2017年02月08日
よしの945『えみるの赤いランドセル 亡き娘との恩愛の記』
よしの945『えみるの赤いランドセル 亡き娘との恩愛の記』
風見しんご 青志社
―
すこし よんでみました。
―
ほんも いっぱい アマゾンで かってて よまないといけないの いっぱいあって 光市母子殺人事件の ほんも あるし 原発もあるし たいへん おもたいもんだいばかりで すこし つかれて よんでみました。
―
こちらも おこさんが なくなられた おはなしで たいへんなのですが
いきる って ふしぎだなあ と おもいました。
もう こうなれば しごの せかいは あるし きっと すばらしいと おもいたいです。
―
まだ すこししか よんでませんが かいておきます。
―
とても こぼんのうで えみるちゃんのことを とても あいしていた 風見しんご さん。
―
えみるちゃんは およぎが とても じょうず。
風見しんごさんは おとうさんに
「にんげん しぬきでやれば なんでもできるはずだ」
と いきなり ぽんぽんせん から せとないかいに つきおとされて おぼれそうになっていらい ながいあいだ みずきょうふしょう。
えみるちゃんは プールでも うみでも およぐことが だいすき。
イルカと いっしょにおよぐ という えみるちゃんの ゆめは はたせなかったけど
「むすめと いっしょに スキューバダイビング」と いう 風見しんごさんの ゆめは かなう。
2006ねん8がつ えみるちゃんの さいごのなつ
エアタンクを せおって ダイビングが ゆるされる 10さい になって ねんがんの おやこダイビング だいすきな グアムの うみに とびこむ。
マリンブルーに そめぬかれた せかいを いろとりどりの さかなが いきかい まるで あいさつしてくるかのように タコや ウツボが いわかげから すがたを あらわす。
さいしょは きんちょうからか それほど のりきでなかった えみるちゃんも おおきく みひらいた め を パチクリさせて はじめてみる けしきに むちゅうになっているのが すいちゅうメガネごしにも わかる。
たのしい じかんは あっというまに すぎる。
よていの じかんを すっかりわすれて うみからあがり ボートに のりこんだ えみるのかおは その たのしそうな ひょうじようとは うらはらに すっかり ちのけを うしなっていて くちびるは まっさおに なっていた。
「えみる ごめん・・・・・・」
かわいたタオルで はやく からだを ふいてやりたかったが まぬけなことに ぼくは その タオルを もってくるのを わすれていた。
りくに むかって もうスピードで しっそうする ボートのうえは みずしぶき と かぜを まともにうけるので ぼうふううのなかで すわっているようなもの。
とこなつの うみとはいえ かぜが どんどん からだから ねつを うばっていく。
「さむい さむい さむい」
たたきつけるような かぜと みずしぶきから まもるように ブルブルと こきざみに ふるえる えみるちゃんの ことりのような かぼそい からだを だきしめて あげられたそうです。
すこしづつ えみるちゃんの 体があたたかくなっているのが かさねた はだから つたわってくる。
風見そんごさんは からだの おくそこから むすめにたいする せつないくらいの いとしさが こみあげてくるのを かんじていたそうです。
にしの そらに かたむきかけた たいようにむかって
「どうか この しあわせが いつまでも つづきますように」
おもわず そんなことを いのらずには いられないほど うつくしい ゆうひだったそうです。
グリーンフラッシュ。
ゆうひが しずみきる しゅんかん すいへいせんが みどりいろに かがやく。
そのかがやきを みたものは いつか しあわせになれる。
そんな みなみのしまの いいつたえを しんじていた えみるちゃんは 風見しんごさんに いったそうです。
「チチ、グリーンフラッシユ きょうは みれるかなあ?」
「ああ、きょうの そらなら きっと みれるんじゃないかなあ」
この しあわせが 永遠のものであってほしいと ぼくは いのった。
しかし、それが ぼくたち ふたりの さいごの なつに なった。
そのときの ぼくには いやきっと かみさまですら グリーンフラッシュの もとでは そうぞうできなかったに ちがいない。
―
◆ぜんや
2007ねん(へいせい19ねん)1がつ16にち
風見しんごさんは えみるちゃんを じゅくまで むかえにいく。
ちゅうがくじゅけんを めざしていた えみるちゃんを 物心(ぶっしん)りょうめんから サポートすること。それが にっかであり たのしみ。
いつもなら 車でいくけど ともだちと しょくじして おさけも のむので あるいていった。
えみるちゃんに タクシーを ひろって かえろうかと こうかけると
「スーパーで おかいもの していこうよ」という。
「これから おうちかえって たべる おかし かっていい?」
「いいよ」
「すきなものばかり かっていい?」
「う〜ん きょうはいいよ」
「やったね」
てんないに はいると えみるちゃんは 嬉々(きき)とした ひょうじょうで おおきなみかんのゼリーに、あかちゃんようのヨーグルト サイダーあじの グミに だいこんづけの「ごんじり」やさいチップスに「あじひらいちゃった」・・・・・・じぶんの すきなものを かいものかごに いれながら それが どうおいしくて いつ はっけんしたのかといったことを ひとつひとつ 風見しんごさんに せつめいしてくれたそうです。
風見しんごさんは すこし のみたりなかったので おさけを かって かえろうかとおもって さがしたけど そのおみせには なくて
えみるちゃんは
「もう のむなってことだよ」
などと おとなびた ことを いって わらっていたが あとから かんがえると
そういった えみるちゃんの ひとことひとことが なんだかすべて いみのある メッセージだったようにおもえて しかたがないそうです。
