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2018年09月05日

一緒に学ぼう世界史のポイント 45 《西ヨーロッパ世界の形成》


 一緒に学ぼう世界史のポイント 45 《西ヨーロッパ世界の形成》


 

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 西ヨーロッパ世界の形成


    9-6-55.png ゲルマン大移動


 ゲルマン大移動

 ローマ帝国が絶頂期を迎えている頃、黒海からバルト海にかけて広く分布していたのがゲルマン民族です。カエサルの『ガリア戦記』や一世紀のタキトゥスの『ゲルマニア』に当時のゲルマン人の暮らし振りが描かれている。タキトゥスはローマ人が失ってしまった素朴さ質実な暮らし振りをゲルマン人にみているようです。
 ゲルマン人もローマ人も広い意味で同じインド=ヨーロッパ語族に属していますから、文化の根っこの部分で似た処があるのでしょう。ゲルマン人は多くの部族に分かれて、狩猟・牧畜、ローマ人との接触の多い地域では初歩的な農業も行っていた。やがて人口増加に伴って、集団毎にローマ領内に移住して来る 者も現れてきました。中には、コロヌスに為ったりローマ軍の傭兵に為るものも出て来る。

   9-6-50.png

 又、有力部族長の子弟が、半ば人質としてローマ帝国で青年時代を暮らしローマ風の文化を身に着けて成人してから部族に帰ると云う事も行われていた。だから、一部ではかなりローマ化していた部族もあったのです。ゲルマン人は沢山の部族に別れていますが、この時期に活躍する部族としては、東ゴート・西ゴート・ヴァンダル・ランゴバルド・フランクを覚えて置けば好いでしょう。

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 375年、東方から移動して来た遊牧騎馬民族フン族が黒海北岸にいた東ゴート族を征服します。その西に居たのが西ゴート族。フン族を怖れて民族移動を開始します。これがゲルマン民族大移動の始まりです。
 西ゴート族はフン族から逃れて西に移動しますが、そこにはローマ帝国がある。ドナウ川が国境でローマ軍が国境を守っている。だから入れて貰え無い。西ゴートの人々は「手を振り泣きながら、船橋を架けて渡して欲しいと哀願を繰り返した」というから必死で逃げて来ている、将(まさ)に難民ですね。

 

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 西ゴート族は更に西に移動し5世紀初めには西ローマ領内に侵入する。当時西ローマ帝国を実質的に支えて居たのがスティリコ将軍。実はこの人はゲルマン人です。ローマ帝国を支える将軍も大臣もゲルマン人出身の者が非常に多くなっているのが面白いね。ローマ帝国がゲルマン人無しでは成り立たなく為って居るのです。守るも攻めるもゲルマン人。

     9-6-57.jpg ローマを占領して略奪

 スティリコ将軍は西ローマ帝国の為に必死に戦っているのですが、ゲルマン人に偏見を持つ人たちの讒言で皇帝に殺されてしまいます。これが408年。その2年後の410年には、西ゴート族がローマを占領して略奪しまくる。永遠の都ローマが蛮族に蹂躙された訳で、この事件はローマ世界に非常なショックを与えた。教父アウグスティヌスは「ローマも所詮は地上の国よ神の国が大切なのさ」と『神の国』を書く。

 処で、西ゴート族はローマを略奪した時に西ローマ皇帝の妹を人質として浚って行きます。ガラ・プラキディアと云う女性。西ゴート族はこの後現在のフランス南部からイベリア半島にかけて移動して行きますが、彼女はそのまま連れられて行き、414年には西ゴート族の王様の妃になる。妃にされたと言った方が好いのかな。
 で、彼女は夫である西ゴート王にローマ帝国を守ることを説いたのです。その影響もあって西ゴート王は、ローマ帝国をゴート人の武力で再興するなどと云う演説をしたりする。西ゴート族も好きこのんで戦争しながら移動しているわけでは無くて安住の地が欲しいのです。女子供、老人も引き連れての民族移動です。
 結局西ローマ領内で安定した生活を実現しようと思ったらローマ人の協力がなければダメなんですね。だって、人口としては圧倒的にローマ人が多いんですよ。西ゴート人なんてホンの少数です。只「蛮族」で武力が強いだけですから。

 

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 ガラ・プラキディアの夫は直ぐに死んでしまうのですが、この後西ローマ皇帝は西ゴート族と同盟を結び、彼等が西ローマ領内に西ゴート王国を建国することを認めました。彼等を潰すだけの力が無いですから認めてしまって逆に西ゴートの軍事力を利用して新たな部族の領土内への侵入を食い止めようとしたのです。
 ガラ・プラキディアはこの後西ローマ側に返され再婚して子供を生みます。この子が後に西ローマ皇帝になるから面白いですね。西ゴート族の後、次々に移動して来るゲルマン諸部族はローマ領内に王国を建て、西ローマ帝国はこれを追認するしか無く、皇帝の直轄地は小さくなる一方でした。

