2018年09月23日
一緒に学ぼう世界史のポイント 92 《ラテンアメリカの独立》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 92 《ラテンアメリカの独立》
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ラテンアメリカの独立
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ラテンアメリカの住民構成
ラテンアメリカとは、何処のことか判りますか?ラテン系民族の国家であるスペインとポルトガルの植民地に為ったアメリカ大陸の地域を言います。具体的には、中南米とカリブ海地域 要するに現在のアメリカ合衆国とカナダ以外の地域です。この地域が1810年代以降次々と独立を達成して行きます。今回はその様子を見てみましょう。
先ず、住民構成を確認して置きます
・スペインの植民地の場合支配者はスペイン人ですが、これは二つのグループに分かれます。一つはスペイン本国人で、現在は植民地に来ているがスペイン本国で生まれ何れは本国に帰国するだろう人々は本国人。もう一つは、植民地で生まれ育ったスペイン人でクリオーリョと言います。スペイン本国政府からみれば植民地は本国を豊かにする為の領土ですから、重商主義政策によってその富を吸い上げようとします。だから、植民地生まれのクリオーリョは経済的には本国政府に不満が出て来る。
こう云う構造は、イギリスと北米13植民地の関係と同じです(本国人とクリオーリョの比率について、参考までに1646年のメキシコの数字を挙げて置くと 本国人1万3800人対クリオーリョ16万9千人)
・次に先住民 が居ます所謂インディオです。北米と違って中南米にはアステカ帝国やインカ帝国など高度な文明国があったから、メキシコやペルーでは先住民の人口も多い。(メキシコ中央高原の先住民推定人口は、1518年で2520万人 インカ帝国の人口推計は400万〜1500万の幅がある)
少数のスペイン人が直接統治するのは不可能で、先住民の首長層を利用して間接支配を行いました。又、スペイン国王は理論上は先住民をスペイン人と同様に臣民として居ました。この辺りは、イギリス人が先住民を単なる邪魔者としてその存在を無視した態度と大きく異なる処です。先住民は、スペイン人が持ち込んだ各種伝染病に対して免疫が無かった為17世紀前半まで極端な人口減少が続きましたがその後は人口増加に転じます。
・又、先住民とスペイン人の混血 の人々も多くこれをメスティーソと呼びます。分類としては先住民に入れて考えます。(インカ帝国を滅ぼしたピサロは、インカ皇帝一族の娘達との間に複数の子供を作り、子供の一人はピサロの遺産を相続しています)
・労働力不足を補う為にアフリカ大陸から連れて来られた奴隷 及びその子孫の黒人もカリブ海地域やブラジルでは大きな比重を占めました。黒人とスペイン人の混血の人々は特にムラートと呼ばれました。
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ハイチの独立
18世紀後半にイギリスの13植民地でアメリカ独立革命が起きても、ラテンアメリカの植民地では独立への動きはありませんでした。ラテンアメリカで独立へ向けた具体的な動きは、フランス革命とナポレオン戦争というヨーロッパの大変動の影響によって始まりました。ラテンアメリカの独立はハイチに始まります。
ハイチ
ハイチは西インド諸島イスパニョーラ島の西側にあるフランスの植民地です。この島はハイチ島とかサント・ドミンゴ島とか色々な呼ばれ方をしますから要注意。元々島全体がサント=ドミンゴと呼ばれるスペインの植民地だったのですが、17世紀中頃から島の西部にフランス人がスペインに無断で住み始め事実上西部を占拠してしまいます。
衰退しているスペインはフランス勢力を追い出す力は無く、17世紀末にはフランスの行為を追認し正式にフランスの植民地サン=ドマングが成立しました。地図を見ると、島の真ん中に直線で国境線が書かれています。ここでフランス人入植者たちは黒人奴隷を使ってサトウキビ栽培で利益を上げていきました。(ハイチの人口構成は、白人4万人に黒人奴隷45万人とムラート及び自由黒人3万人)