「じゃあタクシーのってかえろう」
えみるちゃんは バスで かえりたいという。
「ええ?バス?」
「チチと いっしょに バスに のったことがないんだけど」
「そうだね のったことないね・・・・・・っていうか チチ バスじたい ずいぶん のってねぇや」
―
―
かどを ひとつまがると 100メートルほどさきに わがやがみえる。
げんかんの まえにたって ぼくたちのほうに むかって てをふる つまのすがたが めに とびこんできた。
いうに かえつたら いっしょに おふろに はいろうと いっていたが そのひは たまたま ぼくのほうで かたづけなければならない だいほんの チェックがあつたので えみるちゃんに さきに はいつてもらつた。
ようじを すませて ふろばにいったら えみるちゃんが きがえを すませて いれちがいで でてくるところで
―
「チチ せなか ながしてあげるよ」
「えー ほんとに?」
「もういっかい チチと はいろうとおもつて」
そういって 風見しんごさんの てから ウォッシュタオルを うけとり せなかを ゴシゴシと こすりました。
その いっしゅうかんほどまえに ゲストしゅつえんしていた バラエティばんぐみの インタビューで お風呂のわだいになったとき むすめと おふろにはいつて シンクロの まねなんかして あそんでいます というと
「でも おとうさんと いつしょに おふろは せいぜい 10さい まで しょうがくせい5ねんせいくらいが もうギリギリですね」
なんて じょしアナに つっこまれているのを えみるちゃんは みていたのだそうです。
だから えみるちゃんの せなかながしは
「そんなことないよ いつでも おふろに はいるからね」という えみるちゃんの いしひょうじ だったのだろうと おもわれたそうです。
しかし あとになって
「どうして あのとき もういちど おふろに はいりなおしてくれたのかな」
たんなる ぐうぜんかもしれないけど むいしきのうちに
「さようなら」の時がちかづきつつあることに きづいていたのかもしれない そこになにがしかの いみを みつけようとしてしまう。そうでないと かなしすぎるのだそうです。
いつもと ちがっていたのは ねるときも。
ふだんは かぞく4にん ひとへやで いっしょに ねるけど このひは いもうとの ふみねちゃんが かぜひいて かなり せきこんでいて よなきも するだろうし かぜが うつっても いけないということで えみるちゃんは じぶんの べんきょうべやで ひとりで ねたのだそうです。
いつもの 「おやすみ の あいさつ」
ねるまえに かならず「おやすみ」と いって キスしてから「えみる あいしているよ チチは しぬまで おまえのことを まもってやるからな。だから あんしんして おやすみ」と いうことが しきたりのように なっていた。
たまに まだ ねてないときがあって「わかってる わかってる」なんて こたえてくるのだが そのよるは とてもよく ねむっているようにみえた。
げんかんには しょうがっこうにゅうがくいらい あさすぐに せおって とうこう できるように えみるちゃんが いつもまえのばんに よういしている あかいランドセルが ふだんどおりに おかれているのだそうです。
◆「だいてあげて」
そして よくじつの 1がつ17にちの あさ。
ぼくは まだ ふとんの なかにいて かいかから きこえてくる えみるちゃんや つまの はなしごえを ききながら はんぶん ねむっていた そうです。
へやから おきだしてきた えみるちゃんに つまが
「あさごはん なににする?」
ときくと えみるちゃんは
「ハハの ツナサンドが たべたい」と こたえたそうです。
ははおやが つくった とくせいゴマいりツナサンドを ほうばりながら えみるちゃんが つまに いったそうです。
「さくや ねるとき チチ きたよ、アタシんとこきて チュッチュして、また『愛してるよ』なんて いって」
「え、きのう おきてたの?」
「ううん、それだけは わかったの。だけど ねむいから そのあと またすぐねちゃった」
ツナサンドの ちょうしょくを とりおえた えみるちゃんは だいすきな しんたいそうの レッスンの どうぐを あおい バッグに つめて げんかんに おいた。
がっこうから かえつたら すぐに あかいランドセルと ひきかえに その バッグを もって そのまま でかけられるようにという かのじょなりの くふう。
げんかんに いき ドアを あけかけた えみるちゃんが つまのことを よばれたそうです。
「ハハぁ さむい!」
かわりに でてきた おじいちゃんが うわぎの ジャンパーを さしだすと えみるちゃんは まるでそれを かっぽうぎ のように わざと うしろまえにきて
おじいちゃんのお腹にほっぺたを くっつけるようにして だきついてから「いってきまーすー!」と げんかんを でたそうです。
えみるちゃんは うしろまえにきた ジャンパーを もとにもどしながら げんかんさきから じぶんのことを みおくる おじいちゃんのほうに むかって なんども ふりかえり「いってきまーす」の こえを のこして おじいちゃんの しかいから きえていったそうです。
それが えみるちゃんが みせた さいごの えがおとなりました。
じこが おきたのは それから わずか 20びょうか 30
びょうほど あとのことでした。
―
このあと トラックに ひかれて えみるちゃんは なくなられます。
えみるちゃんの ごめいふくを おいのりします。
そして よのなかって ふしぎだなあ えみるちゃんは どこに いったのかなあ なんて おもいます。
まだ ここまでくらいしか よんでいませんが 10 さいで なくなられた えみるちゃん 風見しんごさんの たんじょうびは 1962年10月10日 わたしと どうきゅうせいです。
わたしは 1963ねん2がつ8日 きょうが たんじょうびです。
―
どうきゅうせいの 風見しんごさん ネットに サイトが あるかと おもいましたが みつけきれませんが おげんきでしょうか?
