2018年07月27日
ノモンハン・・・知ってますか?
ノモンハン事件(ハルハ河戦争)の歴史的研究
―共同研究の経緯― Tumurbaatar Narmandakh
はじめに
1920年代から1930年代に掛けて、モンゴル人民共和国を巡って発生する国際関係は多様な要因とその作用の下に形成された。
そこには、モンゴルの経済発展への援助から軍事援助(1936年の協定書)にまで及ぶソ連とモンゴルの関係・コミンテルン・モンゴル人民革命党・中国国民党・中国共産党の革命的イデオロギーの問題、更には日本に対する政治姿勢を巡る課題があった。
その結果1930年代半ばに為ると、ソ連・モンゴル・中国の古典的「三角関係」は、ソ連・モンゴル・ 中国・満洲国と云う新しい構造に変化して居た。この新しい構造は、この地帯に於けるそれ迄の緊張を一層強める事に為った。「ソ連・モンゴル・中国・満洲国」と云う構造の中で、各国は2種類の共存方式を探って居た。
1つは、モンゴル・満洲地域に於いて日ソ間で「勢力圏」を分け合って平和な展開を保つか、それとも戦時状態に為るかである。
もう1つは、モンゴル・満洲国間の国境対決を激化させ、日ソ間或いは日中間の大規模な衝突を惹起させるかであった。
ソ連と云う大国が地政学的な見地からモンゴルに影響を及ぼそうとした結果、この時期のモンゴルではソ連による大規模な粛清事件が発生して居た。そしてこの粛清事件と日本側から仕掛けたと言うべきハルハ河戦争が同時進行した為に、モンゴルの社会には恐怖と猜疑の空気が充満した。
この様な歴史事実は、その後の何十年間にもわたりモンゴルと日本の国民の間に相互不信と対立の空気を残す事に為った。その結果、両国間の友好関係や協力関係の発展の可能性が長きにわたり阻害された。満洲国の成立により、モンゴルとモンゴルに於ける民族問題は東アジアの国際関係史の上で新たな意義を帯びる事に為り、日ソ間の外交関係の展開に取り極めて重大な意義を持つように為った。
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1921年にモンゴルで勃発した人民革命の後、コミンテルンからの指示がモンゴル人民革命党の政策決定に大きな影響を与えて居た。そして満洲事変の後では、モンゴル関係のあらゆる政策決定がスターリンの直接指示の下に置かれる事に為った。
1934年頃からは日満軍が満州国とモンゴルの国境地帯に盛んに出没する様に為り、モンゴル軍との間に国境衝突事件が頻発した。この様な状況下に、満洲国に於ける日本軍の動向をソ連侵攻の準備と考えたソ連は、満洲国とソ連の国境線の防衛を強化すると同時に満洲国に接するモンゴルの軍事力の強化に務めた。
その結果、モンゴルに対するソ連の政治・軍事面での影響力が一層強化された。一方で日本側も、モンゴルへのソ連の影響力の拡大は、日本が計画する満洲・内 モンゴルへの勢力拡大に重大な影響を与えるものと見做し、ソ連への警戒心を増大させた。
対ソ戦争に備える軍隊と言われた関東軍に取って、モンゴルはソ連に対する軍事行動に影響する戦略上の緩衝地帯であり、関東軍はモンゴル問題を重要視せざるを得無かった。
1935年1月に満州国とモンゴルの国境で発生したハルハ廟事件を切っ掛けに、モンゴル人民共和国と満洲国との国境紛争が頻発する様に為った。
ソ連政府は、1935年以来のモンゴル軍と日満軍との度重なる衝突を日本軍による対ソ攻撃の脅威と認識し、モンゴルに軍事基地を確保する必要性を確信した。そして日本軍の行動を抑止する為に、モンゴルとの協力関係を一段と固め、モンゴルの軍事力の増強に本格的に取り組む様に為った。
日本ではノモンハン事件は、モンゴルと満洲国との国境線が不明確な事により惹起されたと理解されて居る。しかし境界線画定の歴史的過程を詳しく検討してみれば、国境線は寧ろ明確だった事が明らかに為る。
ノモンハン事件当時の国境線は、1794年に既に清国のモンゴル分断統治政策によって画定されて居たのである。清国によって画定された外モンゴルと内モンゴルのバルガ族地方との間の境界線は、国境線と言うよりも清国統治下のモンゴルの2地域の境界線・・・詰まり清国の国内的行政境界であった。
処が、この境界線が後に、1911年のモンゴルの独立と1932年の満洲国の樹立に伴って、自動的に当時のモンゴル人民共和国と満洲国との国境線に変わってしまったのである。
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1. 日本に取ってのモンゴルの立場
ロシア(ソビエト)の文献では「ハルハ河の戦争」日本と欧米の研究では「ノモンハン事件」として知られて居る72年前の軍事衝突は、日ソ関係と云う枠を抜きにしては語れ無い。
この軍事衝突に関しては、回想録を含めて軍事作戦の経過や更には個々の戦闘局面を述べた夥しい文献が存在する。しかし筆者が最も関心を抱くのは、日ソ間に敵対関係が出現して来る経緯であり、この経緯がソ連やロシアの学術文献においてどの様に説明されて居るかである。
1931年の所謂満州事変迄は、日ソ関係は1925年に北京で結ばれた「日ソ」基本条約を 基礎に推移して居り安定した状態にあった。この事実はソ連の新聞や学術文献に反映されて居る。当時、日本は強力な帝国主義国家と見なされて居たが、仮想敵国では無くライバルでも無かった。
1931年9月18日の満洲事変の後、ソ連の出版物の中には変化が出現する。例えば、マンジュー(満洲)を巡る日米対立と日米両国の衝突が原因で新しい世界戦争が勃発する等と言う言説が現れる。そしてソ連の研究者達は、日米対立と云う状況下で米ソが接近する状況を想定して居た。