さて、1789年、フランス本国で革命が始まりました。サン=ドマングからも三部会とそれに引きつづく国民議会に議員が送られました。彼等は、勿論白人プランテーション経営者の利害を代表していたのですが、フランス革命が進行すると議会では、彼らの意図に反して奴隷制廃止や自由黒人とムラートへの参政権付与などが検討されはじめます。
それを知ったサン=ドマングでは、1791年に島の北部で黒人奴隷が反乱を起こし、南部ではムラートと白人の対立が激しく為りました。1792年にはフランス本国の国民公会からジャコバン派の政治委員が着任しましたが、奴隷を所有する島の白人は反革命ですから混乱は増すばかり。
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トゥーサン・ルーヴェルチュール
オマケに1793年には対仏大同盟が発足し、フランスが周辺諸国と交戦状態に為ると、イスパニョーラ島東部のスペイン植民地からスペイン軍とイギリス軍が西部のサン=ドマングに攻めて来ました。この時に登場するのが黒人奴隷反乱のリーダーの一人だったトゥサン=ルーヴェルチュールです。解放奴隷でかなりの教養があったらしい。
彼は、ジャコバン派政府と手を結ぶと、スペイン軍とイギリス軍を撃退しサン=ドマングの実権を握ってしまった。フランス政府はサン=ドマングを敵国の侵略から守る為にはトゥサン=ルーヴェルチュールの協力が必要なので、1799年にはサン=ドマングの副総督兼総司令官に任命します。
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国民公会は既に1794年に奴隷制廃止を宣言しており、トゥサン=ルーヴェルチュールの下でサン=ドマングの奴隷制は無くなりました。1801年にはトゥサン=ルーヴェルチュールは独自の憲法を発布してサン=ドマングの終身総督に就任し、事実上の独立に向けて動き出します。
処が1802年、フランスで独裁者と為ったナポレオンが、アミアンの和約でイギリスと和平を結ぶと、フランス艦隊はイギリス海軍に妨害されず大西洋横断が出来る様に為りました。ナポレオンはサン=ドマング独立の動きを許さず2万2千の遠征軍を送ってトゥサンを捕らえ、フランスに送られたトゥサンは1803年に獄中で死んでしまった。
しかし、トゥサンの部下の抵抗によってフランス軍はサン=ドマングの制圧に失敗し、1804年にはサン=ドマングは国名をハイチとして独立を宣言しました。世界初の黒人共和国の成立です。アメリカ大陸およびカリブ海地域ではアメリカ合衆国に次ぐ2番目の独立国です。
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南米スペイン植民地の独立
スペイン領の独立もナポレオンが本国にもたらした変動を切っ掛けに始まりました。ヨーロッパを支配下に置いたナポレオンは、1808年、スペインでブルボン家の王を退位させ、自分の兄ジョセフをスペイン王として即位させました。スペイン国民の多くはこれを認めず反乱を起こし、各地に評議会と呼ばれる自治政府が成立しました。
アメリカ大陸のスペイン植民地は、幾つかの副王領に分けられ、スペイン国王から任命された副王によって統治されて居ました。各地の副王は、ナポレオンの兄のスペイン国王を支持すべきか、評議会側詰まり前の国王政府を支持すべきか迷う。スペイン本国の混乱で、植民地の支配者当局はどうした好いか困ってしまう訳ですね。
シモン=ボリバル
植民地当局の動揺は、独立を求めるクリオーリョ達にとっては願っても無いチャンスです。政治的経済的にスペイン本国の植民地政策に不満を持っていたクリオーリョ達が中心に為り、1810年には南米各地で自治と独立を求めて評議会が作られて行きました。(具体的には、ベネズエラのカラカスやアルゼンチンのブエノスアイレスにチリのサンチャゴとコロンビアのボゴダ)
但し、これが直ぐに独立に結び着いた訳ではありません。カラカスを中心とするベネズエラでは1811年に独立宣言が出されますが、スペイン軍によってカラカスは直ぐに制圧されてしまいます。これに屈せずに、スペインからの独立を目指して戦い続ける人物がカラカス出身のクリオーリョのシモン=ボリバルです。
1811年以後、ボリバルはスペイン軍とカラカスの争奪戦を繰り返します。1814年にナポレオンが没落し復活したブルボン王家が植民地の独立派に対して攻勢を掛ける様に為ると、追い詰められてイギリス領のジャマイカに亡命します。しかし、その後も、黒人共和国のハイチに支援を求めたりしながら粘り強く活動を続けました。
ベネズエラでの運動が行き詰まったボリバルは、攻撃の矛先をヌエバグラナダ(現コロンビア)の中心都市ボゴダ(現コロンビアの首都)に変え、1819年スペイン軍を打ち破りボゴダを副王の支配から解放しました。ここから、ボリバルの大活躍が始まります。
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先ずボリバルは大コロンビアの樹立を宣言します。これはこの時に、コロンブスに因んで着けられた国名ですが、大コロンビアと云うのは現在のコロンビアとは違い、現コロンビアにベネズエラとエクアドルにパナマを併せたものです。しかし、実際にはこの時点でベネズエラもエクアドルもスペインが支配していますからボリバルは大風呂敷を広げた訳です。
ここで、面白いと思うのは、独立派が考えている独立国の範囲で、大きさはてんでんバラバラなんですね。ボリバルは南米の植民地をひとつにまとめて独立をしようとしていますが、地域毎の利害関係が異なる為に各地のクリオーリョ達は互いに対立していて夫々別個に独立を求めていたりする。でも、この段階では、取り敢えず皆独立軍を率いてスペイン軍と戦っているボリバルに従って置こうという感じです。
この後、1820年にスペインで立憲革命が起こり植民地への圧力が弱まると、ボリバルは、1821年にカラカスをスペインから奪いベネズエラを解放し、翌22年にはエクアドルの中心都市キトを解放しました。ボリバルは更に南のペルーの攻略を目指します。
ペルーはインカ帝国の中心地域だった場所で、副王が置かれたリマはスペイン本国による南アメリカ支配の拠点でした。リマ副王府の支配は強固でスペイン本国の政治情勢の変化にも揺らぐことはありませんでした。スペイン本国の情勢の変化によって植民地の独立運動が左右されて来た事を考えると、大コロンビアの独立を確実なものにするには、情勢が有利な家にスペイン支配の拠点であるリマ及びペルーの攻略をしておかなければならないとボリバルは考えたのです。
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サンマルティン
丁度、同じ時期に同じ様にペルーの攻略が必要だと考えて軍事行動をしている人物が居ました。アルゼンチンのサン=マルティンです。
話はさかのぼりますが、ナポレオン戦争中の1806年にイギリス軍がアルゼンチンのブエノスアイレスを占領したことがありました。この時ブエノスアイレスのクリオーリョ達が、スペイン軍の力を借りずにイギリス軍を追い出す事に成功して以来、ブエノスアイレスは独立派が強く1816年にはリオ・デ・ラプラタ連合州として独立を宣言しました。
当時、ブエノスアイレスは、アルゼンチンで成長し始めた農牧業の皮革輸出港として栄えて居ましたが、南アメリカ全体からみると経済的にも政治的にも大きな影響力を持っていませんでした。だから、スペイン本国が立ち直りペルーの副王が勢力を盛り返せば、独立は潰されてしまう可能性が高かったのです。
そこで、先手を打って情勢が有利な内にペルーを攻略しようとしたのがアルゼンチンの軍人サン=マルティンです。現在のボリビアからペルー方面に攻め込むのが最短距離なのですが、ボリビア方面の副王軍は強力で簡単に攻め込むことが出来ません。その為サン=マルティンはアンデスを越えてチリに進出し、チリから海路ペルーに向かうと云う作戦を立てます。
