2016年05月13日
大日本帝国海軍の航空母艦 隼鷹
隼鷹(じゅんよう)は、大日本帝国海軍の航空母艦。飛鷹型航空母艦の2番艦。 ただし、帝国海軍の公式記録上では隼鷹型航空母艦の1番艦である。
隼鷹は、姉妹艦の空母飛鷹(出雲丸)と同様、有事の空母改造を前提に建造中の日本郵船の橿原丸級貨客船橿原丸(かしはらまる)を空母へ改装したものである。帝国海軍は太平洋戦争開戦から約半年を経て発生した1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦において大敗、主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を失う。この時点で残る中型以上の高速正規空母は翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)のみであった。隼鷹、飛鷹の速力は正規空母の30kt以上に比較して遅く、鋼板も薄く防御能力でも見劣りしたが、中型の正規空母蒼龍なみの航空機搭載量を持つ貴重な戦力であり[25]、ミッドウェー海戦以降は大型正規空母の翔鶴、瑞鶴をサポートし、それに勝るとも劣らぬといえる活躍をした。なお、姉妹艦の飛鷹は1944年6月のマリアナ沖海戦で撃沈されている。以後の隼鷹は高速輸送艦として運用され、終戦まで残存した。だが機関部の損傷により、空母鳳翔、葛城のように復員船として運用されることなく、また客船に戻されることもなく解体された。
艦歴
橿原丸として
海軍技術将校/艦艇研究家の福井静夫によれば、大型高速客船を有事に際し空母に改造する発想はイギリスからもたらされたという。1923年(大正12年)末、第一次大戦後の欧州視察のためイギリスを訪問した平賀譲造船少将に対し、イギリス海軍造船局長サー・ユースタス・テニスン・ダインコートは大型商船を空母化する利点について熱心に説いた[。当時のイギリスが保有する150隻以上の1万トン以上大型客船は、有事に際し兵員輸送船や特設巡洋艦に転用できるため、列強(特にアメリカ)から重大な脅威とみなされていた。サー・ユースタス・ダインコートの提案は日本海軍の構想と一致した。アメリカを仮想敵とした場合に求められたのは、兵員輸送力ではなく、洋上決戦を挑むための航空戦力とそれを運用する航空母艦だったからである。こうして帝国海軍は有事空母化を前提とした商船や客船の建造を模索、1929-1930年に日本郵船の秩父丸(鎌倉丸)、浅間丸、龍田丸が完成し]。続いて大阪商船のあるぜんちな丸級貨客船2隻(あるぜんちな丸《海鷹》、ぶらじる丸)が三菱重工業長崎造船所で1938年-1939年にそれぞれ進水、竣工する。さらに1940年東京オリンピックにそなえるべく日本郵船の新田丸級貨客船3隻(新田丸《冲鷹》、八幡丸《雲鷹》、春日丸《大鷹》)が計画され、いずれも三菱重工業長崎造船所で建造された。太平洋戦争と共に各船は日本海軍に徴用され、大鷹型航空母艦として再就役した。
隼鷹の前身である客船橿原丸は三菱重工業長崎造船所において1939年(昭和14年)3月20日に起工した。完成した場合には、2万7700トン、最大発揮速力25.5ノット、旅客定員890名という、太平洋航路最大級の客船となるはずだった[。だが機関部や客室部分など、設計段階から空母に改造することを前提とした構造となっていた。隣の船台では大和型戦艦2番艦武蔵が建造中であった(1938年3月29日起工)。1939年11月27日、兵庫県神戸市の川崎造船所(川崎重工業)で空母瑞鶴が進水、3日後の11月30日に同船台にて出雲丸(第一〇〇一番艦)が起工される。1940年(昭和15年)1月6日、新田丸級貨客船春日丸が橿原丸の隣で起工される(同年9月15日進水)。11月1日、武蔵は橿原丸より一足先に進水した。だが武蔵進水後の造船台は依然として簾で隠されたままで、長崎の住民は「武蔵はもう1隻いる」と噂していた。造船所の火災で橿原丸の姿が簾越しに浮かびあがると、住民達は同船を第二の武蔵と錯覚したという。1941年(昭和16年)2月、橿原丸は日本海軍に買収され第一〇〇二番艦の仮艦名を与えられる]。6月24日、出雲丸/1001番艦が進水、2日後の6月26日に橿原丸/1002号艦が進水した。12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまった。
