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2017年11月28日

シーロ・レドンド戦死60周年 モンカダ兵営襲撃からグランマ号~シエラ・マエストラまで フィデルとともに歩んだ革命家人生

Ciro-Redondo.jpg
シーロは死後に司令官に昇進した

Juventud Rebelde、2017年11月28日、Luis Hernandez Serrano記者

シーロ・レドンド・ガルシアは1953年7月26日のモンカダ兵営襲撃でフィデル・カストロに従った30歳未満のキューバ人たちのあいだの一人だった。それはフルヘンシオ・バティスタの独裁を終わらせ、暗殺が犯罪の定番になり続けるのを阻むことが目的だった。

彼は、若き弁護士だったフィデルやその同志たちと同じく、裁判にかけられ、投獄された。圧制者たちは、ホセ・マルティの遺産を継いだことに後悔しただろうと考えていた。

ピノス島(現・青年の島)のプレシディオ・モデーロという悪名高い刑務所のなかで彼は将来についても考え、自由のためにさらに前進して戦うための準備をし、ある日、いかなる暴君に謝罪することなしに、釈放され、出所することができた。

釈放されてすぐにシーロは、メキシコに亡命し、7月26日運動のグループに加わった。バティスタを倒す目的で最初のゲリラ派遣隊を形成するための軍事訓練がおこなわれた。

1956年12月2日に、キューバに上陸し、強力なゲリラ戦線を切り開くために、メキシコ港でグランマ号に乗船した82人の男のひとりとなった。アレグリア・デ・ピオの急襲において生き残るか、あるいは捕らえられなかった戦闘員のなかに彼は残り、叛乱軍の初期中核グループとともにシエラ・マエストラに入植した。

レドンドは、ラ・プラタ、アローヨ・デル・インフィエルノ、アルト・デ・エスピノーサ、エル・ウベーロ、エル・ホンブリートなどの戦闘に参加した。その指揮の功績が認められ、チェ・ゲバラに指揮された第4中隊(実際は第2)の4人の中尉のひとりに任命され、大尉に昇格した。

1957年11月29日にマル・ベルデの戦闘で待ち伏せ中に亡くなった。死後に司令官の称号を受けた。

数ヵ月後、エスカンブライ山脈方面に向かう任務のためチェ・ゲバラの指揮による第8中隊が組織されたとき、同中隊には彼の名前シーロ・レドンドが名づけられた。

彼の遺体はアルテミサの殉教者墓地に埋葬されている。2011年にシーロは新たに創設されたアルテミサ州のパトリオタ・インシグネとして選ばれた。

Murió peleando en la Sierra y vive en los corazones
http://www.juventudrebelde.cu/cuba/2017-11-28/murio-peleando-en-la-sierra-y-vive-en-los-corazones
posted by vivacuba at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | cuba
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