2018年05月20日
明治維新と大東亜戦争 その3
明治維新と大東亜戦争 その3
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徳川慶喜の大政奉還に隠された深刻な事情
教養人徳川慶喜と大政奉還
慶応3(1867)年、土佐藩が将軍徳川慶喜に対して大政奉還の建白書を提出した。これも、実は徳川慶喜が土佐藩に出させたものであるが、形は飽く迄も土佐藩独自の建白書である。慶喜はこれを受けて京都二条城に諸藩を召集(約四十藩が参加)し大政奉還に付いて諮問(しもん)した。
諮問と言ってもこれは形式手続きに過ぎ無い。慶喜は即、明治天皇に対して上奏文を提出、その翌日天皇は参内(さんだい)した慶喜に対して「大政奉還勅許」の「沙汰書」を授けられてこれで大政奉還が成立した。土佐藩が建白書を提出してから僅か十二日後の事であった。
この様に表現してしまうと、日本史を揺るがせた大激変が実にシンプルでスピーディに成就(じょうじゅ)したかに見えるが、これは表面(おもてづら)だけの事で舞台裏は壮絶であった。
慶喜がこれ程迄にスピーディに事を運んだのは、そうせざるを得無かった深刻な理由があったのだ。この慶応三年十月時点では、朝廷内の討幕派公家は少数派であった事を先ず基本環境として理解して置く必要がある。三条家と云う長州派の過激派公家は四年前の文久三(1863)年の「八月十八日の政変」で追放されて居り、岩倉具視を中心とする少数の討幕派公家は何れも下級公家である。八十年振りの摂政(せっしょう)に就任して居た二条家や賀陽宮(かやのみや)家と云う親徳川派の上級公家が朝廷の主導権を握って居た。
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岩倉具視と大久保利通が作った密勅
そこで、岩倉具視や薩摩の大久保利通達はどうしたかと云うと偽の勅許(密勅)を作ったのだ。偽の「討幕の密勅」である。これは、天皇・摂政の署名も無ければ花押(かおう)も無いと云う“天晴(あつぱれ)れな”偽物である。
処が、慶喜サイドではこれを「密勅が下る」と解釈した。教養人慶喜は、まさか大久保達が勅許の偽物を作る等とは考えもしない。密勅とは言え勅許が下る事は幕府としては避け無ければ為ら無い(慶喜は水戸学の本拠である水戸候の息子である)。そこで、先手を打って大政奉還に出たのだ。これによって「討幕」の大義名分を消滅させたのである。政権を返上した者を討つと云う事が、論理的に出来無い事は説明する迄も無い。
大政奉還を行っても所詮朝廷に政権運営能力は無い。詰り、幕府に代わって六十余州を統治する能力は無い。慶喜がそう読んだ事は明らかである。形式・体制はどうあれ、大政奉還後も実権は依然として徳川が握る事に為ると云う“政局判断”であり、事実この判断・読みは間違って居なかった。朝廷には政権担当能力は勿論、その体制そのものが存在し無かったのである。
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事実、大政奉還から僅か一週間後朝廷は、外交に付いては引き続き幕府が担当する事を指示して居る。列強との外交諸問題が緊迫して居た時期である。朝廷もそれ以外に為す術(すべ)が無かったと云う事だ。諸外国への新潟開港の延期通告事務は結局幕臣官僚が行って居る。
冷静にこの時期の我が国の置かれて居た政治外交環境を思い返してみると好く分かる筈だ。世に云う黒船の来航は嘉永6(1853)年の事であった。徳川慶喜が大政奉還と云う挙に出る十四年前の事に為る。京が長州人を主としたアブレ者達によるテロによって血塗られたピークは文久2(1862)〜3(1863)年頃である。
この十年間と云うもの、幕府は、アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・プロシア等を相手にして、次々と和親条約・通商条約の締結を迫られ、独立と国益を守るべく必死の外交交渉を続けて来た。討幕の意思を秘めた薩摩と長州の過激派は、そう云う幕府の足を引っ張るだけで好かった。国家が危急の際には人材が現れる。好くしたものである。
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会議の趨勢が決した瞬間
「小御所会議」では、土佐の山内容堂が身の危険を感じた時点で会議の趨勢(すうせい)が決したと言える。再開後の会議に於いて「徳川慶喜に辞官納地を求める」即ち、官位と所領を没収する事を誰も反対せず決議した。山内容堂と松平春嶽は「幕末の四賢候」等と言われて居るがここ迄が彼等の限界である。
ギリギリ武士の末端とも云うべき薩摩の下級城下士であった西郷と云う男の、全ての論理や倫理を否定する“本性”の顕れた一言が国家の行く末を決する小御所会議の方向を決してしまった。この後、我が国の近代と言われて居る時代では、政局が行き詰まる度に反対派に対して「問答無用!」と云う暴力=暗殺が繰り返され、最終的に薩摩長州政権は対米英戦争(日中戦争から大東亜戦争への拡大)へと突入して行った。
この小御所会議が開催されたのは、慶応三(1867)年暮れ、十二月九日の夜である。「徳川慶喜に辞官納地を求める」事を決して、そのまま事が進めば「王政復古」は成立する。即ち、後の言葉で云う「明治維新」が成立した事に為る。
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何故、徳川幕藩体制が維持されたのか?
処が、事は逆方向に動き出した。翌十日、徳川慶喜が自らの新しい呼称を「上様」とする事を宣言した。これは呼称の問題であるから理論的には大政を奉還した事と矛盾する事には為ら無い。しかし言外に徳川政権の実質統治を継続しますよと宣言して居るに他為ら無い。
徳川慶喜に「辞官納地」を求めたこの小御所会議の時、当の慶喜は幕府軍おおよそ一万と共に二条城に居た。一万と云う軍勢には、強兵で知られる会津兵約二千桑名兵約一千が含まれて居る。薩摩長州を中心とする討幕派の兵も五千が京に集結して居た。
山内容堂は、双方が偶発的に衝突する不測の事態を懸念し、朝廷と慶喜に対して「納地」の問題は諸大名会議を開催して幕府と諸大名の分担割合を決める等の提案を行い双方これを受け入れた。慶喜は会津藩主松平容保(かたもり)・桑名藩主松平定敬(さだのり)・老中板倉勝静(かつしず)を伴い、十二月十二日大坂へ下ったのである。
同時に、薩摩長州及び安芸の軍事クーデターと云う強硬手段に対する土佐藩を中心とする公武合体派の反撥はピークに達し、肥後藩や筑前藩・阿波藩が、三藩(薩摩・長州及び安芸)に対して御所からの軍勢の引き揚げを要求するに至り、岩倉具視と三藩は「徳川慶喜が辞官納地に応じれば、慶喜を議定に任命し前内大臣としての待遇を保証する」との妥協提案をせざるを得無く為った。
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ここで、徳川慶喜は更なる反転攻勢に出る。十二月十六日、大坂城に米英仏蘭及びプロシア・イタリア六ヵ国の公使を召集し、内政不干渉と徳川幕府の外交権保持を承認させた。岩倉具視や薩摩長州には、こう云う外交は出来無い。
更に三日後慶喜は、朝廷に対して「王政復古の大号令の撤回」を要求した。朝廷は遂に「〜徳川先祖の制度美事良法は其の侭(まま)被差置(さしおかれ)、御変更無之候間(これなく)〜」云々との告諭を出した。詰り、徳川政権による大政委任の継続を承認したのである。この告諭では「王政復古の大号令」を取り消すとは言明して居ないが、実質的に徳川慶喜の要求を呑んだ事に為る。徳川幕藩体制は維持される事に為った。
その4につづく
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