2012年10月17日
中国市場におけるP&Gの浮き沈み(5)
中国市場におけるP&Gの浮き沈み
慶応大学
商学部4年フ組
13期生
李 梅
朱 琲クン
慶応大学
商学部4年フ組
13期生
李 梅
朱 琲クン
改革開放政策を実施して以来、中国国民の一人当たり年平均収入は増えつつある。表2に示されているように、1981年と比べると、都市部であれ、農村部であれ、1988年の国民の一人当たり年平均収入はほぼ2.5倍になったことが分かるのであろう。
収入の増加によって、国民の購買力が増大しつつある、また、消費者として、特に若い世代の消費理念は大いに変わった。国内の商品だけでは消費者のニーズには満足できなくなった。彼らは、新しくて珍しいものに好奇心を持ち、ブランド品などを求めはじめるようになった。
一方、この時期の中国の日用品市場では、日用品のメーカーが少なくて、消費者は、質がよくない、包装が荒い、個性が欠ける、種類が限られているいくつかの商品から選ぶしかできなかった。そのときの中国日用品市場は空白だと言っても過言ではない。
1980年代における中国の政治と経済環境は、外国企業の中国進出にとってはよいチャンスであろう。P&Gは中国の大きい市場を発見して、中国に進出しようと決めた。
プロクター・アンド・ギャンブル(Procter & Gamble、P&G)
プロクター・アンド・ギャンブルはアメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ市に本拠を置く一般消費財メーカーで、フォーチュン500社の一つとして、マーケティングの世界では名高い。
1837年、石鹸業者のジェームズ・ギャンブルとローソク業者のウィリアム・プロクターが共同出資で設立した。その歴史は五つの段階に分けられると思う。
1837−1890 提携の時代
1837年は企業家にとって困難な年であった。シンシナティの市場は繁栄していたが、米国は経済恐慌に襲われ、全国で数百の銀行が閉鎖した。米国の国自体が破産するのではなかろうかという懸念も広がっていた。
このような経済環境にもかかわらず、プロクター・アンド・ギャンブルは新規事業を打ち上げ、国内を揺さぶっていた経済パニックを懸念せず、むしろ同市内の石鹸とローソク製造業者14社との競合を懸念していた。経済の嵐の真っ只中でのこのP&Gの冷静さは、将来を展望した当社の事業への取り組み方、すなわち将来のP&Gの社是となった取り組み方を反映している。
その後、利益分配活動の国内での先駆者となると同時に、同業者の企業として始めて研究施設に投資した。駆け出しの若者であったプロクターとギャンブルの事業提携は、1890年には数百万ドル規模の企業へと成長した。それでも、P&Gは、将来に目を向け事業展開を続けていた。
1890−1945 革新を基盤にした事業
1890年のP&Gはアイボリーを含めた30種の石鹸を販売していた。完全カラー印刷の広告を全国的な雑誌に掲載することも含めた革新的な宣伝広告手法が起爆剤となり、消費者のP&Gの石鹸に対する需要は継続的に成長していた。この需要の成長に応えるために、生産拠点をシンシナティ以外の場所に求め、カンサス州カンサス市の工場を初めとし、国外拠点のカナダのオンタリオにも工場を建設した。これらの各工場で操業が始まると、次々と新しい工場の建設がスタートした。
研究施設も工場に負けないぐらいの忙しさで仕事した。革新的な新商品が次々と市場に導入された。ここで一番大事なのは、これらの革新的な研究開発活動が、単なる研究開発の目的のみならず、P&Gの先駆者的な取り組み方による市場調査を経て、徹底的な消費者ニーズの把握に先導されてきたことであろう。
これらの商品は、ラジオ番組「ソープ・オペラ(石鹸ドラマ)」、製品サンプリング活動、販促割り増し金等を含めた革新的な手法で販売が促進された。
P&Gは1945年には商約3.5億ドル規模の会社となり、その商品は米国とカナダ全土にわたって有名になった。また、P&Gは海外における事業開発の第一歩として、イギリスのトーマス&ヘッドレー社を回収した。108年間実績を経て、P&Gは飛躍的な成長に向けて基盤を固めた。
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