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 一番長い距離を移動したのがヴァンダル族。ジブラルタル海峡を渡り北アフリカ、カルタゴがあった地方ですが、ここにヴァンダル王国を建てる。ここは、西ローマ帝国の穀倉地帯だったのです。

    9-6-57.jpg 傭兵隊長オドアケル

 476年、西ローマの傭兵隊長オドアケル西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ西ローマ帝国は滅んだ。只、この時点で実質的には西ローマ帝国は名前だけになっていてアチコチにゲルマンの部族国家があったので、当時としては大したニュースでも無かったらしいです。 
 面白いのはオドアケルは自分は帝位に就かず、西ローマ皇帝の冠を東ローマ皇帝に返却するのです。で、東ローマ皇帝からローマ帝国の官位を貰ってイタリアを支配します。ローマ帝国から権威を与えられたかったのです。
 西ローマ領内にあったゲルマン部族国家も東ローマ皇帝から官職を与えて貰います。彼等は、自分の王国でゲルマン人に対しては王として、ローマ人住民に対してはローマの官職を使って支配を行う。二重統治体制をやった。

 

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 オドアケルのイタリアに侵入したのが東ゴート族。彼等はここに東ゴート王国を建国(493)。ローマ人貴族の協力を得ながらイタリア半島を支配し、東ローマ帝国もこれを認めますがやがてユスティニアヌス帝に滅ばされた。
 その後イタリア半島にやって来たのがランゴバルド族。東ローマの勢力を退けてランゴバルド王国を建国(568)。この国は774年まで続きますが、この間にランゴバルド人はローマ人と混血して同化してしまった。ローマ人も自分達をランゴバルド人と意識するように為って居たと言います。要するに両者が融合したと云う事ですね。東ローマ帝国もビザンツ帝国に変質し、旧西ローマ領に対して影響力を無くして行きますから当然の成りゆき。

 これらは、西ローマ帝国の中心地に入って行った部族ですが、周辺地域を移動したグループもある。その代表がフランク族。これは、今のドイツ北部からフランス北部に移動し、フランク王国を作る。移動距離が比較的短かったので部族としてのまとまりが余り崩れなかった。東・西ゴート族やヴァンダル族は移動する途中でかなり雑多な人々を吸収して部族そのものが変質しているのです。
 ユトラント半島から海を越えてブリタニア・今のイギリスに渡ったのがアングル族・サクソン族。今でもイギリス人やアメリカ人のことをアングロサクソンと呼ぶのはここから来ている。

     9-6-53.jpg スイスあたりの風景

 後、現在のスイスあたりに来たのがブルグント族ブルグント王国を建てる。覚えておくのはこれくらいで好いでしょう。

 4世紀、西ゴート族の移動から始まったゲルマン人の大移動は7世紀頃までの約300年間続いた。その後もゲルマン部族国家同士の争いは続きますから、長い期間政治的に西ヨーロッパは不安定ですね。
 繰り返しますが、彼等が移住したのは旧西ローマ帝国の領域の中です。そこにはローマ人が住んでいる。ゲルマン人の人口は全人口の5%位。ローマ人の有力者の協力をいかに得ることが出来るかが、ゲルマン部族国家が発展できるかどうかの鍵です。だから、西ゴート王も東ゴート王も東ローマ皇帝から官職を貰って支配者としてのお墨付きを貰おうとしたんです。

 

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 ヴァンダル王国は534年、東ローマのユスティニアヌス帝によって滅ぼされます。西ゴート王国は711年、イスラムのウマイヤ朝によって滅亡。ブルグント王国は534年、ランゴバルト王国は774年にフランク王国によって滅ぼされた。
 多くのゲルマン国家が滅んで行くのに、フランク王国は他のゲルマン人国家を征服してやがて西ヨーロッパを統一します。なぜか。

      9-6-58.jpg クローヴィス


 フランク王国の発展

 フランク族は、更に小さな支族集団に分かれていました。移動後、小集団が夫々小さな国を建てるのですが、この小国家を統一してフランク王国を建てたのがメロヴィング家のクローヴィス(位481〜511)。これをメロヴィング朝と云う。これがフランク王国発展の基礎を作るのですが、その秘訣は宗教なのです。
 ゲルマン人はキリスト教を信じているのですがアリウス派という宗派です。これは、325年のニケーア公会議で異端とされた宗派で、ローマ帝国内で布教出来ないのでゲルマン人に信者を広げていたのです。ローマ人は何を信じているかというと同じキリスト教でもアタナシウス派。詰まりローマ教会の信者です。

 

