2016年06月29日
よしの101『いつくしみの特別聖年』大回勅(No.22〜23)
よしの101『いつくしみの特別聖年』大回勅(No.22〜23)
せんじつの にちようび、 カトリックの ミサで いただきました。↓
わたしは よく ひらがなで 文をかくのですが、かんじ が おおきいので わたしとは ぎゃくだなあ とおもって よみました。
わたしの しりあいが せいしんびょういんに 30ねん にゅういんになって なくなりました。
いとこも おばも ながく にゅういんして なくなりました。
おばは くすりは のめない といっていましたが ずっと のんでいました。
びょうき と くすりのかんけいとか かんがえます。
すいぎん が 50%はいった いのつめもの アマルガムもあります。
このような もんだいは どのように かんがえたらいいのだろうと おもいます。
―
―
くまもとじしん ひさいしゃのためにもいのります。
―
くまともの 住宅はたくさん とうかいしましたが、こうじげんばの リスクアセスメントは どのように なっているのでしょうか?
―
参考
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0245.htm
教皇フランシスコ、いつくしみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」
22 聖年には免償も伴います。免償は、いつくしみの特別聖年の期間中、とくに大切なものです。わたしたちの罪に対する神のゆるしには際限がありません。イエス・キリストの死と復活において、神は人間の罪を打ち砕くまでに至るご自分の愛をお示しになります。過越の神秘と教会の神秘を通して、神と和解させていただくことができるようになります。神はいつもゆるそうとしておられ、つねに新しく思いがけないやりかたでゆるしを与えることを決してやめません。わたしたちは皆、それでも罪を経験します。完全な者になるようにと呼びかけられていることが分かっていても(マタイ5・48参照)、罪の重さもよく自覚しています。わたしたちは、自分を造り変えてくださる恵みの力を感じるとき、自分を左右する罪の力をも体験するのです。ゆるしを受けたにもかかわらず、わたしたちの生活には罪の結果である矛盾が残っています。和解の秘跡で、神は罪をゆるし、その罪は本当に消し去られます。しかし、わたしたちの思いや行いには望ましくない罪の痕跡が残ります。それでも、神のいつくしみはこれよりもずっと強いのです。キリストの花嫁を介して、神のいつくしみは御父の免償となり、罪人のもとにゆるしを届けます。そしてその人が愛をもって行動できるようにさせ、再び罪に陥るのではなくむしろ愛の中ではぐくまれるよう、罪のあらゆる結果から解放してくださいます。
教会は聖徒の交わりの中にいます。感謝の祭儀の中で、神のたまものであるこの交わりは、数えきれないほどの聖人や福者の大群衆(黙示録7・4参照)とわたしたち信者を結ぶ霊的な一致として、現実のものとなります。彼らの聖性は、弱さのあるわたしたちを助けます。同じように母なる教会は、祈りと生活をもって、ある者の弱さとまた別のある者たちの聖性が結ばれるよう目指すのです。ですから特別聖年に免償を体験することは、御父のゆるしが信者の生活全体に及ぶという確信をもって御父のいつくしみに近づくことです。免償とは教会の聖性の体験であり、教会はすべての人をキリストのあがないがもたらした恩恵にあずからせます。そうしてゆるしは隅々にまで広がり、そこに神の愛がもたらされるのです。罪をゆるし、いつくしみに満ちた免償を広げてくださるよう御父に願いながら、この聖年を熱い心で過ごしましょう。
23 いつくしみには、教会の垣根を越える価値があります。いつくしみは、神をよりよく特徴づける属性の一つだとしてそれを重んじている、ユダヤ教やイスラームとわたしたちとのきずなになっています。イスラエルは、全人類に贈られるはかりしれない富の、その出発点として歴史に残るこの啓示を最初に受けました。ご存じのように、旧約聖書のページはいつくしみで埋め尽くされています。なぜならそこには、主がご自分の民のためにその歴史のもっとも困難な時になし遂げてくださった、わざの数々が語られているからです。イスラームでいえば、創造主の呼称には、いつくしみ深いかた、寛大なかた、というものもあります。日々身にしみる弱さの中で、いつくしみに寄り添われ支えられていることを感じているムスリムの人々の唇には、しばしばこの呼び名が上ります。彼らもまた、神のいつくしみを制限するものは何もないことを信じているのです。いつくしみの門はつねに開かれているからです。
いつくしみのうちに過ごすこの特別聖年が、こうした宗教や、また他の優れた宗教的伝統との出会いを促す一助となりますように。この年を通して、さらによく知り合い理解するために、わたしたちがより対話へと開かれた者とされますように。いかなる姿であろうと閉鎖的・侮蔑的態度は根絶され、いかなる暴力も差別も斥けられますように。
せんじつの にちようび、 カトリックの ミサで いただきました。↓
わたしは よく ひらがなで 文をかくのですが、かんじ が おおきいので わたしとは ぎゃくだなあ とおもって よみました。
わたしの しりあいが せいしんびょういんに 30ねん にゅういんになって なくなりました。
いとこも おばも ながく にゅういんして なくなりました。
おばは くすりは のめない といっていましたが ずっと のんでいました。
びょうき と くすりのかんけいとか かんがえます。
すいぎん が 50%はいった いのつめもの アマルガムもあります。
このような もんだいは どのように かんがえたらいいのだろうと おもいます。
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くまもとじしん ひさいしゃのためにもいのります。
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くまともの 住宅はたくさん とうかいしましたが、こうじげんばの リスクアセスメントは どのように なっているのでしょうか?