この様な想定の背景には、1933年にF.D. ルーズベルト政権がソ連を承認した事実があったと思われる。 満洲事変以後ソ連の新聞や雑誌や学術文献では、日本を攻撃的なファシスト国家であると見なすイデオロギー的キャンペーンが始まった。
この種の古典的著作として、E.ヨガンとO. ターニン の手になる『日本における軍事ファシスト運動』(モスクワ1933年)や『日本が戦うとき』(モスク ワ1936年)がある。これ等の著作を筆頭に当時の著作の中で日本外交の反ソ攻撃性が強調され始めた。
そして、やがて反日本のキャンペーンが(反独キャンペーンと同様に)1935年の第7回コミンテルン大会での反ファシズム統一戦線の決定と連動して最高潮に達した。そしてこの事実が日独両国の接近と、1936年に両国が締結した「反コミンテルン条約」(日独防共協定)の締結に影響を与えて居た。
日中戦争が開始された後、続いて発生したハサン湖(張鼓峰)とハルハ河での軍事衝突により、日本軍の軍事力分析や日本軍の軍事作戦の研究等が続々と出現し始めた。
しかし、ハサン湖とハルハ河の衝突が論評される際、当初はソ連の刊行物の中では、日本が世界制覇の野望実現に着手したと見做す記事は全く存在し無かった。しかしこの後、日本が大規模な膨張計画を準備しソ連とモンゴル人民共和国への圧力は、この計画の小手調べであると批判する論調が出現する。そしてこの論調はやがて戦後のソ連での研究の基本に据えられる。
その際、根拠として常に引かれるのが悪名高い「田中メモランダム」であった。そして「田中メモランダム」に関しては、満州事変当時のソ連の研究に於いてもそれが本物である事を疑う者は誰も居なかったのである。
日本は、満洲国内での関東軍の兵員と武器を増強し、モンゴルの国境方面に向かう道路と鉄道を敷設し、航空基地と軍事要塞を建設して居た。
1931年の日本軍による満洲占領に対し、モンゴル人民共和国政府は東北国境に危機が生じたと考え、以下の様な政策を打ち出した。
即ち、モンゴル人民共和国は満洲国と出来得る限り平和的交渉を行い、国境での武力衝突を避けるである。
1931年には、モンゴル人民革命党の中央委員会が開催され、更にモンゴル人民共和国の政府機関の諸会議が開かれて以下の方針が決定された。
即ち、満洲国内の状態を注視する事、祖国の防衛に力を注ぐ事、平和維持の方針を採用する政令をモンゴル国民に対し公布するである。
そしてモンゴル政府から公布された平和維持の政令を実効あるものにする為、モンゴル人民革命軍司令官により、国境地帯での射撃が禁止された。 この他国の安全を確保する為に、政治、経済、軍事等あらゆる面にわたり種々の規則が作成され実施される事に為った。
例えば、1933年12月1日の会議では満州国と日本側からの 「我が国に対する攻撃準備が行われて居り危機が差し迫って居る」との判断の下に「国家防衛委員会」の設立が決定された。
1934年には「国家防衛委員会」の下での軍の再編成が行われた。日本側の資料によれば、関東軍は1933年からハルハ河とボイル湖周辺に於いて、満洲国の国境を画定する為に土地測量を行って居た。1934年には、東京の国土計画局からハイラルに人員が派遣され、8ヶ月間滞在して国境周辺の地図を作成した。この時日本側の測量隊は、ハルハ河を渡ってモンゴル人民共和国の国境警備隊に会い、友好的な雰囲気の下でタバコを交換して居たと云う。
1934年に行われた日本側の調査によれば、ハルハ河の満洲側(右岸)には10〜15キロ毎にオボーがあり、現地の遊牧民達も、ハルハ河より東方の陸地部分が国境線と為って居る事を日本側に伝えて居た。
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しかし東京ではこの調査の結果に基づき、ハルハ河そのものを満洲国の国境とする事を決定した。 秦郁彦氏は「満洲とソ連、或いは満洲とモンゴルの国境一帯は、一面には森林があり一面には砂漠が広がる地帯である。ロシア帝国と清朝の間に結ばれた国境を画定する条約の内容は曖昧で、国境線の不明確な場所が多く存在した 。そして1930年代の中頃から、日本軍の司令官や関東軍が満洲とモンゴルの国境線を恣意的に動かした事により、国境紛争が相次ぐように為った」と 述べて居る。
1935年1月24日にハルハ廟を警備して居たモンゴル軍に対して、国境侵犯を理由に満洲軍部隊が攻撃を加え両軍に大きな被害が出た。この衝突の際、両国政府は互い公式発表を行った。
1935年1月26日にモンゴル人民共和国の首相兼外務大臣P. ゲンデンが提出した文書には、以下の様に述 べられて居る。
「モンゴル人民共和国の国境警備隊が、1月24日午後1時にモンゴル人民共和国の国境を2キロ程侵犯して居る満洲国軍17名を発見した。部隊長のドンドフが交渉に赴いたが射撃され戦死した。これを切っ掛けに両軍は交戦状態に入り、互いに大きな被害を蒙った。
モンゴル人民共和国政府は、代表団を至急現地に派遣する事を決定した。ハルハ廟は歴史的にみて何百年も間モンゴルの国土であったし、1921年からはこの地にモンゴル国境警備隊の哨所も設置されてい た」
この声明に対して、満洲国の国防大臣は2月1日にモンゴル政府に公文書を送り、国境画定の交渉を行う為の場所と日時を指定する様要請した。モンゴル政府は2月5日に回答したが、ソ連内のウラーン・ウデを交渉の場所とし交渉の仲裁者としてソ連の代表を参加させる事を求めた。
この後、交渉場所、開催日時、代表団の選出等について意見が交換された後、交渉会議は 1935年5月末に開催する事が決定された。
1935年5月30日にモンゴル人民共和国の代表団8名が、シベリア鉄道と中国側の中東鉄路の連結地点である満洲里駅に到着した。満洲国からの代表団は12名だった。この満洲里駅に行われたモンゴル人民共和国と満洲国の代表との会議をソ連は最初から注視して居り、会議での全ての情報を取り寄せて居た。
1935年頃から、極東に於けるソ連軍の国境防備力の充実と、これに対する日本と満洲国軍の国境警備力の増強に伴い、ソ連と満洲国の国境地帯での緊張が次第に高まり、国境線の各地において紛争事件が頻発する様に為る。
2.ノモンハン事件=ハルハ河戦争に付いての研究の経過
ノモンハン事件(ハルハ河戦争)は、20世紀前半の東北アジア地域諸国の歴史のみ為らず当時の世界情勢に重大な影響を与えた出来事の1つである。それ故、ノモンハン事件を巡る多くの問題について、歴史的教訓を引き出すと云う課題が依然として存在する。
1939(昭和14)年のノモンハン事件 は今から半世紀前の出来事である。この戦争については、日本、モンゴル、ロシア、 中国等の関係各国の間で様々な戦記、回想録、研究書などが刊行されて来たが、ノモンハ ン事件を巡る国際シンポジウムは、最近に為るまで行われる事は無かった。
ノモンハン事件の停戦直後から、この戦争の経緯と意味を研究する活動が始まった。1940年の第 10回モンゴル人民革命党総会は、ハルハ河戦争の歴史的役割について「ハルハ河に於いてモンゴ ル・ソ連両国の連合軍により日本軍を壊滅させた事は、モンゴル・ソ連両国に永久的な独立を齎し両国関係の枠組みを確立した」と評価した。
換言すれば、モンゴル国の政府と国民は、ハルハ河戦争の勝利をモンゴル国の自由と独立を国際的に確立させた重要な出来事であると評価して居るのである。そしてこの評価は今日も変って居ない。
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ノモンハン事件の研究を国際的に行う必要を感じ、初めて実行に移したのはモンゴルであった。「ハルハ河戦争」の停戦50周年を記念して、1989年の6月22日から24日迄、モンゴル科学アカデミー、モンゴル人民革命党委員会所属社会研究所、モンゴル人民革命党内党大学、国防省戦史研究所の共催により、「ハルハ河戦争の今日的諸問題」と云う国際シンポジウムがウランバートルで開かれた。
更に同年の8月中旬には、第2回目の国際シンポジウムとして「ハルハ河の教訓と現代」と題する円卓会議がモスクワで開かれた。 この様な研究動向は日本にも波及した。その結果、1991年5月22日〜23日に、東京で「ノモンハン・ハルハ河戦争国際シンポジウム」が開かれた。これは、ウランバートル、モスクワに続く第3回目の国際シンポジウムであり、日本、ロシア、モンゴルからの出席者の他、長年にわたりノモンハンでの戦争を研究して来たアメリカの研究者も出席した。
このシンポジウムの全記録は 『ノモンハン・ハルハ河戦争・国際学術シンポジウム全記録:1991年東京』と云うタイトルで1992 年に原書房から刊行されている。
その後、1994年8月上旬に再びウランバートルで「ハルハ河戦争その歴史的真実の探究」という第4回目の国際シンポジウムが開かれた 。 各国での研究状況について言うと、モンゴルでは、ハルハ河戦争の歴史を叙述した数多くの著作が刊行されて来た。
しかし、ハルハ河戦争の後出現した閉鎖的な政治状況に制約され、その研究 は限定された範囲に留まり、屡々政治イデオロギーの為の道具にさえ為って来た。この様な状況の下でモンゴルの人々は、最近に為るまで、研究書に書かれて居る事が歴史的事実であると信じて疑わ無かった。
同様にソ連でも、ハルハ河戦争の研究は行われて来たが、定期的に巡り来るハルハ河戦争記念の式典を盛り上げる為だけの目的で、ハルハ河戦争の勝利や成果を誇張する著作が数多く出版されて居た。
日本では、ノモンハン事件(ハルハ河戦争)について幾つもの書籍や回想録が出版され 、数多くの事柄が語られて来た 。 以上の様な研究状況を克服する為の新しい動きは、1980年代の末から出現し始めたが、モンゴル、ロシア、日本の研究者による合同会議が新しい動きの中心と為った。
モンゴル、ロシア、日本からは、歴史研究者、軍事専門家、更には大使館の職員達も参加して新しいシンポジウムが開催された。その結果、ハルハ河戦争の歴史研究に新時代が始まり、歴史的事実を多方面の資料に照らして、種々の側面から研究し真実を掘り起こす条件が整えられた。
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モンゴル、ロシア、日本を中心とする合同会議では、新史料が公開され、かつては顧みられ無かった関連する諸問題が討議された。更に、個別具体的な問題についての関係者からの発言や、合同研究のプラス面とマイナス面の検証、事実に立脚する必要性の確認等、重要な成果が齎された。
学問的成果と同時に、政治の領域でも非常に重要な意義を持つ事に為った。即ち、この様な合同会議は、敵対した双方の国民の心理に残る蟠りを克服し、新たな交流と地域の平和と安全の維持に、大きく影響を与えるからである。
この様な見地から、第1回目の合同会議 で三木秀雄氏は「ノモンハン事件の深く詳細な研究の結果として、最終的には恒久平和が実現されるものと確信する 」と表明した。
更に東京でのシンポジウムでの報告で、田中克彦氏は「戦争の研究は夫々の国民の相互理解に影響を与える」と強調した。 様々な新資料が、中でも参戦当事国の諜報活動、戦争準備や指揮系統の問題に関する秘密報告が明るみに出され、歴史の客観化に重要な成果を齎した。
新しい研究が開始された後、ハルハ河戦争の歴史に関する重要な問題として人々の注目を集めたのは、モンゴルと満洲国との交渉史である。そして、この問題に関する種々の見解が出現した。
例えば「モンゴル人民共和国と満洲国には戦争をする気は無かった」と云うものや、ソ連と日本がモンゴル・満洲の間に開催された国境紛争解決会議「満洲里会議」の交渉によって合意に達する事が出来なかった事が彼等を敵対に至らせたと云う意見もある。
新しい研究上の重要な成果は、従来は研究対象にされ無かった幾つかの戦闘に関して(特に1939 年の9月の戦闘について)新事実が発掘された事である。1991年にモンゴルの研究者であるCh.プレブドルジがこの問題を取り上げて以来、D. ゴンボスレンが「ヌムルグ戦再論」、秦郁彦が「ドロトノール付近における宮沢連隊」と云う報告を書き上げこの問題を詳細に論じた。
新たに開始された研究として、1930年代のモンゴルの社会心理状態や軍民関係に関する研究がある。この研究により従来は好く知られて居なかった事柄が数多く解明された。
例えばハルハ河戦争に際して前線支援運動が展開され、モンゴル軍とソ連軍の兵士等に対する物心両面からの支援が行われた事、更には兵士達の家族への扶助など多岐にわたる方策が講じられた事が明らかに為った。
更にこの様な活動が、第2次世界大戦やソ連の大祖国戦争の時期に引き継がれた事も明らかになり、研究の幅を広げて居る 。
モンゴルの研究者達は、ハルハ河戦争がモンゴルとソ連における兵器や戦術の発展に大きな影響を与えたと考えて居る。そして既に一定の研究成果を挙げている。研究によれば、ハルハ河戦争での経験に基づき、モンゴルとソ連の軍隊は、1940年代に為り戦闘規約の改定を行い戦闘部隊の構成を変え武器を刷新したのである。
ハルハ河戦争は、世界史的レベルでの戦術の発展に対しても影響を及ぼした。この戦争に於いて初めて戦車部隊が単独で敵の防衛陣地を襲撃して効果を発揮したのである。この戦法は第2次世界大戦で活用された。
又ハルハ河戦争では、それ迄に無かった様な大規模な空中戦が行われた。そして、ソ連の伝説的英雄であるG.K ジューコフ将軍が登場し、ハルハ河戦争での豊富な経験と知識をその後の祖国防衛戦争において有効に活用し第2次世界大戦の勝利に大きく貢献した。
モンゴル国民は、ジューコフ将軍の業績を今でも褒め称えて居る。 最近では、モンゴルや外国の研究者の中に、ハルハ河戦争を第2次世界大戦の歴史と結びつけて研究すべきであると考える人々が現れている。
即ちハルハ河戦争は、第2次大戦の発端であったと云うのである。これ等の研究者達は、ハルハ河戦争は、ソ連とドイツ間に「独ソ不可侵条約」を成立させ、日本とソ連の間には「日ソ中立条約」を成立させ、これによりソ連を東西の2つの戦場で同時に戦わなければなら無い危険から救い出し、又日本の戦略を変化させる事により、第 2次大戦の開始とその結果に大きな影響を与えたと考えて居る。
将来において、ハルハ河戦争の歴史を第2次世界大戦の範疇の中で考察する視点が、研究の中心に据えられるであろう。これも又、ハルハ河戦争の研究に出現した新しい傾向の一つである。
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以上の通り、ノモンハン事件に関する研究は、従来の国毎で行われて居た研究から国際化に向けて大きく前進して居る。そして、新しい情報や資料の公開により多くの事実が次第に明らかに為って来て居る。
しかし、ノモンハン事件の全貌が解明されたとは言い難く、未確定の事実や研究上の見解の相違も少なく無い。 例えば、日本には「関東軍単独説」と云う見解がある。日本でのノモンハン事件研究や回想録で熱心に語られるのは、東京の参謀本部と関東軍との対立であり戦術レベルでの両者の不調和である。
その結果、ノモンハン事件は「参謀本部と関東軍との対立」の結果であり、関東軍の「爆走」 により独断専行的に行われたと云う事に為る。
この様な「関東軍単独説」は、1991年の東京シンポジウムにおける、秦郁彦氏の総括の中でも言及されて居る。秦氏によれば、日本の軍隊では関東軍の様な出先部隊による独断行動が目立って居たのであり、ノモンハン事件はその典型であった。
大本営はノモンハン事件の勃発当初は、単なる国境紛争と判断して関東軍に処理を委ねて居たが、戦闘が拡大するに連れて押さえ込もうとして居た。処が関東軍はそれを振り切って暴走したのである。そしてその中心人物は、辻政信少佐と云う特異な人物であったと。
かくして日本の研究では、ノモンハン事件は関東軍が単独で起こしたのであり、東京の軍中央部はその抑制に苦労したと云うのが従来からの通説である。 しかしこの様な「関東軍単独説」は、モンゴルや旧ソ連では従来から反論の的であった。
1989 年のモスクワ円卓会議では、高々少佐でしか無い辻政信個人がどうして戦局全体に影響力を持ち得るかと云う反論が提示され、近代国家の軍隊では決して有り得無い事だと批判された 。そして1991年の東京シンポジウムでもより具体的な反論が提出された。
3.日本側の方針「満ソ国境紛争処理要綱」
日本のハルハ河戦争での敗北は日本の政治と軍事に大きな打撃を与えた。その結果、戦略が変更され北方に向かう侵略を諦めて「北から南へ」と方向が転換された。ハルハ河戦争の敗戦とソ連とドイツの間で締結された「独ソ不可侵条約」により、日本の首脳部は外交政策と戦略を変化させざるを得ない状況に陥った。
1939年5月11日、満洲西北部のノモンハン付近で、ハルハ河東部の国境警備に当たって居たモンゴル軍警備隊に対して、不法越境をして居ると見做した満洲国軍警備隊が攻撃を加えた事を切っ掛けに、ノモンハン事件が勃発した。
この国境衝突事件を重く見たソ連指導部は、1939年5月24日にはジューコフ元帥をモンゴルに派遣し、モンゴルに駐屯するソ連軍の指揮を執らせた。1939年7 月に為り、ソ連軍とモンゴル軍は統一の指揮下に置かれ、連合軍の総司令官にジューコフが任命された。
1939年5月から9月に掛けて、ソ連・モンゴルの連合軍と日満軍との間で行われた激戦に於いて、日本軍に発生した損失は、戦死者だけで18000名に上った。ロシア国防省公史料館に保存されているノモンハン事件に於ける日本軍の損失に関する統計資料によると、日満軍の戦死者18155名、負傷及び行方不明3534名で、死傷者と行方不明者、捕虜等を合わせ総計は約48649名と為る 。
ソ連軍の死傷者の数は、ソ連崩壊以前には9.284名とされて居たが、新たに公開されたアルヒーフ史料を駆使して居るロシアの歴史家達による共同研究『20世紀の戦争に於けるロシア・ソ連統計的分析』では、ソ連軍の戦死者9703名、負傷者及び戦病者15952名、捕虜等を合わせて全損失は 約25655名 27)に上って居る 。
モンゴル軍については、民主化以前には戦死165名、負傷者401 名とされていたが、最新の統計資料によれば、死傷者は全部で990名と為って居る。
ノモンハン事件の勃発と拡大の原因は、関東軍が独自に作成して居た「満ソ国境紛争処理要綱」にあった。この要綱は、国境紛争を処理する基本方針として前線の各部隊に発令され、国境紛争が局地戦争に発展してしまう原因と為った。
谷口勝久は、関東軍の辻政信参謀が起案したこの「要綱」を 「関東軍の国境紛争のバイブル」と呼んで居る 。『日本外交史』第二巻は、「要綱」は「まるで国境紛争を奨励して居る様なものであった」と論じ、大江乃夫も「まるで国境紛争の奨励要綱である」と述べて居る 。
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以上の様にこれ迄の研究では「要綱」の起案者であった関東軍参謀部 第一課の作戦参謀である辻少佐が、ノモンハン事件の引き金を引いた張本人とされている。
辻政信は、関東軍の最強硬派として知られ、東京の参謀本部の『侵されても侵さない』と云う態度では、複雑怪奇な国境紛争は解決され無いと考え『侵さず侵されず』と云う方針に基づいて、実力で国境紛争を解決する事を強く主張していた 。
辻政信のソ連・モンゴルに対する強硬な態度は、国境紛争に関する関東軍の方針に少なからず影響を与えたと思われる。 但し、辻にノモンハン事件を引き起こす程の権限があったかどうかには疑問の余地がある。関東軍の少佐に過ぎ無い参謀の辻政信が、ノモンハン事件の原動力と為る為には、軍中央の指示或いは黙認が必要だったと思われる。この点について、以下で詳しく論じて行きたい。
1939年4月 関東軍参謀の辻政信少佐は関東軍参謀部の指示を受け、国境紛争処理方針である 「満ソ国境紛争処理要綱」を作成した。4月25日には、関東軍司令官の植田謙吉大将が、司令部で行われた恒例の師団長会合の際に、第一線の師団長達にこの要綱を関東軍作戦命令第1488として発令してその徹底を図った。
この要綱は「侵さず侵されず」を基調として作成されて居り、関東軍のソ連・モンゴル軍との全面的対決の姿勢を強く打ち出して居た。その結果「満『ソ』国境ニ於ケル」『ソ』軍(外蒙軍ヲ含ム) ノ不法行為ニ対シテハ周到ナル準備ノ下ニ徹底的ニ之ヲ膺懲シ『ソ』軍を慴伏セシメ其ノ野望ヲ初 動ニ於テ封殺破摧ス 」と云う中央とは異なる方針を掲げて居た。
この要綱の中で、ノモンハン事件の際に関東軍が紛争に介入する根拠としたのは、次の箇所である。
1、要領第3項中の「之ヲ急襲殲滅ス右目的ヲ達成スル為一時的ニ「ソ」兵ヲ満領内ニ誘致、滞留セ シムルコトヲ得」と云う箇所
2、要領隊4項中の「国境線明確ナラザル地域ニ於テハ防衛司令官ニ於テ自主的ニ国境線ヲ認定シテ之ヲ第一線部隊ニ明示シ」と云う箇所
3、要領第7項中の「断乎トシテ積極果敢ニ行動シ其ノ結果派生スベキ事態ノ収拾処理ニ関シテハ上級司令部ニ信倚シ意ヲ安ジテ唯第一線現場ニ於ケル必勝ニ専任シ万全ヲ期ス 」と云う箇所
この要綱の目的が、ソ連、モンゴル軍の不法越境行為を徹底的に「膺懲」するものである事から考えると、この要綱が発動される前提条件は、ソ連、モンゴル軍が越境したかどうかを判断する為の基準と為る国境線が確定されて居る事である。
国境問題が発生した後の国境に関する日満側の一貫した主張から見ると、日満に取って満州国とモンゴルの国境線はハルハ河の線である。しかし、ノモンハン事件当時の陸軍省人事局補任課長であった額田坦の『陸軍省人事局長の回想』を見ると、陸軍側と関東軍側の間で、どちらがハルハ河を国境線として認定したかを巡り、主張が食い違って居る。『陸軍省人事局長の回想』には、国境の認定に関する陸軍側と関東軍側の見解が次の様に記されて居る。
『昭和14年初め、“磯谷廉介・関東軍参謀長”上京の節、人事の打ち合わせもあり、過つては昔の古巣の補任課長室なので、中将は気軽に種々語られたが、その節、特に「侵サズ、侵サレズ」の原則に基づく国境紛争処理要綱と「ハルハ河を国境トスルコト」を今度中央で認められたと明言されて居た。この事は、ノモンハン事件の発端から最後迄に甚大な影響を及ぼした事は明らかである。
戦後著者は、巣鴨で種々過去を回想して、重要事件の当時者のお話を承って居たが、その時のソ満国境の件が何とも不可解であり、改めて磯谷中将に書簡をもって伺った。すると、次の様な鉛筆書を頂いた。「此付近ノ国境ハ陸軍大臣ヨリ関東軍ニハルハ河ナルコトヲ明示セラレアリ、従ッテ、関東軍トシテハ関係ナシ」この度本起案に当たり、改めて当時の稲田作戦課長に対し上記国境の件を質すと「大本営からは関東軍に対し、国境を明示した事は無い。関東軍に任せて居た」との事である 』
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これを見ると、関東軍は、国境線を明示し無いと云う中央の方針に反して、独断でハルハ河を国境線と認定し、国境紛争に対して強硬な態度を取って居た様に思われる。
しかし、6月3日に陸軍 省軍務局長が関東軍参謀長に送った電報879号には「交渉間 必然的ニ国境問題ニ言及スルノ已ムオ得サル場合生スルニ至ヘク其際ハ従前満洲里会議等ノ経緯モアリ国境線トシテハルハ河ノ線ヲ主張セサルヲ得サルニ付此ノ点御諒承アリ度」と述べられて居り、更に同日中に、参謀本部の総務部長から関東軍に打電された参電590号では「外交折衝上必要アル時ハ「ハルハ」河ノ線ヲ以テ国境ト主張スルコト従来ノ通リナル旨6月3日発軍務電879ニテ軍宛通報セラレタルモ軍ノ作戦行動ニ弾力性ヲ有スルコト勿論ニシテ之カ為何等作戦ヲ拘束スルモノニアラサルナリ 」と敷衍(ふえん)されて居る。
これは牛島が主張する様に「外交上の折衝で必要な場合はハルハ河であると云う事は、国境をハルハ河であると云う事を正確に意味するものでは無い」と見做す事も出来る。
しかし 陸軍の中央が、日満側がモンゴル側に対してハルハ河が国境線である事を正式に明言した「満洲里会議」に言及しつつ関東軍に対して国境線をハルハ河と主張する様促して居る事は、参謀本部が国境をハルハ河と正式に認定して居た事に為ると思われる。
関東軍 辻参謀
参謀本部は、満洲とモンゴルの国境線として、ハルハ河を主張する様関東軍に指示して居た。この為、関東軍は最後迄国境線をハルハ河として認定し、ソ連・モンゴル軍と国境線を巡って対立し続けたと言え様。
この様に、辻参謀の起案した「要綱」を中央が承認したものだと理解して関東軍が行動した背景には「要綱」に対する参謀本部の黙認或いは同意的態度が存在したのである。 日本の研究者達は、ソ連側と日本側の政策及び両者間の利害衝突を分析する他、関東軍指導部の見解と国境線の問題、関東軍部隊の具体的な戦闘活動、関係者達の回想録等について活発な研究活動を行って居る。
これ等の研究は、1990年代以降に質的な向上を遂げたハルハ河戦争史研究の成果である。 研究者間で、見解の相違の存在する問題も少なく無く、ハルハ河での出来事への観点は依然として食い違って居る。
ロシアの研究者達は、ハルハ河での「戦闘」或いは「衝突」と見為して居るのに対し、日本側では通常は「ノモンハン事件、ノモンハン紛争」と位置づけられて居る。田中教授や二木氏等の研究では、戦争と書かれても居る。 しかし、特筆すべき共通点もある。それは、モンゴル、ロシア、日本の研究者達が、ハルハ河戦争を当時の国際関係と云う構造の中に位置付け、同時代の世界レベルや地域レベルで起きて居た種々の出来事と密接に結びつけ乍ら分析を進めて居る点である。
地域レベルに於いては、ソ連と日本の政策に関する研究が進められ、日中戦争の問題や、モンゴル・満洲間の国境交渉等の実態の研究が進められて居る。そしてこれ等を背景に据えて、ハルハ河戦争の原因が分析されるのである。この様な研究動向を総括して、モンゴルの研究者R.ガワーは次の様に述べている。
「ハルハ河戦争は、地域的な性格の小さな出来事では無く、異なる社会・政治機構を持つ複数の国の軍事力が関与した戦争である 」と。
一方では、日本の下河辺宏満氏も「ノモンハン事件は事実上、戦争であった 」と述べて居る。 研究者達は、敵対した双方の利害と目的を、個別具体的に検討しこの結果に基づいてハルハ河戦争に関する夫々の見解を公表して居る。
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4.モンゴル側の見解
ハルハ河戦争(ノモンハン事件)は、モンゴル国の歴史に深い痕跡を留めて居り、20世紀のモンゴルの軍事史において特別な地位を占める歴史的出来事である。この戦争には、モンゴル人民革命軍の第5,6,8騎兵師団、空軍部隊、工兵隊、国境警備部隊及び医療隊の8,575名の将兵達が参戦した。
即ち、モンゴル人民革命軍の総軍事力の半分以上が祖国の自由と独立を守る戦争を、ソ 連軍と共に戦ったのである。
1930年代の半ばから、日本軍と満洲軍はモンゴル国への領土侵犯を開始した。この侵犯は次第に拡大し、1939年5月11日には、迫撃砲や機関銃で武装した日本、満洲軍の200人内外の兵士達が、ノモンハン・ブルド・オボーと云う地点からモンゴル人民共和国の領土内に侵攻した。
モンゴルの研究者達は、この日をハルハ河戦争の開始日と見做して居る。この戦争は4ヶ月余り続き、 1939年9月16日にモスクワで行われたソ連と日本の両国間の停戦協定により停戦した。
近年のハルハ河戦争史研究では、この時期にモンゴル内で発生した粛清の問題に注意が向けられる様に為り、この粛清による悪影響がモンゴル人民革命軍の戦闘能力や指揮のレベルの上にどの様に反映されて居るかが分析されるように為った。
モンゴルの歴史研究にも新しい傾向が出現して居る。即ち、歴史記述の上で、国境や領土の問題が重要な位置を占める様に為り、国境紛争の根拠と為った戦場に於ける地域の地名、国境線の地名の解釈に注目が集まる様に為った。軍や国境問題に関する研究が進めれる事により、日本軍や満洲国側からの挑発や諜報活動の実態、更にはハルハ河戦争の初期に於いてモンゴルの国境警備兵等の果たした役割が明らかに為りつつある 。
これらの研究の結果を総括すると、1935 年から始まった国境地帯での挑発は、当初から段階的に拡大させる計画の下に実行され、日本・満洲国による軍事攻撃と云う方向性を明確に持って居たと云う事である。
過つては殆ど研究され無かった幾つかの問題も明らかにされて居る。特に、ハルハ河戦争の初期に於けるソ連軍とモンゴル軍の人員配置又は両国軍戦闘能力が弱体化し兵器や人員も疲弊して居たので、侵攻した敵に総攻撃を加える等の大規模作戦を実行出来無かった事、ソ連側からの指導の実態等、数多くの問題が新たに公開された資料に基づいて明らかにされて居る。
そしてこれにより、過つての定説を覆し歴史的事実を客観的に評価する条件が形成されつつある 。 研究の深化に伴い、幾つもの問題に付いて見直しが迫られて居る。
その一例は、ハルハ 河戦争の開戦日である。従来は、ハルハ河戦争は1939年5月11日に迫撃砲と軽機関銃で武装した 約200人の日本・満洲国軍が国境を侵犯した事により開始されたと、見做されて来た。しかしこれに付いては、軍事史研究家のS. ガンボルドが別の意見を発表して居る。
即ち、1939年5 月28日にハイラーステーン河付近でモンゴル人民革命軍第6騎兵師団及びソ連赤軍部隊が日本の歩兵23師団歩兵第64連隊長の山縣大佐が指揮する日本・満洲国合同軍と交戦した日をハルハ河戦 争の開戦日と見做す見解である 。
ハルハ河戦争の開戦日は1939年5月11日であったと云う定説を見直す必要が生じて居るのである。 1940年代から1980年代末迄の間に、モンゴルではハルハ河戦争の歴史が多方面から研究され一定の研究業績が蓄積されて来た。
この時期の研究の特徴は、ハルハ河戦争が勃発した原因をモンゴルとソ連に対する日本の侵略政策の青写真である「田中メモランダム」と結び着けて解釈す る事であった。即ち日本の侵略者は「田中メモランダム」に示された計画に基づき、モンゴル人民共和国を占領して対ソ連戦争の基地を確立する為にハルハ河戦争を引き起こしたのだと云う訳である。
それ故この時期の研究の特色は、ハルハ河戦争でのモンゴル軍とソ連軍の功績を誇張して賞賛し、日本軍は全体として軟弱であったかの様に評価されて来た。
この時期のハルハ河戦争史研究は、マルクス・レーニン主義のイデオロギーに制約され、歴史事象を一方的な見地からしか分析出来なかったのである。モンゴルの研究者達も、ハルハ河で起こった出来事を当初は「戦闘」と捉えて居たが、研究が進むに連れて1960年代末からは「戦争」と呼び始めた。そして現在では、モンゴル研究者達 は、ハルハ河の出来事はモンゴル人民共和国に取っての「戦争であった」と云う見解で一致している。
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ハルハ河戦争の研究の為には、ソ連、モンゴル、日本を初めとする当時者間の、更なる国際的協力が必要である。これについては、これ迄の国際会議の度毎に計画が提案されて居るが、実現には到っていない。
例えば、ハルハ河戦争の歴史を共同執筆する事、3ヶ国の文書資料を網羅する資料集の編纂、当事者達の回想録を複数の言語で出版する等である。
しかしこれ等 の計画は、今の処実現して居ない。 モンゴル側の歴史に関して言えば、この時期の政治プロパガンダの問題、戦争開始後のモンゴル人民革命軍の後方からの食糧供給や、前線に於ける文化教育活動等の実態は今後の重要な研究課題 として残されて居る。 モンゴルの研究者達は「ハルハ河の出来事」を“ハルハ河戦争”と見做して居るが、その根拠と為って居る幾つかの事実を、主要な三点に絞って簡潔に述べて置きたい。
まず第一に、交戦国双方の歩兵兵力・騎兵兵力・損害の程度・交戦期間に関してである。これらに関する実態は、ハルハ河での出来事が正しく大規模な戦争であった事を裏付けて居る。この戦争は、比較的狭い地域の中で行われたが、双方から13万人余りの兵力と1,000台余りの戦車及び装甲車更に800機の戦闘機が参加して4ヶ月余りに渉って戦われた。
交戦国双方の人的損害の総額はおよそ65000人で、その内、取り返しのつか無い損害(死者数) は約27000人と為って居る。これ等の数字は、ハルハ河での出来事が小規模な戦闘では無く増してや「事件」等では無く、大規模な戦争であった事を証明している。
次に、戦争期間中にモンゴル人民共和国は国家予算の約45%、詰まり4億4340万トゥグルグを国防費に当てた。この他、工場や企業そして遊牧民や労働者達が前線を後方から支援し国民生活は戦時状態に陥った。
又軍隊に12000人余りの人々が動員され、モンゴル人民革命軍の総勢力の大半がハルハ河戦争に参加したのである。そしてモンゴル人民革命軍では、895人が戦死、負傷、行方不明と為った内、全損害の26,5%詰まり237人が戦死者となった 。
この他1946年から1948年に掛けて東京で行われた極東国際軍事裁判では、ハルハ河の出来事は「日本側が事前に計画を立てて準備した、モンゴル人民共和国とソビエト連邦に対する侵略戦争である」と位置づけられた。
以上の史実と根拠に基づいて、モンゴルの研究者と国民は、1939年にハルハ河で起こった出来事を「戦争」と位置づけて居る。事実として、ハルハ河での出来事はソ連と日本の勢力がモンゴル国の東部国境で衝突した局地的な武力紛争では無かった。
それは、ソ連とモンゴル人民共和国の連合軍が、日本と満洲国の連合軍と戦った4カ国が参戦する大戦争であった。 既に述べた通り、モンゴル国に取ってこの戦争の勝利は、モンゴルの自由と独立を強固にし国際的な地位を確立した事を意味する。