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 クローヴィスも他のゲルマン人と同じでアリウス派だったのですが、アタナシウス派に改宗するの。ローマ人に取ってローマ帝国が無くなった後、頼りになったのはローマの行政区毎に作られた教会だった。元老院議員を出したような有力な家柄の者が教会の聖職者としてローマ人の指導者的立場にあったりする訳だ。
 フランクの王がその同じ教会の信者に為ると云うのは、ローマ人に取っては「オオっ!」という頼もしさ。この王様を助けましょうと思う。と云う訳でガリア地方、今のフランスに当たる地域ですが、のローマ人たちはクローヴィスを支持した。又、教会はローマ帝国時代から引き継いでいる行政上の色々なテクニック、学問、技術を持っているからフランク王国はこれらのものを手に入れることも出来たわけだ。こう云う訳で、フランク王国は他のゲルマン国家と違い安定して発展することが出来たのです。

     9-6-59.jpg カール=マルテル

 フランク族は分割相続の習慣があって、王国はクローヴィスの息子たちに分けられて、夫々で内紛や貴族の権力闘争で王たちは次第に力を失って行きました。代わりに、フランク族のまとめ役に為ったのが宮宰(きゅうさい)。総理大臣みたいなものと思ってください。行政の最高職です。
 この宮宰職について強大な権力を握ったのがカロリング家のカール=マルテル。彼は、全分国の宮宰となってフランク王国の実権を握った。彼を有名にしたのが732年のトゥール・ポワティエ間の戦い。ピレネー山脈を越えて進撃して来たイスラム軍を撃退した。
 実際に戦いの様子がどんなだったかは情報不足でわからないのですが、兎に角この戦い以後、イスラム軍の進撃が止まった。この結果、カール=マルテルの評判はうなぎ登りです。名声を確立した。

 

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 その息子がピピン3世。宮宰職を継ぐのですが、彼は父親が残した実績と名声を引き継ぎ、メロヴィング家の王を追い751年に王位に就いた。これがカロリング朝の始まりです。
 ピピン3世が即位するにあたっては、ローマ教皇が彼の王位を認めました。宗教的権威をもって認めるので、教会の信者にとっては正統性を持つことに為るわけだ。ピピン3世は代わりにランゴバルド王国の領土を奪って教皇に寄進した。これを「ピピンの寄進」と云う。教皇領の始まりです。これ以後ローマ教会は信者から領地を寄進されて大きな教皇領を持つようになるのです。これ以後フランク王国とローマ教会は一層緊密な関係になります。

 カトリック教会と西欧のキリスト教化

 ローマ教会のことを再確認して置きます。ローマ教会はコンスタンティノープル教会やその他の教会と同じようにローマ帝国の中で発展して来ましたが、西ローマ帝国滅亡によって国家の保護が無くなる。只、東ローマ帝国との連絡はあって皇帝の指導下にあります。
 ユスティニアヌス帝が東ゴート族からイタリアを奪還した時にはローマ教皇はローマ地域の行政長官に任命されていて、ランゴバルド族の侵入で東ローマ帝国が撤退した後もローマ周辺の統治権を握っていた。そういう意味では単なる宗教指導者では無かったわけです。だから、ビザンツ皇帝の皇帝教皇主義には反対した。ローマ教会の独立性を主張する。その為にも、ランゴバルド王国の北方で勢力を拡大しつつあったフランク王国と協力関係を結んで行って政治上の庇護者にしようとしたのです。

 726年、ビザンツ皇帝レオン3世による聖像崇拝禁止令は、ローマ教会とビザンツ帝国の対立を生み、東のコンスタンティノープル教会とローマ教会はその後分裂して発展して行きます。コンスタンティノープル教会がギリシア正教会に、ローマ教会がローマ=カトリック教会として別々の宗派に為っていきます。 

 

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 カール大帝

 ピピン3世の子がカール大帝(位795〜813)。カール大帝の時代にフランク帝国は大発展して、西ヨーロッパ全域を統一した。領土の大きさではビザンツ帝国に匹敵する大帝国です。

    9-7-1.jpg カールの戴冠

 このカール大帝にローマ教皇がローマ皇帝の冠を授けたのが800年。この時のローマ教皇の名前がレオ3世。聖像崇拝禁止令のビザンツ皇帝とは別人ですから注意してください。フランク王をローマ帝国皇帝と名乗らせることによって西ヨーロッパはビザンツ帝国と対等だとローマ教会は主張したかったのです。この事件を「カールの戴冠」という。
 カール大帝がローマ人の血を引いているわけでも、フランク王国の首都がローマにあるわけでも無いのですが、文明世界の代表・偉大なローマ帝国の理念が西ヨーロッパに復活したと云う意味で、大きな事件です。フランク王国自体も大きな権威を持つようになる。