とても ぶんが よみやすくて かんがえさせられて すばらしいと おもいます。
―
http://blog.livedoor.jp/live_siva_torimu-app/archives/5496378.html
2016年04月15日
【芸能界の闇】風見しんごの娘を轢き殺したトラック運転手の判決がたったの禁固2年!?→そこに隠された裏事情の深さに絶句する…
2007年にタレントの風見しんごさんの娘
(当時10歳)がトラック運転手に轢き
殺された事件をご存知ですか?
当時、このニュースに世間はかなりの衝撃を受けました。
そんな小さな少女の命を奪ったトラック
運転手の判決が出たんですが、なんとたったの
禁固2年でした。
なぜ人の命を奪っといてそんなに罪が軽いのか?
そこには芸能界のとんでもない裏事情が隠されていました。
まずは真相を知ったネットの反応をご覧ください・・・
・こんなん許されていいのかよ
・トラック運転手はまた同じ過ちを繰り返すことになるぞ
・風見しんごさんが気の毒でならない
2007年1月17日、
当時10歳で小学5年生の風見しんごさんの
長女(えみる)が通学時、
2トントラックにはねられ、
病院に搬送されたが死亡した。
荒々しく部屋のドアが開く音と同時に妻の
叫ぶ声がした。
「えみる!事故!えみる!」
ご近所の方が知らせに来てくれていた。
「気をしっかり持って下さい!」
何の事だか、意味がさっぱりわからなかった。
妻と共に事故が起きたというその横断歩道へ
向かって走る僕の脳裏に浮かんだのは、
手か足を折って、傷口から流れる血を押さえ
ながら道端にへたりこんで大泣きしている
えみるの姿だった。
(かわいそうに…。痛がってるかな。「大丈夫だよ」って抱きしめてやらなくちゃ)
交差点までの距離は150メートル。
100メートルほど直線道路を走り、
角を曲がったとたん、現場の交差点の中に
1台の大きなトラックが止まっているのが見えた。
どうやらえみるはあのトラックにはねられたらしい。
僕は反射的にどこかで泣いているはずのえみるを探した。
だが、えみるの姿はどこにもない。
誰かに教えられたのか、そのへんの記憶は
あいまいなのだが、なぜだか僕は必死に
なってトラックの下をのぞき込んでいた。
両足が―普通では考えられない向きに
へしゃげた娘の足が見えた。
トラックのタイヤがえみるの腰のあたりに
乗り上げたままになっている。
とにかくここから出してやらねば。
僕は思わずトラックを1人で持ち上げようと
していたが、
相手は荷物を満載した3トントラックだ。
当然のようにビクとも動かなかった。
あまりにも無力な自分に、全身から力が抜け、
手がプルプルと震えてきた。
そんな中、僕が見たのは―、
「えみる、頑張れ、えみる」と
叫びながら果敢にもエンジンがかかったまま
のトラックの下に潜り込んででも我が娘を
救おうとする妻の姿だった。
「エンジン早く切れよ!」
「救急車、まだ呼んでないのかよ!」
たくさんの人たちの尋常でない叫び声が
あちこちから響いた気がした。
ジャッキを使っている時間はない。
気がつくと、20人近い人がそこに
集まってきてくれて、みんなで協力して
娘をトラックの下から引き出してくれた。
頭蓋骨を骨折していたので、内出血が
ひどく、顔は腫れ、うっすら開いた目は
出血で瞳の中まで真っ赤になっていた。
医者でない僕でも娘が瀕死の重傷である
ことはすぐにわかった。
その光景はまさに地獄だった。
それからのことは断片的にしか記憶して
いないのだが、救急車に乗り込み、
病院の搬入口に運び込まれていくえみるを乗せた
ストレッチャーのあとを、
祈るような気持ちでついていったこと
だけは覚えている。
きっと途中で何度も転んだのだろう。
妻と僕の身体にはたくさんのアザが出来ていた。
病院に搬送されたが、頭がい底骨折で死亡した。
夫妻は「うちの子には何の非もないのに、
なんでこんなことになるのか。なんでこんなことに…」と、
娘を失ったショックで病院では立っていることもできず、
床に泣き崩れていたという。
家族を守る決心
長女の死化粧担当者に
「娘は花嫁になるのが夢だったので、
死化粧ではなく、花嫁化粧でお願いします」
とお願いした。
通夜の場で会見を行い、涙を流しながら
「娘と飲酒をしたかった」などと述べた。
ただこの会見の中 で
「喧嘩嫌いだった長女のため」として加害者への
思いは一切述べなかった。
長女の葬儀が終わって普段の生活に戻り、
時間が経っても娘が亡くなった喪失感は
薄れるどころか、深まった。
毎日24時間、亡くなった長女のことを
想い悲しみに暮れるばかりで、
妻や次女への心配りが全くできなかったという。
当時3歳だった次女が、異様な行動を
取るようになった。
長女を交通事故で亡くした風見しんご、涙の告白。
テレビ画面に映っているビデオの姉に向かって、
「ごめんなさい」と頭 を下げて謝っていた。
自分が悪い子だから、お姉ちゃんが帰って
こないと思っていたのだ。
また名前を聞かれると、
亡くなった姉の名前で答えるようになってしまった。
「お姉ちゃんが居なくなったのは、自分の責任」、
「自分がお姉ちゃんになれば、みんなが明るくなってくれる」。
幼い次女が自分の行動について 話した時、
風見は“今、守らなければいけない大切なもの”を
次女に気付かされ、
全てを受け入れて残された家族と一緒に
生きて行く決心ができたそうだ。
「いまでも毎晩ベッドに入って目を閉じると、
最初に事故の現場の映像 が出てきます。
僕が現場に駆けつけて目にした光景が……。
家内も同じだと言います。
でも、いまは
『これではいけない。前向きに生きよう』と
心に決めまし た。
えみると天国で再会したとき、
『パパ、よく頑張ったね』
と言ってもらえるようしっかりと生きて
いかなければいけない、と思うようになったからです」 (風見しんご)
訴え続ける命の大切さ
長女亡き後は、交通事故死亡者をなくす
ために、各地で交通事故や命の大切さに
ついてを語った講演と、警察等が主催する
交通安全関連のイベントや啓蒙活動への
参加を盛い、
自ら長女の実名を挙げることで、
交通事故の悲惨さを訴えている
なぜ風見しんごさんの娘が?トラックの正体とは?
