2018年05月29日
人気の「新撰組物語」その12 局長 近藤勇の生涯
人気の「新撰組物語」その12
新撰組 局長 近藤勇の生涯
価格:15,920円 |
生まれは武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市) 父の久次郎は幼い息子に様々な英雄伝を読み聞かせた 。近藤は忠臣蔵の大石内蔵助を尊敬し、後に新選組の隊服を製作する際に赤穂浪士の装束を真似たと言われている。又、三国志の関羽に憧れ、それが強い男に為りたいと思うキッカケにも為った。
近藤が15歳の頃 父が留守の時家に強盗が押し入る。遣っ付けて遣ろうと飛び出そうとした兄に近藤は「強盗は入ったばかりの時は気が立って居るものです。立ち去る時の方が気が緩むのでそこで遣っ付けましょう」と言う。そして、強盗が立ち去ろうとした時に近藤は兄と共に飛び出した。
ビックリして盗品を投げ捨てて逃げる強盗を、兄が追い掛け様とすると近藤は「窮鼠猫を噛むと云う事があります。盗られたものは戻ったので良しとしましょう」と言う。イザと云う場面での近藤の判断力と人間性の高さが伺えるエピソードである。
天然理心流
近藤は、江戸牛込(現在の東京都新宿区)に所在する天然理心流の道場である試衛館に入門し、やがて道場主である近藤周斎の養子と為り、清水徳川家の家臣である松井八十五郎の娘つねと結婚した後、天然理心流宗家四代目を襲名する。
1862年 将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。浪士隊募集の話を聞いた近藤は、何かのキッカケに為るのではと直感し土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助と云う試衛館の8人と共に参加を決めた。
京都に到着後
浪士組のキッカケと為った清河八郎と云う人物が、勤王(天皇に忠義を尽くす)勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとして居た事が発覚する。協議の結果、清河の計画を阻止する為に浪士組は江戸に戻る事と為った。
これに対して近藤を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、飽く迄も将軍警護の為の京都残留を主張。
壬生浪士組
近藤達は京都に残留し、壬生村(現在の京都府京都市中京区)の八木源之丞邸やその周辺に分宿した。その頃、京都守護職を務める会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主・松平容保は、京都の治安維持の為の浪士を手配しようとして居た。
近藤達は会津藩にその役目を名乗り出て、結果「壬生浪士組」が結成される。壬生浪士組は直ぐに、近藤派と芹沢派の確執が色濃くなって行く。
価格:9,763円 |
初代筆頭局長・芹沢鴨を暗殺
近藤と土方は、厳しい隊の規律である局中法度を基に芹沢派の新見錦を切腹に追い込む。1863年9月 市中で乱暴狼藉を働き新撰組の評判を落とす芹沢鴨を派閥争いも絡んで暗殺した。
芹沢派を一掃した事により、新撰組は近藤勇主導の隊に為り、近藤を局長、土方を副長として最盛期を迎えて行く。
1864年正月15日 14代将軍・徳川家茂が京都に到着 その頃、新選組は不審者の捕縛、拷問や諜報の結果、京都に潜伏する尊攘派の計画を知る。その内容は、祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて、徳川ビイキの中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜(次期将軍)・松平容保(会津藩主)らを暗殺し、孝明天皇を長州へと誘拐すると云うものであった。
池田屋事件
1864年6月5日 新撰組は、近藤隊と土方隊に分かれ捜索を開始、22時頃、近藤隊は池田屋で会合中の尊攘派志士を発見する。近藤隊は、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で20数名の敵に突入し、真夜中の戦闘が始まった。尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助と云う才能豊かな逸材を失い大打撃を受けた。
朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜う
この後世に知れる池田屋事件で、御所焼き討ちの計画を未然に防ぎ、今も残る貴重な文化財を焼失から救い、天皇の誘拐などの阻止に成功した新撰組の名は天下に轟く。
1867年 新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣と為り、近藤は三百俵旗本と為って幕府代表者の一員として各要人との交渉を行う程に出世する。
1867年11月9日 大政奉還。1868年1月3日 王政復古の号令。将軍・徳川慶喜が朝廷から徳川幕府に貸し出されて居た政治権力を明治天皇に返上(大政奉還)し、薩長による倒幕の口実を無くすと、岩倉具視らは徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定して明治新政府が樹立(王政復古の号令)し旧幕府勢力に追い込みをかけた。
価格:17,990円 |
鳥羽・伏見の戦い
1868年(明治元年)1月27日 旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。
甲陽鎮撫隊
江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退した。
下総国流山
近藤・土方は隊を再編成し、下総国流山(現在の千葉県流山市)の光明院・流山寺に分宿して長岡七郎兵衛宅を本陣とし、越谷に本陣を置いていた新政府軍の背後を襲う計画を立てる。しかし、新撰組は武装準備不十分の状態で新政府軍に包囲された。新政府軍はこの時点では武装勢力を不信に思って居ただけで、それが新撰組とは気付いて居なかった。
新政府軍は薩摩や長州と云った新撰組が京都で取り締まった者達が占めて居る為、新撰組である事が発覚するかしないかで、隊士諸々の処遇が大きく変わる為、近藤は意を決して単身新政府軍に出頭し自らを「大久保大和」と名乗り武装組織が新撰組とは無関係である事をアピールする。
しかし、新撰組の局長・近藤勇である事が発覚し、板橋刑場で斬首される。満33歳没。首は京都の三条河原に晒された。
以上
価格:26,020円 |
価格:5,600円 |
土方歳三の五稜郭戦争での華やかで壮絶な最期に比べると、近藤の最後はどうも真に呆気無い内容である。近藤の身上としては、幕府は既に新政府に敗北した事を悟りながらも、残った隊士の事やその後を案じて何か自分が出来る事があれば・・・と自首した様で、既に自分の為すことは無いと覚悟の上の行動だったに違いない。
土方に比べ、局長として隊外への顔として動いた彼は多くの人達と折衝しその分大局を分析し理解するのが早かった様である。土方の一途な思いとは別に、これ以上隊士を道連れにする愚を悟り早々に決着を着ける覚悟である。
彼は単に武勇の人では無く、常に心の中に少年のロマンを持ち続けた理想家・ロマンチストだった様だ。幕府側の人間以外にも多くの反幕府側の人達とも会い、彼等の身上を知る立場でもあり、納得せずともその意志の存在は理解したに違い無い。
幕末の風雲時代の別れ道で彼は幕府側に着く運命を自ら選択し邁進する・・・それ以外の道は考えられなかった様に土方も同じ道を最後まで成し遂げた訳だ。最後には、勝(海舟)から軍資金と死に場所も与えられ旗本としての最期を遂げたと思う。
新選組が、後世ここまで名を売り色々と取り上げられるとは思っても居なかったであろうし、そんなスケベ心の片鱗も無かっただろうが、時代の変遷の隙間に綺羅星(きらぼし)の如く光り消え去る一瞬の流れ星の様な人生だった。その意味では人生を大いに全うした幸せな人間であるとも言える。
その13につづく
価格:6,620円 |
OMRON〔オムロン〕体組成計 HBF-701(体重計 ヘルスメーター 健康器具 美容)【TC】【送料無料】 価格:14,920円 |
タニタ 体組成計 体重計 健康器具 パールホワイト BC-314-WH 価格:8,618円 |
今回は健康測定器を特集しました・・・
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/7713434
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック