2012年08月13日
化粧って何?化粧の意義とは何か
昨日の夜勤明けでは、帰りのフェリーの中で運よく20分間くらい熟睡できたので、鴨池港に到着したときは意外にもすっきりした気分でした。そこで気が向いたので、たまには表に出ようと、便利の良い場所に駐車してバスで鹿児島中央駅に行きました。
目的のない外出でしたが、中央駅では週末によく広場でミニコンサートのような催しをやっています。こんな類の催しを見られたらいいし、そうでなくても街中をぶらぶら散歩するのはいいことです。
今回は残念ながら催し物に出会いませんでしたが、散歩していて非常に気になったことがあります。すれ違う女性たちの化粧、というか、女性たちの“肌の輝き具合”のようなものです。たぶん正しく表現する言葉があるんだと思いますが、いまは思いつきません。
すれ違う女性の“肌の輝き具合”の何が気になったかと言えば、さっきまで仕事をしていた当病院にもたくさんいる女性たちの、“肌の見た目”との比較です。あくまで私の目から見た“肌の見た目”であることを強調する必要があると思いますが、あまりの違いに今更ながら気づいて内心で大きく衝撃を受けていました。
要するに中央駅ですれ違う女性たちの肌が、誰もかれも、どれもこれも、中央病院でみたよりもはるかにピカピカに見えて仕方なかったのです。それが自分でも驚きで、不思議で仕方ありませんでした。
こうなったらもう、そこらへんにいる女性たちの肌ばっかりに注目してしまいます。それこそ子供から老人まで、すれ違う人のほとんどを気が済むまで観察しました。まだはっきりした言葉にならずもどかしいですが、やっぱり違う感じがします。
週末の中央駅に昼間出てくる女性たちだから、ある程度“おめかし”するはず、というのは分かります。でも垂水中央病院で見る女性は“おめかし”はしていないでしょうが、職員であれば仕事上の“みだしなみ”はしているはずです。また、中央駅で観察した女性たちは子供から老人まで多種多様、仕事中から遊び中までという意味でも多種多様のはずです。一方、垂水中央病院では、職員なら就労年齢である20代前半から60代前半までに限られています。
つらつら考えてみても、垂水中央病院と鹿児島中央駅では、比較対象としてそれほどかけ離れた平均値にはならないんじゃないかなあ、とも思います。いや、むしろ垂水中央病院のほうが“粒のそろい具合”があって、私から見た“肌の見た目”がマシに感じられても不思議はないかもしれない、とさえ思います。いま、どんな比較の仕方なら公平だろうかと考えますが、ちょっとそこまではまだ思いつきません。気分の問題もあるのかな。それはあるかも。そして“大隅と市内”という違いもあるのかな。それはないと思いたい。
それにしても、真昼間の中央駅で思いがけず観察した女性たちの“肌の輝き具合”は、いったん問題意識を持ち直して気持ちをリセットして見直しても、やっぱり垂水で見てきたそれよりも輝いている印象を強く感じました。非常に驚いてしまった。
看護師の化粧に関する文献を探してみると、「患者の化粧」とか「死化粧」の関係は結構出ますが、看護師自身の化粧の何がどう問題であるかについては、全然みつかりません。身だしなみとしての化粧については組織ごとに色々と決め事もあるのに、その根拠が何であるかについては、ほとんど真面目に議論されていないようです。看護学校では結構厳しい印象もありますが、学生に厳しいのなら、職場に入った看護師にはもっと厳しくなくていいの?そしてそれに対する反発は?などと素朴に疑問に思います。
もしかしたら、化粧をするということは、その女性の肌の健康具合を映す、という側面もあるのかもしれません。絵の具を画用紙に塗るのと同じで、何かの素材を肌に塗るということだから、映り具合が良かったり悪かったりして、そういう面もある可能性はあります。いや、どこかの方面できっと詳しく研究されていて、看護学が女性中心のはずなのにそれをうまく取り入れてないだけなんだと思います。まさか、垂水中央病院で働く女性たちの健康状態が肌に現れている、ということはないのかな、とも考えます。夜勤の直後だからなおさらそう思います。また改めて観察してみたいと思います。
今回は私自身、当病院で接遇委員会という寄り合いに関係させられることになり、そこで初めてこの病院に「ノーメイク禁止」という決まりがあることを知り、それをきっかけに“化粧って何?”という疑問が大きく湧き上がっている中での問題意識の高まりでした。
ノーメイク禁止とか、誰がどんな根拠でそんなこと決めたのかという素朴な疑問が始まりでしたが、美意識とかみだしなみの話だけなら興味ありませんが、ある意味では健康を映す鏡でもあるのかもしれない、という意味では、今後も注意して考えていく必要があるように思います。化粧と直接関係があるのか分かりませんが、眉毛の扱いも何か重要性があるような感じはします。
