2018年07月05日
従軍奇談 その1
従軍奇談 その1
戦争の話が続き申し訳ないが、新たな視線での体験談を紹介したいと思う。学徒出陣で出征した方の体験談である。
従 軍 奇 談 真道重明 2002年3月
工兵として応召、その後に航空気象連隊へ配属
(初年兵教育は工兵、気象隊と云う特殊部隊に転属)
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1943年(昭和18年)10月、世に言う「学徒総出陣」で学業半ばで翌々月の12月に現役兵として熊本の渡鹿にある西部第22部隊(工兵第六連隊)に入隊、初年兵教育を受けた。
蒲柳(ほりゅう)の質の私が何故「六師団の鬼の棲む様な工兵隊」に招集されたか?
「お前は水産の学校だナ〜、それなら船の事を知っている筈だ、船舶隊要員。船舶隊の兵科は工兵だ、良し工兵に決定」と言う訳。
処が六師団の工兵には船舶隊は無い。一旦決まった兵科を変えることは出来ず、仕方無く工兵の架橋中隊と為った次第。船舶隊と云うのは「陸軍の中の海軍、陸戦隊と云うのは海軍の中の陸軍」と言われて居た。陸軍と海軍の縄張り争いがあったとも聞く。
当時陸軍の船舶隊は潜水艦(マル輸艇)を持ち、真偽の程は知ら無いが航空母艦まで持つ殊まで考えていたと聞く。本当なら無茶な話だ。
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初年兵教育では架橋だけで無く、土工・爆破・重材料運搬など工兵としての技術全般の外に「歩兵」の基礎も必須科目だった。娑婆(地方とも言った。軍隊外の社会のこと・塀の外)では大工や土方をして居た人達が多く、「鬼の棲む・・・」は言葉通り。隣にあった野砲連隊などから一目置かれていたが、虚弱な私には全くの場違いだった。
初年兵教育が終わった翌年の晩春、連隊副官から呼ばれ知識が活かせる航空隊気象連隊への転属を薦められ即座に諒承。満州(現中国東北部)の新京(現在の吉林省の省都、長春)にある第2気象連隊に転属命令。同じような事情の他の部隊からの一人と私との二人旅、関釜連絡船で門司で乗船、海峡を越え釜山から汽車で鴨緑江の鉄橋を渡り満州(現在の中国東北部)に向かった。
その時の身分は乙種幹部候補生である。甲種幹部候補生に為ら無かったのは、初年兵時代に射撃などはトップの成績であったが、架橋中隊であり架橋の為の舟艇の錨が元来筋力の無い私には重くて持ち上げられ無い。工兵としては失格も甚だしかった。
この時の同期の甲種の連中の多くは後にシベリア抑留で死亡したと聞いた。結果的には乙種だった殊が命拾いをした事に為った。
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新京に辿り着くまでに四平街で物凄い超常現象のような黄砂に見舞われた。日本語では霾る(つちふる)と読み黄塵万丈と形容される砂嵐である。その話は「つちふる」に詳しい。新京の駅にはやっと辿り着いたが、さて目指す部隊が何処にあるか分からない。駅には案内所もなく日本兵の姿も無い。
腹が減っていたので邦人の食堂に入って飯を食いながら尋ねた。教えて貰った場所に行くと「観象台」と書いた大きな表札が掛かっている。満州国政府の気象台らしいと思い、門前の満州国軍の複哨の衛兵らしい者に尋ねたら言葉が通じない。
学生時代に習った中国語で尋ねると、敬礼をして紙に略図を書いて教えて呉れた。邦人食堂の親爺は良く知らなかったようでかなり位置が違っていた。尋ねた観象台の衛兵が同業の気象関係だったので日本軍の気象隊を知っていたので助かった。将に幸運だった。
因みに食堂で食べた飯は白米だったが、お菜は肉も魚も無くただトコロテンに削り節を振りかけたものだけで酢醤油をぶっ掛けた物しかなかった。こんな些細なことを未だに憶えているのは何故だろう。
兎に角無事に気の荒い関東軍の中にある目的の部隊に着き到着の申告をした。「良く此処が分かったな」と言われた。もう少し私達二人に旅程の指示の仕様もあったと思い軍隊も好い加減なものだと言う気がした。
気象連隊と言うのは第一連隊が日本領土、第二連隊が満州国、第三が中国、第四が南方(東南アジアや太平洋南部諸島)だったように記憶しているが定かではない。
平時であれば気象観測や予報の業務は官庁(明治以来、内務省・文部省・運輸通信省などに所属が変わったらしい)が管轄していた。戦時には気象情報は航空隊の活動と密接に関係するので陸海軍が掌握し、航空機の活動に関連した情報は極秘扱いにされた。飛行機も当時はプロペラ機で今のジェット機に較べ天候に大きく左右されていたから尚のことであった。
気象隊の仕事は陸軍も海軍も仕事に性格上全く同じシステムとマニュアルに沿ったものである。教育は工兵に較べ私には遥かに楽であった。
筋肉や体力を使うのでは無く、専ら機器を使う測定や観測であり、海洋観測の経験がある私は、少し聞けば後は大体の見当が付いた。ただモールス信号による送受信のためのトンツーを短期間の特訓で憶えなければならず、朝食時から就寝時まで内務班の中は引っ切りなしに「トツー・トツー」が響き渡っていた。
合調音法(イを伊藤、ロを路上歩行、ハをハーモニカ、と文章にして覚える方法)では無く、音像法(初めから毎分50〜80字の速度の信号を聞き符号音を認識する方法)であった。始めは大変だったが、次第に慣れてくると人間の言葉のように一連の音の意味が無意識に解るように為るのは不思議である。銃は持っていたが、手にすることは殆ど無かった。
基礎訓練が終わった1944年8月、早速第四気象連隊(南京)に転属命令が出た。新京(長春)から天津経由、南京、上海、香港を経て広東省の広州市に移動した。南京には半年位滞在した。重爆撃機で広州市に行く予定だったが、飛行機の都合がつかず上海から船で香港に向かった。
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私達の一つ前の輸送船は台湾の高雄港の「有名な大空襲」に遭遇し大半が沈没した。香港では午後の下船が何らかの都合で午前に変更され慌てた。しかし同日午後に敵の大空襲があり、午後まで船に居たら完全に撃沈されるところであった。
午前に下船した数時間後、グラマンが港の船を襲ったのを目撃した。敵弾を受けた輸送船が一瞬にして逆立ちとなり、多くの人が胡麻か蟻のように空中に舞い上がったり、甲板を滑り落ちるのを上陸した九龍の兵舎から目撃した。予定通り午後の下船だったら私は多分死んでいただろう。些細な変更が生死を分けた。
目撃した時、実は私は兵舎の厠で小便をして居た。突然大きな音と共に屋根を突き破って何かが目の前の小便の流れる溝に落ちて来て黄色い小便の飛沫を上げた。ビックリしたので私の尿意は自動的に即時停止した。敵のグラマン機の空襲が済んだ後でもう一度「何が落ちたのか?」と見に行った。
棒の先で引き寄せ良く見ると高射砲の薬莢である。勿論金属でかなりの重さである。直ぐ裏の丘の上にある日本軍の高射砲が港内の敵機めがけて零角射撃をした時の弾の薬莢だった。もし運悪く頭を直撃して居たら私は多分イチコロだったろう。
今も在る香港(九龍側)の啓徳(カイタック)飛行場の直ぐ近くであった。現在ではこの旧飛行場の跡地はビル街となり飛行場は少し場所が変わっている。戦後国際機関に11年勤務した私は香港をしばしば訪れ、また中継地として通過する途次も立ち寄ったが、今と違って当時の啓徳飛行場は規模も比較にならないほど小さかった。
香港には数週間滞在。スター・フェリーで対岸の香港島へは何度か訪れた記憶がある。「東洋のモナコ」とか「百万ドルの夜景」等は考えられもしない灯火管制下にあった。石炭が無く薪を焚いて走る汽車で九龍から最終目的地の広東省の広州市に向かった。
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広州には当時は「白雲」と「天河」という2つの飛行場が在った。白雲は現在「白雲国際空港」の名称で広州市の飛行場として、また中国の重要な民間空港の一つとして存在している。
当時は現在よりずっと規模は小さかった。天河は今どうなっているのか分から無い。これらは戦中・戦後を通じて歌謡で有名なベンガル湾に散った加藤隼戦闘隊が東南アジアで奮戦する前一時駐屯したと聞かされた飛行場である。この2つの飛行場が私達の勤務地であった。
朝未だ暗い中、宿舎を出て毎日今で言うシャトル・バス(軍用トラック)で飛行場に向かい、分厚いコンクリートで作られた飛行場管理ビルの勤務室で仕事をした。隣りは情報隊が仕事をしていた。
ミッドウエイ海戦で主力艦隊を失って以来、既にかなり経っており、次第に追い詰められる戦況にあった時である。それでも私が広州の飛行場勤務の前半期は大編隊は組めないが、未だ多少の戦闘機や足の速い偵察機(新司令部偵察機、「新指偵」と呼ばれた)は維持していた。
制空権では明らかに劣勢に立ち、飛行場は敵の爆撃機の編隊の主な攻撃目標であったから、連日のように空爆に曝された。隣室の情報隊のラジオ・ロケーター(今のレーダーのごく初歩的な探知機、無数の真空管が使われていた)のブラウン管の反応が大きいとオペレーターの報告する叫び声が筒抜けに聞こえてくる。
ブラウン管が示す反応が大きい場合「未だ遠くに居る大編隊」かも知れないし「数機の小編隊だが至近距離に迫っている」のかも知れない。そのどちらかであるかの区別は当時の機器では出来なかった。「後10分で敵機上空」と判断されると直ちに仕事を辞め、ジュラルミン製のケースに乱数表などの分厚い本を詰め込み、これを抱えて滑走路から可能な限り遠くに駆け足で退避するのが常であった。
間に合わない場合は運を天に任せてその侭じっと投下爆弾の直撃が逸れるのを祈る外なかった。分厚いコンクリートの建物でも大型爆弾の場合は3階を貫通して地階で破裂し、避難して逃げ込んでいた100名ばかりの兵や現地雇用者が被爆することもまま在った。敵機が去ると直ぐ生存者を点検し、医療措置で助かる可能性のある者と、無い者や死亡者を選別し、前者は病院に運び、後者はトラックで搬出した。
数十人の呻き声、千切れた肢体が散乱する血の海、まさに地獄図絵であるが、阿鼻叫喚図と呼ぶのは平和時の感覚であり、此処は戦場であり、異なった精神と心理状態下にある。生々しい臭いは死臭ではない。
乃木希典将軍の「金州城外作」と題する漢詩の最初の二節にある「山川草木転荒涼 ・ 十里風腥新戦場」の「腥し(ナマグサシ)の臭いである。生きの良いマグロを捌いたときの魚河岸の臭いにややに似ている。その空気に満ちた部屋の中に座って、水を飲み握り飯を貪り食った。
つづく
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