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参考
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0245.htm
教皇フランシスコ、いつくしみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」
22 聖年には免償も伴います。免償は、いつくしみの特別聖年の期間中、とくに大切なものです。わたしたちの罪に対する神のゆるしには際限がありません。イエス・キリストの死と復活において、神は人間の罪を打ち砕くまでに至るご自分の愛をお示しになります。過越の神秘と教会の神秘を通して、神と和解させていただくことができるようになります。神はいつもゆるそうとしておられ、つねに新しく思いがけないやりかたでゆるしを与えることを決してやめません。わたしたちは皆、それでも罪を経験します。完全な者になるようにと呼びかけられていることが分かっていても(マタイ5・48参照)、罪の重さもよく自覚しています。わたしたちは、自分を造り変えてくださる恵みの力を感じるとき、自分を左右する罪の力をも体験するのです。ゆるしを受けたにもかかわらず、わたしたちの生活には罪の結果である矛盾が残っています。和解の秘跡で、神は罪をゆるし、その罪は本当に消し去られます。しかし、わたしたちの思いや行いには望ましくない罪の痕跡が残ります。それでも、神のいつくしみはこれよりもずっと強いのです。キリストの花嫁を介して、神のいつくしみは御父の免償となり、罪人のもとにゆるしを届けます。そしてその人が愛をもって行動できるようにさせ、再び罪に陥るのではなくむしろ愛の中ではぐくまれるよう、罪のあらゆる結果から解放してくださいます。
教会は聖徒の交わりの中にいます。感謝の祭儀の中で、神のたまものであるこの交わりは、数えきれないほどの聖人や福者の大群衆(黙示録7・4参照)とわたしたち信者を結ぶ霊的な一致として、現実のものとなります。彼らの聖性は、弱さのあるわたしたちを助けます。同じように母なる教会は、祈りと生活をもって、ある者の弱さとまた別のある者たちの聖性が結ばれるよう目指すのです。ですから特別聖年に免償を体験することは、御父のゆるしが信者の生活全体に及ぶという確信をもって御父のいつくしみに近づくことです。免償とは教会の聖性の体験であり、教会はすべての人をキリストのあがないがもたらした恩恵にあずからせます。そうしてゆるしは隅々にまで広がり、そこに神の愛がもたらされるのです。罪をゆるし、いつくしみに満ちた免償を広げてくださるよう御父に願いながら、この聖年を熱い心で過ごしましょう。
23 いつくしみには、教会の垣根を越える価値があります。いつくしみは、神をよりよく特徴づける属性の一つだとしてそれを重んじている、ユダヤ教やイスラームとわたしたちとのきずなになっています。イスラエルは、全人類に贈られるはかりしれない富の、その出発点として歴史に残るこの啓示を最初に受けました。ご存じのように、旧約聖書のページはいつくしみで埋め尽くされています。なぜならそこには、主がご自分の民のためにその歴史のもっとも困難な時になし遂げてくださった、わざの数々が語られているからです。イスラームでいえば、創造主の呼称には、いつくしみ深いかた、寛大なかた、というものもあります。日々身にしみる弱さの中で、いつくしみに寄り添われ支えられていることを感じているムスリムの人々の唇には、しばしばこの呼び名が上ります。彼らもまた、神のいつくしみを制限するものは何もないことを信じているのです。いつくしみの門はつねに開かれているからです。
いつくしみのうちに過ごすこの特別聖年が、こうした宗教や、また他の優れた宗教的伝統との出会いを促す一助となりますように。この年を通して、さらによく知り合い理解するために、わたしたちがより対話へと開かれた者とされますように。いかなる姿であろうと閉鎖的・侮蔑的態度は根絶され、いかなる暴力も差別も斥けられますように。
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