2018年08月10日
一緒に学ぼう世界史のポイント 30 《隋の時代》
一緒に学ぼう世界史のポイント 30 《隋の時代》
隋の時代
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隋
永い分裂時代を終わらせて中国を再び統一したのが隋です。 隋という国がどう遣って登場して来たのか見て置きましょう。
話は北魏に遡(さかのぼ)ります。北魏の孝文帝が漢化政策を行った話を前回しました。実はこの漢化政策に不満を持った辺境地域の軍人達が居て、彼等の反乱によって北魏は東西に分裂しました。この軍人達は辺境防衛で苦労を共にして強い団結力を持って居た。人種的には鮮卑系等の北方民族と北方民族化した漢族が渾然一体と為って居ます。
この軍人達が北魏分裂後の西魏や北周の支配者集団に為るのです。彼等は質実剛健な雰囲気を持ち続けます。東魏や北斉政権は南朝の貴族文化に影響されて軟弱化して行きますが、北周は地理的な関係もあって南朝の洗練された貴族文化に余り影響され無かったのです。
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隋の建国者は楊堅(ようけん)です。隋の文帝とも言います。この人は北周の皇帝の外戚で、北周の皇帝から帝位を譲り受けて隋を建てます。元々楊堅も北周の皇帝家も北魏時代の軍人仲間のグループなんですね。だから、王朝が隋に代わっても基本的な政策の変更はありません。支配者層の顔ぶれも変わら無い。その後、楊堅の隋は北斉や陳を滅ぼして統一を成し遂げるのです。
楊堅は漢民族と言われていますが、生活文化は可成り北方民族化して居た様です。奥さんは独孤(どっこ)氏と云う鮮卑族の有力貴族出身の人ですしね。隋と云う統一王朝は、中国が北方民族のエネルギーを吸収消化して生まれたものと考えたら好いと思う。
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今まで、中国文化とか漢民族とか云う言葉を余り説明もせずに使って来ましたが、中国文化と井生のは常に周辺の民族の文化を取り入れて発展して来たものだし、漢民族と云うものも、周辺民族を取り込んでその範囲がドンドン広がって来ているモノなんですね。
漢帝国が崩壊してから隋の統一までの長い分裂時代に、中国文化は五胡の文化をその中に消化しながら一回り大きく為ったと云うイメージがあります。先走りますが、隋が直ぐに滅んだ後を継ぐのが唐です。唐は物凄く広い範囲を包み込んで大唐文化圏とでも云うものを作り上げます。日本からも遣唐使がドンドン行くでしょう。
阿倍仲麻呂、聞いたことがありますか。遣唐使で唐に行ってスッカリ唐の皇帝に気に入られて向こうで官僚として出世するの。唐と云うのは、その人間が何民族か何て言う事は全然気にしない国なんですね。北魏、西魏、北周と云う流れの中で、所謂中国人と北方民族が融合して行った、その流れが隋、唐と云う国の基本的な姿勢にも現れていると思います。
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隋の政策
隋の政策です。都は大興城。長安と覚えて貰っても結構です。土地制度は北魏より引き続いて均田制を採用。税制は租庸調制。均田制によって国家から土地を支給されている農民を均田農民と言います。均田農民が土地を支給される代わりに、国家に対して納めるのが租庸調(そようちょう)です。
租は穀物で納める税、庸は労働力で納める税。一年の内一定期間政府に労働奉仕します。調は各地の特産物等で支払う税。更に均田農民には兵役があります。均田農民によって編成される兵制を府兵制と言います。
と云う訳で、均田制と租庸調制に府兵制はセットで実施されて効果が上がる制度です。これによって王朝は豪族に頼らずに直接に農民を把握し、軍事力を手に入れる事が出来た訳です。北魏時代から徐々に整備されて来た国家制度が隋の時代に実が結んだのですね。
