メッセンジャー黒田・やしきたかじん】

謹慎中、たかじんさんから連絡…“劣等感”を持つ者同士だから。

実はね、ボクが謹慎中に「メシでもいこか」とたかじんさんから連絡をいただいたんです。まだテレビ復帰のメドなんて全く立ってなかった時期でしたが、ご飯を食べてる時にポツリと「なんとか、オレが使うようにするから」と言っていただいたんです。

もちろん、吉本興業の仲間にもたくさんお世話になったんですけど、逆に言うと、吉本でもないたかじんさんが、目をかけてくださったのが、より一層ありがたかったんです。

ある種の“劣等感”やと思うんです。ハングリー精神なんてキレイなものじゃなくて、もっとこびりついていて隠していたいもの。そして、これは隠してる人間同士だけが、共感できることなんやろうなと。

それが恩返しになるか分かりませんけど、もし、“たかじんイズム”みたいなものを踏襲するならば、まずは、たかじんさんが戻ってくるまで「たかじんNOマネー」の熱を冷めさせないように努める。そして、戻ってきはったら、ボクは番組を離れて、空いた席をボクより後輩に譲らなアカンと思っています。


【はるな愛・中山秀征】

食べていくのに必死だった頃・・・ヒデさんの言葉に救われた。

ほぼ初めてテレビのお仕事をさせていただいた私を、ヒデさんは本当の女性だと思ってたみたいなんですけど(笑)、同じく番組に出演していたモト冬樹さんから「ヒデ、お前、本当に知らないの?」と言われて、すごく驚いたみたいです。でもね、それを知ってから「本名、大西賢示って言うの!?いや、面白いよ!!」と、とても可愛がってもらいました。

テレビの世界に入ると、見ていただく方はニューハーフが好きな人もいれば、嫌いな人もいらっしゃる。ニューハーフの部分は一切出さない方がいいのか、でも、普通の女の子とは違うし…。さらに、番組のオーディションに行っても「君はミズ(水商売)のニオイがするからダメだ。芸能界はあきらめた方がいいよ」と何度も言われました。食べていくのにも必死で、朝からパチンコに並んだり、持っていたバッグを質屋さんに入れて日銭を稼いだり、どこに行くのも自転車移動でした。

これでもかと自信と進路を見失っていた中で、ヒデさんがふと言ってくださったんです。「賢示は、賢示のままでいいんだよ」と。救われました。本当に、本当に。この言葉を常に頭に置いて、お仕事をしてきました。
そのおかげで、今ではお仕事でも日常的にヒデさんとお会いできるようになりました。つい先日も、テレビ局の楽屋が隣同士になったんです。
元気に頑張って、お仕事をする姿を見ていただくしかないんだろうなと思っています。


【小籔千豊・野生爆弾ロッシー、シャンプーハット小出水】

一晩中説得された…今があるのはあの後輩2人のおかげ。

2001年、ネタ合わせのつもりで行ったファミレスで、相方から「構成作家になる」と切り出され、いきなりコンビ解散になってしまいました。
自分を一番近くで見てきた相方が、コンビを辞めて「作家になる」と言った。“三振”も見てるけど、“ホームラン”も見てきた相方が出した結論が解散なら、自分にはホンマに商品価値がないんやと思い知らされました。

そんな中、ある夜、「野性爆弾」のロッシーから電話がかかってきたんです。「今日遊びましょうよ」って。もう自宅に帰っていたんで、「ごめん、もう風呂入って、家やわ」と。これって、先輩からしたら、断りのサインなんです。それでも「いや、遊びましょうよ、ウチの家に来てくださいよ」と言ってくる。これは、吉本の“縦社会”でありえないことなんです。
いぶかしく思いながらも、ロッシーの家に行ったら、缶ビールがわんさか用意されてるんです。みんな貧乏やったし、ビールなんて、そうそう買えるものじゃないのに。