 カール大帝の政策

 広い領土を支配するために各地にという長官を配置した。更に伯の地方行政を監査する為巡察使を派遣しました。また積極的にキリスト教会を新たに領土になった地域に建設して行きます。
 ローマ教会に属する修道院が各地にあるのですが、ローマ帝国が滅んだ後修道院は多くの書物や学問文化が伝えられている殆ど唯一の場所だった。そして修道士はインテリです。カール大帝はそういう学者でもある修道士を宮廷に集めて学芸を奨励した。これを「カロリング・ルネサンス」といいます。アルクインと云う学者が有名です。

 

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 経済

 この時代のフランク王国の経済はどんなものかというと、自給自足の農業経済です。生産性は低くて小麦は播いた分の4倍しか収穫出来なかった。穀物だけでは食糧不足だから豚などの家畜も必ず多数飼っていた。牧畜中心の農業です。
 古代ローマ時代のような地中海を中心とする遠隔地交易は殆ど潰れていて、フランク王国内でも商業は沈滞しています。流通も未発達。カール大帝の宮廷は一カ所に留まらずに常に国内を移動しています。何故かというと、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段が無い。だから或る地方の資源を消費し尽くすと、カール達の宮廷は次の場所に移動してそこにあるものを食べる。食べ尽くすと又移動する。「移動する宮廷」です。領域の広さや戦争の強さではビザンツ帝国と対等だったかも知れませんがフランク王国は経済的には完全に辺境です。

 フランク王国の分裂

    9-7-2.jpg メルセン条約

 カール大帝の死後、フランク王国はその子孫たちの間で分割相続されます。843年のヴェルダン条約で、フランク王国は西フランク・中部フランク・東フランクに三分割されます。その後870年のメルセン条約で中部フランクの一部が西と東のフランク王国に分割されました。分裂した三つのフランク王国について簡単にみて置きます。

    9-7-3.jpg

 中部フランク王国は現在のイタリアになります。ここでは、早くにカロリング家が断絶し国家的な統一は無くなります。北部には諸侯や都市が自立化して分裂割拠状態。それに乗じて東フランクが支配権を及ぼすように為ります。中部にはローマ教皇領があり、その南のイタリア半島南部とシチリア島はイスラム勢力により占領されます。

 

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 東フランク王国ドイツになる。ここでも10世紀初めにカロリング家が途絶えて有力諸侯が王位に就きます。王は有力諸侯が選挙で選ぶのです。これは日本的な感覚では理解し難いですね。10世紀には東方から遊牧系のマジャール人が盛んに東フランク領内に侵入して来ます。これを撃退したのがオットー1世(位936〜973)。

   9-7-4.jpg オットー1世

 西ヨーロッパ世界を防衛した功労者と云う事でローマ教皇はオットー1世にローマ皇帝冠を授けた。これ以後ドイツは別名神聖ローマ帝国と呼ばれる。神聖でもローマでも無いのですがね。
 これ以後の歴代のドイツ王は神聖ローマ皇帝をも名乗るようになる。ローマ皇帝という名前をもっていればイタリア半島を支配したく為るのですね。歴代ドイツ王はイタリア半島に軍隊を派遣してここを支配下に置こうとする。ローマ教皇もイタリアで有利な立場を築く為にドイツ王の軍事力を利用したりもする。

    9-7-5.jpg パリ伯ユーグ=カペー

 西フランク王国フランスになります。ここでも10世紀後半にカロリング家は途絶えます。9世紀後半からノルマン人がフランスに侵入して略奪を繰り返すのですが、この時にパリ防衛で活躍した諸侯、パリ伯ユーグ=カペーフランス王になる。これがカペー朝
 この王家も選挙で選ばれたもので、実際にカペー家が支配していたのはパリ周辺の地域だけです。他の地方は有力諸侯たちの支配下にあった。

 

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 まとめ
 
 フランク王国分裂以後はイタリア・ドイツ・フランスの原型が出来るのですが、夫々の国では諸侯の力が強くイタリアでは王すら居ない。フランスとドイツでは王は居ますが、有力諸侯の中から選挙で選ばれるのであってカール大帝時代のように大きな力は持っていません。ヨーロッパ全体が大小様々な諸侯のもとで分裂している。中世、典型的な封建時代の始まりです。


 参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたいときは

 メロヴィング王朝史話〈上〉岩波文庫  メロヴィング王朝史話 (下)岩波文庫 オーギュスタン・ティエリ著。 著者は19世紀のフランス人。メロヴィング家のクローヴィスの孫の世代の王たちの物語です。ほとんど(いや、全く)授業のネタにはなりませんが、馴染みのないフランク王国初期の政治、ゲルマン人とローマ人、キリスト教との関係など、少しイメージが具体的になりました。


 西ヨーロッパ世界の形成 おわり 次のページ 《東ヨーロッパ世界の形成》


 

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