官僚登用制度として絶対に覚えて置かなければならないのが「選挙」今の選挙とは全然意味が違うからね。これは試験による官僚登用制度です。ヤガテ、この制度が発展して後の宋の時代に科挙(かきょ)と呼ばれる様に為ります。
隋の時代は選挙で採用される官僚の数はマダマダ少無い様ですが、家柄によらず人物を選ぶ試験を始めたと云う事は凄い事ですよ。6世紀の事ですからね。20世紀の日本だって試験で国家公務員を採用しているんだからね。同じですよ。
貴族も官僚として活躍していますが、隋の時代からは貴族出身官僚を地方官に任命し無く為って居る。地方に地盤を持たせ無い様にしたのです。貴族は豪族的な面をドンドン無くして、王朝に寄生する存在に近づいて行きます。後漢滅亡後の課題であった皇帝権力の強化はこう云う形で実現して行くのです。
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4世紀に及ぶ分裂の間に江南地方と長江南方の地域ですね、ここは南朝によって開発されて農業生産が伸びて居ました。隋はここを中国北部に結びつける為に大運河を建設します。南は長江南方の杭州から現在の北京近く迄全長1500キロメートル。大運河は南北中国の経済の大動脈として以後の社会に欠かせ無いものと為って行きます。後の唐の繁栄はこの運河のお陰と言っても言っても良い位です。
文帝楊堅を継いで隋の二代目の皇帝に為ったのが煬帝(ようだい)です。この人の名前ですが、日本では読み癖として「ようてい」とせずに「ようだい」と読んでいます。本によっては「ようてい」と振り仮名を着けているものもありますから、どちらが正しいと云うものでは無くて伝統なんですけどね。
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煬帝は暴虐な皇帝であると云う評価が一般的で、帝と云う字を「てい」と呼んで挙げずに貶(おとし)める意味で「だい」と読む様に為って居るのです。煬と云う文字も非常に縁起の良く無い悪い意味の字です。隋に代わった唐に取って煬帝を非難して自らの王朝を正当化する必要もあったのでしょう。
実際の煬帝はそれ程悪い皇帝だったかと云うと、贅沢三昧をするのが悪いとすれば普通に悪い。南朝では飛んでも無い皇帝は幾らも居ましたから悪さ加減もソコソコ。只煬帝が人民を徹底的に徴発したのは恨みを買いました。大運河の開削工事で農民を人夫として徴発した。普通土木工事に駆り出されるのは男と決まって居るのですが、大運河開削には女性も動員された。これは前代未聞だと云う。
それから対外戦争です。高句麗遠征を三回行い全て失敗しました。この戦争とその準備で多くの人民が死んで行った。
高句麗は隋の東北方面、現在の朝鮮半島北部から中国東北部に掛けて領土を持って居ました。煬帝は遠征の為の物資をタク郡(現在の北京付近)に集めるのですが、南方から物資を輸送する為に黄河からタク郡までの運河を掘らせた。遣る事が徹底している。土木工事と対外戦争はセットに為って居るんですね。この様な民衆の負担の激増で、各地で農民反乱や有力者の反乱が起きて隋は滅びる事に為るのです。
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高句麗遠征
高句麗遠征の話をして置きます。南北朝時代、中国の北方で大きな勢力を持っていた遊牧民族が突厥(とっけつ)です。トルコ系の民族で突厥と云う名はトルコを音訳したものです。
この突厥は隋が成立するのと同じ時期に東西に分裂して東突厥は隋に臣従しました。処が高句麗は、隋に臣従しない。それ処か隋に隠れて突厥に密使を送ったのがバレたりする。そこで、煬帝は高句麗遠征を企てた訳です。
第一回高句麗遠征が612年。110万を超える隋軍が出動した。攻め込まれる高句麗は必死です。国家の存亡が掛かって居るからね。この時は、隋軍は無理な作戦が祟(たた)って敗北し撤退しました。これは「薩水の戦い」の絵です。領内に深入りした隋軍を高句麗軍が破った戦いを描いたもので、韓国の歴史教科書に載っているものです。現代画ですが兵士達の装束は古墳の絵などを参考にしています。