轢き殺したトラックは
「花王ロジスティック」のトラックという
ウワサがある。
しかし花王はメディアのスポンサー大手で
マスコミは最後まで名前出さなかった
判決はたったの「2年」
業務上過失致死罪に問われた元会社員の
男には禁固2年の実刑を言い渡した。
この判決について刑が軽すぎると非難が殺到した。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
参照:http://viral-sonic.com/6382
―
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%94
風見しんご ウィキペディア
本名 大下 義博
別名義 風見慎吾
生年月日 1962年10月10日(54歳
風見しんご(かざみ しんご、1962年10月10日 - )は、日本のタレント、歌手、ダンサー、俳優。1982年〜1988年:バーニングプロダクション(当初の芸名は「風見慎吾」。)→1989年〜現在:(株)マスタープラン所属(バーニング系)芸名の由来は『仮面ライダーV3』の主人公・風見志郎(仮面ライダーV3)からである。広島県広島市西区己斐(こい)出身。成蹊大学工学部中退。
来歴・人物[編集]
地元の町工場を経営する父の影響でエンジニアを目指し、広島学院中学校・高等学校に進学。周囲からは地元の広島大学を勧められたが、東京の成蹊大学に進学する。 大学在学中の1980年、東京ビクトリークラブのメンバーだった哀川翔を原宿で見て、チームに入れてくださいと懇願しメンバー入り[1]。デビュー前はリーゼントでキメて、愛称は"ボビー"。哀川とお揃いのダブルの革ジャンを着てラバーソウルを履いて二人で歩いていると、当時よく雑誌に声をかけられた。「ポップティーン」か「プチセブン」に初めて載った名前は"ボビー"であった。哀川が始めた劇団に「お前も参加しろ」と声をかけられて参加してその後、その劇団に入って来たのが野々村真、羽賀研二で、柳葉敏郎はまだいなかった[2]。欽ちゃんの週刊欽曜日のオーディションは野々村の付き人として風見と武野功雄(のちに欽ドン出演)の2人が同行して、なぜか付き人として行っていた風見が合格した[1]。風見と野々村は劇男一世風靡の前身・劇男零心会のメンバーで、劇男一世風靡には参加していないが「哀川翔のオトナ倶楽部 第15回」(BSフジ)で哀川は、風見と野々村を「初期一世風靡のメンバー」と紹介した[1]。
1982年、TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』オーディションに合格してデビュー(当時は「風見慎吾」という芸名だった)。合格した理由も、この時のオーディションで萩本欽一に会った時に大きな声であいさつし「有名人を前に萎縮することもなくて、バカでかい声であいさつして合格!」と言われたという単純なことだった[3]。風見自身は元々母親から大きな声であいさつするように言われて育ち、声が大きくなったことで友達も出来易く「いいことがたくさんあった」という。こういったことから、自分の娘たちにも大きな声であいさつすることを教えているという。なお、娘たちには自分たち両親のことを「チチ」「ハハ」と呼ばせている[3]。
この番組で欽ちゃんファミリーの若きメンバーとして存在感を放つ。その傍らで劇男一世風靡が分裂する前の劇男零心会のメンバーとして活躍していた(劇男零心会に参加していたが劇男一世風靡には参加していない)[2][1]。 デビュー日(1982年10月8日)以来、現在まで一度もレギュラー番組が途切れることなく35年目。(2017年1月期現在でレギュラー番組96本)
1983年には「僕笑っちゃいます」でレコードデビューを果たし、第16回日本有線大賞最優秀新人賞、第16回日本レコードセールス大賞新人賞(男性部門)をそれぞれ受賞した。4曲目の「涙のtake a chance」(1984年12月リリース)は、自らニューヨークに出向き猛特訓でブレイクダンスを修得。振り付けに取り入れ話題を呼ぶ[4][5]。これをテレビで見てブレイクダンスを始めた者も少なくない[6](1985年放送のフジテレビのドラマ『スタア誕生』、『ヤヌスの鏡』に出演の際にも一部踊っているシーンがある)日本におけるブレイクダンスの先駆者であり、テレビを通して日本中にブレイクダンスを広めた人物の1人である[4][5][7][8][9][10][11]。 岡村隆史(ナインティナイン)やガレッジセールもリスペクトする存在と語ったことがある[7][12]。CRAZY-AやCAKE-Kらは風見のバックダンサーを務めた[13](当時ブレイクダンスを踊れる人物も少なかったため、風見が自らスカウトした[14])。2009年、マドンナの欧州ツアーのバックダンサーを務めたTAKAHIROは日本テレビ『速報!歌の大辞テン』で見た風見の「涙のtake a chance」に衝撃を受け、ダンスにのめり込んでいったと話している[15]。2010年9月6日放送の「やりすぎコージー」(テレビ東京)でも今田耕司が風見しんごさんのブレイクダンスは凄かったと絶賛して当時の映像を紹介した。
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https://www.youtube.com/watch?v=-5v03TY_lkk
涙のtake_a_chance/風見慎吾_19850127.mp4
風見しんご 青志社
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すこし よんでみました。
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ほんも いっぱい アマゾンで かってて よまないといけないの いっぱいあって 光市母子殺人事件の ほんも あるし 原発もあるし たいへん おもたいもんだいばかりで すこし つかれて よんでみました。
