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ケロロ
元陸上自衛隊第7師団戦車連隊の 偵察小隊等に勤務していました。 実際に74式戦車・主に偵察用オート・60式装甲車に搭乗していました。 戦争映画や軍機・ミリタリー・バイク・波乗り・山登りと興味は多い50代。 戦車や戦艦などのラジコン遊びが好き。 自室を戦闘基地にしたい。 しかしながら一番は平和と健康です♪
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2016年04月29日

予科練平和記念館 2016.4.20

2016.4.20 茨城県にある「予科練平和記念館」へ出かけました。
 予科練平和記念館は、2010年2月に開館した新しい施設です
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予科練平和記念館

所在地 〒300-0302 茨城県稲敷郡阿見町廻戸5-1
アクセス 国道125号線「阿見坂下」交差点近隣
Tel 029-891-3344
Fax 029-888-2470
その他 入館料:大人500円(団体400円)小中高生300円(団体240円)

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有名な建築デザイナー・吉村靖孝さんが設計した予科練平和記念館はスタイリッシュな建物でした。
キューブを組み合わせたような建物は、いくつかの建築賞を受賞したそうです。
清潔なフロアに展示物が並んでいます。

予科練とは


旧日本海軍の海軍飛行予科練習生の略。航空機搭乗員の大量養成をねらいとして,1930年霞ヶ浦飛行場 (茨城県) に開設。太平洋戦争末期には特攻隊要員の訓練を行なった。中学4年程度の学力のある者が受験した甲種,高等小学校卒業程度の学力のある者のなかから特に優秀と認められた者を選抜した乙種,下士官のなかから選抜した丙種の3つに分けられ,甲種,乙種の年齢はともに 14〜15歳であった。

7つの展示フロアのタイトルと内容を簡単に紹介します。(館内撮影は禁止です。)

(1) 入隊 〜憧れと不安の交錯〜
 予科練の入隊志望者や合格者の心情などが紹介されています。
 貧しい農村世帯からの逃避を求めた者など、理由は様々だったようですが、厳しい選考試験から合格した心情が手  紙などの資料で明らかにされています。

(2) 訓練 〜猛訓練と心身の成長〜
  予科練での訓練風景が紹介されています。
  訓練風景を写した写真や、日課など説明などから、軍隊教育の厳しさが伝わってきます。
(3) 心情 〜少年たちの心の葛藤〜
  予科練生が書いた手紙や日記が並べられており、心情が綴られています。
  その中には、将来の死を覚悟して、家族に宛てた遺書もありました。

(4) 飛翔 〜予科練から大空へ〜

 基礎教育を受けた後、それぞれの兵科に選別されます。
 花形の戦闘機パイロットの道は、さらに狭き門のようでした。
(5) 交流 〜予科練と阿見〜
 予科練生と阿見町の人々との交流を伝えています。
 当時の阿見町の人々は、予科練生を暖かく迎えていたようです。
(6) 窮迫 〜選局の変化〜
 戦況の悪化や阿見町の爆撃被害の状況などが説明されています。
(7) 特攻 〜戦時下の悲劇〜
 戦況の悪化によって、決して生きて帰れない「特攻」に命を擲つ状況が説明されています。
 予科練出身者の特攻による戦死者は7割にも及んだそうです。

予科練平和記念館敷地内には、レプリカの零戦・回天も展示されていました。
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零式艦上戦闘機二一型
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回天一型実物大模型
回天(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、最初の特攻兵器であった。

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開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる」という意味で「回天」という言葉を使っていた]。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)、的(てき)との別称もある。
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海軍飛行予科練習生は空や飛行機に憧れて入隊したと思う。


太平洋戦争の末期、海軍が開発したある秘密兵器が次々と運び込まれた。その兵器に乗るために、全国から400人の若者たちがやってきた。秘密兵器の搭乗員を募集するとだけ聞いて志願してきたという。
秘密兵器の搭乗員として集められた彼らが眼にしたのは飛行機ではなく、魚雷であった。
人間もろともに体当たりし、命と引き換えに敵艦を沈める極限の兵器である。搭載された爆薬は、空母をも沈められる破壊力を持つといわれた。出撃すると二度と生きては帰れない。終戦までに、104人もの搭乗員が海に散っていった。
ある戦争映画での「せめて飛行機に乗って死なせてくれ」という台詞を思い出した。

【特攻隊員の遺書】
戦いは日一日と激しさを加えて参りました。
 父母上様、長い間お世話になりました。私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。
 私は潔く死んでいきます。
今日の海の色、見事なものです。決してなげいて下さいますな。
 抑々海軍航空に志した時、真っ先に許されそして激励して下さったのは、父母上様ではなかったでしょうか。既に今日あるは覚悟の上でしょう。私も魂のみたてとして、ただただ大空に身を捧げんとして予科練に入り、今日まで猛特訓に毎日を送ってきたのです。今それが報いられ、日本男子として本当に男に花を咲かせるときが来たのです。
 この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。数々の思出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。
 故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。
 しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。そればかりが残念です。随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。
 お身体を大切に、そればかりがお願いです。親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。育子、昌子の二人は私の様に母に甘えたり叱られたり出来ないかと思うとかわいそうです。
 いつまでも仲良くお暮らし下さい。私も喜んで大空に散っていきます。
 平常あちこちにご無沙汰ばかりしておりますから、何卒よろしくお知らせ下さい。お願いします。御身大切にごきげんよう。

神風特別攻撃隊 大和隊員
一飛曹 塩田 寛 18才
昭和19年10月26日 レイテ沖にて特攻戦死


特攻攻撃….
それは恐ろしい行為である。
怖かったであろう、逃げ出したかったであろう、大切な人たちと別れたくなかっただろうと思う。
出撃する前から死ぬことが決っているのに、平然を装い戦地へ飛び立つ若者のことを考えると堪らなく切なくなる。
彼らの冥福を祈るとともに、彼らに感謝したい。
当たり前のように平和な生活送っている飽食の時代。
生命をなげうった若者がいたことを忘れないようにしたい。

byケロロ

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posted by ケロロ at 16:19| Comment(0) | TrackBack(0) | その他
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