2017年01月05日
冤罪物語 連載54 敵討ちの部
「もう一度言い換えますと、人間が、自分や他人の想念行為の中に、自分そのものその人そのものの想念行為としての悪を認め、不幸を認めているようですと、法華経の絶対の世界、自由自在、真善美の世界には永遠に到達できないのであります」
「みずからを、知らず知らずに仏から引き離していたものだから、そうした過去の想いに引き続いた想念の世界で、いくら仏を探し歩いても、過去の想念の波が後から後から押し寄せてきて、とても仏と一体になることはできない。だから一度過去の自分と絶縁して、念仏一念で押し通してしまえば、過去の波の中に、自分の想いを引き戻すことが無いから、仏と一体になれて、救われの自分、自由自在な自分本来の人間の姿に還れるのだ」(霊性の開発 五井昌久著 白光真宏会出版本部)
ここまで来て、私は「アレッここにあった」
大きく何か掴まえることができたような気がしました。
昨年はここまでで、今回に続きます。
漠然としか捉えることができなくて、スッキリしない状態が続いていたのでしたが、
五井昌久氏の「青字の部分」を読むうちに、五井氏の表現で「過去世の誤った想念」
の解釈を「本来神仏と一体なのだが、それを知らなかった時の行為が『過去世の誤った想念』」
と短絡して捉えて、なんだか体が軽くなりました。
「だから、それと絶縁すればいい。突き放してしまえば好いのだ」
とこれもまた短絡して捉えました。
ここで、また一段と体が軽くなりました。
五井昌久著 白光真宏会出版本部 霊性の開発 91ページ
「もう一度いいかえますと、人間が自分や他人の想念行為の中に、自分そのもの、その人そのものの想念行為としての悪を認め、不幸を認めているようですと、法華経の絶対の世界、自由自在、真善美の世界には、永遠に到達できないのであります」(原文そのまま)
ここを何回も何回も読み返して、『悪を認め・不幸を認め』
とは、悪い所業は悪いことに決まっている。そんなことにいつまでもクヨクヨして執着しているな。止まっているな。そんなモノは突き放して絶縁してしまえ。これでいいんだ。
と、捉えました。つづきも原文です。
「法然・親鸞の教えも、そのところに重点が置かれてあったのであって、肉体人間の一切の想念行為に関係なく、一念の念仏によって、弥陀の浄土に往かれるのだ、といっているのでありまして、お前は今まであのような行いをしていたのだから、その行為を改めぬ限り、いくら念仏をいっても、阿弥陀様は救ってくれぬ、などとはいっておりません。それは人間は本来仏そのものであるのだ、ということを浄土門の祖師たちは知っておられて、本来は仏なのだが、仏であることを知らなかった以前の妄念によって、みずからを知らず知らずに仏から引き離していたものなのだから、そうした過去の想いに引き続いた想念の世界で、いくら仏を探して歩いても、過去の妄念の波が跡から後から押し寄せてきて、とても仏と一体となることはできない。だから一度過去の自分と絶縁して、念仏一念で押し通してしまえば、過去の波の中に、自分の想いを引き戻すことがないから、仏と一体となれて、救われの自分、自由自在な自分、本来の人間の姿に還れるのだ、ということが、その教えの根底にあったのであります」
同じことを、法然親鸞の教えに例えて説いています。
「知らなかった過去の想いに執着するなッ・今流だときっと『ここで、想いを更新して、真っ新に』
とでも聞こえてきそうです。(スミマセン解釈が浅薄で)
これで、私としては、如何にすることが「救われの道」であるかということが納得できました。
・・・・・・これ、実行するとなると難しいです。
と私には思えるのです。つづきます。
「みずからを、知らず知らずに仏から引き離していたものだから、そうした過去の想いに引き続いた想念の世界で、いくら仏を探し歩いても、過去の想念の波が後から後から押し寄せてきて、とても仏と一体になることはできない。だから一度過去の自分と絶縁して、念仏一念で押し通してしまえば、過去の波の中に、自分の想いを引き戻すことが無いから、仏と一体になれて、救われの自分、自由自在な自分本来の人間の姿に還れるのだ」(霊性の開発 五井昌久著 白光真宏会出版本部)
ここまで来て、私は「アレッここにあった」
大きく何か掴まえることができたような気がしました。
昨年はここまでで、今回に続きます。
漠然としか捉えることができなくて、スッキリしない状態が続いていたのでしたが、
五井昌久氏の「青字の部分」を読むうちに、五井氏の表現で「過去世の誤った想念」
の解釈を「本来神仏と一体なのだが、それを知らなかった時の行為が『過去世の誤った想念』」
と短絡して捉えて、なんだか体が軽くなりました。
「だから、それと絶縁すればいい。突き放してしまえば好いのだ」
とこれもまた短絡して捉えました。
ここで、また一段と体が軽くなりました。
五井昌久著 白光真宏会出版本部 霊性の開発 91ページ
「もう一度いいかえますと、人間が自分や他人の想念行為の中に、自分そのもの、その人そのものの想念行為としての悪を認め、不幸を認めているようですと、法華経の絶対の世界、自由自在、真善美の世界には、永遠に到達できないのであります」(原文そのまま)
ここを何回も何回も読み返して、『悪を認め・不幸を認め』
とは、悪い所業は悪いことに決まっている。そんなことにいつまでもクヨクヨして執着しているな。止まっているな。そんなモノは突き放して絶縁してしまえ。これでいいんだ。
と、捉えました。つづきも原文です。
「法然・親鸞の教えも、そのところに重点が置かれてあったのであって、肉体人間の一切の想念行為に関係なく、一念の念仏によって、弥陀の浄土に往かれるのだ、といっているのでありまして、お前は今まであのような行いをしていたのだから、その行為を改めぬ限り、いくら念仏をいっても、阿弥陀様は救ってくれぬ、などとはいっておりません。それは人間は本来仏そのものであるのだ、ということを浄土門の祖師たちは知っておられて、本来は仏なのだが、仏であることを知らなかった以前の妄念によって、みずからを知らず知らずに仏から引き離していたものなのだから、そうした過去の想いに引き続いた想念の世界で、いくら仏を探して歩いても、過去の妄念の波が跡から後から押し寄せてきて、とても仏と一体となることはできない。だから一度過去の自分と絶縁して、念仏一念で押し通してしまえば、過去の波の中に、自分の想いを引き戻すことがないから、仏と一体となれて、救われの自分、自由自在な自分、本来の人間の姿に還れるのだ、ということが、その教えの根底にあったのであります」
同じことを、法然親鸞の教えに例えて説いています。
「知らなかった過去の想いに執着するなッ・今流だときっと『ここで、想いを更新して、真っ新に』
とでも聞こえてきそうです。(スミマセン解釈が浅薄で)
これで、私としては、如何にすることが「救われの道」であるかということが納得できました。
・・・・・・これ、実行するとなると難しいです。
と私には思えるのです。つづきます。
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