韓国や朝鮮民主主義人民共和国所謂北朝鮮では隋の侵略を三度も撃退した事は民族の栄光の戦いなんですね。私の高校時代ですが、ラジオを真夜中に聞いていると外国放送が入る。日本向け平壌放送と云うのがあって、その中の歴史番組で大々的に遣って居ました。現在の韓国や北朝鮮の人達が高句麗人の直系の子孫かどうかは簡単には言え無いんですがね。
第二回目の高句麗遠征は613年。この時は後方で物資輸送に当たって居た担当大臣が反乱を起こして撤兵。隋の政権内部の乱れが目立って来ます。又、各地で民衆反乱が起き始めて居ました。
第三回は614年。この時には、民衆反乱が大規模に為って居て、高句麗遠征処では無く為って居た。高句麗側はそれを見越して形だけの降伏をして、煬帝はそれを機会に撤兵しました。各地の反乱は益々激しく為って、煬帝は大混乱の中で親衛隊長に殺されて618年に隋は滅びました。
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隋の煬帝は倭国との関係で有名なエピソードがありますね。607年、小野妹子が遣隋使として中国に渡った。彼は、国書を煬帝に渡すんですが、その冒頭の文句が「日出(い)づる所の天子、書を日没する所の天子に致(いた)す。つつがなきや・・・」
これを読んで煬帝は激怒した。もう二度と倭国の使いを俺の前に連れて来るなと。何故怒ったかと云うと、この文面は中国の皇帝と倭国の王が同格で扱われているからです。中華的発想では、周辺民族は中国よりもランクが下、中華文明を慕って遣って来るもので無ければならない。倭国の手紙はその様な外交的常識から外れた甚だ無礼なものなんですね。
処が、怒った筈の煬帝なんですが、翌年には裴世清(はいせいせい)と云う使者を倭国に派遣して友好関係を続けて居るのです。何故か。丁度この時期は、高句麗遠征の準備を進めて居る時です。高句麗、新羅、百済そして、倭国と東アジア諸国の緊張感が高まっているんですね。隋としては高句麗を孤立させたい。もし倭国との外交関係を切ってしまったら高句麗が倭国と同盟を結ぶかも知れない。そう為ったら、外交上も軍事上もヤヤコシイですね。だから、個人的な怒りとは別に外交上はキッチリと倭国を押さえて居る訳だ。
問題の国書を出したのは聖徳太子と言われています。聖徳太子はこの文面が隋に対して失礼なものだと知ら無かったのでしょうか。知って居たけど一寸突っ張ってみたんでしょうか。聖徳太子の時代、多くの仏僧が朝鮮半島から倭国に渡って来ていました。大和朝廷から見れば朝鮮半島は先進地帯です。積極的に仏僧を受け入れて居たのでしょう。
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その中に聖徳太子が師と仰いだ慧慈(えじ)と云う仏僧が居ます。実はこの人高句麗僧。高句麗から渡って来ている。この慧慈が例の国書を書いたのではないかと云う説があります。
国書は「日の出づる所」と倭国のことを書いている。だけど、冷静に考えてみると日本列島に住んでいる私達にとって、ここは「日の出づる所」では無いね。倭国を「日の出づる所」と考えるのは、西方から見る視点です。中国を「日没する所」とするのは同じ様に中国よりも東方からの視点です。そう考えて行くと、国書を書いた人物の視点は倭国と隋の間にある。そこは高句麗です。
高句麗僧慧慈に取って、倭国と高句麗とが軍事同盟を結ぶ事が望ましい。その為には倭国と隋の間にトラブルが起きると都合が好いです。聖徳太子の信任を受けた慧慈はそう云う下心を持って国書を書いたのではないか。又、煬帝も倭国の無礼に対して怒りつつも、倭国を高句麗側に追い込ま無い様に注意している。僅か数行の国書の文面から倭国をも巻き込んだ国際関係が読み取れるなんて面白いですね。