アリューシャン作戦
1002号艦」は1942年(昭和17年)5月3日に竣工、特設航空母艦隼鷹として呉鎮守府所管。この時はまだ艦首の菊御紋章がついていなかった。隼鷹は日本の空母として初めて島型艦橋と上方煙突が一体化した大型艦橋を有していた。これは建造中の大鳳型航空母艦の実験を兼ねており、煙突は外側へ26度傾斜している。レーダー(二式二号電波探信儀一型)の装備も日本空母初の試みであった。また商船としてある程度建造が進んでいた隼鷹は、姉妹艦の飛鷹にくらべて木製部分が多く、戦争後半の出火対策で苦労する事になった。
竣工後の隼鷹はただちに空母龍驤と合同し、第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入された。5月19日、隼鷹は広島湾那沙美水道の最狭部で軍艦大和と反航してすれ違い、宇垣纏連合艦隊参謀長は「無謀とや云はん。禮儀を知らずとや云はん。」と隼鷹艦長に怒っている。 5月20日附で、四航戦(龍驤、隼鷹)、第四戦隊第2小隊(摩耶、高雄)、第一水雷戦隊(旗艦阿武隈、第6駆逐隊《響、暁、雷、電》、第21駆逐隊《若葉、初霜、子日、初春》、第7駆逐隊《潮、曙、漣》)は北方部隊に編入された。隼鷹は第二機動部隊に所属し、四航戦(龍驤、隼鷹)、重巡洋艦2隻(摩耶、高雄)、駆逐艦3隻(潮、曙、漣)、補給船「帝洋丸」と共にアリューシャン方面作戦に参加した。 6月3日、雲間より出現したPBYカタリナ飛行艇に雷撃されるが、投下位置が隼鷹に近すぎたため魚雷は飛行甲板を越えて反対舷に落下、その後PBYは高雄に撃墜されたという。6月4日よりダッチハーバーに対し空襲を行うが、小数兵力のため大きな戦果をあげることもなく、天候悪化により隼鷹艦爆1機が行方不明となった。龍驤所属の零戦が不時着し、アメリカ軍に鹵獲されたのも、この作戦中の出来事だった(アクタン・ゼロ)。 6月5日、ミッドウェー海戦で南雲機動部隊主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)が沈没した。6月14日、攻略部隊に所属していた空母瑞鳳、第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)が北方部隊に合流した。隼鷹は駆逐艦から蒼龍の搭乗員を受け入れたという。また本土からも空母瑞鶴が出撃し、6月23日に大湊で四航戦と合流した。各隊はアメリカ軍機動部隊来襲に備えて北方海域の哨戒を行ったが米艦隊出現の徴候はなく、7月5日には米潜水艦グロウラー、トライトンの雷撃で駆逐艦2隻(霰、子日)が沈没、2隻(不知火、霞)も大破航行不能という被害を出した。これを機会に、各隊は日本本土の母港へと帰投した。7月10日、隼鷹以下各隊各艦は北方部隊の指揮下を離れた。
アメリカ軍機動部隊との戦い
7月14日、隼鷹は軍艦籍に加入し、呉鎮守府所属の『軍艦 隼鷹』となった。7月31日、姉妹艦飛鷹が軍艦籍に加入した。隼鷹、飛鷹、龍驤は再編成された第二航空戦隊に所属し、第三艦隊の構成艦として出撃準備を行う。だが各隊訓練中の8月7日にアメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸し、ガダルカナル島の戦いがはじまる。8月12日、二航戦旗艦は飛鷹に移った。この時、第一航空戦隊の空母瑞鳳は練度不足と判断された。そのため瑞鳳の代艦として龍驤が第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)に編入されるとソロモン諸島へ進出した。その龍驤も8月24日の第二次ソロモン海戦で撃沈された。
