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2016年10月13日

よしの567「はじめに かみは てん と ち を そうぞうされた」

よしの567「はじめに かみは てん と ち を そうぞうされた」

「はじめに神(かみ)は天(てん)と地(ち)を創造(そうぞう)された」

せいしょの だいいちばんめ に かかれている ことば と 三浦綾子さんの「光あるうちに」に かいてあります。

にほん に おける ドライクリーニング の そうししゃ 五十嵐健治し は 19
さいのとき はじめて ひらいた せいしょの ぼうとうに この ことばを よみ
「ああ、この てんちを つくられたのが かみで あったのか。この じぶんも また かみに つくられたのであったか」
と かんどうし なみだに むせばれたそうである。

その はなしを きいて わたしもまた かんどうした。

深海(しんかい)にすむ さかなに めの たいかしている さかなが あるという。
めは つかわなければ たいかするのだ。
どうように れいてきな めも つかわなければ たいかして 盲(もう)に なってしまう。

わたしは 五十嵐健治氏の この かんどうを きいてじぶんを かえりみ そう おもった。

わたしたちが もし すばらしい しろのような 建築物(けんちくぶつ)をみ これを つくったのは この ひとですと だれかを しょうかいされたら どうであろう。
「ほう、この ひとが この すばらしい けんちくぶつを つくったのか」と あらためて おどろき かんしんするに ちがいない。

また すばらしい えいえんに のこるような めいがを みていて このひとが えがかれましたと しょうかいされたら わたしたちは やはり そうとうに かんどうするに ちがいない。

五十嵐健治氏は にほんの うつくしい 山河(さんが)を まいにち かんじいって ながめていたとき、この てんちを つくられたのは かみであると しって いいようもない かんどうを あたえられたのであろう。そして にんげんも また かみの そうぞうによると しったとき さらに すなおに しんずることが できたのであろう。

かみが この てんちを つくられたということは すなわち かみは ぜんのうであり そうぞうぬしである ということであって せいしょの しめす きほんてきな かみ 観念(かんねん)とも いえる。

ヨハネによるふくいんしょ の だい1しょうにも、ゆうめいな
「初(はじ)めに言(ことば)があった」
という ひょうげんがある。
(ぶんごやくでは「太(はじ)初(め)に言あり」で このほうがよく しられている)
つづいて
「言は かみ とともにあった。言は かみであった。 この言は はじめに かみとともに あった。すべてのものは これによってできた。
できたもののうち、ひとつとして これによらないものは なかった」
と かいてある。 言は いし、しそう、ちから、しんり など の いみを ふくみ げんごの ロゴスの やくであり、やくするのに くしんを ようしたと いわれるが この せいくも また かみが かみのいしによって ばんぶつをそうぞうされたことを しめしている。