―
こちらも おこさんが なくなられた おはなしで たいへんなのですが
いきる って ふしぎだなあ と おもいました。
もう こうなれば しごの せかいは あるし きっと すばらしいと おもいたいです。
―
まだ すこししか よんでませんが かいておきます。
―
とても こぼんのうで えみるちゃんのことを とても あいしていた 風見しんご さん。
―
えみるちゃんは およぎが とても じょうず。
風見しんごさんは おとうさんに
「にんげん しぬきでやれば なんでもできるはずだ」
と いきなり ぽんぽんせん から せとないかいに つきおとされて おぼれそうになっていらい ながいあいだ みずきょうふしょう。
えみるちゃんは プールでも うみでも およぐことが だいすき。
イルカと いっしょにおよぐ という えみるちゃんの ゆめは はたせなかったけど
「むすめと いっしょに スキューバダイビング」と いう 風見しんごさんの ゆめは かなう。
2006ねん8がつ えみるちゃんの さいごのなつ
エアタンクを せおって ダイビングが ゆるされる 10さい になって ねんがんの おやこダイビング だいすきな グアムの うみに とびこむ。
マリンブルーに そめぬかれた せかいを いろとりどりの さかなが いきかい まるで あいさつしてくるかのように タコや ウツボが いわかげから すがたを あらわす。
さいしょは きんちょうからか それほど のりきでなかった えみるちゃんも おおきく みひらいた め を パチクリさせて はじめてみる けしきに むちゅうになっているのが すいちゅうメガネごしにも わかる。
たのしい じかんは あっというまに すぎる。
よていの じかんを すっかりわすれて うみからあがり ボートに のりこんだ えみるのかおは その たのしそうな ひょうじようとは うらはらに すっかり ちのけを うしなっていて くちびるは まっさおに なっていた。
「えみる ごめん・・・・・・」
かわいたタオルで はやく からだを ふいてやりたかったが まぬけなことに ぼくは その タオルを もってくるのを わすれていた。
りくに むかって もうスピードで しっそうする ボートのうえは みずしぶき と かぜを まともにうけるので ぼうふううのなかで すわっているようなもの。
とこなつの うみとはいえ かぜが どんどん からだから ねつを うばっていく。
「さむい さむい さむい」
たたきつけるような かぜと みずしぶきから まもるように ブルブルと こきざみに ふるえる えみるちゃんの ことりのような かぼそい からだを だきしめて あげられたそうです。
すこしづつ えみるちゃんの 体があたたかくなっているのが かさねた はだから つたわってくる。
風見そんごさんは からだの おくそこから むすめにたいする せつないくらいの いとしさが こみあげてくるのを かんじていたそうです。
にしの そらに かたむきかけた たいようにむかって
「どうか この しあわせが いつまでも つづきますように」
おもわず そんなことを いのらずには いられないほど うつくしい ゆうひだったそうです。
グリーンフラッシュ。
ゆうひが しずみきる しゅんかん すいへいせんが みどりいろに かがやく。
そのかがやきを みたものは いつか しあわせになれる。
そんな みなみのしまの いいつたえを しんじていた えみるちゃんは 風見しんごさんに いったそうです。
「チチ、グリーンフラッシユ きょうは みれるかなあ?」
「ああ、きょうの そらなら きっと みれるんじゃないかなあ」
この しあわせが 永遠のものであってほしいと ぼくは いのった。
しかし、それが ぼくたち ふたりの さいごの なつに なった。
そのときの ぼくには いやきっと かみさまですら グリーンフラッシュの もとでは そうぞうできなかったに ちがいない。
―
◆ぜんや
2007ねん(へいせい19ねん)1がつ16にち
風見しんごさんは えみるちゃんを じゅくまで むかえにいく。
ちゅうがくじゅけんを めざしていた えみるちゃんを 物心(ぶっしん)りょうめんから サポートすること。それが にっかであり たのしみ。
いつもなら 車でいくけど ともだちと しょくじして おさけも のむので あるいていった。
えみるちゃんに タクシーを ひろって かえろうかと こうかけると
「スーパーで おかいもの していこうよ」という。
「これから おうちかえって たべる おかし かっていい?」
「いいよ」
「すきなものばかり かっていい?」
「う〜ん きょうはいいよ」
「やったね」
てんないに はいると えみるちゃんは 嬉々(きき)とした ひょうじょうで おおきなみかんのゼリーに、あかちゃんようのヨーグルト サイダーあじの グミに だいこんづけの「ごんじり」やさいチップスに「あじひらいちゃった」・・・・・・じぶんの すきなものを かいものかごに いれながら それが どうおいしくて いつ はっけんしたのかといったことを ひとつひとつ 風見しんごさんに せつめいしてくれたそうです。
風見しんごさんは すこし のみたりなかったので おさけを かって かえろうかとおもって さがしたけど そのおみせには なくて
えみるちゃんは
「もう のむなってことだよ」
などと おとなびた ことを いって わらっていたが あとから かんがえると
そういった えみるちゃんの ひとことひとことが なんだかすべて いみのある メッセージだったようにおもえて しかたがないそうです。
「じゃあタクシーのってかえろう」
えみるちゃんは バスで かえりたいという。
「ええ?バス?」
「チチと いっしょに バスに のったことがないんだけど」
「そうだね のったことないね・・・・・・っていうか チチ バスじたい ずいぶん のってねぇや」