その後、仕事を終えた「シャンプーハット」小出水も終電で駆けつけて、3人で飲んでたんですけど、何と言ったらいいのか、ふと、場の空気が変わったんですよね。ほんで、2人の方を見ると、意を決した顔で「辞めんといてください。小籔さんは絶対に売れます」と。あとで聞くと、劇場スタッフ経由で解散の話を聞きつけた2人が、いてもたってもいられず、こういう場を設けてくれたんです。
本来、後輩から先輩に言うべき言葉ではないのかもしれません。それを承知で、それでも言ってくれた2人。翌朝5時、小出水が始発で仕事に行くまで、延々「辞めんといてください。絶対売れます」を繰り返されました。

ロッシーの家に行くまでは、完全に辞めるつもりでした。でも、一晩話をしたところで、思ったんです。こんなにエエ人間に囲まれてできる仕事はなかなかないやろうなと。そんな人らと別れるのはもったいないと。

その思いでこの世界に残り、今に至りました。


【西川きよし・西川ヘレン】

伝説の漫才コンビ「やすきよ」の原点を作ってくれた。

今日の僕があるのは、もちろん「やすきよ」があってのことです。やすしさんがいたから、50年もやらせてもらいました。でも、もともと、やすしさんとのコンビは断り続けてたんです。
結成を決断させてくれたのは、ヘレンでした。だから、全ての原点は家内が作ってくれたようなものなんです。

やすしさんと組んで、お仕事がいただけるようになって、大阪・堺に最初の家を建てることができました。小さな庭でしたけど、僕がまず買ったのがブランコでした。「これは、おまえだけのブランコや。朝から晩まで、好きなだけ、乗ってたらエエ」と言ったのを覚えています。

今、結婚生活は46年目。あと4年で金婚式です。妙な言い方になるかもしれませんが、究極の理想は、どちらが先ということなく、同じタイミングで天に召されたらいいなと考えています。同じ棺桶に入って。
あんまり言ったら、気持ち悪がられるかもしれませんけど(笑)、本当にそう思うんですよ。時々、本気で二卵性双生児じゃないかと考えるくらいです。


【すっちー・小藪千豊】

“道”を作ってくれた先輩…座長になることが恩返し。

最も新喜劇の新座長に近いと言われるすっちーが恩人として挙げたのは…。
吉本新喜劇座長の小籔千豊さんです。小籔さんも、僕も、もともとは漫才コンビを解散して新喜劇に入った“途中参加組”なんです。
僕が1996年から2007年まで組んでいたコンビ「ビッキーズ」を解散して、新喜劇入りを考えた時も、先に新喜劇に入られていた小籔さんに相談しました。

中でも、特に小籔さんに教えられたのは「新喜劇は船である」ということです。まず考えるべきは、この船がいかに順調に航行を続けていけるか。いくら自分だけがはしゃいでみても、船がなくなったら、自分を含め、乗組員みんなが困ってしまう。
だから、小籔さんは街でファンの方に「写真撮ってください」と言われた時も、撮った後に必ず「新喜劇、見てね!」と言わはるんです。フジテレビ系「人志松本のすべらない話」とか全国ネットの番組に出演する時も、「アイアム座長」というキャッチフレーズをおっしゃる。自分は“新喜劇の小籔”であり、“新喜劇の座長”であるというアピールをするんです。

漫才を辞めて新喜劇に入った時、小籔さんが“道”を作ってくれていた。何にもなかったところに道を作って、街灯を立てて、後を歩いてくる人間が歩きやすい環境を作ってくださっていた。絶対に足を向けては寝られないです。そして、これからは自分も次の人のための“道しるべ”になっていかなアカンと思っています。それしか、恩返しはないですから。




安心と信頼で選ぶなら、NTTグループが提供する【スマイルサーバ】

この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/6468035
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
ファン
記事ランキング
検索
最新記事
カテゴリーアーカイブ
QRコード
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。