従って、モンゴル国の政府と国民は、ハルハ河戦争の勝利を歴史的に高く評価し毎年この勝利を盛大に祝う事が伝統と為って居る。 そしてソ連に取っては、自国の軍事力を世界的に誇示しただけでは無く、日本軍を壊滅させた事によりドイツと日本に対する両面戦争の危険を回避し、ドイツに対して総力を挙げて戦う事が可能に為ったのである。
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ソ連と日本の間で締結された「日ソ中立条約」はドイツに対する総力戦の可能性をより確実にしたが、日本がハルハ河で敗北し無ければソ連との間に中立条約を結ば無かったのは明白である。ハルハ河戦争での戦術に対して、モンゴルやロシアの研究者が大きな注意を払う様に為った結果、ハルハ河戦争が世界史レベルでの戦術の変化にどの様に貢献したかが明らかに為って来て居る。
研究者達は、新しい戦術として考案されて居た事が、ハルハ河戦争で初めて実戦に適用された事を明らかにして居る。
例えば、包囲戦の過程に於いて内外の戦線が同時に設けられた事、ソ連・モンゴル連合軍の指揮系統が統一された事、装甲戦車部隊が空軍と連携を取りつつ敵の陣地深く攻め入り戦果を挙げた事、陸上のあらゆる専門部隊が共同して参加した事、 放送局を活用して敵を撹乱した事などである 。
これ等の戦術が、ハルハ河戦争の際にモンゴル軍とソ連軍の連合軍により新たに試みられた事が明らかにされつつある。その結果、ハルハ河戦争はソ連軍に取り、ゴビ平原と云う新しい環境の中で敵を殲滅した最初の「軍事作戦」と為ったのである。
1990年代以降モンゴルの研究者達は、ハルハ河戦争の研究を外国の研究者達と共同で行う様に為った。ハルハ河戦争の当事国であったモンゴル、ロシア、日本の研究者達が共同研究を進める事により、従来からの既成概念や見解が見直された。
参戦した諸国に保存されて居る公文書を利用した新しい研究は、歴史事実と歴史上の意味を確認する為に大きな効果を齎した。1989年と1991年のシンポジウムに続いて1994年、1999年、2004年、2009年に、ウランバートル市でハルハ河戦争の国際研究会が開催された。
これ等の会議には、ソ連、モンゴル、日本の3ヶ 国の研究者の他に、アメリカ、中国等の研究者も参加した。これ等の会議は、ハルハ河戦争の研究を国際的な研究へと昇華させ研究者等の共同研究の発展に大きく寄与した。
ハルハ河戦争に於いて、モンゴル人民革命軍はソビエト赤軍と肩を並べて戦い、祖国の自由と独立を強固にしモンゴル国の国際的名声と地位を確立させた。その為、モンゴル国民は、毎年ハルハ河戦争の勝利を盛大に祝い、戦死したモンゴルとソ連の勇士達を讃えて来たのである。
1939年12月9日にモンゴル人民共和国政府よりハルハ河戦争記念碑が建てられ、1940年8月 16日には、毎年8月20日をハルハ河戦争の勝利記念日とする事が決定された。この時から、モンゴル国は毎年ハルハ河戦争の勝利を盛大に祝う様に為り、又戦争の歴史や、モンゴルとソ連の勇士達を讃える為の、多くの芸術作品と記念碑が建てられた。
因みに、モンゴル国の政府と国民は、1954年から2009年迄の間にハルハ河戦争の勝利を記念する13基の記念看板と23基の記念碑を建てた。それ等の中で最も大きいのは、ドルノド県スンベル郡にあるハマルダワー丘の上に建てた「モンゴル・ソ連勇士記念碑」である。高さ54メートル、幅33メートル(最も幅広い部分)、 110トンもあるこの巨大な銅碑は、ハルハ河流域に立つ素晴らしい芸術品である。
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おわりに
満洲事変から日ソ中立条約が締結される迄の日ソ関係の推移を見れば、日ソ両国は夫々が後ろ盾と為って居た当時のモンゴル人民共和国と満洲国の国境問題を巡って激しく対立し遂には戦争に突入した事が判る。即ち、極東アジアに於ける日ソ間の緊張と対立の激化の根本原因の一つが、モンゴルの国境問題或いはモンゴルの国際上の地位を巡る問題であった事が理解される。
それ故モンゴルと満洲の勢力圏を画定する問題の解決が、日ソ国交調整の実 現の重要な懸案であった。この後、1939年9月のノモンハン事件停戦協定の後、1940年6月の日ソ両国間の協議によるモンゴルと満洲国の国境画定を経て、モンゴルの国境問題が日ソ間で要約解消された。
そしてこれにより、日ソ両国の軍事的又政治的緊張関係が改善される事に為り、その帰結として1941年4月の日ソ中立条約の締結に到るのである。
満洲国建国以来の極東に於ける日ソ両国の確執は、日ソ中立条約によって突如解決されたものでは無かった。それは満洲里会議に始まり、ソ連・モンゴル相互援助条約、モンゴルの大粛清、ノモンハン戦、停戦協定、国境画定会議等、当事国であった日本・ソ連・モンゴル・満洲を巻きこんで展開された一連の政治的出来事の帰結であった。
以上の様な見解の下に、本稿ではモンゴルの主体性に着目した。そしてモンゴルがソ連の一方的従属下にあった訳では無く、時には独自の外交を展開した事、モンゴル問題が当時の日ソ国交調整に取って極めて重要な意味を持って居た事を、ノモンハン事件(ハルハ河戦争)の実証的検証を通じて明らかにしようとした。
ノモンハン事件の停戦交渉や日ソ国交調整の過程では、モンゴルと満洲国との間の国境確立問題が終始重要なテーマと為った。従って、日ソ中立条約の調印は単に日ソ間の問題に留まらず、 日本政府がモンゴルの領土保全と独立を承認すると云う一面を有して居たのである。
以上
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