―
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かどを ひとつまがると 100メートルほどさきに わがやがみえる。
げんかんの まえにたって ぼくたちのほうに むかって てをふる つまのすがたが めに とびこんできた。
いうに かえつたら いっしょに おふろに はいろうと いっていたが そのひは たまたま ぼくのほうで かたづけなければならない だいほんの チェックがあつたので えみるちゃんに さきに はいつてもらつた。
ようじを すませて ふろばにいったら えみるちゃんが きがえを すませて いれちがいで でてくるところで
―
「チチ せなか ながしてあげるよ」
「えー ほんとに?」
「もういっかい チチと はいろうとおもつて」
そういって 風見しんごさんの てから ウォッシュタオルを うけとり せなかを ゴシゴシと こすりました。
その いっしゅうかんほどまえに ゲストしゅつえんしていた バラエティばんぐみの インタビューで お風呂のわだいになったとき むすめと おふろにはいつて シンクロの まねなんかして あそんでいます というと
「でも おとうさんと いつしょに おふろは せいぜい 10さい まで しょうがくせい5ねんせいくらいが もうギリギリですね」
なんて じょしアナに つっこまれているのを えみるちゃんは みていたのだそうです。
だから えみるちゃんの せなかながしは
「そんなことないよ いつでも おふろに はいるからね」という えみるちゃんの いしひょうじ だったのだろうと おもわれたそうです。
しかし あとになって
「どうして あのとき もういちど おふろに はいりなおしてくれたのかな」
たんなる ぐうぜんかもしれないけど むいしきのうちに
「さようなら」の時がちかづきつつあることに きづいていたのかもしれない そこになにがしかの いみを みつけようとしてしまう。そうでないと かなしすぎるのだそうです。
いつもと ちがっていたのは ねるときも。
ふだんは かぞく4にん ひとへやで いっしょに ねるけど このひは いもうとの ふみねちゃんが かぜひいて かなり せきこんでいて よなきも するだろうし かぜが うつっても いけないということで えみるちゃんは じぶんの べんきょうべやで ひとりで ねたのだそうです。
いつもの 「おやすみ の あいさつ」
ねるまえに かならず「おやすみ」と いって キスしてから「えみる あいしているよ チチは しぬまで おまえのことを まもってやるからな。だから あんしんして おやすみ」と いうことが しきたりのように なっていた。
たまに まだ ねてないときがあって「わかってる わかってる」なんて こたえてくるのだが そのよるは とてもよく ねむっているようにみえた。
げんかんには しょうがっこうにゅうがくいらい あさすぐに せおって とうこう できるように えみるちゃんが いつもまえのばんに よういしている あかいランドセルが ふだんどおりに おかれているのだそうです。
◆「だいてあげて」
そして よくじつの 1がつ17にちの あさ。
ぼくは まだ ふとんの なかにいて かいかから きこえてくる えみるちゃんや つまの はなしごえを ききながら はんぶん ねむっていた そうです。
へやから おきだしてきた えみるちゃんに つまが
「あさごはん なににする?」
ときくと えみるちゃんは
「ハハの ツナサンドが たべたい」と こたえたそうです。
ははおやが つくった とくせいゴマいりツナサンドを ほうばりながら えみるちゃんが つまに いったそうです。
「さくや ねるとき チチ きたよ、アタシんとこきて チュッチュして、また『愛してるよ』なんて いって」
「え、きのう おきてたの?」
「ううん、それだけは わかったの。だけど ねむいから そのあと またすぐねちゃった」
ツナサンドの ちょうしょくを とりおえた えみるちゃんは だいすきな しんたいそうの レッスンの どうぐを あおい バッグに つめて げんかんに おいた。
がっこうから かえつたら すぐに あかいランドセルと ひきかえに その バッグを もって そのまま でかけられるようにという かのじょなりの くふう。
げんかんに いき ドアを あけかけた えみるちゃんが つまのことを よばれたそうです。
「ハハぁ さむい!」
かわりに でてきた おじいちゃんが うわぎの ジャンパーを さしだすと えみるちゃんは まるでそれを かっぽうぎ のように わざと うしろまえにきて
おじいちゃんのお腹にほっぺたを くっつけるようにして だきついてから「いってきまーすー!」と げんかんを でたそうです。
えみるちゃんは うしろまえにきた ジャンパーを もとにもどしながら げんかんさきから じぶんのことを みおくる おじいちゃんのほうに むかって なんども ふりかえり「いってきまーす」の こえを のこして おじいちゃんの しかいから きえていったそうです。
それが えみるちゃんが みせた さいごの えがおとなりました。
じこが おきたのは それから わずか 20びょうか 30
びょうほど あとのことでした。
―
このあと トラックに ひかれて えみるちゃんは なくなられます。
えみるちゃんの ごめいふくを おいのりします。
そして よのなかって ふしぎだなあ えみるちゃんは どこに いったのかなあ なんて おもいます。
まだ ここまでくらいしか よんでいませんが 10 さいで なくなられた えみるちゃん 風見しんごさんの たんじょうびは 1962年10月10日 わたしと どうきゅうせいです。
わたしは 1963ねん2がつ8日 きょうが たんじょうびです。
―
どうきゅうせいの 風見しんごさん ネットに サイトが あるかと おもいましたが みつけきれませんが おげんきでしょうか?