目的のない外出でしたが、中央駅では週末によく広場でミニコンサートのような催しをやっています。こんな類の催しを見られたらいいし、そうでなくても街中をぶらぶら散歩するのはいいことです。
今回は残念ながら催し物に出会いませんでしたが、散歩していて非常に気になったことがあります。すれ違う女性たちの化粧、というか、女性たちの“肌の輝き具合”のようなものです。たぶん正しく表現する言葉があるんだと思いますが、いまは思いつきません。
すれ違う女性の“肌の輝き具合”の何が気になったかと言えば、さっきまで仕事をしていた当病院にもたくさんいる女性たちの、“肌の見た目”との比較です。あくまで私の目から見た“肌の見た目”であることを強調する必要があると思いますが、あまりの違いに今更ながら気づいて内心で大きく衝撃を受けていました。
要するに中央駅ですれ違う女性たちの肌が、誰もかれも、どれもこれも、中央病院でみたよりもはるかにピカピカに見えて仕方なかったのです。それが自分でも驚きで、不思議で仕方ありませんでした。
こうなったらもう、そこらへんにいる女性たちの肌ばっかりに注目してしまいます。それこそ子供から老人まで、すれ違う人のほとんどを気が済むまで観察しました。まだはっきりした言葉にならずもどかしいですが、やっぱり違う感じがします。
週末の中央駅に昼間出てくる女性たちだから、ある程度“おめかし”するはず、というのは分かります。でも垂水中央病院で見る女性は“おめかし”はしていないでしょうが、職員であれば仕事上の“みだしなみ”はしているはずです。また、中央駅で観察した女性たちは子供から老人まで多種多様、仕事中から遊び中までという意味でも多種多様のはずです。一方、垂水中央病院では、職員なら就労年齢である20代前半から60代前半までに限られています。
つらつら考えてみても、垂水中央病院と鹿児島中央駅では、比較対象としてそれほどかけ離れた平均値にはならないんじゃないかなあ、とも思います。いや、むしろ垂水中央病院のほうが“粒のそろい具合”があって、私から見た“肌の見た目”がマシに感じられても不思議はないかもしれない、とさえ思います。いま、どんな比較の仕方なら公平だろうかと考えますが、ちょっとそこまではまだ思いつきません。気分の問題もあるのかな。それはあるかも。そして“大隅と市内”という違いもあるのかな。それはないと思いたい。
それにしても、真昼間の中央駅で思いがけず観察した女性たちの“肌の輝き具合”は、いったん問題意識を持ち直して気持ちをリセットして見直しても、やっぱり垂水で見てきたそれよりも輝いている印象を強く感じました。非常に驚いてしまった。
看護師の化粧に関する文献を探してみると、「患者の化粧」とか「死化粧」の関係は結構出ますが、看護師自身の化粧の何がどう問題であるかについては、全然みつかりません。身だしなみとしての化粧については組織ごとに色々と決め事もあるのに、その根拠が何であるかについては、ほとんど真面目に議論されていないようです。看護学校では結構厳しい印象もありますが、学生に厳しいのなら、職場に入った看護師にはもっと厳しくなくていいの?そしてそれに対する反発は?などと素朴に疑問に思います。
もしかしたら、化粧をするということは、その女性の肌の健康具合を映す、という側面もあるのかもしれません。絵の具を画用紙に塗るのと同じで、何かの素材を肌に塗るということだから、映り具合が良かったり悪かったりして、そういう面もある可能性はあります。いや、どこかの方面できっと詳しく研究されていて、看護学が女性中心のはずなのにそれをうまく取り入れてないだけなんだと思います。まさか、垂水中央病院で働く女性たちの健康状態が肌に現れている、ということはないのかな、とも考えます。夜勤の直後だからなおさらそう思います。また改めて観察してみたいと思います。
今回は私自身、当病院で接遇委員会という寄り合いに関係させられることになり、そこで初めてこの病院に「ノーメイク禁止」という決まりがあることを知り、それをきっかけに“化粧って何?”という疑問が大きく湧き上がっている中での問題意識の高まりでした。
ノーメイク禁止とか、誰がどんな根拠でそんなこと決めたのかという素朴な疑問が始まりでしたが、美意識とかみだしなみの話だけなら興味ありませんが、ある意味では健康を映す鏡でもあるのかもしれない、という意味では、今後も注意して考えていく必要があるように思います。化粧と直接関係があるのか分かりませんが、眉毛の扱いも何か重要性があるような感じはします。
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