1818年約5000の兵力を率いたサン=マルティンは、チリに進入しスペイン軍を破りチリを解放。チリで艦隊を整えて1820年にはペルーの海岸に上陸し、1821年にはリマに入城しペルーの独立を宣言しました。只、この時ペルー副王軍は戦略的にリマから高原地帯に撤退しただけでその勢力は依然として優勢で、サン=マルティンはその後の方策に行き詰まってしまいました。
丁度そこに北からボリバル軍が南下してエクアドルを解放した訳です。サン=マルティンはエクアドルのグアヤキルと云う町に赴きボリバルと会見します。この時何が話し合われたかは不明なのですが、サン=マルティンの援軍要請をボリバルが拒否したと云う事らしい。両雄並びたたずですかね。
この後勢力を保て無くなったサン=マルティンはチリに撤退して、代わりにボリバルの軍隊がペルーに進出し1823年には副王軍を破りペルー解放に成功します。1825年にはボリバル軍は上ペルーで最後まで残っていたスペイン軍を破り上ペルーを解放します。この時に上ペルーはボリビアとして独立を宣言しました。因みに、この国名はボリバルの名から着けられたものです。
この時期がボリバルの活動の絶頂期です。アルゼンチンとチリを除くスペイン領南アメリカをほぼ独力で解放した訳ですから。次にボリバルは、これら全ての地域を統合した国家建設を目指しましたが、各地域はボリバルの統制から離れて独自に国家形成を始めました。
ボリバルはこの流れを止める事が出来ず、失意のうちにヨーロッパに去る決意をし、渡欧直前の1830年に持病の結核が悪化して死んでしまいました。
一方のサン=マルティンは、リマを去った後は、矢張り失意の為に隠遁生活に入ってしまいます。1824年にはヨーロッパはフランスに渡り、世間からスッカリ忘れ去られたまま1850年に世を去りました。ボリバルもサン=マルティンも、現在はラテンアメリカ独立の英雄として讃えられていますが、どうも使い捨てられてしまった感じがします。
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メキシコの独立
メキシコはメキシコ市に副王が置かれ、南米のペルーと並んでスペイン植民地の中心のひとつでした。19世紀に入ると独立を目指すクリオーリョ層の勢力が成長して来ますが、それに劣らず副王政府の支配体制も強固でした。
ドロレス村の司祭イダルゴ神父
そんな中で1810年、ドロレス村の司祭イダルゴ神父の呼び掛けで民衆反乱が勃発しました。イダルゴ神父は「グアダルーペの聖母様万歳、悪いスペイン人(本国人)を遣っ付けろ」と云うスローガンを唱え先住民やメスティーソの気持ちを掴みました。アッという間に反乱軍は6万に及ぶ勢力に膨れ上がりメキシコ市に向かって進撃を始めました。
グリーティングカード「グアダルーぺの聖母」
因みにグアダルーペの聖母というのは、キリスト教が先住民の間に浸透する間に信仰される様になったメキシコの聖母です。
この反乱は、最も下層の人民からの素朴な独立要求とも言えます。只彼等は、進軍の途中で白人に対する虐殺を行なった為、独立を求めるクリオーリョ層は、イダルゴの反乱勢力とでは無く副王政府側と協力し反乱鎮圧に廻りました。反乱軍は人数は多いとは言え所詮戦闘の素人の烏合の衆に過ぎず、1811年イダルゴは捕まり処刑されて反乱は鎮圧されました。
副王政府は危機を乗り切ったかの様に思えたのですが、スペイン立憲革命の翌年の1821年、イダルゴ反乱軍の残党を鎮圧する為に出動した副王軍の将軍が、副王政府を裏切って独立宣言を出すと云う形で本国から独立してしまいました。呆気ないと言えば呆気ない独立で、スペイン政府の権威が地に墜ちていた結果といえるかも知れません。
メキシコの独立
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ブラジルの独立
ポルトガルの植民地だったブラジルは、スペイン領とは違う経過を辿って独立します。ポルトガルはイギリスとの関係が深く、ナポレオンに屈服しなかった為、1807年にナポレオン軍がポルトガルに侵攻すると、政府宮廷がイギリスの艦隊に守られてブラジルに避難しました。植民地が本国に為ってしまう訳です。