とても ぶんが よみやすくて かんがえさせられて すばらしいと おもいます。
―
http://blog.livedoor.jp/live_siva_torimu-app/archives/5496378.html
2016年04月15日
【芸能界の闇】風見しんごの娘を轢き殺したトラック運転手の判決がたったの禁固2年!?→そこに隠された裏事情の深さに絶句する…
2007年にタレントの風見しんごさんの娘
(当時10歳)がトラック運転手に轢き
殺された事件をご存知ですか?
当時、このニュースに世間はかなりの衝撃を受けました。
そんな小さな少女の命を奪ったトラック
運転手の判決が出たんですが、なんとたったの
禁固2年でした。
なぜ人の命を奪っといてそんなに罪が軽いのか?
そこには芸能界のとんでもない裏事情が隠されていました。
まずは真相を知ったネットの反応をご覧ください・・・
・こんなん許されていいのかよ
・トラック運転手はまた同じ過ちを繰り返すことになるぞ
・風見しんごさんが気の毒でならない
2007年1月17日、
当時10歳で小学5年生の風見しんごさんの
長女(えみる)が通学時、
2トントラックにはねられ、
病院に搬送されたが死亡した。
荒々しく部屋のドアが開く音と同時に妻の
叫ぶ声がした。
「えみる!事故!えみる!」
ご近所の方が知らせに来てくれていた。
「気をしっかり持って下さい!」
何の事だか、意味がさっぱりわからなかった。
妻と共に事故が起きたというその横断歩道へ
向かって走る僕の脳裏に浮かんだのは、
手か足を折って、傷口から流れる血を押さえ
ながら道端にへたりこんで大泣きしている
えみるの姿だった。
(かわいそうに…。痛がってるかな。「大丈夫だよ」って抱きしめてやらなくちゃ)
交差点までの距離は150メートル。
100メートルほど直線道路を走り、
角を曲がったとたん、現場の交差点の中に
1台の大きなトラックが止まっているのが見えた。
どうやらえみるはあのトラックにはねられたらしい。
僕は反射的にどこかで泣いているはずのえみるを探した。
だが、えみるの姿はどこにもない。
誰かに教えられたのか、そのへんの記憶は
あいまいなのだが、なぜだか僕は必死に
なってトラックの下をのぞき込んでいた。
両足が―普通では考えられない向きに
へしゃげた娘の足が見えた。
トラックのタイヤがえみるの腰のあたりに
乗り上げたままになっている。
とにかくここから出してやらねば。
僕は思わずトラックを1人で持ち上げようと
していたが、
相手は荷物を満載した3トントラックだ。
当然のようにビクとも動かなかった。
あまりにも無力な自分に、全身から力が抜け、
手がプルプルと震えてきた。
そんな中、僕が見たのは―、
「えみる、頑張れ、えみる」と
叫びながら果敢にもエンジンがかかったまま
のトラックの下に潜り込んででも我が娘を
救おうとする妻の姿だった。
「エンジン早く切れよ!」
「救急車、まだ呼んでないのかよ!」
たくさんの人たちの尋常でない叫び声が
あちこちから響いた気がした。
ジャッキを使っている時間はない。
気がつくと、20人近い人がそこに
集まってきてくれて、みんなで協力して
娘をトラックの下から引き出してくれた。
頭蓋骨を骨折していたので、内出血が
ひどく、顔は腫れ、うっすら開いた目は
出血で瞳の中まで真っ赤になっていた。
医者でない僕でも娘が瀕死の重傷である
ことはすぐにわかった。
その光景はまさに地獄だった。
それからのことは断片的にしか記憶して
いないのだが、救急車に乗り込み、
病院の搬入口に運び込まれていくえみるを乗せた
ストレッチャーのあとを、
祈るような気持ちでついていったこと
だけは覚えている。
きっと途中で何度も転んだのだろう。
妻と僕の身体にはたくさんのアザが出来ていた。
病院に搬送されたが、頭がい底骨折で死亡した。
夫妻は「うちの子には何の非もないのに、
なんでこんなことになるのか。なんでこんなことに…」と、
娘を失ったショックで病院では立っていることもできず、
床に泣き崩れていたという。
家族を守る決心
長女の死化粧担当者に
「娘は花嫁になるのが夢だったので、
死化粧ではなく、花嫁化粧でお願いします」
とお願いした。
通夜の場で会見を行い、涙を流しながら
「娘と飲酒をしたかった」などと述べた。
ただこの会見の中 で
「喧嘩嫌いだった長女のため」として加害者への
思いは一切述べなかった。
長女の葬儀が終わって普段の生活に戻り、
時間が経っても娘が亡くなった喪失感は
薄れるどころか、深まった。
毎日24時間、亡くなった長女のことを
想い悲しみに暮れるばかりで、
妻や次女への心配りが全くできなかったという。
当時3歳だった次女が、異様な行動を
取るようになった。
長女を交通事故で亡くした風見しんご、涙の告白。
テレビ画面に映っているビデオの姉に向かって、
「ごめんなさい」と頭 を下げて謝っていた。
自分が悪い子だから、お姉ちゃんが帰って
こないと思っていたのだ。
また名前を聞かれると、
亡くなった姉の名前で答えるようになってしまった。
「お姉ちゃんが居なくなったのは、自分の責任」、
「自分がお姉ちゃんになれば、みんなが明るくなってくれる」。
幼い次女が自分の行動について 話した時、
風見は“今、守らなければいけない大切なもの”を
次女に気付かされ、
全てを受け入れて残された家族と一緒に
生きて行く決心ができたそうだ。
「いまでも毎晩ベッドに入って目を閉じると、
最初に事故の現場の映像 が出てきます。
僕が現場に駆けつけて目にした光景が……。
家内も同じだと言います。
でも、いまは
『これではいけない。前向きに生きよう』と
心に決めまし た。
えみると天国で再会したとき、
『パパ、よく頑張ったね』
と言ってもらえるようしっかりと生きて
いかなければいけない、と思うようになったからです」 (風見しんご)
訴え続ける命の大切さ
長女亡き後は、交通事故死亡者をなくす
ために、各地で交通事故や命の大切さに
ついてを語った講演と、警察等が主催する
交通安全関連のイベントや啓蒙活動への
参加を盛い、
自ら長女の実名を挙げることで、
交通事故の悲惨さを訴えている
なぜ風見しんごさんの娘が?トラックの正体とは?