2000ねんに わたって キリストしゃは この てんちそうぞうの かみを しんじてきたわけである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9
ロゴス ウィキペディア
ロゴス(logos)とは、古典ギリシア語の λόγος の音写で、
1. 概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味[1]。
2. キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。
3. 言語、論理、真理の意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。
4. 語彙、対比[編集]
5. ロゴスは、ミュトスと対比して用いられていた。
6. ミュトスは、最近では“神話”とワンパターンに翻訳されることも多いが、原義としては、人が語る“ものがたり”や“お話”全般を指すのであり、ギリシャ悲劇や喜劇、アイソーポス(イソップ)の寓話の題材もミュトスである。
7. このミュトスに対して、ロゴスはある。「空想」に対して「理性」があり、「物語る言葉」に対して「論証する言葉」があるのである。
8. 歴史[編集]
9. 古代ギリシャ[編集]
10. ロゴスを最初期に世界原理とした哲学者はヘラクレイトスである。ヘラクレイトスは世界の本性であるアルケー(根源原理)ただし、原子の意味ではないが火また戦(戦争)にあると説いた。そのような絶えず流動する世界を根幹でつなぐのがロゴスであるとされた。ロゴスはここでは、世界を構成する言葉、論理として把握される。
11. 紀元前5世紀にはソフィストが弁論術を教えた。そのなかには文法の知識もあったが、これは直接にはヘラクレイトスとの関係をもたなかった。ソクラテスは対話による「産婆術」を行い、また弟子であるプラトンはいくつかの言葉についての考察を行ったが、とくに中期以降は幾何学が重視されるようになる。
12. ヘレニズム、ストア派[編集]
13. 詳細は「ストア哲学」を参照
14. ロゴスが哲学用語として注目されるのは、ヘレニズム期のストア哲学である。ゼノンをはじめとするストア派の哲学者は、神が定めた世界の神的な論理を「ロゴス」と呼び、ときにこれを神とも同一視した。このような神格化に伴い、ロゴス賛歌のような詩も作られた。
15. ストア派において、ロゴスは根幹となる概念であり、世界を定める理を意味する。ストア派のロゴスは「自然」(ピュシス、本性)や「運命」〔テュケー)とも表現され神とも同一視される。また人間は世界の一部であり「人間の自然本性」としてロゴスを持って生まれているとされる。こうした「人間の自然」としてのロゴスはダイモーンやヌースとも呼ばれ、これに従った生き方が賢者の生き方であるとされる。
16. キリスト教[編集]
17. キリスト教の成立にあたり、このようなロゴス観は大きな影響を与えた。
18. 『ヨハネによる福音書』の冒頭では以下のように述べられる。
19. Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος.
はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった
20. − 『ヨハネによる福音書』1:1(Κατά Ιωάννην Ευαγγέλιο[2])
21. これはキリストについて述べたものと解され、三位一体の教説の成立に当たって重大な影響を及ぼした。ロゴスは「父」の言である「子」(=イエス)の本質とみなされた。これにより「ロゴス」はキリストの別称ともなった。
22. この箇所のλόγος(ロゴス)は、ラテン語版聖書(ウルガタ版)ヨハネによる福音書では verbum(ウェルブム) と訳された。
23. in principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum. − Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia)/Ioannes[3]
24. アウグスティヌスはこの一節を踏まえ、父なる神のロゴス(verbum、言)である子(=イエス)と、ロゴス(verbum、言)が担う愛としての聖霊についての説を展開し、父と子から聖霊が発出するというフィリオクェの教説を擁護した。 (キリスト理解としてのロゴス論については、イエス・キリストを参照)
25. キリストとしての神の本性が、ロゴスすなわち論理と解されたことによって、西ヨーロッパにおける哲学のひとつの流れである、論理と思弁を重んじる風潮、さらには論理と言語によって神を把握しようとする積極神学の道が拓かれた。このような背景もあり、今日哲学の分野で「ロゴス」といわれるときには、程度の差はあれ、単なる構造としての論理ではなく、“語られる力ある言”という“人格的な、かつ神的なロゴス”理解の影響があることが一般的である。
26. 論理学としての流れ[編集]
27. その一方で、思考の論理としてのロゴスの学としての論理学の流れがある。アリストテレスによって綜合された古代のロゴスの学(ロギケー)は、ラテン語では logica と呼ばれた。これはヨーロッパの中世において神学の予備学である自由七科のひとつとされた。論理学は、幾何学など数学とともに教えられた。現代哲学において、あるいは数学において、論理学は重要な分野のひとつであり、ある種非認証の論理の厳密な追求が行われている。古代のロゴス理解とは同一ではないが、世界の構成原理としてのロゴスはこのような形でも追求されているのである。

つぎに かみは 聖(せい)なるかたである。
「われらの かみ しゅは 聖で いらせられる」
ということばは せいしょ の いたるところに かかれている。
じぶんたちの しんずる かみが せいである ということは じゅうだいな ことである。
にんげんが しんで かみに まつられた ていどでは 
けっして 聖とは いえないであろう。
たとえ いかなる ひんこうほうせいのひとが しんでも わたしには 聖なる かみになるとは おもえない。このことに ついては にんげんが いかに よわく みにくく あやまりやすいものであるを くりかえし かいてきたことによって わかってもらえるとおもう。

聖なる かみは また 義(ぎ)なる(正義(せいぎ)の) かみ でもある。
「すべて にんげんは かみ の まえに 義と せられない」
「それは かみの 義を しめすためであった」
というように ロマしょ の3しょう だけでも かみの 義 かみの まえにおける 義 ということばが いくども でてくる。

かみが 正義であるということは わたしたち にんげんにとって かんしゃなことだが おそろしいことでもある。
なぜなら わたしたちが 義(ただ)しいとは 言(い)えない そんざいだからだ。

わたしたちは 全く(まったく)正(ただ)しいかたの まえにでたら どんな おもいに なるだろう。じぶんの みにくさが はっきりわかって かおを あげえないに ちがいない。

ところが かみが たんに せいぎの かみであるなら わたしたちにとって たとえ かみの そんざいを しんじえたとしても それは とおく つめたいそんざいでしか ないであろう。

ありがたいことに せいしょは この 聖にして 義なる かみが どうじに あいなる かみであり、ゆるしの かみであることを わたしたちに しめして やまないのである。その かみの あいを イエスは せいしょの ルカによる ふくいんしょ15しょうの なかで 1つの たとえばなしによって おしえておられる。