処で『隋書』と云う隋の歴史書には608年に倭国に赴(おもむ)いた使節の記録がある。この時に使節は倭国王とその妃や王子に会ったと記録されている。変でしょ。聖徳太子は王ではありませんね。推古天皇は女性ですよ。一体誰に会ったんだ。正式な隋の外交使節を倭国政府は欺(あざむ)いて聖徳太子を王と紹介したのでしょうか。又、この時に帰国した小野妹子は隋の国書を途中で紛失したと云う事に為って居る。この辺りの倭国の記録には腑に落ち無い事が多いです。
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7世紀初頭の東アジア
東アジアの諸国を整理して置きましょう。
高句麗は紀元前1世紀後半に鴨緑江という川の流域で成立した国です。ツングース系扶余族の国家。この国が飛躍的に領土を拡大したのが広開土王(位391〜412)の時代。この王の業績を記念して立てられた石碑が「広開土王碑」この碑文には倭の記事も出て来るのですが、読み方に関して色々な説があるのと、碑文そのものの改竄(かいざん)説があって問題の多い石碑です。
が、有名なものなので名前だけは知って置いてください。5世紀初頭の東アジア諸民族の貴重な資料です。中華人民共和国吉林省集安に建っています。高句麗は隋の攻撃には耐え抜いたのですが、結局、次の唐によって滅ぼされました。(668年)
この時唐と共に高句麗を攻撃したのが新羅(しらぎ、しんら)です。4世紀後半に朝鮮半島の東南に成立した国です。高句麗と百済に圧迫されていた新羅は7世紀半ばに積極的に唐の文物を取り入れて国政改革を行い唐との結び着きを強めます。最終的には唐と軍事同盟を結び、660年には百済、668年には高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一した。
但し、唐は朝鮮半島の直接支配を目指したので、新羅は唐軍を朝鮮半島から追い払う為に676年まで戦い続けることに為ります。
百済は朝鮮半島西南に4世紀前半の成立。この国は高句麗や新羅と比べて大和朝廷との関係が非常に深い。唐と新羅連合軍によって滅ぼされた後、倭国の援助を受けて復活を目指します。663年の白村江の戦いがそれ。しかし、倭軍は負けて百済再興は出来ませんでした。
倭です。3世紀魏に邪馬台国が使者を派遣したことは以前に話しましたね。その後は倭国が5世紀南朝宋に使節を送っています。中国の王朝に官職を授けて貰う事によって朝鮮半島や日本列島の対立勢力の中で有利な立場を確保しようとしたようです。宋の歴史書には五人の倭王の名が記録されているので、これを「倭の五王」と言っています。それ以後は隋の時代まで倭の記録は出て来ません。
何故南朝の宋にだけ記録されているかと云うと、宋だけは山東半島まで領土を拡大して居るんです。日本列島から百済を経由して比較的簡単に辿り着くことが出来たのでしょう。
隋の時に倭国は遣隋使を送ります。これはさっき言った通り。やがて、隋・唐の高句麗遠征、高句麗・百済・新羅の三国を巡る国際関係の中で新羅と同じ様に内政改革を行わざるを得なく為る。これが、645年の大化改新と言われる改革。日本と云う国号を使うように為るのは7世紀後半からです。それまでは倭国と呼ぶのが正しいのです。
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参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたい時は
古代東アジアの民族と国家 cover 李成市著。 専門書で高価ですが、私のような素人でも充分理解できます。今回の、高句麗をめぐる国際関係に関しては、大いに参考にしました。
隋の煬帝(ようだい)中公文庫 宮崎市定著。いつもながら、語り口のうまさと、明快な論理展開には、脱帽するばかり。隋という時代が、自分の手の中に入っているような気になります。
隋の時代 おわり 次のページへ 唐の時代(前半)
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