2017年02月11日
よしの963バカ。
よしの963バカ。
つかれていますので ゆっくり すすむことにします。
―
飯塚の浄土真宗本願寺派 明光寺に おいてあった 冊子 中尾徹昭 「ことば」より
そういえば わたしの もと おっとの じっかの お寺も 浄土真宗本願寺派で 浄方寺 わたしの 姉の とつぎさきも 浄土真宗本願寺派で 清涼山 淨万寺です。
http://kaizoku-movie.jp/
海賊と呼ばれた男の古里でもあります。唐津街道でもあります。
―
「ごえん」 というものなのでしょうね。
―
そして
きょう しけいしゅう から かいほうされた 袴田巌さんが えいがで
「じけんも ない さいばんも ない けいむしょも ない」
みたいな はつげんを してあって 福田孝行(現在 大月)さんの
ひんしゅくかった ドラエモンの 4じげんポケットはつげん みたいだなと おもいましたが
―
般若心経みたいだとも おもいました。
―
http://www.zen-essay.com/entry/hannyashingyou
不生不滅 不垢不浄 不増不減
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)
あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。
だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
存在=空=自性がない=無常=変化を繰り返す=常なるものは存在しない
これらはすべてイコールでつながるものなのだ。
存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄化もせず、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。
―
なんだか わけがわかりません。
袴田さんは ぼけているわけでは ありません。
たぶん スタッフだと おもいますが 袴田さんより ずっと わかい 男性と しょうぎを さして スタッフのひとは なんど たいせんしても かてないのだとか。
―
袴田さんは さきの さきを よんでるのだそうです。
―
ボクサーだった 袴田さんて あたまいいんですね。
―
まえおきは このくらいにしておきまして
冊子 中尾徹昭 「ことば」より
「バカ」の おはなし
「バカ」と いわれたら かならず「バカちいうもんが バカたい」と いいかえし
「バカちいうもんが バカたいち いうもんが バカたい」と かぎりなく くりかしていた
なつかしい おさないひの おもいで。
しんじつを いいあてていることを おもいしる。
―
「えらい ちいうもんが うらいとたい」
といった きおくはない。
―
よし これからは
「えらい ちいうもんが えらいとたい」
と いう じんせいを おくろうと おもう。
でも ひとりで おもっても しょうがない はなしでは ありますが えらい といったら えらい と かえしてくれることを きたいしよう。
つかれていますので ゆっくり すすむことにします。
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飯塚の浄土真宗本願寺派 明光寺に おいてあった 冊子 中尾徹昭 「ことば」より
そういえば わたしの もと おっとの じっかの お寺も 浄土真宗本願寺派で 浄方寺 わたしの 姉の とつぎさきも 浄土真宗本願寺派で 清涼山 淨万寺です。
http://kaizoku-movie.jp/
海賊と呼ばれた男の古里でもあります。唐津街道でもあります。
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「ごえん」 というものなのでしょうね。
―
そして
きょう しけいしゅう から かいほうされた 袴田巌さんが えいがで
「じけんも ない さいばんも ない けいむしょも ない」
みたいな はつげんを してあって 福田孝行(現在 大月)さんの
ひんしゅくかった ドラエモンの 4じげんポケットはつげん みたいだなと おもいましたが
―
般若心経みたいだとも おもいました。
―
http://www.zen-essay.com/entry/hannyashingyou
不生不滅 不垢不浄 不増不減
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)
あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。
だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
存在=空=自性がない=無常=変化を繰り返す=常なるものは存在しない
これらはすべてイコールでつながるものなのだ。
存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄化もせず、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。
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なんだか わけがわかりません。
袴田さんは ぼけているわけでは ありません。
たぶん スタッフだと おもいますが 袴田さんより ずっと わかい 男性と しょうぎを さして スタッフのひとは なんど たいせんしても かてないのだとか。
―
袴田さんは さきの さきを よんでるのだそうです。
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ボクサーだった 袴田さんて あたまいいんですね。
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まえおきは このくらいにしておきまして
冊子 中尾徹昭 「ことば」より
「バカ」の おはなし
「バカ」と いわれたら かならず「バカちいうもんが バカたい」と いいかえし
「バカちいうもんが バカたいち いうもんが バカたい」と かぎりなく くりかしていた
なつかしい おさないひの おもいで。
しんじつを いいあてていることを おもいしる。
―
「えらい ちいうもんが うらいとたい」
といった きおくはない。
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よし これからは
「えらい ちいうもんが えらいとたい」
と いう じんせいを おくろうと おもう。
でも ひとりで おもっても しょうがない はなしでは ありますが えらい といったら えらい と かえしてくれることを きたいしよう。
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