轢き殺したトラックは
「花王ロジスティック」のトラックという
ウワサがある。
しかし花王はメディアのスポンサー大手で
マスコミは最後まで名前出さなかった
判決はたったの「2年」
業務上過失致死罪に問われた元会社員の
男には禁固2年の実刑を言い渡した。
この判決について刑が軽すぎると非難が殺到した。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
参照:http://viral-sonic.com/6382
―
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%94
風見しんご ウィキペディア
本名 大下 義博
別名義 風見慎吾
生年月日 1962年10月10日(54歳
風見しんご(かざみ しんご、1962年10月10日 - )は、日本のタレント、歌手、ダンサー、俳優。1982年〜1988年:バーニングプロダクション(当初の芸名は「風見慎吾」。)→1989年〜現在:(株)マスタープラン所属(バーニング系)芸名の由来は『仮面ライダーV3』の主人公・風見志郎(仮面ライダーV3)からである。広島県広島市西区己斐(こい)出身。成蹊大学工学部中退。
来歴・人物[編集]
地元の町工場を経営する父の影響でエンジニアを目指し、広島学院中学校・高等学校に進学。周囲からは地元の広島大学を勧められたが、東京の成蹊大学に進学する。 大学在学中の1980年、東京ビクトリークラブのメンバーだった哀川翔を原宿で見て、チームに入れてくださいと懇願しメンバー入り[1]。デビュー前はリーゼントでキメて、愛称は"ボビー"。哀川とお揃いのダブルの革ジャンを着てラバーソウルを履いて二人で歩いていると、当時よく雑誌に声をかけられた。「ポップティーン」か「プチセブン」に初めて載った名前は"ボビー"であった。哀川が始めた劇団に「お前も参加しろ」と声をかけられて参加してその後、その劇団に入って来たのが野々村真、羽賀研二で、柳葉敏郎はまだいなかった[2]。欽ちゃんの週刊欽曜日のオーディションは野々村の付き人として風見と武野功雄(のちに欽ドン出演)の2人が同行して、なぜか付き人として行っていた風見が合格した[1]。風見と野々村は劇男一世風靡の前身・劇男零心会のメンバーで、劇男一世風靡には参加していないが「哀川翔のオトナ倶楽部 第15回」(BSフジ)で哀川は、風見と野々村を「初期一世風靡のメンバー」と紹介した[1]。
1982年、TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』オーディションに合格してデビュー(当時は「風見慎吾」という芸名だった)。合格した理由も、この時のオーディションで萩本欽一に会った時に大きな声であいさつし「有名人を前に萎縮することもなくて、バカでかい声であいさつして合格!」と言われたという単純なことだった[3]。風見自身は元々母親から大きな声であいさつするように言われて育ち、声が大きくなったことで友達も出来易く「いいことがたくさんあった」という。こういったことから、自分の娘たちにも大きな声であいさつすることを教えているという。なお、娘たちには自分たち両親のことを「チチ」「ハハ」と呼ばせている[3]。
この番組で欽ちゃんファミリーの若きメンバーとして存在感を放つ。その傍らで劇男一世風靡が分裂する前の劇男零心会のメンバーとして活躍していた(劇男零心会に参加していたが劇男一世風靡には参加していない)[2][1]。 デビュー日(1982年10月8日)以来、現在まで一度もレギュラー番組が途切れることなく35年目。(2017年1月期現在でレギュラー番組96本)
1983年には「僕笑っちゃいます」でレコードデビューを果たし、第16回日本有線大賞最優秀新人賞、第16回日本レコードセールス大賞新人賞(男性部門)をそれぞれ受賞した。4曲目の「涙のtake a chance」(1984年12月リリース)は、自らニューヨークに出向き猛特訓でブレイクダンスを修得。振り付けに取り入れ話題を呼ぶ[4][5]。これをテレビで見てブレイクダンスを始めた者も少なくない[6](1985年放送のフジテレビのドラマ『スタア誕生』、『ヤヌスの鏡』に出演の際にも一部踊っているシーンがある)日本におけるブレイクダンスの先駆者であり、テレビを通して日本中にブレイクダンスを広めた人物の1人である[4][5][7][8][9][10][11]。 岡村隆史(ナインティナイン)やガレッジセールもリスペクトする存在と語ったことがある[7][12]。CRAZY-AやCAKE-Kらは風見のバックダンサーを務めた[13](当時ブレイクダンスを踊れる人物も少なかったため、風見が自らスカウトした[14])。2009年、マドンナの欧州ツアーのバックダンサーを務めたTAKAHIROは日本テレビ『速報!歌の大辞テン』で見た風見の「涙のtake a chance」に衝撃を受け、ダンスにのめり込んでいったと話している[15]。2010年9月6日放送の「やりすぎコージー」(テレビ東京)でも今田耕司が風見しんごさんのブレイクダンスは凄かったと絶賛して当時の映像を紹介した。
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https://www.youtube.com/watch?v=-5v03TY_lkk
涙のtake_a_chance/風見慎吾_19850127.mp4
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