宮廷が疎開したリオ・デ・ジャネイロは、この間に整備され都市として発展します。ナポレオン没落後の1822年に国王はポルトガルに帰還するのですが、この時ブラジルに残留した皇太子が、ブラジル帝国の独立を宣言し皇帝に即位して本国から独立しました。
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独立後の政治と経済
1825年までにスペインから独立した南米諸国は、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイです。
しかし、これ等の国家建設はナカナカ順調に進みませんでした。何故なら、この独立はクリオーリョなど植民地人達の組織的な政治運動の積み重ねの結果勝ち取ったというよりも、ナポレオンに翻弄されたスペイン本国の動揺に付け入ったものだったこと。しかも、ボリバルとサン=マルティンと云う突然登場した軍事的天才の活躍に負う所が大きかったこと。彼等が他所から遣って来てスペイン軍を遣っ付けて呉れたから独立してしまったと云う感じです。
この二人が大活躍しながらも、後にラテンアメリカから去って行かざるを得なかったと云うのは、彼等にはクリオーリョ層の永続的な分厚い支持が無かったからです。詰まり「棚からぼた餅」独立で、独立してみたものの国家構想などは全然出来ていなかった。だから、どの国も政治体制が安定するまでに可成りの年月と混乱を経なければなりませんでした。
これは、メキシコも似たようなもので、副王軍の将軍の裏切りで達成した独立なので、この将軍が帝政を布いたり内乱があったりと、政治的安定はナカナカ訪れませんでした。黒人共和国として出発したハイチに対しては、奴隷制度を廃止した国として何と無く理想的な政治の実現を想像してしまうのですが、ここでも帝政を布く将軍が登場したり南北に分裂したりと紆余曲折を経ました。
こうした政治の不安定さは、独立の過程だけが原因では無くて経済的な要因もありました。独立しても経済構造は変わらず、少数のクリオーリョ地主による農業生産が中心で工業は未発達のままでした。ハイチではプランテーションは無くなり小規模農民が沢山生まれたのですが、農業生産性は酷く落ち込んで貧しい島になってしまった。中産階級や中堅市民層がナカナカ発展しないのです。
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貿易はイギリスに従属する形に為ってしまいます。イギリスから安価な工業製品がドンドン入って来るので、工業はナカナカ発展しない。輸出は農作物と鉱業生産物が中心に為らざるを得ません。以前から南米大陸を市場として狙っていたイギリスは、ラテンアメリカ諸国の独立によってその目的を達成した訳です。
市場獲得で儲かることに生るイギリスはラテンアメリカ諸国の独立を歓迎しましたが、当時ヨーロッパ政界はメッテルニヒが主導するウィーン体制下にあって、自由主義や民族主義運動は抑圧していました。だから、ラテンアメリカ諸国に干渉して独立を抑え込む可能性もありました。
ジェームズ・モンロー
この関連で有名なのが、アメリカ合衆国大統領モンローが1823年に出した「モンロー宣言」です。この中でモンローは、今まで合衆国はヨーロッパの植民地に干渉したことは無いのだから、既に独立したラテンアメリカ諸国にヨーロッパ諸国も干渉し無いで呉れと云う事を言っています。
アメリカ大陸とヨーロッパ諸国の相互不干渉と云う事を唱えた訳ですが、これは、合衆国が独立したラテンアメリカ諸国を市場として確保したかった問いうのがその心です。
参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたい時は
長い期間をカバーしながらも、内容は豊富。馴染みの薄い地域なので、最初は取っつき難いかも知れないが、読み込めばかなり勉強になる。玉石混交のこのシリーズの中で、間違いなく「玉」。今回のネタは、究極的にはこの本。
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