10月4日、第二航空戦隊(飛鷹、隼鷹)と駆逐艦電、磯波は内地を出発、9日トラック泊地へ進出した。ガダルカナル島米軍ヘンダーソン飛行場への日本陸軍総攻撃(10月24-25日予定)に呼応すべく、日本海軍は空母機動部隊、水雷戦隊(軽巡由良、駆逐艦秋月、村雨、春雨、夕立、五月雨、暁、雷、白露等)を派遣する。ところがヘンダーソン基地への航空攻撃を実施中だった二航戦旗艦の飛鷹で機関室から火災が発生]、飛鷹は戦闘航海不能となりトラックへ撤退した。隼鷹は二航戦旗艦となり、飛鷹艦載機の一部を臨時編入した。10月26日、隼鷹は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)と共に米艦隊(第11任務部隊・第16任務部隊・第64任務部隊)と交戦する。米空母ホーネットの撃沈、米空母エンタープライズの撃退に貢献したが、多くの航空機と熟練搭乗員を失った。翔鶴、瑞鶴、瑞鳳は損傷の修理と航空隊補充のため随時内地へ回航され、トラック泊地に残る作戦行動可能な空母は隼鷹1隻となった。
11月12日以降の第三次ソロモン海戦では、第一夜戦で行動不能となった挺身艦隊旗艦比叡と護衛駆逐艦(雪風、照月、時雨、白露、夕暮)を掩護する必要が生じ、隼鷹は零式艦上戦闘機を派遣する。だが数機単位でしかなく、ヘンダーソン基地から次々に飛来するF4Fワイルドキャット戦闘機と交戦して身を守るがやっとだった。B-17爆撃機やTBFアベンジャー雷撃機の波状攻撃を受けた比叡はアイアンボトム・サウンドに沈んだ。ヘンダーソン基地に対する艦砲射撃は中に横須賀を出港するが、翌日に米潜水艦ドラムに雷撃され中破、横須賀に避退した。龍鳳と隼鷹が合同する機会はしばらく止、ガダルカナル島へ向かう増援部隊輸送船団も大損害を受け、日本海軍はガダルカナル島を巡る決定的な戦闘に敗北した。
12月上旬、空母龍鳳が第三艦隊に編入され、トラック泊地への進出が決まった。駆逐艦時津風に護衛されて12月11日遠のいた。
年表
1939年(昭和14年)3月20日 - 三菱重工業長崎造船所にて起工。
1940年(昭和15年)11月 - 空母への改装を決定。
1941年(昭和16年)6月26日 - 進水。
1942年(昭和17年)5月3日 - 竣工、特設航空母艦隼鷹と命名。第二機動部隊第四航空戦隊に編入。 5月26日 - MI作戦の支作戦として、空母龍驤とアリューシャン列島に出撃。
6月3日 - ダッチハーバー攻撃で初陣。5日にも同様の攻撃、その後ミッドウェーに展開の第一機動部隊との合流を命じられるが、第一機動部隊壊滅のため翌6日引き返す。
7月14日 - 軍艦籍加入。軍艦隼鷹となる。
10月24日 - 第二航空戦隊の一員として南太平洋海戦に参加。
1943年(昭和18年)11月5日 - 沖ノ島近海にて米潜水艦の魚雷攻撃により損傷。
1944年(昭和19年)6月20日 - マリアナ沖海戦にて煙突付近に直撃弾二発を受け発着艦不能に。 12月9日 - 女島付近にて米潜水艦の魚雷攻撃を受けて損傷、翌年3月末まで修理。
1945年(昭和20年)2月11日 - 第一航空戦隊から外される。 4月20日 - 第四予備艦となる。
6月20日 - 警備艦となる。
11月30日 - 除籍。
1946年(昭和21年)6月1日 - 旧佐世保工廠ドックにて解体開始。
1947年(昭和22年)8月1日 - 解体完了。
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