「放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のはなし」
<あるひとに ふたりの むすこがいた。ところが おとうと むすこが あるひ ちちおやに いった。
「あなたの ざいさんのうちで わたしの もらうぶんを ください」
そこでちちおやは その 身代(しんだい)を ふたりに わけてやった。それから いくにちも たたないうちに おとうとむすこは じぶんのものを ぜんぶ 換金(かんき)して いえを でた。
-
そして じぶんのすきな ところにいって ほうとうの かぎりをつくし、かねを ゆみずのように つかいはたしてしまった。

すっからかんになったころ その ちほうに ひどいききんがあつた。かれは ついに くうに ことかくほどに おちぶれた。
しかたなく ひとに やとわれて ぶたかいになった。かれは くうふくのあまり ぶたの えさで くうふくを しのごうとしたが だれひとり かまっては くれなかった。
どん底(ぞこ)生活(せいかつ)に落(お)ちで彼はやっと ほんしんに たちかえっていった。

「ちちのところには しょくもつのありあまっている やといにんが おおぜいいいるのに、わたしは ここで うえじにしようとしている。
そうだ ちちのところに かえっていって こういおう。お父(とう)さん わたしは てんにたいしても おとうさんにたいしても つみを おかしました。もう あなたの むすこと よばれる しかくは ありません。どうか やといにんの ひとり どうように してください」
かれは たって しおしおと ちちのいえに かえっていった。
ところが ちちおやは まだ とおくにはなれているうちに かれの すがたを みとめた。あわれにおもった ちちおやは はしって むかえにでて そのくびを しっかりだいて せっぷんした。
「おとうさん ぼくは てんにたいしても あなたにたいしても つみを おかして しまつたのです。もう むすこと よばれる しかくは ございません」

しかし ちちおやは おおよろこびで 僕(しもべ)たちに 言いつけた。

「さあ、はやく さいじょうの きものを だしてきて このこに きせなさい。 ゆびには ゆびわを はめやりなさい。それから あたらしい くつをだし はかせることだね。そうだ いちばん こえた こうしを ほふろう。みんなで たのしい えんかいを ひらこうじゃないか。なにせ この むすこは しんでいたのに いきかえったのだ。いなくなっていたのが かえってきたのだ。めでたいはなしじゃないか」
こうして おんがくや おどりのうちに えんかいは はじめられた>
-
河原朝生さんも えにしてあります。↓
http://www.asaokawahara.com/1980
放蕩息子の帰還 1987
-
この ちちは いうまでもなく かみの すがたである。
わたしたちの かみは このように じひぶかい あいのかたなのだ。ただの いちども
「どのつらさげて かえってきた?」
とも
「わけてやった身代(しんだい)は いったいなにに つかったんだ。あにきをみろ あにきのほうは まじめに はたらいているぞ」
とも せめなかった。
いかなる つみを おかしても いったん くいあらためて かみのもとに たちかえろうとするならば かみは せめるどころか おおいに よろこんで うけいれてくださるのだ。わたしたちがどろぼうを しても 姦淫(かんいん)を おかしても ひとを きずつけても さつじんを おかしても とにかく ほんきで くいあらためるならば かみは おおでを ひろげて その みてのなかに むかえいれて くださるのだ。

わたしたちは だれひとりとして かみに ゆるしてもらうことなど なにもない とは けっして いえないそんざいなのだ。たとえ いわゆる おおきな つみは おかさなくても わたしたちは かならず ひとの こころを きずつけたり にくんだり くるしめたり なんらかの つみは おかしている。そして いかなるつみも かみは ゆるすことができるのだ。
わたしたちは この かみに かえって はじめて しんの やすらぎを えることができるのである。

わたしは これらの かみの そんざい 神性(しんせい)は キリストによって けいじされていることを ここに ふたたび ふれておかなければならない。

かみの 聖も 義も 愛(あい)も キリストを とおして 人類(じんるい)に 如実(にょじつ)にあらわされたのである。

ぜんじゅつ したとおり かみは にんげんの ちえを はるかに こえた そんざいであり とうてい にんしきできない そんざいである。
しんずるより しかたのない そんざいである。そしてまた どのように しんじたらいいのか それも わからないのが にんげんである。
だか かみのがわから キリストによって みちは ひらかれたのである。
イエスの でしの ひとりは かみを しめしてほしいと イエスに 言った。 イエスは 言われた。
「わたしを見(み)、わたしの業(わざ)を見よ」
と。これについても、回(かい)をかさねて のべていきたい。

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